君の愛を奏でて2

『初めての、ひと。』
〜前編〜




「大丈夫?」

 僕のネクタイをきちんと締め直しながら、悟は本当に心配そうに、僕にそう訊く。

 そんなに心配なら手加減してくれたらいいのにね…なんてイジワルを言うつもりはないけれど、でも実際のところ、僕は結構ぐったりしてて…。



 ある金曜日の放課後。

 本当なら部活があるはずの時間に、僕と悟は制服のままで裏山にいた。

 音楽ホールの電気系統に故障があって、部活の時間が1時間遅れたから…なんだけど、ここのところいろいろな学校行事であんまりゆっくり会えなかった僕たちは、寮の玄関でばったりと出会ったとき、目があっただけでまるで示し合わせたかのようにここ――裏山の奥の奥の方――に来てしまった。

 そして、我慢していたものが堰を切ったように溢れ出してしまい、僕たちはまだ日も高いと言うのに、大胆にも……。


 ってわけで、そろそろホールに行かないとヤバイんだけど、僕はまだしっかり立てなくて、こうして悟に寄りかかっている。


 優しくて、そしてちょっと強引。

 僕を抱くときの悟はそんな感じなんだけど、考えてみれば去年の夏――『初めて』の時も、結構悟は落ちついていたような気がする。

 だから、僕はなんとなくわかってはいたんだ。

 悟は僕が初めてじゃないってこと。


 あんまり自慢出来た話じゃないけれど、僕は花街というかなり特殊な環境で生まれ育ったから、『そう言うこと』には結構敏感で、自分で言うのもなんだけれど、鋭い…と思う。

 だからって、悟に対してそんなこと気がつかなくてもよかったんだけど…。


 もちろん、それについてとやかく言うつもりはないんだ。

 だって、僕だって気持ち的には『初めて』だったけど、実際はそうじゃないんだから。
 たとえそれが自分の意志じゃなくてもね。


 けれど…気になるものは気になる。

 だって、悟は遊びでそう言うことができる人じゃないと思うから。
 少なくとも、『その時』はその相手に心があったんだと思うから。


 …どんな人なんだろう。悟の『初めての人』…って。

 やっぱり…女の人………だろうなあ。
 悟の今までの評判からして、校内…ってことはなさそうだし。

 綺麗な人だったのかな。
 それとも、可愛い人…だったのかな…。
 何処で知り合ったのかな…。


 その人今、どうしてるのかな…。



                    ☆ .。.:*・゜



 2年生になって、ピアノの個人レッスンの先生が代わることになった。

 1年間教えてもらった、僕にとっての『悟先生』は結構キビシイ先生だったけど、でもそれはいつも『僕のため』という悟の愛情に裏打ちされていて、だから僕は全然レッスンを辛いと思ったことはなかった。

 最初の頃は、思うように動かない指がもどかしてくて、『悟に呆れられたらどうしよう』って言う思いから起こる『辛い思い』はしたんだけど。

 でも、僕は今回、初めて『知らない人』にピアノを習うと言う事態に直面して、かなり緊張していた。

 コワイ先生だったらどうしよう…なんて。
 でも…。




「初めまして、宮下陽子です」

 そういってニッコリ微笑んだ美人女子大生は、どこか香奈子先生に似ていた。

 まあ、先生の愛弟子なんだから、そう言うこともありかも知れないけれど。

「初めまして。2年の奈月葵です。よろしくお願いします」


 ここ、聖陵の個人レッスンにくる外部講師の先生はたくさんいるんだけど、女の先生はかなり珍しくて、中でも現役女子大生というのは今回が初めてのことなんだそうだ。

 まあ、なんてったって『男の巣窟』だもんね、ここは。
 普通は『アブナイんじゃないか』って思うよね。


 けれど、光安先生が香奈子先生に直接相談した結果がこの女子大生の陽子先生――香奈子先生が『陽子ちゃん』って呼ぶから僕も自然にこう呼ぶようになった――ってことで、僕の他には、司と羽野くんが習うことになったんだ。

 祐介がこの面子を見て『なるほどね。それでわざわざ女子大生ってわけか』なんて意味不明のことを言ってたっけ。

 そう言う祐介も1年の終わりに進学希望を音大へ変更したから――それまでは本当に東大だったらしい…――2年になってピアノのレッスンを始めた。

 祐介の場合は、中学に入るまでずっと習ってた――祐介に言わせると『習わさせられていた』んだそうだけど――らしいから、『再開』ってことになるんだけど。

 ちなみに祐介のピアノの先生はこの道30年のベテラン講師。もちろん男性。茅野くんもこの先生についている。



 まあ、そんなわけで、2年になってそれぞれが大学という目標に向かって新しい一歩を踏み出したわけなんだけど、当初の僕の『コワイ先生だったらどうしよう』と言う不安は杞憂に終わった。

 だって、陽子先生は見かけの通り優しいんだ。もちろん、レッスンは容赦ないけど。


 レッスンの日は毎週月曜。
 部活が終わったあと、5時から一人1時間ずつ。

 最初が司で、次が羽野くん。僕が最後だから、僕のレッスン時間は7時から8時まで。

 そして、僕が思わぬ場面に遭遇したのは、陽子先生に習い初めてから2ヶ月ほど経った頃の、蒸し暑い月曜日のことだった。



 部活の最中、僕はパート練習で使う楽譜を取りに一人で準備室へ行こうとしていた。

 3階にある練習室から1階の生徒準備室へ行くために、階段を下りるところだったんだけど、その声は1階から2階への踊り場の辺りから聞こえてきた。


「あら。」

 って言ったのは女性の声。もうすっかり覚えた陽子先生のよく通る明るい声だ。

 そしてその声に、「あ。」…と答えたのは、僕にとって聞き間違えようのない、悟の声で。


「お久しぶり。元気そうね、悟くん」

 そう言った陽子先生の声に、当然僕は違和感なんてもたなかった。
 だって、陽子先生は香奈子先生の愛弟子で、自宅にも何度も来ているって聞いてたから、悟と顔見知りだって不思議なことはなんにもないし。

 でも、悟が陽子先生に返した言葉に、僕の違和感が刺激された。

「…陽子さんも…」

 普段の悟らしからぬ、あまり『穏やか』とは言えない、どちらかというと『怪訝な』感じがありありと漂う口調。

「やーねー、そんなに警戒しなくっても〜」

 声と一緒に『バチン』と大きな音がした。

 うわ…背中でも叩かれたのかな…。結構痛そうな音だけど…。


「…別に警戒なんて…」

 そして相変わらず悟はいつもと違う感じで、しかも語尾も濁したりして…。

 なんか、変。
 それに、『警戒』…って?


「私が来てるのわかってたクセに顔見せてくれなかったわね。末っ子ちゃんのこと、気にならないの?」

 …え、陽子先生、知ってるんだ、僕のこと。
 やっぱりというか、なんというか…。


「昇くんと守くんは来たわよ。『弟をよろしく』ってね」

「…あいつら…勝手に…」

 やっぱり変だ。いつもの悟じゃない。
 何でだろう?

 僕は悟の様子が気になって、そっと手すりから身を乗り出して下の階を伺った。

 でも、見えるのは、少し間があいた状態で横たわる二人の影だけで…。


「陽子さん」

「なあに?」

「……いや、なんでもない」

 ぶっきらぼうな悟の声。

 陽子先生は現在大学の2年生だから悟より2学年上。

 悟は目上の人にはとても丁寧な言葉で話すんだけど、なんだかまるで友達同士のような話し方になってる。

 おまけに、なんだか事態は緊迫してるような気が…。


 そしてほんの少しの間、立ち聞きしている僕の心臓の音が届くんじゃないかと思うくらい、静かになったんだけど。


「心配する必要なんてないわよ。あなたが困るような事は何一つ起こらないから」

 陽子先生が、のんびりした口調でそう言った。

「どういう意味?」

 相変わらず悟の声は強張っていて。

「どういう意味かはあなたが一番よくわかってるでしょう?」

 え? え? どういう意味?

「…陽子さん、まさか…」

 まさか、何っ?


「そうそう、その末っ子ちゃんだけど。あなた、1年間の間にしっかり教えたわね。きっちり基礎がついていてとてもやりやすいわ」

「…それはどうも」

「さ、早く練習に戻らないのまずいんじゃないの? こんなところで二人っきりで話してたら、いらない誤解を招くわよ。私は別に困らないけどね」

 からかうような口調になった陽子先生に、でも悟は何も言い返さない。


「ああ、そう言えばさっき正門で大貴くんに会ったわ。彼もなかなかいい男になったわね。真路くんと一緒だったんだけど、相変わらず仲がいいのね、あの二人」

 大貴って…横山先輩のこと、だよね。悟の一番の親友の。でもって、真路っていうのは生徒会長の浦河先輩で…。

 でもどうして陽子先生が横山先輩や浦河先輩のことを知ってるわけ?
 管弦楽部繋がりじゃないもん。


「…大貴に余計なこと言ってないでしょうね」

「やだ、失礼ねえ。余計なことって何よ。 まあ、大貴くんはびっくりしてたけど。どうして私がここにいるのかって…ね。 彼、ああいうところ相変わらず純情だわね。すぐ顔に出るの、あなたと違って。 まあその方が子供らしくて可愛いけど」

「…陽子さん……」

 …ちょっと、やばくない? 悟の声、怒ってるよ…。


「彼、あなたと私がよりを戻したんじゃないかって勘ぐったみたいよ」

「なんだって?!」


 …………「より」って何?

 もしかして、あの、「縒り」? 「男女の仲を元に戻す」っていうアレ?!


「大丈夫よ。ちゃんと説明しておいたわ。 外部講師として来てるんだってね」

 悟…陽子先生とつき合ってたこと…あるんだ…。


「なんて顔してるの。3年も前のこと今さら蒸し返されるなんて、私だってごめんだわ」

「陽子さん」

 突然悟の声色が変わった。
 いつも、みんなの前で話すときのような、落ちついた声。

「なあに?」

「今、僕には好きな人がいて、つき合ってる。 その子のこと、とても大切なんだ。だから悲しませるようなことはしたくない」

 …悟……。


 言い切った悟に、でも陽子先生の反応はあんまり変わらなかった。

「あら、随分熱い男になったじゃないの、悟くん。 あなた、その方がらしくていいわ」

 相変わらず、余裕で…。

「さっきも言ったけど、あなたが心配するようなことはなにもないって。それに、私だって今、フリーってわけじゃないのよ?」

「それなら…」

「こんないい女、振る男の方が珍しいのよ。そこんとこ、ヨロシクね」

 悟の言葉を遮って、うふふ…と笑う可愛い声と、ヒールが階段を上る音がした。

「あ、そうだ」

 靴音が止まる。

「その子のこと、いつか紹介してね」

 その言葉に悟がどう返事したのかは、階段に響く靴音に消されて聞こえなかった。

 そして、僕はと言えば、このまま階段を下りて、上がってくる陽子先生と鉢合わせるわけにいかなくて、慌てて練習室へと駆け戻ったんだ。



 悟と陽子先生。つき合っていた二人。

 きっかけは何だったんだろう。どうして別れたんだろう。


 あ……もしかして、悟の初めての人って……。



後編へ続く

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