私立聖陵学院・剣道部!





 座っていただけなのに、体には心地よい疲労が広がっている。


「桐哉、疲れただろう?」

 加賀谷が気遣わしげに尋ねてくる。

 2人はそのまま、裏山の小道を辿り、茶室へと上がってきた。
 鍵は坂枝が管理しているので部活のない日に中へ入ることはできないが、茶室の裏手には大きな樫の木があって、その根元に『待合い』代わりの小さな縁台が置いてある。

 まだまだ残暑の厳しい9月の夕涼みには格好の場所だ。
 きっちり死角だし、そもそも茶道部員以外はここまで上がってこないし。


「ごめんな、本当に…」

 小振りな体を抱きしめて謝罪の言葉を口にする加賀谷を、桐哉は首を傾げて見上げてくる。

「どうして? どうして先輩が謝るんですか?」

 ボケッとしていて見つかってしまったのは自分のミスなのだ。

 そのあと、ちゃっちゃと逃げ切れなかったのも自分が鈍くさいからであって、どれ一つ取っても加賀谷の非ではない。

 そう言うと、加賀谷はゆるゆると首を振った。

「そうじゃなくて…辛かっただろう?」

 膝の上で握られた手が忘れられない。
 もどかしげにぴくりと動く、細い右手…。

「そんなこと、ないですよ?」 

 ニコッと笑う桐哉の表情には、だがほんの僅か、翳りが落ちている。

 その事に心を暗くした加賀谷だが、桐哉は少し想像と違うことを言った。

「辛くはなかったです。本当に。ただ…」

「…ただ?」

「…ちょっと、寂しいかなあ…って」

 あの凛とした空気の中に、再び身を置いてみたい。加賀谷と一緒にそれができたなら、どんなに幸せだろうか。

 けれど、竹刀を握れない自分に、その機会は訪れないのだ。
 永遠に、蚊帳の外のまま。

 そう思うと、ちょっとだけ目が潤んだ。

 もちろん、そんなあれこれを、言葉にして加賀谷に伝えることはないけれど。


「…桐哉…っ」

 言葉にして伝えなかったことで、正確に加賀谷に桐哉の気持ちが伝わったかどうかは微妙だが、少なくとも『寂しい』という言葉の本質は正確に捉えられたようで、加賀谷は桐哉の体を暖かく抱きしめてくれた。

 寂しがらなくていい、自分はここに、ちゃんとここにいるから…と、加賀谷が言ってくれているようで、桐哉は嬉しくなって、その胸にそっと顔を埋めた。



                     



「で、桐哉は何をそんなに悩んでいるわけだ?」

 突然言われて桐哉は、ここのところしばらく落とさずに済んでいた袱紗を危うく取り落としそうになった。

 茶道部の部活は週2回。
 剣道部の練習が終わり次第、加賀谷が駆けつけてくるが、それまでの時間は坂枝曰く、『2人の愛の巣』状態だ。


「な、何をって…。やだなあ部長。僕、悩みなんてありませんってば」

 けらけらっと笑ってみせる桐哉だが、お点前中にも関わらず、あれやこれやと考えていたのは事実だから、否定する言葉にも説得力が乏しい。


「うーん、加賀谷が浮気したとか、そう言う類じゃなさそうだしなあ」

 だが坂枝は桐哉の否定などこれっぽっちも聞いていないようだ。
 俺の前では『桐哉・命』状態垂れ流しだしなあ…なんて、ブツブツいいながら、二つ目の茶菓子をつついている。

「だから、部長ってば!」

「桐哉に他に好きな人ができた…って訳でもなさそうだし」

 ま、加賀谷の方が愛想尽かされる…ってのはない話でもないけどなあ…なんて、これまた勝手な憶測を披露してくれて、ご丁寧に腕まで組んで唸ってくれる。

「ぶ〜ちょ〜」

「束縛されすぎで怖い…とか」

 にやりと笑った坂枝に、桐哉はがっくりと脱力した。

 束縛なんてされてない。
 束縛どころか、キスだって、最初のあれがちょっと濃厚だっただけで、あとは可愛い可愛い――鳥が嘴でつつくような――キスしかしてないのだ。

 そんなので、先輩は満足してくれているのだろうか。

 かといって、じゃあ『この先までどうぞ』と言ってしまうにはちょっと…いや、かなり勇気がいるし、そもそも自分をそこまでの対象にしていないのかも知れないと言う気もする。

 せめて、葵のような可愛い色気の『万分の一』でもあれば、先輩もその気になってくれるのかもしれないが、どこをどう贔屓目に見積もっても、自分にそんな魅力は皆無だ。

 …なんて、どうでもいいことに思いが転がり始めて、桐哉は慌てて姿勢を正した。

 そこへ。

「で、桐哉は何を悩んでるって?」

 さっきまでの人の悪いニヤニヤ笑いを引っ込めて、坂枝は『らしい』暖かな笑みを浮かべて桐哉に再度尋ねてきた。

 そうだ、お点前中にも関わらず、あれこれ思いめぐらせていたのは、剣道部のことだ。

 体育館に入ってしまったあの日から、桐哉は度々夢を見るようになった。

 何不自由なく竹刀を握っている頃の自分。多分中学生の頃だと思うのに、何故か傍らには加賀谷の姿がある。

 あり得ない…。

 目が覚めた時、自分自身にそう言い聞かせて無理矢理決着を図る。


「この前、剣道部の連中に引きずり込まれたんだって?」

 桐哉の逡巡を目にして、坂枝が話を振ってくれた。

「部長…知ってたんですか…」

 もしかして、加賀谷が何か言ったのだろうかと思ったのだが、違ったようだ。

「ああ、顧問の『クマ岡』がさ、担任なんだよ。で、綾徳院は茶道部にいるんだって?…なんて聞いてきたから、何でだろうと思ったら、そんな話だった」

 ちなみに『クマ岡』ではなく『政岡』が顧問にして担任の名なのだが、桐哉には受けたようで、表情を一気に緩めて笑った様子に坂枝もまた安堵する。


「クマさんさあ、もちろん掛け持ちでいいから剣道部にも入って欲しい…って言ってたぞ」

 今度はまるで、ドラマにでてくる『刑事の愛称』のような呼び方になったのだが――実際生徒たちには『クマさん』と呼ばれている――桐哉に今度は笑う余裕はなかった。

「誰が、ですか?」

「桐哉に決まってるだろう。この話の流れだと」

「僕が、どこにですか?」

「だから、剣道部」

「何でですか?」


 間髪入れず問い返してくる桐哉には、本当に『どうして』なのか、理解できないようだ。

 竹刀も握れない人間が、どうして剣道部にいられるというのか。


「んー? 桐哉がいてくれるだけで空気が引き締まるんだと。あと、桐哉が試合を見つめている目と態度を見て、お前なら確実なアドバイスを出すだろうっていう確信もあるってさ。コーチの待遇でもいいから来て欲しいって、クマさん熱弁ふるってたぞ」

 確かに、あの場でもしアドバイスを求められていたら、いくつかの助言はできたかもしれない。けれど、自分は指導した経験もないし、そんな立場でもない。

 それに第一…。


「でも、見てるだけ、なんて」

 本音が転がり落ちた。

 離れていたから辛いと思ったことはないが、やはり竹刀を握れない状態のまま、その中に身を置くのはきっと辛いのではないだろうか。

 だから、離れて平和に生きていたのに。


「じゃあ、桐哉も竹刀持てばいいじゃん」

 だが、あっさりと言い放ってくれる坂枝に、桐哉は目を瞠った。

 今まで誰もそんなことは言わなかった。

 みんな、『可哀相に』とか『気の毒に』とかいうばかりで、『また竹刀を持てばいいじゃないか』なんて、誰一人として口にしなかった。まるで、『竹刀』という言葉そのものが悪であるかのように、きっちりと蓋をして。


「そ、そんな…。僕の手で、竹刀を持つ、なん…て」

 軽いショック状態で、上手く言葉が綴れない。

 だが坂枝は、そんな桐哉の状態に気が付きつつも、何気ない素振りで続けた。


「けどさ、お前、最近茶碗も袱紗も落とさないようになったじゃん」

「…でもっ」

「竹刀は重さが違う…とか言うんだろ? 力もいるし…とか」


 その通りだ。茶碗も袱紗も静かに捌くものだが、竹刀は違う。素早い動作と力強い動きで制御しなくてはいけない『武器』なのだから。

 明るさのかけらもない表情で頷く桐哉に、坂枝はニコッと笑って見せた。


「でもさ、茶碗も袱紗も竹刀も、腕力で持つもんじゃないんじゃないかな。ま、我ながらちょっと気障で恥ずかしいけどさ、『自分の気持ちで持つ』もんじゃないかと俺は思うわけだ」


 ――自分の気持ち…?


 その言葉は、決してストンと体の中に落ちてきたわけではなかった。

 自分の気持ちで持つ。

 そんな抽象的な表現を、瞬間どう捉えていいのかわからなかった。

 けれど、坂枝が続けた言葉で、桐哉は目を見開いた。


「確かに試合で勝とうとか、そういうのが目標なら難しいだろうけど、桐哉はもうそう言うことには執着なさそうに見えるけど? 俺には、純粋に『竹刀を振ってみたい』って思ってるように見えるけど、違うかな」

 問われて思わず頷いた。

 試合にでたいとか、そんなことはこれっぽっちも思わない。
 坂枝の言うとおり、竹刀を持ちたい。それだけなのだ。


「すでに傷そのものは完治しているから、行動その他には一切制限ないって院長先生からも聞いてるしさ、剣道部に入るかどうかは別にして、とりあえず触ってみれば? 竹刀にさ」


 ――とりあえず…。


「…いい、のかな、触っても…」

 曖昧に呟いた桐哉に、坂枝は明るい声で続ける。

「加賀谷に相談してみたら? あいつ、お前がやりたいって言うことなら、絶対力になってくれると思うけど。…な、加賀谷!」


 ――…えっ?


 坂枝の言葉に慌てて顔を上げてみれば、水屋からの給仕口に加賀谷の姿があった。

「坂枝、お前…っ」

 怒りで言葉が続かない。
 もう二度と、桐哉に辛い思いをさせたくないと、そればかりを願っていたのに、よりによって『竹刀を持ってみろ』と唆すとは何事か。


「桐哉がどんな思いで…っ」

 思わず詰め寄って、坂枝の胸ぐらを掴んだ加賀谷に、桐哉が慌てて止めに入る。

「先輩っ」

 だが止められてもなお、その胸ぐらを離さないままの加賀谷に、坂枝は表情一つ変えることなく言い放った。

「桐哉を真綿にくるんで楽しいか?」

「…な…っ」

「大事大事で何もさせない気か、桐哉に」

「お前に何がわかる…っ」

「ああ、お前の気持ちなんてこれっぽっちもわからないさ。でもな、桐哉の気持ちはわかる。素直な目で、竹刀を握ってみたいって語ってる気持ちはなっ」

「坂枝っ」

 加賀谷が掴んだシャツの胸元を更にきつく握った。

「先輩っ、やめて!」

 このままでは部長が殴られる!
 そう思った桐哉は咄嗟に2人の間に割り込んだ。

「桐哉っ、いいからどけっ」

「ダメだってば! 僕の話も聞いてっ」

 その一言で、加賀谷の動きが止まった。

 かち合う視線の中で、桐哉が訴えてくる。


「先輩…僕、竹刀を握ってみたい…」

「桐哉…。…でも…」

「ちゃんと試合ができるような状態でないと、ダメですか? ただ、好きで素振りをしてみたいっていうのじゃ、ダメですか?」

 問うてくる目が哀しそうな色をしていることに、加賀谷は胸を掴まれた。

「そうじゃない、そうじゃないんだ、桐哉…。俺は…ただ……」

 そこから先は言葉が見つからなかった。

 桐哉の真っ直ぐな視線を受けて、坂枝の言うことが正しいのだと気付いてしまったからだ。

 桐哉が傷つかないように、何にも触れさせず、何も見せず、この腕の中にただ保護していればいいと思っていた。

 桐哉が本当は何を望んでいるのか、きちんと見ようともせず。

 だが桐哉は自分の言葉で語ったのだ。自分が何を望んでいるのかを、はっきりと。


「桐哉…」

 ギュッと抱きしめると、桐哉が少し、緊張を解いたのが知れた。

「…悪かった」

 桐哉を腕にしたまま、加賀谷が膝をついて坂枝に頭を下げた。

「お前の…言うとおりだ」

「だろ? オレさまはいつも正しい」

 にやりと茶化したように笑い、坂枝は加賀谷の背をバンッと一つ、派手に叩いた。

「よかったな、桐哉。加賀谷はお前の言うことなら何でも聞いてくれるってさ」

「部長〜、またそんな無茶苦茶を〜」

「何が無茶なものか、な、加賀谷」

 話を振られて加賀谷が視線を彷徨わせる。確かにそうだから…だ。

「…あ〜、うん、まあな」

「ほらみろ。恋するオトコはとことんバカだからな〜」

 ざまあみろ…と、とことん嬉しげに胸を張った坂枝に、これまたとことん恨めしげに『さ〜か〜え〜だ〜』…と、唸ってみたものの、桐哉にニコニコと微笑まれてしまっては、もう後の続かない加賀谷であった。


8へ続く

↓おまけつき!


次回の剣道部は…?
「とうや……」

 呟くように呼んだ口が、背後から肩越しに、桐哉の顎を軽く噛んだ。
 そしてそのまま、桐哉を少し仰向かせると唇を合わせてきた。

 普段とは違う、長くて、そして深いキス。

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おまけ小咄〜加賀谷賢の過去


坂枝:一度聞いてみたかったんだけどさ。

加賀谷:なんだ?

さ:お前、中学の頃ってもてただろ? 彼女とかいたわけ?

か:別に特にもてたとは思ってないけど、待ち伏せとかはよくされたな。

さ:で、つきあったりした?

か:一応な。

さ:その彼女、どうしたんだよ。聖陵へ入るときに精算…ってか?

か:いや、精算しなきゃいけないほどつき合った子はいないから。

さ:あれま、なんでだ?

か:いやー、なんか面倒で。

さ:面倒ねえ。

か:まだ、『デートに連れてってくれない』とか『電話掛けてくれない』とか文句言われてるうちはよかったんだけど、そのうち向こうからの電話攻勢が始まるんだよな。

さ:電話くらいしてやりゃいいじゃん。

か:だって、俺は推薦で聖陵にはいることを目指してたから、部活も受験勉強も両立しなきゃいけなかったろ? 実際女の子にかまってるヒマなんてなかったんだ。 で、くたくたになってるところへ連日連夜お構いなしに電話掛けられたらさすがにウザくてさ。

さ:ウザイねえ…。そう言えば加賀谷。

か:何だ?

さ:お前、この夏休み、連日連夜、桐哉の携帯にラブコールしてたんだって?

か:…何で知ってるんだよ。

さ:いやだ〜連日連夜だって。ウザイわね〜。

か:さ〜か〜え〜だ〜。

おそまつ!