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3月。 聖陵学院での1年を終えて、僕は今、春休みの真っ最中だ。 15日に卒業式を終え、翌日の午前中、悟たち2年生は修学旅行へ出発した。 それを見送って、中1から高1までの4学年が、午後、一斉に退寮したんだけど、そりゃあすごい騒ぎだった。 入寮は丸1日の猶予があるからけっこうのんびりしてるし、夏休み前や冬休み前の退寮は、部活の都合があって三々五々。 こんな風に全部の生徒がたった半日で退寮するのはこの時だけなので、騒ぎも半端じゃない。 それに、学年終わりだから、部屋の荷物も全部片づけないといけないしね。 持って帰らなくていいものは、荷造りさえしておけば学校で預かってくれるんだけど、それでも、部屋を引っ越すっていうのは大変なことだ。 悟たち高校2年生は、すでに来年度の部屋割が発表になっているから(基本的に同室者は変わらないんだ)、修学旅行から学校へ戻り、空いた3年生の部屋への引っ越しを終えてから帰って来るんだ。 だから僕たちと違って新学年の始まりは楽なんだ。 僕たちは4月になって、学校へ行ってからでないと部屋割りと同室者はわからない。 一応『同室希望』の調査票は提出したんだけどね。 悟はちょっと複雑な顔してた。 できれば涼太か陽司と一緒になって欲しかったって思ってるみたいなのが笑えちゃったけど。 で、僕は悟たちが修学旅行から帰ってくるまでの間、香奈子先生と住み込み家政婦さんの佳代子さんと3人でのんびり過ごしてる。 「行ってきま〜す」 「葵、車に気をつけるのよ」 「は〜い」 「道がわからなくなったらすぐに電話するのよ」 「は〜い」 「知らない人について行っちゃダメよ」 「………は〜い」 車に気をつける…ってのはよくわかる。 うちの母さんもいつも言ってた。 京都の町中は道幅が狭い割に車が飛ばしてるから結構危なかったし。 でも、ここ桐生家は高級住宅街のど真ん中にあって、道幅は広いし、ちゃんと歩道はあるし、車は高級外車が時折ゆったりと通るくらいで…。 道がわからなくなったら…っていうのもちょっとわかる。 確かに僕はまだ、このあたりは不案内だ。 だって、去年に夏に10日ほど、冬に数日居ただけだから。 でも、僕が目指すコンビニまではわかりやすい道のりだ。 少し坂を下って2つ目の道を右。公園が見えてきたらそこを左。そうすればあとはまっすぐ行くだけですぐにコンビニが見えてくる。 「葵、やっぱり心配だからついて行くわ」 …香奈子先生〜。 「大丈夫です。携帯も持ってるし、道はわかりやすいし、迷ったりしないです」 「でも…」 「僕は大丈夫ですから、気にしないで練習して下さい」 「あおい〜」 ダメですよ、先生。そんな顔したって。 香奈子先生は来月にピアノコンチェルトのレコーディングを控えている。しかも指揮は赤坂先生だ。 二人がレコーディングで共演するのは初めてなんだそうで、すでにクラシック界では話題になってるんだ。 だから、1分でも練習の時間は惜しいはず。なのに、僕のためにいろいろ時間を割いてくれて…。 「ホントに大丈夫ですってば。天気もいいし、ついでだからそのあたりの探検もしてくるかも知れませんけど、心配しないで下さいね」 キッパリ言うと、香奈子先生は渋々頷いた。 そしてまた言うんだ。 「知らない人についていっちゃダメよ」 …小学生じゃあるまいし…。 僕が過去に体験してしまった『誘拐事件』はもうすでに解決――香奈子先生にとっては最悪の結果だったけど――してるから、僕はもう怖くない。 でも、やっぱり香奈子先生には大きな影を落としてしまっているようだ。 本当に僕は大丈夫なのに。 「はい。気をつけます」 笑顔でそういうと、香奈子先生はやっと笑ってくれた。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 そして僕は一人でコンビニを目指す。 早春の日差しが柔らかくていい気持ち。 早い午後、僕はコンビニに取り立ててこれと言った目的はないんだけれど、練習の気分転換に外へ出たんだ。 このあたりは一区画が大きくて、けっこうな豪邸が建ち並んでる。 京都にもこう言うところはあったけど、やっぱり街の雰囲気は全然違うなぁ…。 少し坂を下って2つ目の道を右。 そこから少し歩くと公園が見えてくる。 見通しがいいようにあまり生い茂った植物はない。 その代わり、花壇には色とりどりの花が咲いていて、明るくていい感じだ。ただ、利用してる人はあんまりいないみたいけど。 公園に近づいていくと、なんだか音が聞こえてきた。 たどたどしいそれは…。 もしかして「きらきら星」……かな? もっと近づいていくと…。 ああ、これは『鍵盤ハーモニカ』の音だ。 見ると、花壇の脇のベンチに男の子が一人、ちょこんと座って『鍵盤ハーモニカ』を一生懸命鳴らしている。 幼稚園くらいかな? 可愛らしいなと思いながら僕はそこを通り過ぎ、目的のコンビニに無事着いた。 どれくらいコンビニで時間をつぶしてただろうか。 自動ドアが開いて、小さな男の子が入ってきた。さっき公園で見かけた子だ。やっぱり一人だ。 一目散にペットボトルの所へ駆けていって、大きなドアを開ける。 でも…。 どうやら目的の棚に手が届かないらしい。 僕はたまたま近くにいたので声をかけた。 「どれが欲しいの?」 いきなり頭の上から降ってきた声に、その子はびっくりしたようだったけれど、すぐにニコッと可愛らしい笑顔になった。 「んとね、あそこのクマのプーさんの…」 ああ、ハチミツレモンね。僕も好きだけど。中身も、ボトルも。 「はい、どうぞ」 「ありがとう!」 嬉しそうにそれを手に取ると、可愛い手を「バイバイ」と振って、その子はレジへとまた駆けていった。 なんだか僕もハチミツレモンが飲みたくなった…。 これ買ってそろそろ帰ろうかな。 香奈子先生が、心配で練習が手に着かない…って事になっても申し訳ないし。 僕はさっき男の子に渡したものと同じものを手にとって、レジにいくと…。 「あの、さっきはすみませんでした」 バイトらしきお姉さんにそういわれた。 なんのことだろう。 「さっきの子、毎日来るんですよ、いつも一人で」 ああ、ハチミツレモンのことか。 「さっきは公園にいましたよ」 僕がお金を出しながらそういうと、 「私もよく見かけるんです、公園で。いつも鍵盤ハーモニカの練習をしてるんですよ」 ああ、やっぱりそうなのか。 「さっきもしてました」 「でしょう? それでね…」 あの、お姉さん…。後ろの人、待ってるんですけど…。 僕がそう思ったとき、後ろに並んでいた人が咳払いをした。 それでお姉さんはハッと我に返ったように目をぱちくりさせて…。 「あ、ごめんなさいっ。はいっ、50円のお返しですっ」 「あ、どーも」 …って、いいから手を握らないで下さいってば…。 「またきて下さいねっ」 もちろんそのつもりではありますが。 「はい」 ニコッと笑ったら、お姉さんが赤くなった。 うーん。悟と来るのはヤバイかも…。 そんなことを考えながら、来た道を帰っていくと、またあの音が聞こえてきた。 一生懸命なんだけど…。 あ、そこは『ファ』じゃなくて『ソ』だってば。 あああ、それは『シ』じゃなくて『ド』! うう、気になる…。 思わず足を止めて、僕はじっとその子の様子を見守ってしまう。 すると…。 ふとその子が顔を上げた。 「あ! さっきのお兄ちゃん!」 口からポロッと吹き口が零れる。 そして、そのまま楽器を抱えて僕めがけて、また駆けてきた……んだけど…、あぶないっ! 「わぁっ!」 見事にけつまずいて、その子は転んだ。でも、楽器を持つ両手は高く上がっていて。 …あっぱれ。 僕は楽器を守ったその子に感心しつつも、駆け寄って抱き起こす。 「大丈夫?」 「うん……、へーき…」 と言いつつ、膝からは血が出てるし、なんと言っても両手を頭の上に上げたまま転んだんだ。ほっぺには見事な擦り傷が…。あ〜あ。可愛い顔してるのに…。 あたりを見渡すと…ちゃんと水飲み場があった。 「ちょっと待ってて」 僕はポケットからハンカチを取り出してそれを濡らしにいく。 そういえば、こんな話、守にも聞いたっけ。 守のチェロの先生は名門オーケストラの首席奏者なんだけど、若い頃、練習帰りに楽団員仲間で飲みに行って、その帰り道に凍った路面に足を取られてひっくり返ったんだそうだ。 もちろんすっかり酔っぱらって出来上がった状態だったんだけど、先生はとっさにチェロを庇って、楽器を抱えてなかった方の肩からもろに転けたらしい。 おかげで楽器は無事。でも本人は骨折で全治2ヶ月。 でもね、プロのチェリストってみんな丈夫なハードケースに楽器を入れてるんだ。 だからちょっとやそっとのことでは楽器は壊れないんだけどね。 でも、みんなそうやってとても楽器を大切にしてる。 それこそ自分の身体は怪我をしても治るけど、楽器は割れたらもう二度と元の音には戻らない…っていうノリでね。 でも、腕は奏者の命だからなぁ…。 戻ってくると、あっぱれなその子は膝と頬に血を滲ませながらも楽器をしきりと気にしていた。 「大丈夫かなぁ…」 僕がハンカチで傷を拭うと、やっぱり痛いんだろう、何度か顔をしかめて『ありがとう、お兄ちゃん』と言うんだけど、気は楽器に向いているようで…。 「見せてごらん」 傷をあらかた拭ってから、僕は鍵盤を手にした。 「ほら、吹いてみて」 吹き口を銜えさせてて促す。 息が入ったところで僕はざっとすべての鍵盤を半音階を鳴らした。 「うん、大丈夫。全部の音がちゃんと鳴ってるから」 そういって鍵盤本体を渡すと、その子は目を丸くして僕を見つめていた。 「お兄ちゃん、すごいっ」 「え?」 「すごいっすごいっ」 「は?」 「ピアノが弾けるんだっ」 …いや、ピアノはちょっと…。 現在も悟先生と香奈子先生のご指導の下、悪戦苦闘中です…。 「ピアノは弾けないよ。でも鍵盤ハーモニカならなんとか弾けると思うよ」 鍵盤の半音階は、一見難しそうだけど、指使いさえ覚えれば誰にでも弾けるからねぇ…。 「ねぇ、おにいちゃんっ、僕にきらきら星教えてっ」 曲目に負けないほど瞳をきらきらさせてお願いされて、僕は嫌とは言えなかった。 この子が一生懸命吹いてる姿も気になってたし、なにより身体を張って楽器を守った姿に感動してたしね…。 その子の名前は草太郎くん。4月から年長さんになる5歳の坊や。 お父さんとお母さんはともに看護士さんで、幼稚園が春休みの今は、いつもおばあちゃんのうちに居るそうで…、 「おばあちゃんは、僕が鍵盤ハーモニカを練習してるの聞くのが楽しみていってくれるんだけど、今ね、おじいちゃんが病気で寝てるの。だから僕、ここまで来て練習してるの」 …なのだそうだ。 最初は桐生家へ連れていこうかと思ったんだけど、きっとご家族は心配するだろうから、僕は『じゃあ、明日の2時にここでね』と約束して別れた。 それから僕たちの『逢瀬』は悟たちが帰ってきてからもこっそり続いた。 話してしまってもよかったんだけど、最初に言い損ねてしまったものだから、なんとなくそのまま…。 ちょうど1時から5時頃まで僕らはそれぞれの部屋で練習してるから、抜け出すのには問題がなかったし…。 ☆ .。.:*・゜ こうして僕らがとても仲良くなって、彼の鍵盤ハーモニカもなかなか上達してきた頃、僕は草太郎くんからあるお願いをされたんだ。 「ねぇ葵ちゃん。僕の幼稚園にふるーと吹きに来て」って。 どうやら僕が『ピアノは弾けないけれど、フルートならふけるよ』って言ったのを覚えていたらしい。 「でも、幼稚園で演奏しようと思ったら、先生の許可…ええと…」 「大丈夫。『きょか』って知ってるよ。お許しをもらうってことでしょう?」 そうそう、なかなか賢いぞ、草太郎くん。 「よく知ってるね」 僕が頭を撫でると、草太郎くんは『えへへ』と照れくさそうに笑う。 「そう、その許可がいるんだよ」 「それ、ぼく、一生懸命先生にお願いしてみるよ。だからお願い。僕たちに葵ちゃんのふるーと聞かせて」 そりゃあ、演奏自体は全然かまわないけれど…。 僕がどうしたものかと首をひねったとき・・・。 「いいんじゃない?」 「そ。おもしろそうじゃん」 「でも、黙ってうちを抜け出したのは許し難い」 …背後から3人分の声が…。 振り返らなくてももちろんわかる。 固まった僕の頭の上を、草太郎くんの無邪気な声が通り過ぎていく。 「おにいちゃんたち、だあれ?」 |
2へつづく |
『鍵盤ハーモニカ』について。
『ピア●カ』『メロ●ィオン』などとも言いますが、
いずれも『商品名』なので、お話の中では『鍵盤ハーモニカ』にしましたv