2009年クリスマス企画

君の愛を奏でて

「僕と彼との微妙な関係」
【前編】




「…アニー…?」

 閉じていた目を開き、今し方去っていったばかりの温もりが残る口元をぽかんと開いてみれば、アニーの大きいけれどしなやかな指が、そっとその唇をなぞった。

「好きだよ、司」

 さらりとそう告げられて、司はぽかんと開けていた口を、閉じる機会を失う。


 ――好き? 好き……って?


 口も目も、開きっぱなしになった司の頬をそっと撫で、アニーはこれ以上ないほど柔らかく微笑んだ。

「じゃ、お休み。また明日」

 そして、何事もなかったように、司が滞在する部屋を出て行った。





 試作品とは言え、イタリアの有名工房で修行中の職人が、その修行の仕上げとして取りかかっている、いわば『卒業作品』の一本を、クリスマスプレゼントだ…と、こともなげに寄越したアニー。

 そんな彼に、何かお返しが出来ないかと尋ねてみれば、目を閉じてと言われ、言われたとおりにしてみれば、何か唇に暖かいものがしっとりと触れて…。

 アニーが出て行った扉をじっと見つめたまま、司は、自分の唇をそっとなぞった。つい先ほど、アニーがしたのと同じように。

 そしてちょっと首をかしげて考えた。

 今まで一度も経験したことのない、その感触。

 だから咄嗟には何が何だかわからなかったけれど、もしかして、あれは……。


 ――……キ…ス?


 思い当たることに行き着いた瞬間、司は顔中が噴火したように熱くなった。


 ――ななな、なんで、アニーが僕に、キスっ?!


 思いも寄らないアニーの行動に、今度は動物園のシロクマよろしく、広い部屋の中をうろうろと歩き回って、司は混乱した頭の中を整理しようと努めたのだが。


 ――や、待てよ。

 ふと立ち止まり、再認識する。
 そうだ、アニーはドイツ人なのだと。

 ――…ってことは、あれは挨拶代わり…かな。


 いくら欧米人でも、挨拶のキスを唇にするなどどあり得ないのだが――しかも男同士で――すっかりオーバーヒートしてしまった司の脳では、そんな当たり前のことすら確認出来ずに、『うん、そうだ。そうに違いない』と繰り替えす。


『好きだよ』

 キスの後、アニーははっきりとそう告げた。

 けれど、そのことを綺麗にすっ飛ばして、司は一人勝手に、『あれは単なる挨拶代わり』と、現実逃避にも似た言い聞かせを自身にすり込んで、さっさとベッドに潜り込んだ。



                     



「おはよう、司」
「司、おはよう〜」

 朝ご飯ですよ…と、内線で呼ばれ、階下のダイニングへ行ってみれば、寮にいる時と同じように朝からすっきりとした顔のアニーと、今起きたばかりですと言わんばかりの寝癖を付けた珠生が司を迎えた。

 ただ、そのアニーの眼差しに、何となく、今までに無かった甘い色を見たような気がして、司は朝の挨拶と同時に、咄嗟に視線を外してしまう。


「…どしたの? 司」

 本人の自覚なしに赤く染まった頬を見て、熱でもあるのかと心配した珠生が司の額に手を伸ばした。

「まさか、風邪引いちゃった? 明日から演奏旅行なのに、早く直さなきゃ…」

「あ、ううん、全然平気」

 思わぬ指摘を受けて、司は目を丸くして珠生の手を外す。

「ほんと? なんか顔赤いけど」

「そ、そんなことないってば」

 とにかく、一人で意識していてはバカみたいじゃないかと、司は無理矢理頭を切り換える。

 昨夜のあれは、『挨拶』なのだともう一度、くどいほど繰り返して。

 そんな司を、アニーはただ微笑んで見ていたのだが…。



「司、後で部屋に行っていい?」

 朝食が終わる頃、アニーが言った。いつもと変わらない口調で。

「えっ。…あ、っと……うん」

 口にしていたミルクティーにほんのちょっとむせて、司は下を向いたままで答える。

 そんな、あからさまにいつもと違う司の様子に、珠生は不安そうに眉を寄せたのだが、不意に、何かに気づいたようにアニーを見た。

 そして、その視線に気づいたアニーは、茶目っ気たっぷりのウィンクで答え、珠生は大きな瞳をくるんと回して、照れくさそうに笑った。



                     



「入っていい?」

 ノックの音に、少しだけ扉を開けてそっと顔を覗かせた司に、出来るだけ優しく尋ねてみる。

「あ、ええっと…もちろん」

 けれど、司はそれ以上扉を開けようとしない。

 そんな司に、アニーは、もう一度柔らかい声で、「本当に?」と尋ねる。
 扉に手を掛けようともせずに。

 もう一度訊かれ、その場から動こうとしないアニーを、司はそっと見上げた。

 いつもの、どこまでも優しいアニーの微笑み。

 ちょっとホッとして、司はこっそり息をつくと、扉をそっと引いた。


「ありがとう」

 大きな体をするりと通し、中には入ったものの、今度は扉の前に張り付いたまま動こうとしないアニーに、さすがに不思議に感じて司は尋ねる。

「…あのさ」

「ん?」

「どしたの?」

「なにが?」

 何が…と言われてしまうと何でもないような気がしてしまうが、確かにいつもの距離感と違う。いつもはもっと、近いのに。


「そうだね、なんだか司が警戒しているような気がしたから」

 警戒…とまでは感じていなかったが、心情的にはかなり近いところを突かれて、一瞬司は押し黙る。

 そして、距離を開けようとしていたのは、アニーではなくて自分だったのかも知れないと、気づいた。


「…そ、そんなことないよ?」

「そう?」

「うん」


 だから、出来るだけいつものように笑って答えてみたけれど、やっぱりぎこちなかったかも知れない。

 それでもアニーは、少しホッとしたように表情を緩めて、『座ろうか』…と、そっと司の背を押した。

 触れた場所が、少しだけ揺れたような気がしたが、気づかないふりで。



                      



 「向かい合わせって、なんか変だね」

 宮階家の客間はホテル以上の仕様で、ソファーセットもちゃんとした一揃えが入っている。

 その、手触りも座り心地も良いソファーに腰を下ろしたものの、ローテーブルを挟んでしまうと二人の距離はまた遠くなった。

 その、妙によそよそしい距離にアニーは小さく笑って、司に尋ねる。

「隣、行ってもいい?」

「…あ、うん。もちろん」

 いつもの二人なら、そんなことを訊きはしないし、訊かれたら『今更何言ってんだよ』と笑い飛ばすところだろう。

 けれど今は、笑い飛ばすことも出来ず、司はまたしても神妙に頷いた。


「…つかさ…」

 静かに隣に腰を下ろしたアニーは、少しゆったりした口調で呼びかけてきて、そしてふわりと肩を抱いた。

 無言のまま密かに司の体が揺れる。

 肩を抱かれたり…なんてスキンシップは毎日のこと。
 じゃれていて抱き上げられてしまったこともあるし、肩車だって何度もした。ぎゅうぎゅう抱きしめられたことだって、数え切れないくらいある。

 なのに、どうして体が驚いたのか、わかっているような気もするけれど、わかってはいけないような気がして、司はほんの少し、考えることをやめた。

 考えても、仕方がないのかも知れないと。

 だが、アニーはそのままにはしてくれなかった。


「もしかして、昨夜僕が言ったこと、気にしてくれてるのかな」

「…言ったこと?」

『したこと』ならわかるのに…と、ぼんやり司は思う。

 よくわからないけれど、あれはひょっとしたらキスだったんじゃないかと。


「僕は司に、『好き』って言ったよ」

「……えっ?」

 そう言えばそんなことを言われた気がする。
 その直前の行為に気を取られて、すっ飛ばしていたような気も…。


「ああ、そうか」

 嬉しそうにアニーが小さく笑った。

「もしかして、キスの方に気が行っちゃった?」

 やっぱりあれはキスだったのだ。
 けれど司は、それを挨拶なのだとすり込んでいて…。

「順番間違ったかな〜」

 間違ったかなという割には、アニーはなんだか嬉しそうに見える。

「じゅ、順番って…?」

「ん? ちゃんと告白してからキスするべきだったな…ってこと」


 ――告白…? 挨拶じゃなくて?

 と、司はしつこく挨拶にこだわろうとしたのだが。


「『好きだよ』って告白して、それからちゃんと、『キスしていい?』って聞いてから…だったよね、ごめん」

 …と、口では一応謝っているが、その口調はもちろん謝罪のそれではない。

 ふわふわと優しげに笑いを含んでいるばかりなのだが、司はそれに気づく余裕もすでにない。

「す、好きって、誰が?」

「もちろん、僕が」

「だっ、誰をっ」

「司に決まってるじゃないか。僕が、司のことを好き…ってこと」

「好き…って、なにっ?」

「何って…」

 今度こそは目を丸くして、そしてアニーは声を上げて笑った。

「好き…は、好き、だろう? 他に何かある?」

「だっ、だってっ」

「だって?」

「な、何で僕っ?!」


 あまりにも予想外の展開で、何もかもがついて行けない。

 そう、昨日までは、『一番の親友』だったのだから。


「司は僕のこと、嫌い?」

「そ、そんなはずないだろっ。ってか、そう言う問題じゃなくて!」

「どうして僕が司が好きか…ってこと?」

「それっ」


 いつの間にそんなことになったのか、そこを押さえておかないことには前にも後ろにも進めない。


「そうだね…」

 司の肩を優しくぽんぽんと叩くと、アニーは少し遠くへ視線を送った。


「言葉で説明するのは難しいけれど」

 そしてほんの少しの間の後、優しくにっこり微笑んだ。

「僕の魂が、『司』って決めたから」

「はあ?」

 その奇妙な精神論はなんですか…と、普段の司なら突っ込んでいるところだろうが、今はそんな余裕はこれっぽっちもない。

「わけわかんないんだけどっ」

 とりあえず突っかかってみるが、アニーはいつものようにどこ吹く風。
 司に突っかかられることなど、日常茶飯事の可愛いじゃれ合いに過ぎないのだ。彼にとっては。


「僕にはわかってるよ。司が好きだ…ってこと」

「そんなっ」

 この期に及んで日本語が通じないなんて事態になったのではないかと、司はほんの少し背筋を寒くしたのだが。

 そうだ、思い出した。


「でもっ」

「でも?」

「アニーは、浅井先輩を追いかけてきたんじゃないか! まさか、もう諦めたとか言う気?!」


 成就の可能性は限りなく低そうな気はしたが、親友としては、応援していたのだ。一応は。

 なのに、そうあっさり乗り換えられたのでは、今までのことは何だったんだ…と、言いたくなる。


「うーん、諦めた…って言うのはちょっと悔しいんだけれど、かっこよく言っちゃうとしたら、『愛の形が変わった』…ってことかな」

「…へ?」

 なんだそれ…と、司は首を傾げた。

 そう言えば、確かにアニーは夏以降祐介を追いかけている様子がない。

 出会うと必ず何かしらのちょっかいはかけているのだが、1学期の頃の、『脇目もふらない猛烈な求愛』はさっぱり形を潜めていて、今から思えば、ちらっと、『おかしいな』と感じたことはあったような気がする。


「最初はね、確かに恋人になりたいと思ったよ。だから追いかけてきた。祐介に出会わなければ、僕は今頃ここにはいない。でもね、僕はここへ来てもっと大切な人を見つけたんだ」

 肩を抱かれたまま、愛おしそうに目を細めて見つめられ、司はたまらず顔を伏せた。

「祐介に、親愛は感じるよ。今でも強くね。僕に、音楽以外の強い気持ちを起こさせてくれたのは確かに彼だから。けれど今の僕には、そうでない、『愛したい人』が出来たんだ」


 声が近くなり、伏せたままの司の視界が暗くなった。

 アニーの体温を間近に感じ取り、こめかみに暖かくて柔らかいものが触れると、心臓が口から飛び出しそうになって、司は慌てて胸を押さえた。


「僕が司に感じるのは、キスしたいとか、抱きしめたいとか…」

 言葉を切って、アニーの腕が、司をふわりと包み込む。

「そう言う…『愛』の種類…だよ」

「…そ…んな……」

 いきなりそんなことを言われても、ハイそうですかとはとても言えはしない。

 本当に、昨日まで…いや、ついさっきまでは親友だったのだ。

 家族以外で、一番大切な人は誰ですかと尋ねられたら、『アニー』と答えられるくらいに。

 ただし、珠生もほぼ同列なのだが。


「そんな…急にそんなこと言われたって……」

「…うん、確かにそうだね」

 呟くようにこぼした司の言葉を拾い上げ、アニーは包み込む手でゆっくりと司の背を撫でた。

「司…僕は急がない。ゆっくりでいいから、僕のことをたくさん知って」

「…アニー」

 ようやく顔を上げた司に、アニーは嬉しそうに微笑んで、その体を、今度はそっと抱きしめた。

「たくさん一緒にいて、たくさん話そう。僕も、もっともっと司を知りたいから」

「……アニー」

「ね?」


 その言葉に、司は曖昧に頷いた。

 アニーの事は、確かにもっとたくさん知りたい。たくさん話して、たくさん一緒にいたい。

 けれど…。


 ――もし次に、僕より『大切な人』を見つけたらどうするんだよ…。


 恋を諦めるのはそんなに簡単なことではない。

 自分も、葵への思いを断つのに、体中の水分が無くなるかと思うくらい、泣いた。

 失恋と後悔で、心の芯までカラカラになった。

 その辛さを知っているからこそ、アニーが断ったと言う、祐介への思いの深さがわからない。

 海を越えて、キャリアを中断してまで追いかけてきた、その思いの深さのほどが。


 ――好きって…そんなに簡単に、言えないよ……。


後編へ続く

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