私立聖陵学院・剣道部!
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9月も終わろうかというのに、まだまだ暑いある日。 剣道部員はその日の朝から『そわそわ』『わくわく』と落ち着きがなかった。 今日からあの綾徳院桐哉が剣道部に来るからだ。 いきなり竹刀を握るよりは、まず雰囲気に馴染むところから始めたい…と、桐哉が希望したのは『マネージャー』という役目だった。 本音を言えば、『竹刀を握ってみたい』…と、加賀谷に宣言してみたものの、やはりどうにも自信はなくて、とりあえず加賀谷の側で『あの空気』の中に身を置ければ…と思い、望んだことなのだが。 そして、全部員が待ちに待った放課後がやってきて、顧問に伴われた桐哉が第2体育館に姿を現した。 顧問が誇らしげに桐哉を紹介したあと、挨拶を…と言われ、桐哉は『こう言うの苦手なんだけどなあ』と思いつつ、深呼吸をしてから声を発した。 「あの、先日はお邪魔しました。 みなさんの剣道に対する情熱が素晴らしくて、僕も仲間に入れていただきたいと思って、マネージャーにしていただきました。 えっと、ご存じの通り、僕は竹刀を握ることはできませんが、少しでもみなさんのお役に立てればと思っています。よろしくお願いします」 そう言ってぺこりと頭を下げると、全員から大きな拍手と『待ってました!』だとか『よろしく〜』だとかの声が掛かったのだが、その中に『可愛い〜』なんてのが混じっていて、加賀谷がジロリと剣呑な視線を投げた。 桐哉がやりたい…という限りはもちろん最大限の協力をしていくつもりだが、先日の一件以来、剣道部員にとっての桐哉は『遠くから見ているだけの伝説』ではなくて、『優しくて親しみやすい可愛い人』という、加賀谷にとってはより厄介な印象に変わってしまった。 現に加賀谷の元には、唯一の上級生である3年生や同級生を中心に『桐哉と個人的にお近づきになりたい』というとんでもない声が漏れ聞こえてきているのだ。 そう言う意味では、まさに『余計な心配』をしなくてはいけないわけだ。 ――ったく、面倒な…。 いや、面倒…というよりは、不安と言った方が正確だろう。 桐哉を守るのは自分の責任で、面倒でも何でもない。だが、やっと両思いになれたのに、いらぬ波風を立てて欲しくない。 だいたい、両思いになったとは言ってもまだキスしかしてないのだ。 『抱きしめる』以上の体の接触なんてさっぱり皆無で、本音を言わせてもらえるのなら、早くこの先へ進みたい――坂枝に知れたら『いやっ、加賀谷クンってばケダモノっ』とか言われるだろうけど――のだが、その点について桐哉がどう思っているのかさっぱり見えてこなくて、次の一歩が踏み出せないのだ。 要は、誘って拒まれたら立ち直れない…と言ったところなのだが。 「じゃあ、俺が桐哉にマネージャーの色々を手取り足取り教えてやるからな〜」 一人悶々としていた加賀谷の耳に、脳天気な――いや、下心ありありな――声が飛び込んできた。 見れば部長が桐哉の肩を馴れ馴れしくも抱いているではないか。 「あ、はい。ありがとうございます」 ――こらっ、桐哉っ、にこにこ笑ってるんじゃない! その下心に気付けっ! もちろんそんな加賀谷の内なる声は届くはずもなく、さりとて上級生の胸ぐらを掴んで『何しやがるんだ』と凄むわけにもいかず、加賀谷は陰鬱なため息を一つ落とすと、低い声で部長に言った。 「部長。今日は中学生の基本打ちを見て下さる予定ですが」 「え?」 「え、じゃありません。中学生たち待っていますから」 「加賀谷、お前代わりに行ってこい」 「何言ってるんですか、これは部長のお役目でしょう? 桐哉の事は俺が代わりますから」 「ええ〜っ、こんな美味しい役目、代わってやるわけにはいかないぞ」 「何が美味しいんですかっ」 もう我慢できないっ…とばかりに加賀谷が詰め寄ろうとした瞬間、頭一つ低いところから、異論を唱える声がかかった。 「そうですよ。僕に仕事教えるなんて面倒なだけで美味しくも何ともないですよ。部長には部長にしかできないお役目があるんですから、どうぞそちらに専念して下さい」 桐哉に真顔でそう言われ、部長が言葉に詰まる。 してやったり…は、もちろん加賀谷だ。 「そういうことです、部長。桐哉もこう言ってることですから、どうぞこちらのことは心配なさらずに。桐哉の面倒は俺が見ますから」 「う〜」 恨めしそうに部長が唸ると、またしても桐哉が見上げてキッパリと告げた。 「あ、でも加賀谷先輩も秋季大会を目前にして、僕なんかにかまってる場合じゃないですよ? 少しでもたくさん練習していただかないと」 さらに真面目な顔でそう言われ、加賀谷もまた言葉をなくす。 むかつくことに、隣では部長が肩を震わせて笑いを堪えているではないか。 「とにかく、僕の仕事は同級生たちに教えてもらいながら自分でも探していきますから、先輩たちは気になさらないで下さいね。さ、練習練習」 ――桐哉〜…。 まったく、ここが衆人環視の部活の場でなかったら、お仕置きしてやりたい気分だ。 ――人の気も知らないで…。 だが、この場合一番正しいのは桐哉で、加賀谷の文句はほとんど言いがかりだが、それでも桐哉は誰にもわからないように、加賀谷にだけニコッと笑ってくれた。 それだけで今日の練習に更に気合いがはいるであろう自分が単純すぎてちょっと可笑しい。 とにかく、桐哉は一生懸命なのだ。 だから、気になる色々はあるけれど、それは一旦横に置いておいて、全力で応援してやろう…と、加賀谷もまた桐哉にしかわからないように微笑んで、練習の輪へ戻っていった。 ![]() マネージャーの仕事…といっても、さほど専任性の高いものはなかった。 防具の管理はそれぞれの責任だし、胴着や手ぬぐいの洗濯だって、皆寮へ持ち帰ってきちんと自分でこなしている。 とりあえず、2学期になってやっと胴着と袴の着用を許された中学一年生たちに袴のたたみ方や着つけ方を教えたりしていたのだが、そんな桐哉にあちらこちらから掛かる声は多く、そのほとんどが、打ち方や構えについてのアドバイスを乞うものばかりだ。 桐哉はマネージャーのつもりでいても、どうやら周囲はコーチを迎えたつもりでいるらしく、どうにも申し訳ない気がしたのだが、でも竹刀の音がする環境に身を置くことはやっぱり思っていた以上に楽しいことで、竹刀を持てない寂しさは、今のところは気にしていたほどには感じずに済んでいる。 それに、何と言っても加賀谷の側に堂々といられるのが嬉しい。 こっそりと覗き見ていなくてもいいのだ。声も掛けられるし、掛けてももらえる。 マネージャーになってよかったな…と桐哉は心底思って、毎日を忙しく過ごしていった。 そして、聖陵祭が無事終わり、ホッとしたのも束の間、大切な葵が倒れて入院するというとんでもない事が起こったが、加賀谷・坂枝と一緒に見舞いに行った頃にはすっかり元気になっていて、中間テストの直前には退院することが出来て、桐哉もまた安心して日々の学校生活を送っていた。 そして、10月も終わろうかというある日のこと。 「がんばる桐哉にプレゼントだ」 顧問のクマ岡が一抱えの紙包みを持ってきた。 「え? プレゼント、ですか? 僕に?」 近くにいた部員たちも、何だろうと覗き込んでくる。 もちろんその中に加賀谷もいるのだが、いつのまにかちゃっかりと『桐哉』なんて親しげに呼んでいる顧問にちょっとむかついていたりもして、オコサマもいいところだ。 「ほら、いいから開けて見ろ」 言われて桐哉は、『えっと、ありがとうございます』と、重みのあるそれをとにかくも受け取った。 紙包みを床に置いて、丁寧に開けると、そこには新品の胴着と袴が一揃え重ねてあった。 胴着の左袖には『聖陵学院・綾徳院』と刺繍が入っている。 「先生…これ…」 周囲は『おおっ』と声をあげたのだが、桐哉は胴着と顧問を交互に見て、困惑していた。 桐哉は体育の授業用のジャージで部活に参加していたのだが、稽古をするわけでもない自分はこの格好で当たり前だと思っていたのだ。 袴をはくからには、竹刀を持たないと…という強迫観念めいたものが頭のどこかに根付いているからかもしれない。 だが、顧問はそんな桐哉の内心を知ってか知らずか、ごついクマ顔を心なしか赤くして、頭を掻いた。 「いや〜、やっぱりお前の袴姿が見たくてなあ。きっと可愛いだろうなあ〜なんてさあ」 ――先生…腐ってるよ…。 とは、そこに居合わせた全員の、顧問発言に対する一致した感想だが、しかし一方では『クマさん、グッジョブ!』と思っていたのも事実だ。 「な、着替えてこいよ」 胴着と袴を胸にグッと押しつけられて、桐哉はどうしよう…と、加賀谷を見上げた。 そこには…。 ――…せんぱ〜い…。 これでもかというくらい、期待に目を輝かせた加賀谷を見てしまい、桐哉はこっそりとため息をついた。 ともかくこれはもう、一度は着るしかないだろう。 「あ、じゃあ…。でも先生、これ本当にいただいていいんですか?」 胴着と袴は結構値が張る。これくらいのランクの物だと一式3万円くらいはするだろう。学校には指定の業者があるから少し安くなるとは言え、『あげる』と言われて『はいそうですか』とは言い難い。 「もちろんだ。これは俺からのプレゼントだからな」 『俺からの』がやけに強調されていたような気がしないでもないが、横から部長――あと数日で引退なのだが――が『心配いらないって、顧問は高給取りな上に独身だからな。他に使い道がないんだ』なんて茶化してきたりもして、周囲の雰囲気からしてもこれ以上遠慮するのも気まずくなるように思えたので、とにかく桐哉は丁寧に礼を言って、更衣室へと向かった。 胴着を羽織り、袴の紐をキリッと締める。 もう二度と着ることはないと思っていた稽古着。 中学の時は、学校指定の胴着が『刺し子柄』だったので――子供っぽくてあんまり好きではなかったのだが――藍染めの胴着は初めてだ。 『高校生になったら…』と、密かに憧れていた藍染めの胴着を着ると、ちょっと大人になったような気がしたが、姿見に映してみると、『あの頃』に比べて随分やせっぽっちで貧相に見える。きっと肩や腕の筋肉が落ちたからだろう。 こんな状態で、果たして竹刀を握れるところまでいけるのかどうか、不安はいつまでもついて回るけれど、ともかくこの姿になったら何故だかとても気が引き締まる。 ――やっぱり、嬉しい…かも。 校名の入った胴着。仲間たちとの一体感。 中学時代の、あの高揚が蘇ってくる。 桐哉は少し震える手で自分の体をギュッと抱きしめた。心なしか、右手にも力が戻っているような気がする。 気のせいには違いないけれど、そう思えることが嬉しかった。 ![]() それから桐哉は胴着で部活に参加するようになった。 『やっぱり桐哉はこの姿だよな』 部員たちからはそんな風に言われてちょっとくすぐったかったけれど、10日も経つ頃にはすっかり馴染んできた。 何より加賀谷が喜んでくれたのが嬉しい。 その加賀谷に、『坂枝にも見てもらわなきゃな』と言われ、一度袴姿で茶道部にも行ったのだが、坂枝は目をまん丸にして迎えてくれて、『…ちっ、加賀谷に渡すんじゃなかった…』なんて、わざと加賀谷に聞こえるような声で呟いてくれたものだから、また一悶着あったりして、でも、そんな風に執着してもらえることに、桐哉は喜びを感じてしまう。 その後も相変わらず2人の間にはこれと言った『進展』はないけれど、でもどうか、加賀谷先輩の心がいつまでも自分のところにありますように…と願いながら、桐哉は加賀谷と坂枝の『じゃれ合い』を幸せそうに眺めていた。 それから数日。 11月に入って、空気も乾燥して気持ちよく、胴着と袴の肌触りも心地よくて桐哉もご機嫌で日々の部活を楽しんでいたある日のこと。 「一人で大丈夫か? 桐哉」 「平気です。センセってば過保護ですよ。それにもう職員会議始まってるんじゃないですか?」 「あ、ああ、それはそうなんだが…」 その日の部活後。発注していた竹刀が納品され、顧問と2人でそれらを丁寧に検分し、問題なし…ということで、部室のロッカーへ保管することになった。 それを桐哉が一人で引き受けるというので、クマさん顧問が、職員会議の時間だというのに心配してついていくと言ったのだが、桐哉はたかが十数本の竹刀なんてなんでもないです…と辞退して、一人で部室へと向かった。 だいたい、こんなことくらい一人でできなければマネージャーである意味がない…そう考えて桐哉は張り切って竹刀を抱え込んだ。 両腕――主に使っているのは左腕だけだが――に、竹刀を抱えて体育館の1階から地下の部室への階段は足元が見えなくて少し危ない。 ここでひっくり返ったらコトだから…と桐哉は慎重に足を下ろし、時間を掛けて地下まで降りると、部室のドアを背中で押して開けた。 「よっ…っと」 だが、無事に階段を切り抜けて注意が削がれたからなのか、それとも背中で開けたドアをくぐって向き直ったときにバランスが崩れたのか、竹刀の一本が膝の間に絡んで足がもつれた。 「…わ…っ!」 ひっくり返る!…そう思ったとき。 「危ないっ」 声と同時に、桐哉は背後から伸びた腕に、竹刀ごとがっちりと抱き留められていた。 声の主は振り返らなくてもわかった。大好きな人の声だから。 「…ふぁ…」 安堵の余り、間抜けな声が出てしまった。 「大丈夫か? 桐哉」 ひっくり返らずに済んだから何ともないのだが、こぼれた声があまりに間抜けだった所為か、耳元で加賀谷が心配そうに尋ねた。 「は、はい。大丈夫です。ありがとうございました…」 ほんとにホッとした。こんなところで怪我をしてしまったら、またみんなに心配や迷惑を掛けることになる。 泣きそうな顔や、痛ましそうな顔で見つめられるのは、もうあの時だけでたくさんだ。 「桐哉が一人で抱えているのを見かけたから、慌てて後を追ってきたんだ」 追いついて良かった…と、桐哉を抱えたまま、加賀谷もまた安堵の息を吐いた。 「それにしても危ないじゃないか。どうして一人でこんなことを…。クマさんは一緒じゃなかったのか?」 明らかに顧問を責める口調になった加賀谷に、桐哉は慌てて、自分が一人でできると言い張ったのだと弁解した。 確かにクマさんは何度もついていくと言ってくれたのだ。なのにそれを断ったのは自分だ。 一生懸命の弁明に、加賀谷はどうにか納得はしてくれたけれど、今後のことには釘を差された。 「今度からは絶対一人で無理するんじゃないぞ? 怪我でもしたらどうするんだ」 余裕のない声で諭されて、桐哉は素直に『はい』と頷いた。 加賀谷の言うとおりだ。それに、助けの手を断って怪我をしていたら、助けてくれようとしていた人にも悪い。 これからもう無茶はしません…ときちんと約束して、この話は終わりになった。 …はずなのだが。 「あ、あの…」 どうして離してもらえないのだろうか。桐哉はずっと竹刀と一緒に抱え込まれている。 だが加賀谷は何も言わない。 「…せ、せんぱい?」 桐哉が首を捻って振り返ろうとしたら、加賀谷はそのまま――桐哉と竹刀を抱えたまま――引きずるように部室の中まで進み、桐哉の手を竹刀から外させるとそれら十数本を机の上に放り出した。 それでも背後から桐哉を抱き込んだままだ。 「……とうや…」 やっと聞こえた加賀谷の声は、どうしてか掠れていて、体の熱がグッと上がった。 「…とうや……っ」 首筋に熱い息がかかったかと思うと、そのまま唇が押し当てられてきて、大きな掌が胴着の打ち合わせからするりと忍び込んできた。 ――……え…? 左胸の辺りを探るように動く加賀谷の右手に、桐哉は何が起こったのだろうかと目を瞠る。 剣道の胴着は丈夫に作られていて結構分厚い。 本来は素肌に直接着るものだが、洗濯をすると乾かすのにそこそこ時間がかかるから、寮生の剣道部員は皆、下にTシャツなどを着て、それに汗を吸わせるようにして、胴着の洗濯回数が少なくなるようにしている。 それは桐哉も同じで、だから今も素肌を直接探られているわけではないのだが、何故か胸の奥まで掴まれているような気がして肌が粟立った。 「とうや……」 呟くように呼んだ口が、背後から肩越しに、桐哉の顎を軽く噛んだ。 そしてそのまま、桐哉を少し仰向かせると唇を合わせてきた。 普段とは違う、長くて、そして深いキス。 こんなのは、最初のあの時以来だ…と、桐哉はどこか遠くでぼんやりと思った。 その時。 桐哉の腰を抱いていた加賀谷の左手が、袴の脇開きから忍び込んできた。 足の付け根をスルッと撫でられて、体が震えた。そして、その手はそのまま桐哉自身を握り込んだ。 「…あ…っ」 いきなりの刺激に、解けた唇から漏れ出てしまった声は、自分でもびっくりするほど甘ったるくて、その声色に励まされるように加賀谷の指は下着の中まで侵入してきて直に触れてきた。 「…せ、んぱ……っ」 首筋を甘く噛まれながら、右手にささやかな胸の粒を見つけだされ、左手では強引に快感を引きずり出され、桐哉の頭の中は次第に白くなってきた。 凄い勢いで熱が体の中心に集まってきて、視界はまるでもやがかかったように濁り始めて何も考えられない。 熱に浮かされたように自分の名を呼ぶ加賀谷の声も、だんだん遠くなっていくような気がして、でもその代わりに頂点が見えたような…。 ――…も…だ、め…っ…。 我慢できない…と桐哉が思ったとき、無情にも加賀谷は動きを止め、その手を桐哉の背後に回してきた。 加賀谷の右膝が桐哉の足を割るように差し入れられ、開かされてしまった足の間…他人に触られた事など一度もない奥まった場所を、少しかさついた指が余裕のない動きで、まるで暴こうとするかのようにまさぐり始める。 だが、その指が狭い入り口をこじ開けようとした時…。 「…い…た…っ」 軋むような痛みを覚え、思わず言葉と共に桐哉が身を竦ませた瞬間、加賀谷もまた、弾かれたように全ての動きを止めた。 「ご…ごめんっ、桐哉っ」 一瞬ホールドアップして、それから桐哉を正面から抱きしめる。そして、何度も『悪かった』と繰り返されて、半ば意識が飛んでいた桐哉が、ふと表情を曇らせた。 けれど、そんな桐哉の表情の変化に気付くことなく、加賀谷は桐哉を抱きしめて、また『ごめんな』と繰り返す。 背後から桐哉を抱きしめたとき、ふわっと薫った桐哉の体に、何かがプツッと弾けた気がした。 誰もいない部室。桐哉と二人きり。 だがいつ誰がやってきてもおかしくない状況だ。それなのに、欲望はあっさり理性を振り切って、桐哉の体を好きにしようとした。 あのままだったら、もしかしたら強引に体を繋ぐようなマネまでしていたかも知れない。 だが、加賀谷は桐哉に『痛い』と言わせてしまったことで我に返ったのだ。 『痛いの、もうやだ…』 中2の終わり頃、重傷を負った桐哉がベッドの上で、涙をためた目でそう言ったのだと聞かされたのは、ほんの数日前のことだった。 |
9へ続く |
次回の剣道部は…? |
「ところでさ、加賀谷くん」 「何?」 「俺たちが中3の時に全国で準優勝した綾徳院桐哉って覚えてる?」 思わぬところで唐突に桐哉の名がでて、加賀谷は目を瞠った。 |