ACT.

〜Game set〜





「ゲームセット!!!」

 冬の終わり、晴天の下、乾いた空気の中を、審判を努める3年生の良く通る声が、そう、告げた。

(うそ…だろ…) 

 私立聖陵学院中学校2年4組、早坂陽司はラケットを握りしめたまま、呆然とコートに膝をついた。

 そんな陽司を、ネットを挟んだ反対側から仁王立ちになって見おろすのは、森澤東吾(もりさわ・とうご)。

 小柄ながらその意志の強そうな瞳が、長身で誰もが一目置く『新部長』の姿を射抜いていた。



 恒例になった3学期最後の試合。 
 それは、卒業していく旧部長と後を継ぐ新部長の伝統の一戦だ。

 卒業して、高等部へいくのは東吾。後を継ぐのは陽司。

 そして、この一戦の勝敗は誰もが疑わなかった結果に終わった。
 卒業していく先輩に花を持たせるのは『当然』のことなのだ。

 だが、陽司は勝つ気でいた。
 勝たねばならなかったのだ。
 




 それは先月、部長選挙の行われた翌日の事…。

「森澤先輩!」 

 第2体育館の地下にあるテニス部部室は2つ。
 高等部の部室と中等部の部室が向かい合わせにある。
 中等部の部室に一人残って資料の整理をしていたのは、昨日までの部長、3年2組の森澤東吾だ。

 身長165cm、運動部の部長にはちょっと見えない身体の細さ。
 しかし、太陽をいっぱい浴びてきましたと言わんばかりの日焼けした肌が健康的で、真っ黒に濡れた大きな瞳がいつも元気いっぱいに輝いている。

「…なんだ、早坂か…。デカイ声出すな」

 わざとなのか何なのか、東吾は陽司と話すときには、ことさら落ち着いた低い声を出す。
 普段の可愛い話し声とはえらい違いだと、陽司はこっそりため息をもらす。

「お前にこれやるよ」

 唐突に顔面に差し出された紙の束に、陽司は漏らしたため息を慌てて引っ込める。

「なんすか? これ」

「ライバル校のデータだ。俺たちの抜けたあと、ガクッと成績を落とされちゃかなわないからな」

「そんな心配いりませんって。俺たち、先輩の残した戦績を上回って見せますから」

 不敵に笑う陽司の顔を、チラッとだけ見て、東吾はまた机の上に視線を戻した。
 そしてそれっきり、何も言わずにまた、資料の整理に専念し始めた。

 それを見て、陽司はまた、こっそりため息をつく。

 この人はいつもそうなのだ。
 上級生にも同級生にも下級生にも、いつも可愛らしい笑顔を振りまいて、可愛い声で笑っているのに、自分の前では絶対と言っていいほど笑わない。 
 笑わないどころか、話もしてくれない。交わす会話は必要最低限。

 自分はそんなにもイヤなヤツに見えるのだろうか?

 陽司は一時、真剣に悩んだ。
 しかし、どう考えても思い至らない。

 残る2年・1年の中でも実力は一番。
 昨日の部長選挙では満場一致で新部長に選ばれ、当然部内に敵もいない。それどころか、はっきり言って学年問わず、モテてしようがないくらいなのだ。

 嫌がられるような要素はないと思われる。
 もしかして、それがいけないとか…。
 あまりにモテるのでライバル視されてるとか…。

 いや、それもありそうにない…と、陽司はまたしても心の中でため息を転がす。

 東吾だって、昨年は満場一致で部長に選ばれ、人望の厚さでは自分の上だろうし、第一、モテる。
 意味合いが全く逆なのだが、東吾だってめちゃくちゃモテるのだ。

 現に自分だって、初めてあった日に東吾に惚れてしまった一人なのだから…。

 陽司が一人でグルグルと思いを巡らせていると、突然東吾が立ち上がった。

「いつまで突っ立ってんだよ。デカイから邪魔なんだよ!」

 これでもかというくらい、憎まれ口を叩いて背を向けた東吾の腕を、陽司は思わず思いっきり掴んだ。

「先輩っ。待って!」

 突然の行為に、東吾は体中を大きく震わせ、力一杯その腕を振り解いた。

「ば、ばかやろっ、何すんだよっ」

 振り返った東吾は、声まで震えていた。

 その思わぬリアクションに驚きながらも、陽司はさんざん考えて来た言葉を吐いた。

「お願いがあります」

 いつもふざけている陽司の、それは聞いたことのない声色だった。

「な…なんだよ…」

 隠そうとしても動揺が見え隠れしてしまう。

「先輩の卒業試合、俺、全力でやりたいんです」

「ど、どういう意味だ…」

「先輩に花を持たせる気はないって事です」

 そう言った途端、東吾がその真っ黒の瞳を目一杯開いた。

「バカにすんなっ! 誰がわざと負けてくれって言ったよっ!! お前なんかにこの俺が負けるわけないだろっ」

「わかってます!」

「な…」

 東吾の返事を遮るように、陽司は珍しくその視線を床に落とした。
 いつも執拗に絡んでくる陽司の視線を知っている東吾は、またしても当惑してしまう。

「わかってるからお願いしてるんだ…」

 それは独白のようでもあり…。
 陽司は再び視線をあげた。

「俺、森澤先輩が、好きです」

 開きっぱなしだった真っ黒の瞳が凍り付いた。

 まったく零れてきそうなほど大きな目だな…と、こんな事態の中でも陽司は感心してしまう。

 その目に笑って欲しくて、何度も密かなアタックを続けてきた。
 しかし、東吾は自分にだけ笑ってくれない。

 もう、我慢は限界だった。しかも、もうすぐ東吾は卒業してしまう。
 中等部と高等部は校舎も寮も別。会えるのは部活だけ。

 離ればなれになる1年間を目の前にして、陽司は勝負にでた。
 告白して、ある約束を取り付ける。
 いつも自分の前では意地を張り通す東吾なら、絶対にイヤとは言わないだろう…。
 挑まれた勝負なら、東吾は正面から受け止めるはず…。
 
 しかし…。

「先輩…?」

 陽司にとっては一世一代の告白だったのだが、東吾は凍り付いたままで動かない。

「聞こえなかったのならもう一度言います。俺、先輩のことが、す…」
「言うなっ!」

 東吾は突然我に返ったように声をあげた。

「き、聞かなかったことにしてやるからっ…」

 それでもまだ声は震えている。

 が、陽司の怒りは爆発してしまった。

「聞かなかったことってなんですかっ!! 先輩、俺のこと何だと思ってるんだっ! 俺は、今まで精一杯やってきた。先輩のことが好きだから、一生懸命手伝って、練習がんばって…。 なのに、こうやって俺が必死の思いで言った言葉まで無視すんのかよっ!」

 もう、先輩に対する言葉遣いもへったくれもあったもんじゃない。

「は…早坂…」

 東吾の真っ黒な瞳は、いつの間にか怯えの色に塗り変わっていた。
 しかし、今の陽司にはそれも思いっきり気に入らない。

「なんで…どうしてそんな目、するの?」

 そんな目が見たかったんじゃない。
 ただ、自分に向かって笑って欲しかっただけなのに…。

 陽司は据わった目つきで東吾を見つめる。
 そしてじわじわと壁際に追いつめ…。

「早坂…待って、お、落ち着けってば…」

 背中に壁を感じて、東吾の口は漸く文章を紡ぎだした。

「先輩…俺、落ち着いてるよ…。 先輩の方だろ? おろおろしてんの…」

 身長差は十数センチ。しかし、陽司にはなぜかその差以上の威圧感がある。

 ほとんど身体が密着しそうになった時、東吾は思わず両腕で陽司の身体を突っぱねた。

「頼むっ。頼むから、これ以上…」

 近づかないでくれ…と言う言葉はほとんど聞き取れなかった。

「……じゃあ、先輩…。俺の頼み聞いてくれる?」

 抑揚のない陽司の口調。東吾はおずおずと顔をあげて、その表情を伺ったのだが…。

 表情も…ない。

 思わずゾッとしてしまう東吾に、かまわず陽司は言葉を続けた。

「部長交代の試合…俺が勝ったら…」

 そこで二人の視線がぶつかった。
 絡め取られたら最後。陽司の熱い視線は東吾には痛すぎた。

 だから、見たくなかったのに…。

 東吾は離せなくなった視線の内側で、唇を噛む。
 これが怖くて、今まで、知らない振りを続けてきた。
 見ない振りを続けてきた。

(お前は…。俺の2年間の苦労を水の泡にする気か…っ)

 しかし陽司は、東吾の中の葛藤を知らず、一言、告げた。

「先輩、俺のものになって…」

(早坂…)

 東吾は、内に籠もっていた熱が一気に冷えていくのを感じていた。

(お前…やっぱりそれが目的だったんだな…)

「いい…」
「…先輩?」

 東吾は怯えた目を捨て、いつもと同じ、陽司専用のキツイ眼差しで見上げてきた。

「お前が勝ったら、好きにするといい。お前が勝ったら……だ」
「わかってる…。俺、絶対負けない」

 本当はこんな方法で手に入れたいんじゃない。
 でも、こうでもしないと、この意地っ張りな先輩は手に入らないだろう。

 最初から欲しかったのはこの人だけ。
 森澤東吾。この人を手に入れるためだったら、必ず勝ってみせる。
 好きになってもらうのは、それからゆっくりでかまわないから…。


『東吾? いるか?』

 ドアの向かうから声がして、同時にドアが開いた。

「東吾…。早坂…。何やってんだ」

 不機嫌な声を露わにしたのは、昨日までの副部長、尾崎輝明(おざき・てるあき)だ。

 壁際に追いつめられた東吾、追いつめている陽司。どう見ても異常な状況だ。  

「早坂、お前、東吾に何かしたんじゃないだろうな」

 輝明は足早に近寄ると、二人の間、東吾を庇うようにして立つ。 

「輝明、何でもない。何でもないから」
「東吾…」

 東吾は自分を庇う輝明の背に頭をぶつけ、一瞬甘えるような仕種を見せた。

(…先輩…)

 とてつもなくむかついた。

「森澤先輩。 俺、イヤな後輩でしたか?」

 とっさに口をついて出た陽司の言葉に、東吾より早く、輝明が反応した。

「早坂っ、お前、東吾に喧嘩売ってんのか?」

「尾崎先輩は黙ってて下さい! 俺は森澤先輩に聞いてるんだ! 俺、何か気に障ることしましたかっ? イヤなこと言いましたかっ?」

 まくし立てる陽司の剣幕に、輝明が言葉をなくした。

 いつも明るいムードメーカーの陽司。喧嘩の仲裁に入ることはあっても、自分がその当事者になることはまずなかった。

「気に入らないところがあるんなら、黙ってないで教えてくださいっ、俺、直しますから!」

 東吾は答えない。
 大柄な輝明の後ろにすっかり隠れてしまい、何も見えない。
 わずかに、背後から輝明の服を掴む、小さな指が震えているのだけがわかった。 

「早坂…頼む。一気にまくし立てられても東吾は混乱するばっかりだから、少し時間をおいてやってくれ…」

 輝明は後ろ手に東吾を庇う。
 輝明もおかしいとは思っていたのだ。
 東吾が、なぜか陽司にだけは冷たい。
 その理由に、まったく思い当たる節がなかったから。

 冷静に出た輝明の言葉に、陽司も深く息をついて静かに答えた。

「…すみません…。言い過ぎました…。でも、先輩、さっきの約束だけは忘れないで下さい…」

 そう言うと、陽司は一度、きつく唇を噛んで、そして部室を出ていった。



「東吾…約束ってなんだ?」

 言いながら、輝明は服を掴む東吾の指をそっと外し、振り返った。

「な、んでも…ない…」
「とうご…。お前、泣いて…」
「泣いてなんかないっ」

 真っ黒に濡れた瞳は、僅かに周りの部分を紅くしてはいたが、輝明はそれ以上聞くことはしなかった。

 この状態で東吾が喋ることはないと踏んだからだ。
 そんなこと、3年間のつきあいでよくわかっているから。

「…じゃ、早くここを片づけて寮へ帰ろう。守が学食からプリンをくすねてきてるぞ。お前好きだろ? プリン」

 まるで小さい子にするように頭を撫でてやると、東吾は口を尖らせてジロッと輝明を見上げた。

「…守がわざわざ持ってきたんだったら、食ってやってもいい…」
「はいはい。その言葉、守に聞かせてやりたいよ…」
  





 東吾はわかっているつもりでいた。
 陽司が自分にかまうのは、唯一、なびいてこない相手だからだ。

 陽司はモテる。誰もが陽司の人なつこくて明るい性格にひかれ、好意を寄せる。
 もちろん好意以上のものを寄せる者もいて、陽司はそれにも応えているという噂だった。

 その中の一人に自分が納まる気などさらさらなかった。
 まして陽司は下級生。
 たった1年でも、先輩としてのプライドは、遊ばれて捨てられる…など許さないのだ。

 それが、ずっと想いを寄せてきた相手だったら、なおのこと…。


 卒業試合は絶対に負けられない。
 自分は望むものなど手に入れられないのだ。
 なら、お前にだって好きになどさせてやるものか。

 東吾は悲愴なほど頑なな決意を固めていた。





 2月最後の土曜日。
 卒業式を間近に控えて何かと気ぜわしい校内。

 聖陵学院のテニスコートには大勢の人間が集まっていた。
 前部長・森澤東吾と新部長・早坂陽司の試合が始まろうとしている。

 部内でも実力が伯仲していた二人の試合は、いくら伝統的に先輩に花を持たせるとは言え、かなりおもしろいものになるだろうとギャラリーは浮かれている。

 しかし、もちろん陽司に負ける気などない。
 勝って、東吾を自分のものにする。

 ざわつくギャラリーをよそに、陽司と東吾はネットを挟んで歩み寄る。

「早坂、約束だったよな」

 東吾は、普段決して陽司には見せない笑顔を向けてきた。
 陽司の鼓動が『ドクン』と大きな音を立てる。

「負けたらお前のものになってやる。ただし…」

 そこまで言うと、東吾の表情は一変した。
 いつもにましてキツイ瞳で陽司を睨みあげる。

「俺が勝ったら、お前、高校に上がってくるまで、絶対俺に声をかけるな。向こう一年、ずっとだ」

 一方的な約束は確かにフェアじゃない。
 しかし、この内容はあまりに痛いかもしれない。
 だが、陽司はうんと言うしかなかった。

 かまうもんか、勝つのは俺だ……そう思って陽司は右手を差し出した。

 その手を、東吾が握る。
 初めて触れた東吾の掌はしっとりと汗ばんでいて、ひんやりと冷たくて…。

「わかりました。でも俺、負けませんから」

 そう言った瞬間、このまま握っていたいと願った手の感触は離れた。



 そしてその掌は、ボールを握り、高く上げ、最初の一打が放たれた。
 ラインぎりぎりに鋭角で突き刺さる。

(エース?!)

 この2年間、何度も東吾と打ち合ってきた。
 相対的な実力がほぼ互角なのもわかっている。

 顔に似合わない攻撃的な試合運びで相手を戸惑わせることも多々ある東吾だが、しかし、こんなに切り込むようなサービスエースを浴びせられたのは初めてだった。

 陽司の背を、運動によるものではない汗が流れていく。

 もう、何も考えられなかった。ただ、闇雲にボールを追うだけで、自分のペースなど保てるはずもなく…。



 そして、ゲームセットの宣言が下された。

『3−0』

 陽司にとって、よもやのストレート負けだった。 



 コートに呆然と膝をついていた陽司に、東吾は射抜くような瞳のまま歩み寄る。
 そして、ネット越しに、これが最後になるであろう声をかけた。

「残念だったな、早坂」
「先輩…」
「…あとのこと、頼んだぞ」

 東吾は言いたいことのすべてを飲み込んで、先輩としての言葉だけを吐いた。
 本当はこんな事が言いたいんじゃない。

『悔しかったら、追いかけてこい』

 そう言ってしまいたかった。かっこよく。
 でも、それを言ってしまうと、陽司は本気で追いかけてくるだろう。

『悔しいから』と言う理由で。


 ――俺はゲームの賞品じゃないんだ。『堕ちるまで』の想い人なんてごめんなんだよ。


 知らず唇を噛みしめていた東吾に、陽司は漸く言葉を返した。

「先輩…俺、本気でやった。今日は負けたけど、次は負けない。俺、この一年で絶対強くなってみせるから…」

 その声に、東吾はもう、答えることはなかった。





 日が傾きかけて、自分の落とす長い影がコートを横切る。

「ばいばい…。ようじ…」

 遠ざかる陽司の背中に、小さな声で呟いてみる。

 高等部と中等部に別れるこの1年で、必ずこの想いを振り切って見せようと、東吾はもう一度決心した。

 陽司は約束を守るだろう。
 言葉を交わすことのないこの一年、それで終わりにしてみせる。

「本当のゲームセット…だな…」



 そして東吾は、中等部のユニフォームを脱いだ。



END

70000GETのREIKAさまからリクエストをいただきました。


*Act.2〜Tie Breaker〜へ*
*テニス部!目次へ*
*君の愛を奏でて〜目次へ*