ACT.

〜君に伝えたい言葉〜





(…もう夕暮れかぁ…)

 陽が落ち始めた。

 ここは私立聖陵学院の第1体育館。中等部と高等部のバスケットコートがある。

 三面のコートのうち、一面が中等部のもので、残り二面は高等部が使用している。

(そろそろ、コートの照明…)

 そう思って、ふと隣の高等部のコートを見たのは、中等部3年生の秋園貴史(あきぞの・たかふみ)。
 視線の先にいるのは、高等部1年の中沢涼太だ。

 昨年度、中等部の主将を務めた涼太は、今年早くも高等部のレギュラーになった。

 ボーッと見つめる貴史の視界の中、涼太がシュートを決めた。
 ギャラリーから歓声が上がる。

 バスケ部は人気が高く、部員数も多い。
 当然レギュラー選手の数よりも、そうでない選手の方が多く、レギュラーの8割は3年生だ。

(中沢先輩って…やっぱセンス抜群だよな)

 シュートを決めて、笑顔を見せる涼太を、貴史は眩しそうに見つめる。


 つい2ヶ月ほど前までは、涼太は身近な先輩だった。
 可愛がってもらったし、色々教えてももらった。

 今の貴史は選手ではなく、マネージャーだ。
 それでも涼太は、気を遣ってくれたし、親切だった。

 しかしその涼太は、この春卒業して高等部へ行った。
 校舎も、寮も別々になり、唯一その姿を見ることができるのは、部活の時だけ。

 体育館が一緒で良かったと、心底思う貴史だった。

(中沢先輩…)

 ボールを二つ抱えたまま、貴史はボケッと立ち尽くす。
 昨日、部活終了後の部室で、同級生たちから聞いた話が頭をよぎった。


『中沢先輩って、同室のカワイコちゃんに夢中なんだってさ』


 同室のカワイコちゃん…それは入学初日からトップアイドルになったあの人、奈月葵。

 部活も違うから、その姿を見かけたのは入学式も含めてほんの2、3回だ。
 けれど、その印象は強烈に残っている。

 その人が、涼太と同室だと知ったときは、やたら胸が痛かったのを覚えているのだが…。

(あんな可愛い人が側にいたら、他の誰も目に入るわけないよなぁ…)

 ホゥっと一つ、ため息をついて貴史は、涼太から視線をはずした。

 …その時。

「貴史っ、危ない!」

 その声に振り返る間もなかった。
 

 ボールが頭にヒットしたらしいということは、認識できたが…。






 あの時もそうだった。

 去年の春、まだコートで走り回っていた貴史は、ミスで流れたボールに頭をヒットされて、脳しんとうを起こした。
 そして、気がついた保健室のベッドで心配そうに自分を覗き込んでいたのが涼太だった。


「大丈夫か」
「…あ、はい」
「気分悪くないか?」
「…別に…。はい、大丈夫…です」

 考えながら答える貴史に、涼太は、良かったと言って笑顔を見せた。
 その眩しさが今でも記憶に焼き付いている。

 あとで聞いた話によると、失神してしまった貴史を抱き上げて運んだのは涼太だったということだ。

 あの日、貴史の中で、涼太の存在がその位置を変えた。

 気がつけばいつも涼太を捜している。
 いつも涼太のことを考えている。

 それがどういう意味を持つのか、知ってしまうのが怖かったが、それでも貴史の目は、いつも涼太を追っていた。


 そして、自分の気持ちにはっきりと気づいてしまったのは、その数ヶ月後の夏。
 間もなく夏休みに入ろうかと言うときだった。




 貴史は腕時計を音楽室に忘れたことに気がついた。
 ひっそりとした放課後の音楽室。

 管弦楽部は専用ホールを持っているから、この音楽室は、授業にしか使われない。

 防音のため二重になったドアの一つ目をあけたとき、中から微かにピアノの音が聞こえてきた。

 人がいるとは思わなかった。
 驚きに足が竦んだのもあるが、そればかりではなく、好奇心からも暫くそこに佇んでピアノの音に耳を傾けた。

 何の曲かはわからないが、ちょっと悲しい曲のような感じがする。
 まったくクラシックのわからない貴史の耳にも、その腕前は相当のように聞こえたのだが。

(もしかして、悟先輩だろうか…?)

 昨年の生徒会長、桐生悟。
 彼を知らない者など、この学院には一人もいない。

 彼はこの春、管弦楽部始まって以来の、生徒指揮者になったと聞いた。
 管弦楽部は今、部活中のはずだから、指揮者がこんなところにいるはずがない。

 しかし、ピアノの音はやみそうになかった。
 

 貴史は、そのあまりの心地よさに、もう少しこのままでいたい気もしたが、意を決してドアを開けてみた。

 そうっと、静かに…。

 開くドアの大きさに合わせるように、零れてくるピアノの音。

 貴史はグランドピアノを見て立ち尽くした。
 窓から差し込む光の中、音の間を、まるで泳ぐように漂うピアニスト。

 この世の者ではないものを見てしまったのかと、一瞬たじろいだ。

 それほどまでに辺りを支配している、音の輝き。

 そのピアニストは、貴史が知っている、コートの中の精悍な彼ではなかった。

 音と戯れる人…。

 貴史の瞳から、幸せに濡れた涙が一筋伝った。
 なぜだか、とても嬉しかったのだ。

 弾いているのは、涼太だったのだから。



「秋園…」

 貴史は名前を呼ばれるまで、音の中を一緒に漂っていた。

「どうして…ここに…?」

 戸惑いを隠せない涼太の問いに、貴史は、ばつの悪い思いで俯いた。
 きっと、誰にも知られたくなかったに違いない。

「あ、あの…ごめんなさい…。忘れ物を取りに来たら……」

 そう言ってほんの少し上げた視線に、笑顔に戻った涼太が映った。

「あ…ホントにすみません。あんまり気持ちよくて…つい…」

 どう言ったら今の気持ちがわかってもらえるんだろう…。
 言いたいことはいっぱいあるのに、言葉はちっとも出てこない。

「いいよ、別に」

 そう言って涼太は違う曲を弾き出した。
 今度はうって変わって、明るく軽快な曲。

「一人っきりのお客さんのために弾くよ」

 そう言って悪戯っぽく笑った涼太に、貴史の目は釘付けになる。

 そして…。

『一人っきりのお客さん』

 それが自分のことだと気づき、一気に頬が上気するのを覚えた。




 一人っきりの観客のために演奏された涼太のリサイタルは、15分ほど続き、やがて終わりを告げた。

「さ…帰ろう」

 そう言いながらピアノの蓋を閉める涼太に、貴史はそっと近寄っていった。

「知りませんでした…。こんな素敵な…」

 そこまで言ったがあとが続かない。

「びっくりしたろ? 普段の俺からは想像できないだろうしな、こんな姿」

 言って、一人可笑しそうに笑う。

「うち、母親がピアノ教師でさ、ちっさいころから嫌々やらされてたんだ」

 そうは言うが、嫌々弾いているようにはまったく見えなかった、と貴史は思う。

「でも…すごく…えっと、僕、曲のこととか何にも知らないですけど、でも…」
「ありがと」

 言い淀んでしまう貴史の頭を、パフパフと涼太が撫でた。

「中沢先輩…」
「俺、人の前で弾くの久しぶりだったから、かなり緊張したぞ」

 そんな風にも見えなかった。

「先輩…どうして管弦楽部に入らなかったんですか?」
「あのさ、オーケストラにピアノはいらないよ」
「はぁ…」  

 それはわかるけど…。

「でも…」
「ああ、悟先輩か…。あの人は確かにピアノの人だけどな。でも、昇先輩と守先輩が一緒だしな」  
 
 一つ年上の桐生悟が聖陵に入ったことは、母親から聞かされていた。
 けれど、そんなことどうでもよかった。
 もとより音楽に執着があったわけではなかったのだから。


「俺さ、ずっとバスケがやりたかったんだけど、突き指しちゃまずいからってボールにも触らせてもらえなかったんだ。 だけどさ、ここなら寮だし、バスケ部に入っても親にはばれないし…。 うちの母親なんか、俺が音大受験の補習をちゃんと受けてるって信じてるからなぁ」

 可笑しそうに「くくっ」と笑う涼太を、貴史は呆れ顔で見上げる。

「…ピアニスト…にはならないんですか?」

 おずおずと聞いてくる貴史に、涼太は今度は声をあげて笑った。

「俺が? あははっ、似合わないって」

 そう言いながら、貴史の肩を抱いて、扉へ向かう。
 貴史は思いもかけない涼太の行動に驚き、身体を固くしてぎこちなくついていこうとする。

「それより、秋園、おまえ体の具合どうなんだ?」

 その言葉に、貴史の身体が強張った。

「せ…んぱい…どうして…」
「ん…悪いけど、主将になったときに顧問から聞いた。 気をつけてやってくれって…」

 それを聞くと、貴史は諦めたように息をつき、小さく頭を下げた。

「すみません…。ご心配おかけして。…夏合宿で…退部させていただきます…」
「え…。やめる…?」

 涼太は目を見開いて、貴史の両肩を掴んだ。

「秋園…そんなに、悪いのか?」

 微かにその両手が震えていることに、貴史は気づかなかった。
 貴史も震えていたから。

「これ以上は…無理だと言われました。ここまで出来ただけでもいい方だって…」
「秋園…」

 呟くようにかけられた声に、貴史は一生懸命笑顔を作った。

「これ以上無茶するのなら、学校もやめて、家へ帰らなくてはいけなくなるって言われて…。そんなこと…絶対…」

 作った笑顔から、涙が溢れた。

 そんなこと絶対にイヤだ。
 学校までやめてしまったら、涼太に会えなくなってしまう。

 言えない言葉は、笑顔に隠した…つもりだったのに、視界がぼやけて涼太の顔が見えなくなる。

「貴史…」

 声が聞こえたのと同時に、身体全体が熱くなった。

「やめるな…。学校も、バスケ部も…」

 告げられる涼太の言葉に驚いて、顔をあげようとして初めて貴史は気がついた。

 抱きしめられている自分に。
 そして、初めて『貴史』と呼ばれたことに。

「あ…」
「選手がダメでも、マネージャーがある。やめないで、ずっといてくれ…」 

 涼太もまた、続く言葉を飲み込んだ。

 静まりかえった音楽室に、二人の鼓動だけがリズムを刻んでいた…。

 去年の夏の放課後…。 





 フッと首の辺りが解放された感じがした。
 貴史はゆっくりと目を開ける。

「大丈夫か」
「…あ、はい」
「気分悪くないか?」
「…別に…。はい、大丈夫…です」
 
 ここは、保健室。
 でも、今は…いつ?

 貴史の記憶は、一瞬一年前の春を彷徨った。

「よかった…。なかなか目を覚まさないから…」

 あの時と同じ、目の前にはユニフォーム姿のままの涼太。
 しかし、ユニフォームの色が…違う。

「あの…」
「去年の春と同じだな」

(そうだ…また、ボールに頭をヒットされて…)

 漸く「今」に戻ってきた貴史は、浮かんだ疑問を素直に言葉に出した。

「どうして…先輩が?」

 隣のコートにいたはずだ。

「さて? なんでだろうな?」

 茶化すように笑うと、涼太は、もうちょっと寝てろ、と言って毛布をかけ直した。  

 その時、貴史の頬を微かに掠めた涼太の指先。
 その感触に、去年の夏の記憶が蘇った。

「先輩…」
「ん? 何だ?」
「また、ピアノ聞かせて下さい…」

 普段の貴史だったら絶対に言えないようなこと。

「そうだな…。たった一人の誰かさんの為に、リサイタルするか」

 これも、普段の涼太なら絶対に言わないこと。 

「やっぱり、ピアニストにはならないんですか…?」

 ぼんやりとした瞳で、貴史が呟いた。

「……ああ…」

 涼太の答えは、貴史の耳に届いたのだろうか?







 部活が終わった、薄暗いバスケットコート。
 何度かボールをついて、ゴールを狙う。

 バスケがしたくて聖陵に入ったのは事実だ。
 決してピアニストになりたくなかったわけではない。

 けれど、もう涼太には目標があった。

(なぁ、貴史…。俺、医者になりたいんだ…)

 去年の夏、飲み込んだ言葉を呟いてみる。


『やめないで、ずっといてくれ…』


「俺の傍に…」 


END

「11000」GET:萌様からリクエストいただきました。


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