2006年クリスマス企画

君の愛を奏でて

「僕と弓との微妙な関係」




「で、司はどうすんの?」

 葵ちゃんが、どら焼きを囓りながら僕に聞いてきた。

 どら焼きは、ここのところの葵ちゃんの『マイブーム』らしくて、どこから手に入れてくるのか――多分、由紀姉ちゃんが京都から僕たちに送ってくれる定期便の中に入ってるんだと思うんだけど――毎日違うどら焼きを食べては評論している。

 僕にも勧めてくれるけど、僕は基本的に「粒あん」が苦手なのでパス。
 やっぱ「あんこ」は「こしあん」だよね。
 その点、葵ちゃんは節操がなくて、甘いものなら何でも食べる。

 ちなみにそんな葵ちゃんの現在ナンバー1のどら焼きは、京都の有名和菓子店の、店名を冠した1個150円のもの。
 皮のふんわり感と粒あんの量が絶妙ならしい。
 そう言えば、浅草のどら焼きもいい勝負…とか言ってたっけ。


「中二日じゃ京都に帰ってる間はないやん? 寮はまだ開いてるけど、もしよかったら僕と一緒に来ない?」

 すっかり食べ終わった葵ちゃんが、ペットボトルのお茶を一口飲んで、また僕に聞いてきた。

 中二日…というのは、24日に定演を終えて、27日に演奏旅行に出発するまでの間…ってことで、一緒に行こう…というのは、この流れだときっと桐生家のことだろう。

 僕たち管弦楽部は、この年末に演奏旅行にいく。
 日程は27日から30日までの3泊4日。

 27日に成田から出発するので、それまでの2日間、時間は空くものの、たった2日で京都へ帰ってまた戻ってくるのは、時間もお金ももったいない。
 だから、最初は寮に残ろうと思ってたんだ。
 残る同級生もそこそこいるし。

 でも。

「うん。悟先輩たちの家にも行ってみたいのはやまやまなんやけど、実は、珠生んちに招待されたんや。 25日にはクリスマスパーティもあるからって。で、27日は一緒に成田まで行って、帰りも成田で解散だから、一度珠生の家に戻って、一泊してから京都へ帰ったら? …って」

 寮は確かに居心地がいいけれど、でも、いつも一緒にいる珠生やアニーがいないのは、ちょっと寂しいなあ…とは思っていたから、僕はこのお誘いがすごく嬉しかったんだ。


「珠生の家ってことは、アニーも一緒…だよね」

「うん。アニー、卒業まではドイツに帰らないって言うてるし、お正月も珠生のうちにいるらしいよ」

「ふうん」

 何故だか葵ちゃんは、意味深に、にまっと笑った。

「何?」

「や、なんでもない。せっかくだから楽しんでおいでよ。お正月には京都に戻るやろ」

「もちろん。だって、珠生んちのお雑煮、おすましなんやって。僕、お雑煮は白味噌でないと、かなんもん」

「あ、そうか。関東のお雑煮って…」

 今気付いたみたいに葵ちゃんが目をクルンとさせた。

「悟先輩んちのは? 食べたことないの?」

「うん、ない。元旦には京都にいたし……って、あ!」

「うわっ、なにっ?」

 突然叫んだ葵ちゃんに僕はびっくりして、持っていた楽譜を落としてしまった。

 葵ちゃんが慌てて拾ってくれたんだけど…。


「今年のお正月なあ、悟も昇も守も…香奈子先生も光安先生も、それから、赤坂先生も京都にいたんやけど、みんな、白味噌のお雑煮食べてた…」

 視線を落として、ボソッとそう言う葵ちゃん。

「なあ、関東の人って、白味噌苦手やってきいたことない?」

「あ、そう言えば、そんな気もする」

「うわー、もしかしたら、みんな我慢して食べてくれてたんやろか」

 そうか。葵ちゃんの心配はそこか。

「うーん。どやろ。でも、葵ちゃんとこのお雑煮は、祇園の料亭仕込みやんか。わざわざ全国から食べに来はるようなお店のお雑煮やから大丈夫なんと違う?」

「そっかなあ。それならええんやけど」

「どっちにしても、白味噌なかったら生きていかれへんよなあ、京都人は」

「だよねー。確かに赤味噌も八丁も合わせも麹も麦も美味しいけど、やっぱ究極は白味噌やんなあ」

「そうそう。寮食のおみそ汁も美味しいけど、たまに白味噌のが飲みたくならへん?」

「なるなるっ。そや、由紀に送ってもろて、寮食のおばちゃんに頼んでみようかなあ」

「あ、それいいかも。葵ちゃんのお願いやったら聞いてもらえそうやん」

 こんな風に、12月のとある放課後を、僕らは延々、白味噌談義に花を咲かせたのだった。
            
 24日。クリスマスイブ。
 定演を終えた僕たちは、聞きに来ていた珠生のお父さんの車で学校を後にした。 

 珠生の家――宮階家までは車でだいたい50分。
 電車だと乗り継ぎの便が悪いらしくて1時間10分ほど。
 
 珠生のお母さんは、学校に報告する通学時間をなんとかして誤魔化して、珠生たちが寮に入らなくてもいいようにしたかったらしいんだけど、お父さんの方が端っから『寮へ入れて鍛え直す』って息巻いてたのと、アニーが何が何でも寮に入るって言ったもんだから、諦めたらしい。

 そして、そんな風に一人息子の珠生を溺愛しているというお母さんは、若くてとても綺麗な人だった。


「まあ〜! なんて綺麗な坊やなの〜!」

 って、挨拶をした僕への開口一番がこれ。

 …まあ、父さん似のお兄ちゃんと違って、僕は母さん似やから確かにそこそこいけてるとは思ってるけど。

 でも、何せ僕がこの世に生まれたときにはもう葵ちゃんて言う存在がいて、物心つく前から一緒にいた所為で、僕の『美少年の基準』は葵ちゃんになってるから、所詮僕レベルでは『十人並み』ってところなんだな、これが。


「アニーもハンサムだし、うちの珠生もいい線いってると思ってたんだけど、上には上がいるのねえ」

 や、だから葵ちゃんを見てもらえばその価値基準は変わりますってば。
 確かに珠生も相当可愛いし、アニーはかなりハンサムではあるけれど。


「司くん、自分のおうちだと思ってのんびり過ごしてちょうだいね」

 って、その『アタマ撫で撫で』はちょっと子供扱いっぽくてヤなんだけど、でも優しいお母さんの笑顔に、僕も『ありがとうございます』…と、葵ちゃん仕込みの『必殺大人向けいい子ブリッコ』の笑顔で返した。


 そんなわけで、24日は定演と打ち上げと移動で疲れもあったから、お風呂に入って寝るだけ…みたいな感じだったんだけど、25日はたくさんのお客さんがやってきて、賑やかにクリスマスパーティが行われて、僕もそれに参加させてもらった。

 同じ時間に昇先輩んちでもパーティやってるそうで、ハシゴする音楽関係者も多いんだとか。

 で、そんな中にはテレビで見たことのあるような顔もあって、今さらながらに珠生のお父さんの知名度を認識したりしたんだけど、その肝心のお父さんは、『僕も香奈子さんちのパーティに行きたいなあ…』なんてぼやいて、お母さんに足を踏まれてたっけ。


「やあ、アーネスト、久しぶりだね。どう? 日本の学校生活は」

「お久しぶりです。おかげさまで毎日楽しく過ごしています」

 たくさんのお客さんたちの中でもアニーはひっぱりだこ。

「アニー! 元気そうね!」

「アニー、こっちにも来て!」

 あ、また呼ばれてるし。
 ほんと、何処へ行っても輪の中心だ。

 大人たちに囲まれてもまったくひけを取らない…というより、なまじの大人より大人っぽくて、堂々としていて、受け答えだって、とても18歳になったばかりだとは思えないほどしっかりとしていてなんだか凄くかっこいい。

 そんな光景を目の当たりにして、普段のお茶目で優しいアニーに慣れてしまっている僕は、改めてアニーの凄さ…というか、彼の本来の姿…を思い知る。

 すでにヨーロッパの音楽界で、超一流どころの大先輩たちと名前を並べていたというアニー。

 でも、学校ではそんな素振りはこれっぽっちも見せない。
 見かけが大人っぽい以外には、僕たちとなんにも変わらない。
 同じようにはしゃいで、同じように遊んで、同じように…。


「司?」

 いつの間にかアニーが目の前にいた。

「どうしたの? こんな隅っこで。疲れた?」

 心配そうに覗き込んでくるアニーに、僕は慌てて首を振る。
 疲れてるんじゃなくて、どうしていいかわかんないだけなんだ。

「ううん、大丈夫。ただ、こういう場所、慣れてないから…」

 正直に白状すると、アニーはホッとしたように笑って僕の肩を抱いた。
 そして、ポンポンと叩いて安心させてくれる。
 いつもの、アニーだ。


「アーネスト、この可愛い子は誰?」

 突然目の前に見知らぬ人が現れた。
 年の頃は30前後。まあまあのハンサム。でも、ちょっと気障っちい。

「聖陵の同級生です」

 応えるアニーはなんだかちょっと固い声。でも、目の前の気障男は気付きもしない風で、僕の顔を覗き込んできた。


「あれ? もしかして君、聖陵の夏のコンサートで、桐生家の次男坊の代わりにコンマスをつとめてた子じゃない?」 

「あ、はい。そうです」

 そんなこと知ってるってことは、この人もやっぱり音楽関係なのかなあ。

「名前は?」

 なんだか無遠慮で、あんまり感じの良くない人だけど、一応相手は大人だし、珠生んちのお客さんだし…と思って、返事をしようとしたんだけど。

「佐倉司です」

 僕の代わりに、どうしてだかアニーが返事をした。
 しかも僕の前に立ちはだかって。

 身長186cm。肩幅も胸囲もしっかり欧米サイズの立派な大人に育っているアニーが前に立っちゃうと、僕なんかまるっきり隠れてしまって全然前が見えない。

 見えるのはアニーのやたらと広い背中だけなんだけど、その向こうでくぐもった笑い声が聞こえた。

「やだなあ、何を警戒してるんだい? 心配しなくても僕は子供には興味ないよ」

「そうですか、それなら失礼していいですね。行こう、司」

 アニーは僕を懐に隠すようにしたまま、その場を離れた。


「どうしたの? アニー」

 珍しく不機嫌っぽかったけど。

「ん? ああいう輩には気をつけた方がいいってこと」

「ああいう輩?」

 あ、もしかして、ヤバイ意味かな。

「そう。好みのタイプとみるや、男女に関わらず見境無し。 しかもあいつは評論家だからね、若手の演奏家に付け込むなんてことは日常茶飯事。パワハラ・セクハラし放題。 欧米にもああいうのはいるけど、日本人にもいるなんて、ちょっとガッカリだったよ。大和民族は貞操観念の発達した慎ましい民族だと思ってたからね」

「あはは、アニーってば相変わらず物知りだねえ。そっか、日本人は大和民族なんだ〜」

 パーティ会場になっている広い応接間を離れて、僕たちはプライベートである2階へ向かっている。


「…あのねえ、司。もうちょっと危機感持ってよ」

 呆れたような声でアニーが言った。

「え? なんで?」

「なんでって、今狙われたとこじゃないか。その無節操な音楽評論家に」

 あ、やっぱりあれって狙われてたんだ。でも…。

「でも、アニーが側にいてくれたよ? だから全然大丈夫」

 なんにも怖くない。

「司……」

 立ち止まり、アニーが僕を見下ろしてきた。
 じっと見つめてくる瞳は、やけに真剣な色をしていたんだけど、やがてそれは笑みの形に変わった。


「司、渡したいものがあるんだけど、部屋に行ってもいい?」

「うん、もちろんいいけど」

 なんだろ? 渡したいものって。

「じゃあ、先に部屋に戻ってて。取ってくるから」

 そう言うと、アニーは身体の大きさに似合わない軽い身のこなしで行ってしまった。
            
 僕が使わせてもらっている部屋は、宮階邸にいくつかある客間の一つ。

 珠生のうちは、世界中からお客さんがあって、中には長期で滞在する人もいるらしく、客間はすべてバストイレつきでホテル並み。
 ううん、広さから言うとホテル以上だ。
 ベッドも大きいし、一人で泊まるのが寂しいくらい。

 制服を脱いで、部屋着に着替えたところでアニーがやってきた。

 アニーの手には、長細い箱。もちろん僕にはなんだかすぐにわかる。
 弦楽器の、弓のケースだ。


「本当は、昨日…イブの夜に渡したかったんだけどね」

 言いながら、アニーは僕にそのケースを手渡した。

「Merry Christmas」

 え?

「メリークリスマス?」

「そう。とりあえず開けてみて」

 言われて開けてみたら、やっぱり弓だった。
 しかも綺麗。おまけに…高そうな色してるし…。


「アニー、これって…」

 見上げてみたら、アニーがパチンと綺麗なウィンクを返してきた。

「司、今使ってる弓、昇先輩から借りてるんだろう?」

「え? なんで知ってるの?」

「うん、なんだか音が変わったなって思ったから、昇先輩にそう言ったら、弓を変えたんだ…って」

 …恐るべし、アニー。
 そう。悩む僕を見かねて、昇先輩が弓を借してくれたんだ。
 その結果、悟先輩と守先輩からは『よくなった』って言ってもらえたんだけど、それは、二人とも弓を借りたことを知ってるからであって…。


「凄いね、アニー。気がついたんだ」

「そりゃあね。司のことだから」

 え? 僕のことだから…って、どういう意味?

「夏のコンサート前、ちょっと弾きにくそうにしてたこともあったしね」

 あ、それもわかってたんだ。うーん。アニーってやっぱり凄い。

「うん。夏前まではあんまり気にしてなかったんだけど、一度自覚しちゃったら、なんだか弓が上手く乗らなくなっちゃって…」

「楽器と弓の釣り合いが取れてなかったってこと、かな?」

 …アニーってば、管楽器奏者のクセに、弦楽器にも詳しいんだ。
 やっぱり一流って違うんだなあ。


「ええと、そう。楽器は結構時間を掛けて探して、かなりいいもの買ってもらったんだけど、その所為で弓にまで手が回らなかったんだ」

 うちのお父さんは京都で土産物屋を経営してる。
 結構手広くやってるおかげで経済的には潤ってるみたいなんだけど、だからって資金はもちろん無尽蔵じゃない。

 だいたい僕の学費だけで相当いっちゃってる。
 音楽推薦だから学費も寮費も半額なんだけど、それでも一つ上のお兄ちゃん――京都の私立高校に通ってる――の学費の3倍もかかってる。

 その上、楽器を買い替えてもらったんだから、ほんとに感謝してるんだけど、その分、弓にしわ寄せがいっちゃったんだ。

 つまり、楽器に見合うだけの器量を持った弓を買えなかったってことだ。


「司のヴァイオリン、かなりいい楽器みたいだから、それに合わせようと思ったら大変だよね」

「うん、そうなんだ」

 だいたいの目安として、弓の値段は楽器本体の3分の1程度…って言われている。
 もちろんこれはあくまでも金額的な目安で、一番大切なのは楽器と弓の相性であることは言うまでもないんだけど。

 だから、僕の楽器だったら、弓は100万くらいのクラスで探すのが一応の目安なんだけど、残念ながら、僕の弓は32万円。
 それでも十分贅沢なんだけど、でも、練習を重ねるにつれて、違和感は拭えなくなってきたんだ。悲しいことに。

 で、その違和感に悩む僕に、昇先輩が救いの手を差し伸べてくれた。
 先輩が中学時代に使ってた弓らしいんだけど、とりあえず、ばっちりとはいかなくても今の弓よりマシじゃないかな…ってことで、貸してくれたんだ。
 ほんと、ありがたい。

 それにしても、今のアニーの言葉はかなり嬉しかった。

 聖陵に入ってから感じたんだけど、あのガッコは僕んちとは比べものにならないほど大金持ちの子もたくさんいて、特に管弦楽部の弦楽器にはそう言う子がゴロゴロいるから、金銭感覚が違うなあ…って。

 だって、弓だけで500万円くらいするのを持ってるヤツだっているんだ。ちなみに本体は1200万。
 しかもそれが当たり前だと思ってるみたいだから、のっけから住む世界が違うって感じ。

 だから、アニーがこうして『大変だよね』って言ってくれるとなんだかホッとする。


「でも、これ以上親に負担掛けたくないしね」

 僕がそう言って肩を竦めると、アニーはその肩にそっと触れて、ふわっと僕を抱き寄せた。

「優しいね、司は」

 ええと、優しいってのとはちょっと違う気がする。
 だって、僕はこの先どういう進路に進むのかわからない。
 ほんとは音楽の道に進みたいなって思ってるんだけど、昇先輩たち兄弟や、葵ちゃんとかアニー、そして珠生なんかを間近に見ちゃうと、僕なんかが生きていけるほど甘い世界じゃないよなあ…って思っちゃうんだ。

 そうなると、高校3年間のためだけに、これ以上楽器にお金を使わせるのは申しわけないってことで。


「というわけで」

 アニーが僕の肩を抱いたまま、ニコッと笑った。

「これは司へのクリスマスプレゼントなんだけど」

 え? こ、これ? プレゼントっ?

「アニー、これ、弓、だよ」

 今さらだけど。

「そう、ヴァイオリンの弓だ」

 みりゃわかるけど。


「ちょ、ちょっと待ってアニー、僕、こんな高価なものもらえないってば」

 アニーの金銭感覚は、僕と変わらない…って、ホッとしてたとこなのに。

「ああ、そんなことは気にしなくていいよ。これは、値段の付けられない弓だから」

 その言葉に僕は今度こそ青くなる。
 だって、値段がつけられないってことは、つまりそれだけ…。

 青くなった僕に気付いたのか、アニーが慌てて僕の目の前で手を振った。

「あのね、司。そう言う意味じゃなくて、この弓、試作品なんだ」

「試作品?」

「そう、僕の友人がイタリアのヴァイオリン工房で弓を作る修行をしていてね。今度、親方から独立してもいいよ…って言ってもらえたんだけど、それには卒業作品…みたいなのを作って、認めてもらわないといけないんだ」


 …なるほど。そう言う話はよくわかる。
 頷いた僕に、アニーがまたニコッと笑った。

「で、色々なタイプを作っては、世界中の友人たちに試奏してもらってるんだ。その一つが僕のところに回ってきたわけ。ぜひ、日本のヴァイオリニストにも試してもらいたいってね」


 そんなあ…。日本のヴァイオリニストってったって、僕はただの高校生であって、プロでもなんでもないのに。

「多分、そんなに違和感は感じないと思うよ。司が練習してるのを録音して送ったら、この弓を寄越してきたんだから、きっと相性は悪くないと思うんだ。彼の耳は確かだからね」

 そ、そりゃあ、アニーがそう言うんだったら、その『彼の耳』は確かなんだろうけど…。

「でも…ほんとに僕なんかが使っていいの? せっかくなんだから、昇先輩とかに使ってもらう方がいいんじゃないかなあ」

 少なくとも、僕と違って昇先輩は『ただの高校生』じゃないし。


「だから、昇先輩のじゃなくて、司の楽器に合わせた…って言っただろ?」

 ほら…と言われても、弓に触ろうとしない僕に、アニーは小さく苦笑してから強引に僕の手にそれを握らせた。

 あ…。

「な、なんか、良いバランス…」

 重心がぴったりはまる。だから、手首がすごく楽な気がする。

 …これで弾いてみたい、かも…。

「弾いてごらんよ、とりあえず」

 僕の心の内を見透かしたように、アニーが言った。

 そして、僕がこの誘惑に勝てるわけもなく…。

 ともかく、僕が今後もこれを使うか使わないかは別にして、とりあえずちょっとだけ弾かせてもらおうと、僕は楽器ケースを開けた。

 時間はちょっと遅いけど、防音されているのでいつ練習してもいいよ…って、珠生が言ってた事を思いだして、僕はヴァイオリンを構えると、ざっとチューニングをする。

 それだけでもわかる。弾きやすい。ものすごく。

 僕は、引き込まれるようにして、チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトの一節を弾き始めた。

 何度も昇先輩に見てもらって、かなり弾きこんだこの曲なら、きっと違いがよくわかるはず…と思ってのことなんだけど…。

 どうしよう…。凄い、これ。弓が弦に吸い付いていくみたいだ…。

 自分の実力以上のものが引き出されるような錯覚を感じて、僕は思わず弓を止めた。

 怖くなったんだ。弓一本で、こんなにも自分が揺さぶられるのを覚えて。


「ブラボー、司!」

 そんな僕の様子を見て取ったのか、アニーが殊更陽気な声を掛けてきた。

「どう? 悪くないだろう?」 

 悪くないどころか、凄いよ、アニー。
 こんなの触っちゃったら、後に引けない。


「ん…」

 でも、そんな色々を口に出せずに、ただ、口を引き結んで頷いただけの僕に、アニーは満足そうに頷いた。

「これはもう、司のものだよ」

「アニー……」

「こんなに相性がいいんだから、引き離しちゃ可哀相だろう?」

 笑いを含んだアニーの言葉に、僕は観念して素直に頷いた。

「うん。ありがとう、アニー。僕、これでがんばってみる」

 途端に笑顔が満開になったアニーが、なんだか眩しくて…。

 あ。でも…。

「でも、アニー。僕、アニーになんにもプレゼント用意してない…よ」

 こんなに素敵なプレゼント、もらったのに。

「なんだ、そんなこと気にしてたんだ」

 アニーは声を挙げて笑った。

「これは僕が勝手に用意したんだから、司はなにも気にすることないんだよ」

「…でも」

 だって、僕だってアニーに何かしてあげたくなったんだもん。

 いつもいつも、優しくて、支え、助けてくれるアニーに。

 更に言い募ろうとした僕の唇を、アニーの長い指がそっと遮った。

 真っ直ぐに見下ろしてくる瞳が、またしてもやたらと真剣な色をしていてい、なんだか熱い。射抜かれそうなくらい。


「…じゃあ、司…。僕のお願い、一つだけ、聞いて?」

 アニーのお願い?

「えっと、そんなのでいいの?」

 お願いってなんだろう…って、頭の隅でチラッと思ったんだけど、でもアニーがそんな無茶なことを言うはずがないし…と、僕は深く考えずにしっかりと頷いた。

 それでアニーが喜んでくれるのなら、嬉しい。

「うん。簡単なことだから」

 いつも良く通る、アニーの深いバリトンが、ちょっと掠れて聞こえた。

 どうしたんだろう…。何故だか、視線が外せない。


「…つかさ、目を、閉じて…」

 耳をくすぐるアニーの吐息を感じて、僕はまるで呪文の言葉を囁かれたかのように、言われるがまま、そっと目を閉じた。

「…つかさ……」

 声が…息が、近…い…。

 そして僕の唇に、柔らかいものがそっと、触れた。


 ……アニー…?



END

続編 『僕と彼との微妙な関係』【前編】へ

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