〜前編〜





『お前、それは解釈が違うと思うぞ』
『どうしてだよ』
『時代背景を考えてみろって。その装飾音の入れ方はもっと後世になってからじゃないか』




 僅か先に凪いだ海面を眺めることのできる部屋。
 大きさはそう…20畳ほどだろうか。

 ただでさえ天井の高い洋間だというのに、海に面した窓は、その天井高いっぱいまで光を取り込んでいる。

 そして、射し込む光が直接届かないところに、こぢんまりとしたグランドピアノ。

 ポーン…と一つ鳴らしてみる。
 たったその一つの音と、それに共鳴した倍音だけで、このピアノが相変わらず精密に調律されていることが知れる。



 鍵盤から手を離し、ぐるりと部屋を見渡す。

 視界にいくつも並んでいるのは、ゴブラン織りの座面と背もたれを持つアンティークな椅子。
 そのくすんだ色合いもあの頃のまま。


 そっと目を閉じるだけで、あの椅子に腰掛け、気の置けない仲間たちと夜通し交わした熱い議論が…そして、飽くことなく繰り返した練習の日々が蘇ってくる。


 輝かしい未来しか、描くことのなかったあの頃…。

 しかし、目を開けるとそこに横たわるのは、確かな『今』だけだ。



 一つ嘆息し、そしてピアノの蓋を閉じると、廊下へ出る。

 絨毯敷きの広い廊下の先には、『あの子』がいる…。

 僅かに軋む音を響かせて、幾年もの間、多くの弟子たちが行き交った階段を、一歩ずつ上がる。 

 階段の踊り場。
 天窓から射し込む光に目を眇め、『あの子』をジッと見上げる。

 古い洋館に似つかわしくないその絵は、その鮮やかな色使いから、一見すると洋画のようにも見えるのだが、実は顔料で描かれた日本画なのだそうだ。


 初めてこの絵に出会ったのは2年ほど前のこと。
 しかし、それはこの場所ではなかった。



 久しぶりに訊ねた、母校である音大の学長室。
 恩師の部屋で、この絵と初めて出会ったとき、何故か涙が溢れでた。

 それはいきなりのことで、涙を拭うこともできず、視線を外すこともできず、ただ、恩師に肩を叩かれるまで見つめてしまったのだ。

『そんなに気に入ったか?』

 恩師である学長からそう言われ、ただ『はい』と頷くしかなかった…。

 絵の中の幼い少年は、その年齢に似つかわしくない芯の通った眼差しを遠くに投げかけている。

 決してこちらを見ることのない、その眼差し。

 黒髪に映える黄金の冠。
 白い肌を包む錦の装束。






『この地の想い出と共に、君に贈る』 
 


 一時帰国をした良昭の元に、桐生家の弁護士から届けられたものは、香奈子のサインと印鑑が押印された『離婚届』だけではなかった。

 香奈子の父・桐生泰三から、ここ、葉山の別荘の鍵と手紙が添えられていたのだ。



『私が君に残してやれるものは何もない。それが心残りだ』
 


 ここ葉山町の別荘は、桐生家が所有しているいくつかの別荘の中でも古いものの一つで、当主・桐生泰三が家族や親族の使用を許していない、唯一のものであった。 

 そう、ここを訪れることが許されるのは、当主の愛弟子ばかり。

 彼らは長期休暇の度にここを訪れ、音楽三昧の日々を過ごすのだ。

 もちろん、間もなく『赤坂』良昭に戻る、桐生良昭もその一人だった。

 そして、そんな彼らにいつも暖かい眼差しを向けてきた桐生泰三から、良昭は葉山の別荘のすべての権利――所有を含めた――を贈られたのだ。
  


『若き日の想い出と、この絵の少年が、いつまでも君の中に生き続けんことを願う』



 香奈子との離婚はすべて自分の不徳が生み出した結果。
 自分こそが、惜しみなく愛情を注いでくれた師に、恩を仇で返したのだ。

 良昭は別荘の贈与を何度も固辞したのだが、敬愛して止まない恩師であり、慈しんでくれた義父でもあった桐生泰三の意志が覆ることはなかった。





 
「は〜…疲れた…」
「えっと…大丈夫ですか?」

 後ろからおずおずと聞いてくる葵に、良昭はすぐ、つい今しがたの表情を脱ぎ捨て、上機嫌の微笑みを返す。

「ああ、大丈夫っ」

 少し無理があるような気がするんだけど…と思うのだが、葵は顔に出さない。

「これくらいの運転で疲れてるようじゃ、指揮者なんて務まんないんじゃないの〜」

 ひょいと肩を竦め、守はそう言うと、助手席から元気よく出ていく。

「あのなぁ、左側通行の運転は久しぶりなんだぞ〜」
「ともかくお疲れさま」

 いいわけをする父親に、悟はさらっと声を掛け、先に車を降りて葵が降りるのを手助けする。

そして…。

「ほら、昇、起きろ」

 葵の隣で寝こけている昇を、良昭が抱き起こす。

「なんだ、お前、軽いなぁ」
「んぁ?」
「ちゃんと食べてるのか? 葵も軽そうだけど」  
「葵はあんまり食べてないと思う」

 守がいうと、葵が『え〜っ』と抗議の声をあげた。

「僕、ちゃんと食べてるよ」
「嘘ばっかり。昨日、悟が横向いた瞬間に、ニンジン移し替えただろ」
「え」
「あ、僕もそれ目撃した〜」

 いつの間にか覚醒した昇が会話に混じってくる。

「なんだ、葵はニンジンが嫌いなのか?」

 良昭は意外そうに目を見開く。

「いや、そんなことは…」
「ふ〜ん、道理でね…。あれ?っと思ったんだ」

 悟にジトっと見つめられ、葵は慌てて守の後ろに隠れる。


 最近、葵の隠れ場所はもっぱら守の後ろになっている。 

 別に昇でも構わないのだが、隠れるのなら、やはり大きい背中の後ろがいい。

 昇は、葵にとって相変わらず『守ってあげたい』対象なのだ。

『兄たち』はそれを聞いて『理解不能』と言うけれど…。



「さて、さっさと荷物を入れて、日のあるうちに掃除を終わらせるぞ」

 父親の言葉に、昇が『ぶ〜』っと不満を漏らす。

「あ〜あ。休み中は掃除なんてしなくていいはずだったのに〜」
「お前たちは寮生活の達人なんだから、期待してるぞ」

 わざと茶化して、良昭は先に立ち、玄関を開け放った。





 葵たちが春休みのある日。
 日本に帰ってきている良昭の、相変わらずハードなスケジュールの合間を縫って、彼と4人の息子たちは葉山の別荘へやって来た。

 仕組んだのは香奈子。
 いつの間にかすべての用意ができていて、大きなワゴンまでレンタルしていたのだ。




「でも、お父さん」

 長男のこの呼びかけにも最近漸く慣れてきた。
 これも香奈子のおかげなのだが…。 

「僕たち、掃除洗濯はともかく、料理なんてできませんよ」

 その悟の言葉に葵はウンウンと頷いたのだが……。

「あ、葵できるじゃん」

 いきなり昇の口から自分の名前を出されて思いっきり首を振る。

「あ、ダメダメ。僕のは料理のうちに入らないからっ」

 そう、仕方なくやっていた時期はあるのだが、決して好きでやっていたわけではなく、まして得意などと言うことは絶対にない。

 しかも、聖陵に入学して一年。
 もしかしたら包丁の握り方なんて忘れているかも知れないのだ。

「でもさ。料理経験ありって葵だけじゃないかぁ?」

 守がとどめを刺す。

「あかんって、堪忍してっ」

 葵の言葉が変わった。
 追いつめられている証拠だ。

 そして、そんな兄弟のじゃれ合いをしばらく目を細めて見ていた良昭だったが、葵の慌てぶりに助け船を出した。

「心配いらないよ。僕が全部やるから」
「ええっ?!」

 良昭の言葉に、4人が同時に驚きの声をあげた。

「お父さん、それは料理ができるってことですか?」
「父さんが料理…嘘だぁ」
「なんで、親父がそんなことできるわけ?」

 上の3人は疑問を口にしたが、さすがに末っ子だけは心の中で呟くだけにとどめた。

 なにしろ、『人間が食するものができるんだろうか』などという、はなはだ失礼な事を考えていたのだから。

 しかし、良昭はわが子たちの疑惑の目にもまったく涼しい顔だ。

「ん? 僕はドイツでずっと一人暮らしだからな。ツアーにでていて長期で家を空けるときには定期的にメンテナンスに入ってもらうけれど、基本的に他人を家に入れるのは苦手なんだ。だから、誰も雇ってない。掃除洗濯炊事…一通りのことはできる」 

 そう言いながらも荷物を抱えて、どうやらキッチンの方へ向かっているようだ。

 4人もそれぞれに荷物を抱えて、慌ててあとを追う。

「信じらんない〜」
「だな」
「音楽しかできない人だと思ってたけど…」

 今度も葵はウンウンと心中で頷きなからついていく。

 絨毯敷きの広い廊下を行くと、両側に重厚な作りの扉が見える。

 葵だけでなく、3人の兄たちもここへ来るのは初めてのことで、あたりの様子に興味を示しているようだ。

 やがて良昭は、廊下の一番奥、階段の脇にある少し小さな扉を開けた。

 どうやらそこがキッチンのようだ。

「わ〜。キッチンもアンティークだ」

 昇がはしゃいだ声をあげた。

 建物の重厚さそのままのキッチンは、ガスや水道、電気系統だけを近代的に直し、あとは立てられた当時のまま保たれている。

「へ〜、いい雰囲気だな」

 守も感心したように、あたりを見渡す。
 そして、悟が葵に声をかけようと振り返った。

「葵…」

 だが、葵は、いない。

「あれ? 葵っ?」

 その声に、良昭、昇、守が振り返った瞬間。



『ドサッ』
 


 扉の外で、物が落ちる、大きな音がした。
 


後編に続く


この物語はオカルトではありませんのでご安心下さい(笑)