ACT.

〜Advantage〜
前編





「ゲームセット!」

 主審が告げるその言葉に、初夏の風が吹き抜ける私立聖陵学院のテニスコートは一際大きな雄叫びに包まれた。


 ゴールデンウィーク中の校内合宿で毎年行われる『新入生歓迎試合』。

 今年はスポーツ推薦による入部がなかったため、一番の注目はやはり、数ヶ月前まで中等部の部長を務めていた学年一の実力を誇る早坂陽司の試合だった。

 陽司が指名した相手は、一学年上の――こちらも学年一の実力と言われる、森澤東吾。
 半年後の選挙では、間違いなく高等部の部長になるだろうと目されている。

 ハイレベルで実力が伯仲している二人の戦いは、テニス部のみならず他の運動部からも注目の的で、彼らの試合が始まる頃にはどの部も合宿中であるにもかかわらず、テニスコートの金網に生徒たちが鈴なりになった。

 その鈴なりの一団が一斉に――思いも寄らなかった試合結果に――うなり声をあげたものだから、もしかすると校舎内で合宿中の文化系の部にも騒ぎは及んだかも知れないと思うほどだ。





「早坂、随分腕を上げたな」
「ありがとうございます。…でも」

 あたりの騒然した雰囲気も漸く解散し始めた中、現部長の3年生から声を掛けられた陽司がちらっと視線を流す先には、東吾。

 主審を務めた顧問と握手を交わした後、その場で半ば呆然と立ちつくしている。


「森澤、体調でも悪かったか?」

 顧問が東吾にかける声に、陽司は視線だけ外して、全身の神経を集中させる。
 そう、陽司が気になったのはそれだ。そうでもなければ…。

「…いえ」

 よもや『3−0』で自分が勝つとは思わなかったから。

「そうか、ならいいんだが、いつものお前らしくない試合運びだったからな」
「すみません…」


 確かに『らしく』ない試合だった。

 陽司自身も、かなりの苦戦は覚悟していたのだが、東吾は最初の一球から様子がおかしかった。

 それほど良くもない角度で入った陽司のサーブが、あっさりとエースをとってしまったのだから。

 時には可愛い顔に似合わない攻撃的な試合運びをする東吾。
 そんな彼への第1球は、ヘタをすればリターンエースを取られかねないようなものだった。
 打った陽司自身が『しまった』と思ったくらいなのだから。


「謝ることじゃないさ。早坂も随分と強くなってる。学年は違うが、いいライバルだと思ってこれらかも打ち合うといい」

「…はい」


 あれは、どちらかというと『足が動かなかった』という感じだった。

 小振りな身体をフルに活かした軽いフットワークが持ち味の東吾。
 そんな彼なのに、それからもその動きはずっと重くて…。


 こんな勝ち方をするつもりのなかった陽司は、心なしか肩を落とした様子で引き上げていく東吾の背を、追いかけることも出来ずに見送った。


 今日の試合は二人にとって、とても大切な試合だった。

 半月ほど前に交わした約束…。



『今度の新入生歓迎試合で俺に勝てたら…』
『勝てたら…?』
『抱きしめさせてやる』



 意地っ張りの東吾のことだ。
 端っから勝ちに来ると思っていた。
 そして、笑って『お預け!』とでも言うつもりだ…と、思っていたのに。

 もちろん、陽司とて負けるつもりなど、さらさらなかったのではあるが…。



                   ☆ .。.:*・゜



『抱きしめさせてやる』

 自分で言ったあの一言が、最後まで自分の足を引っ張った。

 練習の時には何も意識せずにできたのに。
 ただ、陽司とコートを挟んで立てることが単純に楽しくて、時間を忘れて二人、日が陰るまで毎日打ち合った。

 なのに、いざ試合が始まった途端、あの晩のあの一言を思い出してしまい、東吾の足はコートに釘付けになった。

 そして、どうということはないサーブで、あっさりとエースを奪われてしまったのだ。

 いつもなら『チャンス!』とばかりに、リターンエースをいただきにいくところだったのに…。

 ネットの向こうでは、その『どうということはない』サーブを打った本人が、驚きに目を丸くしている。
 
 その表情すら、東吾とっては…。



                   ☆ .。.:*・゜



「先輩…」

 間もなく夕食時間。
 合宿中だからだろう、いつもにまして腹ぺこ状態の生徒たちはもう誰も部室になど残っていない。

 だが、『それどころではない』生徒がまだそこにいて…。


 高等部新1年生全員の試合結果が書かれたホワイトボードを、ジッと見つめているその背中に遠慮がちに声を掛けたのは、陽司。

 ややあって、その背中は緩慢な動作で振り向いた。

 だが、その視線は足元に落ちていて、やけに萎れた表情に見える。


「…負けたんだから、仕方ないな…」

 あまりにも普段の彼らしくない気弱な物言いでそう告げると、東吾はその視線を更に落とした。


 ――そんなにイヤなんだろうか…。

 陽司の胸が小さく痛む。

 だが、そんな痛みとは裏腹に、積もり積もった3年分の思いは陽司の腕を東吾の方へと伸ばさせる。

 そして、その腕が視界に入った途端、東吾はビクッと身体を竦ませた。


「…先輩…」

 このまま触れていいものか、一瞬迷った。その時。

「た、ただしっ、10秒だけだっ」

 東吾がいつもの――陽司限定のキツイ物言いで告げた。

 だが、その言葉とは裏腹に、東吾が漸く顔を上げて見せてくれた表情は、陽司の気持ちを軽くした。


 頬がほんのりと染まっていたから。

 そうなるともう、陽司としても遠慮する必要はない。


「どうして。そんなこと約束になかったよ、先輩」
「いっ、今決めたっ」
「そんなのずるいです」
「ずるくないっ」

 必死で言い募る東吾。
 だが、そうすればするほど陽司が余裕の表情を見せていくことに、当然東吾は気づかない。

「とっ、とにかくっ、俺…わざと負けたんじゃないからなっ」

 本音が転がり落ちた。

 顔を真っ赤にして、目をギュッと瞑ってしまった東吾がとんでもなく可愛らしくて、陽司はそれこそらしくもなく『今日のところは10秒で我慢しよう』…などと思ってしまう。

「そんなこと、わかってます。先輩はいつも、全力主義だから」

 一歩近づくと東吾がジリッと下がる。

「今日は、たまたま俺の運が良かっただけだから…」

 優しくそう言って、そっと手を伸ばす。 
 東吾の背中にホワイトボードがあたった。もう、後ろはない。

「…じゃあ、10秒だけ」

 言葉と一緒にギュッと抱き込んだ。
 そして、思っていたよりもずっと華奢な抱き心地に陶然とする。

 身を固くしたまま、腕の中にじっと納まっている東吾が堪らなく愛おしい。

 抱きしめてから、正確に10秒を数えていたわけではもちろん、ない。

 それは東吾も同じで――というより、そんな余裕は東吾には全くなかったのだが、きっと10秒よりもずっと時間は経っていただろう。

 が、陽司にはそれがとてつもなく短く感じられて、わざわざ『……そろそろ10秒、かな』と声に出さないと、その身体を放すことなどとてもできなかった。



 だが…。

 抱きしめる腕が緩み、二人の間に僅かに空間が生まれ、ひんやりとした空気が入り込んだ時、東吾は瞬間、追いすがるような気配を見せた。

 そして、陽司は東吾のその瞳の揺らぎを見逃さなかった。

 すかさず抱きしめ直す。

「…っ、はやさか…っ」

 身体を包む温もりが離れようとしたとき、ほんの少し、寂しいと思った。
 その瞬間に、さっきよりももっときつく抱きしめられて、東吾はジタバタともがく。


「先輩。試合に勝った分だけじゃなくて、俺の気持ちの分も受け止めて下さい」

 その真摯な声色に、東吾の抵抗が止んだ。

 それでもまだ、居心地が悪そうにモゾモゾとはしているのだが。


「…少しだけ…だぞ」

 言葉では強がっていても語気は頼りないほど柔らかく、だから多分、その気持ちは…受け入れてくれているのだろう。

 陽司はそう確信して、だからこそ『それでもいいです』と、余裕で応えてあげられる。

 そして、戻ってきた温もりに、東吾は我知らず、安堵の息をつく。


『ここ』がこんなに暖かい場所だったなんて…。


 ほんの軽く、目を閉じて、伝わってくる陽司の鼓動と温もりだけを感じてみる。

 けれど、自分からその温もりを抱きしめ返すことなど到底できなくて、だから、ただ、所在なげに腕は下りたままで…。

 そして、陽司は漸くこの腕に抱きしめることのできた幸せに、ただうっとりと酔いしれていた。



                   ☆ .。.:*・゜



 この日から、陽司は二人の関係が少しずつでも進展していくと信じて疑っていなかった。

 だが…。 

 どうも東吾の様子がぎこちない。

 校舎ですれ違っても、学食で見かけても、寮でばったりであっても、東吾は慌てたように視線を床に落としてしまい、陽司を見ようとしなくなった。

 それは当然部活中でも同じことで、気がつけば、いつのまにか東吾は陽司の視線を避けるように行動している。

 こんなことなら、まだ、以前のようにキツイ視線を向けられた方がマシかもしれない。

 けれど、あの日、あの時の、潤んだように揺れた瞳を見てしまった今では、それもきっと辛いのだろうが…。

 ともかく、視線が合わないから声を掛けるきっかけも掴めない。

 強引に腕でも掴めばいいのかもしれないが、それでまた、せっかく近づいた――と思う――二人の関係が離れてしまうのも怖い。

 こうして陽司は、小さな幸せと引き替えに、大きな不安を背負い込む羽目になってしまった。



後編へ続く


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