私立聖陵学院・剣道部!
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Before茶道部 その1 |
『綾徳院桐哉』 その名を見つけたとき、剣道部のエース、加賀谷賢(かがや・まさる)の身体には、今までなかったほどの震えが走った。 それはもちろん、どんな大きな大会の決勝戦を前にしても経験しえなかったほどの…。 高等部の2年に進学した今年、剣道部へのスポーツ推薦者もいないし知り合いもいないから、加賀谷にとって新1年生の席次なんてものはまったく興味の範囲外だった。 けれど、ほんの数時間前の入学式で総代挨拶をした、とてつもない美少年が満点だったという噂を聞いて、ついクラスメイトと一緒に通りかかった掲示板前に立ち止まったのだ。 なるほど。500点満点。こんなやつもいるんだ。 去年の総代は確か496点だったと思う。 そう思うと、2番に泣いた浅井祐介の498点ってのもスゴイ。 確か去年の自分は485点で4番だった。 今や万年1番の悟を、わずか2点とは言え、一度でも抜けたのはラッキーだったけど。 1番と2番の名前と点数だけを見て、その場を立ち去ろうとした加賀谷がふと視線を滑らせた先に、それはあった。 入試の成績は6番。点数は484点。去年ならベスト5入りの点数だ。 そして、その点数の下に書かれていたのは、やたらと画数の多い、読みにくい、偉そうな名前。 『綾徳院桐哉』 こんなに珍しくてしかも仰々しい名前の同姓同名なんているはずがない。しかも同い年に。 まさかあいつがここへ来るなんて…。もう一度会えるなんて…。けれど、あいつはもう、竹刀を握ってはいない。 それでも、加賀谷はこの偶然に感謝した。 ずっと心の隅に置いたまま、わだかまっていたこの気持ち。 気になって気になって、夢に見たことも何度あったろうか。 威圧感もへったくれもない、ただの可愛い男の子が、次々と強豪を破って勝ち進んでいくその様子を。 一度でいいから闘ってみたかった。 優劣を決めたいわけではない。ただ、純粋に、あの瞳と向き合ってみたかった。 どんなときも、柔らかさを失わないあの瞳が、面を通したとき、どんな色を放つのか。 けれどあいつはもう、竹刀を握ることはない。 試合中、禁止されているはずの『突き』をくらい、とっさに喉元を庇った右手の、運悪く小手から僅かに外れた場所に相手の竹刀の先端が食い込み、陥没するように砕けてしまったのだという。 そして、桐哉自身の折れた骨が神経にダメージを与えてしまったのだと、剣道関係者に聞いたのは、随分と後のことだった。 ジッと見つめてしまう掲示板。 『綾徳院桐哉』 あいつが通っていた中学は都内だがここからは遠い。聖陵で許されている通学範囲内でないことは確かだ。 ということは、寮生。何号室だろう。 会いたい。会って話がしてみたい。 けれど、あいつは自分の事を覚えて…いや、知っていただろうか? もしかしたら、もう、思い出したくもない事かもしれない。あの頃のことなんて。 誰よりも強かったあいつが、自身の過失でもなんでもなく、ある日突然もぎ取られてしまった未来…。 あのまま強くなっていけば、インハイを制することも夢ではなかったろう。自分の最大のライバルになっていたはずだ。 なのに…。 「…おいっ、加賀谷っ」 いきなり耳元で呼ばれて、加賀谷はビクッと肩を揺らせた。 「う、わっ、坂枝っ。…びっくりするじゃないかっ」 いつの間にか加賀谷の横に立っていたのは同級生の坂枝俊次(さかえだ・としつぐ)だ。 「なーに言ってんだか。剣士たるもの、いついかなる状況でも隙を見せる事なかれ…だろうが」 「冗談じゃないぞ。何で校内の掲示板前でまで気を張ってなきゃいけないんだよ」 「おーおー、我が聖陵学院が誇る剣道部のエースの言葉とは思えないね」 胴着を着ていないときには、どちらかというと文系の面もちを見せる加賀谷に対して、坂枝はそのかなりしっかりした体躯のおかげで運動部に思われがちだ。 しかし坂枝は知る人ぞ知る中等部からの『文化部会の重鎮』なのだ。 『あの』桐生悟も中等部生徒会時代には何かというと頼りにしていたと言うのだから、かなりのものだ。 だが本人はそんなことはまったく知らぬかの風情で飄々としているのだが。 「で、剣士のお前が背後に立つ俺の気配にも気がつかないほど何を見ていたわけだ?」 肩越しに覗き込めばなんのことはない、新一年生の入試順位だ。 「なんだ、お前こんなのに興味あるのか? あ、それとも誰か知り合いでも入ってきたのか?」 ――知り合い…。 知り合いだったらどんなによかっただろう。 声を掛け合える仲だったら今すぐにでも…。 ――今すぐにでも? 今すぐにでも、何だというのか。 加賀谷は無意識に浮かんだ言葉の意味を――自分の頭の中の事だというのに――図りかねて酷く戸惑った。 「おい、加賀谷ってば」 「…え、あ、なんだ?」 「なんだ…ってなあ~」 呆れ声の坂枝に、一瞬ばつの悪そうな顔を見せたようだったが、加賀谷はふいに真顔になった。 「な、坂枝」 「おう」 「これ、見て見ろよ」 加賀谷が指さした先には随分とご大層な名前があった。 「へ~、こりゃまた随分と難しい名前だな。なんて読むんだろ」 と、言われても、『りょうとくいんとうや』と読むんだよ…とは言えない。何で知ってるんだと突っ込まれたら面倒なことになる。 「さ、さあな。なんて読むのかは知らないけれど、こんな名前なんだからきっと由緒正しき家柄のおぼっちゃまに違いないと思うんだが」 まるで竹刀を握っているときのような真剣な顔つきで、『由緒正しき』だとか『おぼっちゃま』だとか、今時あまり使わないような単語を並べる加賀谷に、坂枝は怪訝な顔を見せる。 「…そりゃまあ、そうかもしれない…ってことはあるかもしれないけどな」 と、回りくどい言い方で、一応肯定はしてみる。 何と言ってもここは聖陵学院。代議士の子供だとか孫だとか家元の直系だとかなんだとか…なんてのが多数在籍しているような学校なのだ。だから、『由緒正しきおぼっちゃま』なんてのがいたとしても珍しくも何ともない…のだが。 だが、坂枝のそんな不審げな目つきもものともせず――いや、坂枝の様子など加賀谷は見ていないようで――さらに意味不明の言葉を放り投げてきた。 「由緒正しきおぼっちゃまはきっと茶道を嗜んでいるに違いない」 「はい~?」 なんだその三段跳びの真ん中をすっ飛ばしたようなめちゃくちゃな論理は…と、言ってはみたものの、やはり加賀谷はそんな坂枝をナチュラルに無視した後、『勧誘決定だな』と言いきった。 「ってさ、お前、こんなところでそんなにキッパリはっきり物言っていいわけ? 掛け持ちの件はトップシークレットだろうが」 加賀谷は聖陵学院にスポーツ推薦で入った。入試の点数はもらえないが、その代わり学費・寮費が半分になるというありがたい制度だ。 だが、推薦で入った場合には部活動の掛け持ちは認められない。一筋…でないといけないのだ。 そんな加賀谷が実は剣道部と茶道部を掛け持ちしていると言うことは、本人と坂枝とそして――これが一番肝心なのだが――顧問である院長しか知らない。 逆を言えば、院長が直々に『内緒だよ』と言ってくれたからこそ成り立っているのだが。 「…別にいいだろ。言いふらしてるわけじゃないし、俺とお前が普段からつるんでるのはみんな知ってることだし、お前が…」 「はいはい、わかったわかった。で、勧誘ってマジで言ってるわけ?」 「当たり前だ。わざわざ冗談でそんなこと言うわけないだろ」 「…ふうん。で、そのココロは?」 「ココロ?」 なんだよそれ…と真顔で問われ、坂枝は『剣の道に邁進し茶の湯を嗜んでいる割には君は和の心に疎いねえ』と、わざとらしく『隣のご隠居さん』の風情で、はあ…とため息をついた。 「そう。小難しい名前の由緒正しきおぼっちゃまへの勧誘と掛けて何ととく?…ってやつさ」 「あのな、別に謎掛けやってんじゃないって、俺はただ、弱小茶道部の行く末を案じてだな…」 「はいはい。『剣道部が大所帯だから、茶道部では気心の知れた坂枝と二人きりってのが楽でいい』…なんて言ってたの、誰だっけ?」 「そ、それは……」 剣道部の後輩の面倒をみるのは嫌いじゃない。 手助けした後輩たちが精進の結果、成長していく姿を見るのは嬉しいものだ。けれど、自分だって素に戻ってリラックスできる場所が欲しいのだ…と坂枝に語ったのは紛れもなく加賀谷自身だ。 「…ま、いいさ。確かに俺も、可愛い後輩…なんてものが欲しいと思わないでもないからな」 答えに窮した加賀谷の心情を知ってか知らずか、坂枝はあっさり切り替えたように見せると、加賀谷の肩をポンッと一つ、叩いた。 「じゃあ、行動開始と行きますか」 「行動開始って?」 「おいおい、勧誘決定って言ったのお前だろうが」 「そ、そうか。じゃあ声かけるのか」 「ちょっと待った。その前にリサーチってのがセオリーでしょうが。だいたい声を掛けようにも俺たちは彼の名前をどう読めばいいのかすら知らないんだぞ?」 なるほどその通りだ。加賀谷だって、桐哉のことは、名前と出身中学、過去の輝かしい実績と、そして竹刀を握れなくなった経緯…という、あくまでも剣道関係で得た情報しか知らないのだ。 ただ、坂枝にしてみれば『それだけ知ってりゃ十分だろうが』…ってことになりそうだが。 「まずは、あのご大層な名前をどう読むのか…だな。ちょっと行ってくる」 「どこへ?」 「教務課。名前の読み方くらい教えてくれるだろ。あと、クラスを確認したら2、3日は様子見だな。いきなり切り込んで警戒されても困るしな」 具体案がすらすらと出てくる坂枝に、加賀谷は心底感心したように、うんうんと頷いていたのだが、ふと思いついた顔をして、手をパンッと打った。 「そうだっ、部屋番号もついでに確かめといてくれ」 「…ってさ、寮生確定なわけ?」 9割が寮生とはいえ、そうでない生徒も1割はいるのだ。 見知らぬ一年生が果たして寮生なのかわかったものではない…と、坂枝は言いたかったのだが。 「そ、そんなの寮生に決まってるって。どのみちほとんど寮生じゃないか」 パッと見は平静だが、どうみても面の皮一枚下は動揺しまくりに見える。 ――ぶっ飛んでるな。 こんな加賀谷は見たことがない。 内心で、『ふうん』と呟いて、坂枝はわざとらしく『そうだな、加賀谷の言うとおりだ。部屋番号も調べておこう!』と、高らかに宣言して『じゃあな』と、後ろ手をひらひらと振って掲示板前を後にした。 ![]() 「りょうとくいん、とうや…か。ほんとにご大層な名前だと思ったら、その通りの家柄だったってわけか…」 坂枝に名前の読み方を教えてくれたのは、教務課の職員ではなく、院長だった。 偶然本館で出会ったので、これも何かの巡り合わせとばかり、『勧誘したい一年生がいるので名前を教えて欲しい』と、単刀直入に頼んだのだ。 院長は、入学式の前日には新入生の名前と家庭調査票の中身を全て把握している…と、教えてくれたのは、昨年度担任だった数学教師の松山翼だ。 もちろんそれは高校1年の『正真正銘』の新入りだけでなく、中学1年225名も全てだというのだからたいしたものだ。 そして、院長はもちろん、正当な理由のある坂枝の申し出には誠意を持って答えてくれて、『綾徳院くんはいいね。彼は茶道部に向いてそうだ』…と、太鼓判を押してくれたのだ。 だが、一つ念を押された。 もし桐哉が入部を承諾したら、すぐに報告するように…と。 『必ず、最初の部活動の前に報告に来なさい。いいね』 院長は茶道部の顧問でもあるのだから、報告は当然の事として、必ず最初の部活の前に…と念を押されて『はて?』と不審に思ったのだが、ともかく本人へのコンタクトが最優先――それがないと何一つ始まらない――だと切り替えて、本館を後にした。 桐哉の家系については、ひょんな事から実家経由で詳細を知った。 坂枝の実家は創業200年という老舗の茶問屋なのだが、たまたま実家に『抹茶送って』と電話を入れたときに桐哉の話になり、珍しい名前に興味を持った父親が、これまたたまたま懇意にしている京都の茶問屋にその話をして、『ああ、綾徳院さんはお公家さんの家系ですよ』と、教えられたというわけだ。 祖父の代で分家したのだそうだが、直系が先代で絶えたので、現在残っている血筋は桐哉の家庭だけ…と言うことまでわかった。 加賀谷が言うとおり、本当に由緒正しきおぼっちゃまだったわけだが、そうなるとまた他の心配も湧いてくる。 ――気位の高いボンボンだったら面倒だよなあ。 ま、それならそれで、軽く断ってもらえば済むことだ…と、坂枝は昼休みに鼻歌混じりで桐哉がいるはずの1-Eの教室へと向かったのだった。 |
2へ続く |
次回の剣道部は…? |
「で、どうかな、桐哉。茶道部に興味ない? 他の部活に決めちゃったわけじゃないんだろう?」 何気なく肩を抱いて、親しげに語りかけると、 桐哉は『でも…』と、小首を傾げた。 |