君の愛を奏でて 2
番外編
『アニーくんのちょっとばかり複雑になった事情』
前編
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8月30日、軽井沢合宿4日目。 去年の今頃、僕はドイツから日本へ帰国してしまった祐介の事を想い、24時間ほど落ち込んだ後、自分も日本へ行こうと決めてマエストロ・赤坂に連絡を取ろうと必死になっていたっけ。 僕はこの夏期休暇中も故国ドイツへ帰らなかった。 もとより、卒業するまでの3年間は、長期休暇中でも帰らないと家族や周囲には言い置いてきた。 司はそんな僕に『帰らなくていいの?』『ホームシックになんないの?』って聞いてきたんだけど、僕は「せっかく覚えた日本語を忘れたくないからね」と答えて曖昧に笑って見せた。 もちろん、たった1ヶ月帰ったくらいで、苦労して覚えた日本語――漢字検定だって3級まで取ったし――を簡単に忘れたりなんかはしないから、これはあくまでも「表向きの差し障りのない理由」なんだけれど。 僕は小さい頃から音楽家になろうと思っていた。 もちろん周囲の思惑もそうだったから、僕はずっとそのための勉強しかしてこなかった。 何もかもが音楽中心の生活。勉強も、日々の暮らしも。 だから僕は、日本行きを猛反対した両親への説得のために『この3年間だけ、年相応の学生生活が送りたい』という理由を使ったんだ。 結局両親は『3年間』という期限がついたことで諦めてくれた。 同年代の友人がほとんどいなかったことを不憫に思っていたらしいこともわかって、ちょっと罪悪感も感じた。 だって、僕自身はそのことをあんまり気に留めていなかったから。 音楽の世界での友人関係は、まったく年齢にはこだわらない。 歳がいくら離れていようと、共感できるものがあれば親友になれるんだから。 そして去年の秋、僕は日本へやってきて、マエストロ・宮階のうちに居候させてもらいながら、日本語と受験勉強を必死でこなした。 年が明けて、無事に聖陵に合格したとき、ドイツの両親も喜んでくれた。 聖陵がマエストロ・赤坂の母校であるということも、両親には安心材料の一つだったみたいだ。 そして春。 7ヶ月ぶりに再開した祐介は、相変わらず純粋な目をしていて、ドイツで一緒に過ごしたときよりもさらに生き生きと輝いていた。 そして隣には、祐介の思い人――奈月葵くん――がいた。 実際に会った彼は、写真の中の彼よりずっと魅力的で、賢くて優しくて、そして――とんでもない才能の持ち主だった。 会う前からマエストロ・赤坂の4番目の息子だということは知っていたし、彼の3人の兄たちの優秀さもすでにヨーロッパの音楽界では噂になっていて、だから僕は彼のことを最初から『そう言う目』で見ていたと言うのに、そんな僕の度肝を抜くくらい、彼は素晴らしいものを持っていた。 オーボエとフルートの首席は管楽器の要で、席も隣同士、並んで座る。 葵くんの向こうは祐介の席。 そして反対側――オーボエの次席奏者も、高校生とは思えない実力の持ち主で、ついでにいうと、聖陵学院管弦楽部は素晴らしいオーケストラで、我らがマエストロ・光安先生は尊敬に値する指導者で…。 僕は祐介に会えたという喜び以外にも、ここへ来てよかったと本当に思ったんだ。 ここでの3年間は、これからの僕にとって、きっとかけがえのないものになる…と。 そしてその思いは、季節が春から夏へと変わるに連れ、更に強くなっていった。 それは……。 「あれ? アニー、なにやってんの、こんなところで」 「司」 軽井沢学舎の庭。 ドイツの森を思わせる清浄な空気が気持ちよくて、僕は、休憩中はいつも庭にでて広がる緑を眺めている。 「もうすぐ休憩終わるよ?」 ちょこんと傾げた首が可愛らしい、佐倉司は僕たち高校1年生の『お姫様』。 コンサートマスターの隣に座る彼は、まだまだ荒削りだけれど、磨けばどんどん光って行くであろう逸材。 僕が祐介を追いかけてここへ来たように、司もまた、葵くんを追いかけてここへ来た。 そして、泣いた。 精一杯張った『意地の仮面』が剥がれ落ちたとき、司は泣いて泣いて…。 「ほら、早く行かないと怒られるってば」 司は僕の手を引っ張ろうとする。 そんな手を僕は反対に引っ張り返して…。 「あ、こらっ、なにするんだよっ」 ギュッと抱きしめると、なんだか甘い香りがした。 小さくて、僕の腕にすっぽりと納まってしまう、司。 「もう〜、アニー! ふざけてないで早く行こうってば!」 もがく司を解放して、わざとらしく『仕方ないね』と肩を竦めて見せ、僕は『早く、早く!』と先を急ぐ司のあとを、ゆっくりと追った。 「あれ? 葵ちゃんと浅井先輩だ」 司の声に、ロビーへと視線を転じてみれば、葵くんと祐介が二人してどこかへ電話をしているようだった。 「ちょっと、祐介ってば!」 電話の前を足早に立ち去ろうとする祐介を、葵くんが追いかける。 「…なんかあったのかな?」 司が心配そうに言う。確かに、あの祐介の様子は変だ。 気にはなったけれど、すぐに二人は別の合奏室へ消えて行って、それ以上確かめることはできなかった。 「行こうか、司」 「…うん」 気になっているだろう司の肩を抱くと、司が少し、切なそうな顔で僕を見上げてきた。 ☆ .。.:*・゜ 「ね、アニー」 夕食後の自由時間。 昼間と同じ場所で――さすがに夜は少し肌寒いけれど――夕涼みをしている僕の隣には、珠生がちょこんと座っている。 僕と一緒に聖陵に入り、そして、1学期の間に大きく――あくまでも精神的に、だけど――成長した珠生は、ちょっと舌ったらずな口調こそ全然変わらないけれど、話す内容は随分しっかりとしてきていて…。 「なに? 珠生」 「最近浅井先輩のこと追っかけてないね」 こんな風に、僕をドキッとさせることも言う。 「へえ…。珠生にしては鋭いね」 「ひっどーい」 ふくれる珠生。 でも、すぐにそんな表情を解いて、また僕の顔を覗き込んできた。 「会えば抱きついてるけど、でも、ただのじゃれ合いにしか見えないような気がするんだ」 「そう?」 「うん」 軽く返事をしたんだけれど、珠生は何故か深刻そうに頷いた。 そして、僕の目をジッと見る。 「なのに、司のことは真剣な目で見つめてる」 …参ったな。本当に珠生、鋭いよ。 「ねえねえ、アニー。浅井先輩のことは諦めたの?」 悟先輩への恋に破れた珠生は、僕にはどうしてもがんばって欲しいと思っているらしくて、とても祐介の事を気に掛ける。 「祐介のことは、好きだよ」 「じゃあ、どうして? どうして、追っかけないの?」 そして、こんな風に一途に思いこんだ珠生には、誤魔化しは通用しない。 純真な分、鋭くて、小細工が効かない。 僕は自分の中で、自分の気持ちをざっと検証して、珠生に向き直った。 「去年の夏、ドイツで、奈月先輩の写真を見つめる祐介を見ていたんだけれど、ああ、これはきっと片想いだなと思っていたんだ。だから、自分にもチャンスがあるかも知れないと思って追ってきた」 珠生が小さく頷く。 「来てみれば案の定、奈月先輩には悟先輩って言う恋人がいて、祐介はそんな奈月先輩の『親友』として精一杯自分を押さえていた。だから最初は思っていたんだ。これは落とせるかも知れないってね」 また珠生が頷く。 精一杯神妙そうに聞いているのが妙に可愛い。 そんな珠生から視線を外し、僕は夕闇に紛れた森を見る。 「けれど、そのうちに僕は気づいた。体中から奈月先輩を想うオーラを出してる祐介だけれど、無自覚なまま、心の中でもう一人、見つめていることにね」 「…えっ?」 珠生が僕の腕を掴んだ。 その小さな手に僕は自分の手を重ね、あやすように二度三度、小さく叩く。 「それが誰かわかったとき、僕はこの恋を諦めようと思った。見つめられている彼もまた、祐介を想っていることに気づいたから。両想いには敵わないよ。いくら僕でもね」 「ちょっと待って、アニー。…誰? それ、誰のこと? 両思いって…。もしかして浅井先輩もその人も、両思いってことに気がついてないの?」 「今のところはね」 「教えて上げちゃいけないの?」 まったく、珠生らしい可愛い発想だね。 「それはダメだよ、珠生。これは祐介の問題だ。彼が自覚してこそ、意味がある」 「…そんなぁ…」 珠生は恨めしそうに僕を見上げ、やがて小さくため息をつくと、珍しくちょっと大人びた表情で『それで?』と先を促した。 「僕が海を越えてまで手に入れようとした恋を失ったとき、僕の側にもまた、手に入れようとしていた恋をなくした人間がいたんだ」 「…つかさ…のこと?」 やっぱり今夜の珠生は鋭いね。明日は雨だろうか? 星は空一面に瞬いているけれど。 「そう、僕の側には司がいた。しかも彼は、失恋しただけではなくて、奈月先輩と悟先輩にしてしまった仕打ちのことで酷く落ち込んでいた。誰かに助けて欲しい…全身でそう訴えているクセに、それを認めようとしないで必死で耐えている司が、たまらなく可愛いと思ったんだ」 「…アニー」 珠生の目が潤み始めた。 珠生って自分のことでは泣かないクセに、人のことになると涙もろくなるんだ。そんなところも可愛いけれど。 でも珠生、心配しなくても大丈夫。 司には、僕がいる。 |
後編へ続く |