君の愛を奏でて
「Will you marry me?」
【前編】
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今、僕の心を塞ぐのは、これからの、こと。 卒業まであと1年足らず。 高校生活の3分の2はすでに過ぎ去ってしまい、残る一年で僕にはいったい何が、何処まで出来るというのだろう。 僕にとって宝物とも言えるべき高校生活を与えてくれたこの学校に、何を残せるだろう。 そして、僕は将来どうするのだろう。 ここへ来るまでは予想もしていなかった未来が、ほんの少し見えてしまったために、僕の不安は一層大きくなる。 君について行けたらどんなにいいだろう。 君は僕を愛してくれるけれど、もともと二人を隔てているものはとても大きい。 僕らがここを巣立った後、僕らの間に横たわる『距離』は、もしかすると僕らの気持ちも遠く離してしまうかもしれない。 でも、僕にはその距離を縮める手段がない。 君について行けたらどんなにいいだろう。 ずっとずっと側にいられたら、どんなにいいだろう…。 でも、それはきっと、叶わない…夢…。 ☆ .。.:*・゜ 今、僕の心を騒がせるのは、これからの、こと。 卒業まであと1年足らず。 幼い頃から狭い世界で生きてきた僕にとって、ここでの生活は何にも代え難い大切な宝物で、夢のように楽しい日々は瞬く間に過ぎていく。 彼に会いたい一心でやってきたこの学校で、僕は大勢の友人に出会い、たくさんのことを学び、そして……君を愛した。 君も今、『これからのこと』に不安を覚えているに違いない。 君が見ている未来の君の姿。その隣に僕の姿はあるだろうか。 僕は思い描いているよ。 これから先、いつ、どんな境遇にあろうとも、僕の側には必ず君の姿があることを。そして、君の側にはいつも僕が寄り添うことを。 誰よりも愛おしい君。 君に、この一言を告げる勇気が欲しい。 『Will you marry me?』 君は笑うだろうか? でも、連れていきたいんだ。君を。僕のふるさとへ。 そして、君と生きていきたいんだ。 この、音の世界を。ずっと。二人で…。 |
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僕と司は高2になるとき、同室希望を出して同室になった。 晴れて念願叶ったわけなんだけど、同室になって初めての夜を迎える前に、葵くんに呼び出された。 「ね、アニー、一つお願いがあるんだけど」 「なんですか?」 「司のこと」 そうじゃないかなとは思っていたんだけれど。 「アニー、卒業したらドイツへ帰るだろう?」 もちろん僕はドイツへ帰る。 これからやりたいこと、やらなきゃいけないことが、たくさん待ってるから。 「はい。帰ります」 葵くんは、ギュッと口を引き結んで頷いた。 「うん。でね、その時に、司を置いていくつもりなら…」 ほんの少し、言葉を切り、葵くんはまた僕を真っ直ぐに見つめて…。 「司には手を出さないで欲しいんだ」 真っ直ぐに、射抜くような強い視線で僕を捉える葵くんに、いつもの優しく柔らかい雰囲気はない。 それは、大切な幼なじみを護ろうとする、強い、紛れもなく男の視線だった。 「わかりました。約束します」 僕は、その視線を真っ直ぐに受けとめて、誓った。 葵くんは途端にいつもの愛くるしい表情になり、ニコッと笑う。 「ありがとう、アニー。信じてるよ」 「もちろんです。信じて下さい」 そう。この約束は間違いなく僕の本心だ。 だって僕には、司を置いていく気なんてこれっぽっちもない。 絶対に連れて行く。ずっと側に居ると決めたんだから。 ☆ .。.:*・゜ そうして、2年の春に両思いになり、同室になってから暫くして、僕と司は結ばれた。 多少…いや、かなり強引に持ち込んだ自覚はあるけれど、急いだのも事実。 だって、司はとんでもなくもてるんだ。 だから、僕だけを見て欲しくて、僕だけの司でいて欲しくて、二人にしか結べない絆がどうしても欲しかったから。 それから僕たちは、以前にも増して仲良く、いつも一緒で片時も離れない状態になった。 夏休みも冬休みも、僕は出来るだけ司にくっついていて、京都にもしょっちゅう行って、司のご家族とも親密になり、どんどん外堀を埋めていった。 司を、連れて行くために。 |
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また春が巡ってきて、祐介や葵くんを送り出して、僕と司は3年になった。 もちろん今年も同室。 そして司は今年もコンマスになったけど、それはもう、誰の目にも当然の結果だった。 それほどまでに司は成長し、僕はそのことに喜び、とても満足している。 技術力もさることながら、オケ全体を引っ張っていく能力も身につけて来た司は、もう、どこへ出しても通用するだろう。 あとは、経験を積むだけ。 そして僕はと言うと、去年の秋に、管弦楽部長になった。 みんなが寄せてくれる信頼が嬉しくて、最後まで精一杯やろうと心に決めている。 ただ…。 忙しすぎて、司との甘い時間がなかなか持てなくて――同室にもかかわらず…だ――充実した中にも、欲求不満も抱えていて…なんて毎日を送っている。 そして、司もまた、忙しいだけではない『何か』を抱えているようで…。 ☆★☆ 同じコンマスなんだから、さほど変わらないだろうと高をくくってたんだけど、高2と高3の差は余りにも大きかった。 僕は今年のオーディションでもコンマスの席を守ることができた。 去年の今頃は『トップサイドくらいがちょうど良いのになあ』なんて思ってたんだけど、高2の1年間コンマスをやってきて、大変ではあるんだけれど、やっぱりこの充実感は代え難いものがあったし、何よりも順位を下げるのは悔しかったから、頑張った結果がこれなんだけど、最高学年の重責ってのはちょっと別格だった。 中でも一番責任が重いのは、『後輩の指導』。 僕は来年卒業だから、次のコンマス候補たちへの指導は僕にしかできない大きな仕事だ。 普段の練習もびっしりあるし、一応将来は音楽で生きていこうって決めたから、音大受験への準備もあって、寝る間も惜しいほどなんだけど、部屋へ帰ったらもう、バタンキュー。 部長になって大忙しのアニー共々、甘い雰囲気になる間もなくて、どうやらアニーにはちょっと欲求不満っぽい感じが…。 僕もアニーに甘やかされるのは大好きだから、ちょっと寂しいんだけど、でもこれで良いのかな…とも思っている。 だって、僕たちに残された時間はあと1年。 その後はもう、ない。 アニーは『ずっと一緒にいよう』って言ってくれるけど、アニーはドイツへ帰ると公言してるし、僕はここで進学する。 葵ちゃんたちと同じ音大に行こうと思ってるんだ。 昇先輩もいるし、先輩にはまだまだたくさんのこと、教えてほしいから。 だから、離れ離れになるんだ、僕たちは。 そしてその『距離』はそう遠くない未来に僕たちを分かつに違いない。 だから、『ここでだけの恋』ていいんだと僕は自分に何度も言い聞かせる。 もちろんそれは、僕にとって悲しいことではあるんだけれど、『諦めている僕』が身体のど真ん中にいて、僕はここのところ少し疲れている。 それはアニーにも気づかれているようなんだけど、僕はそれに対して『なんでもないよ』と強がって流すことだけをしっかり身に付けてしまった気がする。 実は、まだアニーには言ってないんだ。 葵ちゃんと同じ音大に行くって決めたこと。 もちろん、音楽で生きていきたいと決めたことは伝えてある。 留学って言葉もちらっと頭をよぎったんだけど、国内の音大受験だけでも手一杯の僕には、そんなことはやっぱり夢のまた夢。 言葉の問題もあるし、そもそも海外でやっていけるなんてこれっぽっちも思っていない。 できれば国内のプロオケに入りたいけど、音楽教室の先生になるくらいがちょうど僕の身の丈にあってる気がするんだ。 アニーについて行ければ…って、考えたこともない…なんて大嘘だけど、でも無理なものは無理なんだって、また自分に言い聞かせる毎日…。 ☆★☆ 「え? どうしてっ?」 心底驚いた様子で両肩を掴まれて、司は目を丸くした。 「どうして…って…」 見上げるアニーもまた、これでもかと言うくらいに目を見開いている。 「なんで、同じ音大なわけ?」 漸く帰ってきた2人の部屋。 これから消灯までは山積みの課題に取り組まなければならないのだが、それよりも大事な用件が起こってしまった。アニー的には。 「なんで…って、それが一番妥当で、しかも僕に合ってると思うんだけど」 音大受験補講の予定表を前に、司がふと漏らした『葵ちゃんとか浅井先輩とか、受験対策教えてくれる人がいっぱいいるから助かるよね』と言う言葉に、アニーが反応したのが発端だった。 『どういうこと?』と尋ねてきたアニーに、『だって、目指す大学の先輩じゃん』と、ごく当たり前の言葉を返してみれば、 『え? どうしてっ?』…となったわけだ。 わざわざ言わなかったわけでもないのだが、確かにはっきり伝えることもしなかったから、2人の間にはいつの間にか認識の行き違いが発生していたようなのだが。 そして、司の言葉にアニーはあからさまに肩を落とした。 それはもう、背景に『ガックリ』と言う『吹き出し』が見えてきそうなくらいに。 だが、肩と一緒に落としていた顔を上げたアニーの目は、真剣な色を帯びていて、少しばかり怖いくらいで。 「司は留学する気はないの?」 「留学?」 それは魅力的だけれど、何度も封印した言葉。 司は改めて自分の気持ちを閉じ込めるかのように、一度小さく息をつき、弱々しい声で話し始めた。 「…僕はここを受験するまでろくに音楽の勉強をしてない。だから、ここのことしか知らない。聖陵でコンマスをやってるってことは、それはすごいことなんだろうけれど、でもそれが外へ出てどれくらい通用することなのか、全然わからなくて…」 「司…」 「…怖いんだ」 そう、国内で音大を目指す事ですら、相当な『踏ん切り』が要ったのだ。 それを、さらに遠く、しかも高い目標を目指すことなど、考えようもない。 そんな司の、緊張で少し冷えた肩をアニーは大きな身体で優しく包み込んで、ベッドに腰を下ろした。 「司。僕は正直な気持ちを言うよ」 肩を抱いたまま視線をしっかりと捉えて、けれど柔らかい口調でアニーが言う。 「あ、うん…」 「司の不安はもっともだと思う。音楽と言う、目に見えるものがない世界での自身の評価はどうしても主観に頼りがちになって、甘すぎたり辛すぎたりすることもあるだろう。けれど僕は客観的に司を評価した上で、留学を考える気はないか…って言ってるんだ」 「アニー…」 「司なら大丈夫。僕が保証する」 不安に揺れる瞳から一度も目を逸らさずにアニーは言ってくれたのだが、それでも司は憂鬱なため息をついた。 「アニーのことは信じてるけど、でも僕のことは僕が一番わかってるよ…」 言葉の最後に逸らされてしまった顔。 けれどアニーは、それを無理に戻すことなく、司を優しく抱きしめた。 けれど、抱きしめられた身体の暖かさは、まだ司の心にまでは届かない。 「客観的って言うけどさ…」 頭をアニーの胸に預けたまま、司は少しばかり固い声で言う。 「アニー、惚れた欲目…って日本語知ってる?」 「ほれたよくめ?」 惚れた…は、これでもかと言うくらいに理解している。 まさに自分の気持ち…そのものだから。 「好きになったら、知らず知らず主観が優先しちゃうってことだよ」 「司…」 司の音楽性も技術力も、アニーは『恋人』としてではなく、『先を行く音楽家』として評価している。 それはこれからも変わらないし、遠い未来までも、『恋人』であり『同じ世界で生きる者』でいたい。 だから、妥協はしないつもりだ。愛情も仕事も。 自分の持てる全てで司に向き合っていくつもりだ。 なのに…。 「…課題、やんなくちゃ…」 そっと腕から抜け出た司は、疲れた様子で机に向かう。 その背中を見つめて、アニーは内心だけでため息をついた。 今日はこれ以上突き詰めても無駄だろう。 校内で『姫』と形容される外観に反して、司はかなり頑固だ。 葵を一途に追いかけて来たことでもわかるように。 アニーもまた、静かに机について、教科書を開いたが、頭の中は『これからのこと』で一杯だった。 この様子ではいくら言葉だけを継いでも、司の説得は難しいだろう。 けれどのんびり構えている時間はない。 卒業まで、とうに1年を切っている。 焦る気持ちを無理やり押さえ込んで、アニーは高速で考えを巡らせた。 そして。 ――そうだ! 来月、あいつが来る! |
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