君の愛を奏でて〜外伝
歌の翼に〜第1章
【1】
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「先生、少しお時間をいただけますか」 ――でた…っ。 火曜日の4時限目。 真昼の校内であるから、出たのは少なくとも幽霊などの手合いではない。 1−Eの授業を終えて教室をでた松山翼(数学教師・28歳・独身)は、背後からかかった『とても聞き覚えのある』声に、ぎくりと肩を強張らせる。 本音を言えば『いや、次の授業の準備があるから、またあとで』と言いたいところなのだが、残念ながら、今から楽しい昼休みだ。しかも5時限目の授業は「空き」ときている。 ――仕方ない…。 生徒に声を掛けられた教師としてはあるまじき感想を、心の中だけで零して、翼は振り返る。 「どうした?」 「先ほどの授業の内容について質問があります」 …嘘つけ…。 またしても不穏当な呟きを零して――もちろん心の中だけで――翼は自分より少しばかり高い目線を、自覚のない恨めしさで見上げる。 「ここでは何ですから、準備室に行きましょう」 ――どーしてお前に仕切られなきゃなんないんだよっ。 今日もあっさりと主導権を握られて、しかも『さあ』などと促されて、背後からではあるがまるで連行でもされているかのような状態で翼は渋々歩き出す。 そうして辿り着いた数学準備室には……運の悪いことに誰もいない。 聖陵学院の数学教師は全部で8人。 翼は一番年下なのだが、8人中5人が学院OBというせいなのか、準備室内はやたら和気藹々としていて居心地はすこぶる良い。 だから、誰か一人でもいてくれれば、この気詰まりからも抜け出せるのに……。 そうは思うのだが、いないものはどうしようもない。 「ここなんですが…」 1−Eの副委員長、古田篤人は翼が自分の席に着くと、待ちかねたように背後から教科書を広げて覆い被さってきた。 「お、おいっ、古田っ」 「はい?」 「はい、じゃない。覆い被さるな。影になって見えないだろ」 本当はそうでもないのだが。 「ああ、それはすみません」 言葉とは裏腹に、まったく動じていない声で篤人は身体をほんの少しずらす。 それだけで翼の視界はあっさりとクリアになってしまうのだが、背後から覆い被さられている事態には余り変化がない。 「おいってばっ」 「なんです? まだ何か?」 「暑いだろうがっ。ひっつくなっ」 「今日は寒いですよ。朝7時の予報では本日の最高気温は9℃。人肌が恋しいと感じる気温です」 ――…ったく、こいつはああいえばこういう…。 これ以上あがいても不毛だと、ようやく悟った翼は掻き乱された気持ちを無理矢理『教師モード』に切り替える。 「で、今日は何の質問だ」 「はい、ここの公式なんですが…」 篤人の長い指が、教科書に記された公式をなぞる。 「ああ、これはだな…」 一通り説明してみる。 しかし、篤人ならこの程度のことは何でもないはずなのだ。 何しろ高校からの新入生――この学院でいうところの所謂『正真正銘』――で、しかも外部入試順位は2番、現在の学年総合でも堂々の第3位の成績を収めている非常に優秀な生徒なのだ。 ただ、「学年ワン・ツー」があまりにも目立つために、少々割を食っているところはあるのだが。 「わかりました。ありがとうございます」 ざっと説明をしただけで、篤人はあっさりと理解を示す。 やはり、最初からわかっているに違いないのだ。 しかし、篤人は授業があるたびに必ずこうして質問にやってくる。 そしてそれは、篤人が入学した直後から、もうすぐ年度が終わろうとしている今に至るまで、ずっと続いているのだ。 「…なあ、古田」 今日こそ言ってやる…。 たった今、そう心に決めた。 「はい、なんでしょうか」 「お前、わかってて聞いてないか?」 一応語尾にクエスチョンマークなどをつけてみるが、言葉の内容は99%確信している。 「…何がですか?」 「何が…って」 母校の教師になって6年目。 教師1年生ならいざ知らず、もう『新人』とは言えない年数を経た翼は、他の生徒たちを相手に言葉に詰まることなど、ない。 「先生」 優等生然とした銀縁眼鏡がキラリと光る。 「な、なんだ」 思わず顔を引いてしまうのも情けない。だが……。 「質問というものは、必ずしも『理解できなかったから』という理由で行うものとは限らないと思いますが」 これはきっと自分のせいではなく、『相手にしたヤツが悪かった』のに違いない。 「理解した上で、さらにその理解を堅固なものにするため、もしくは再確認するために行う質問があってもいいと思いますが、いかがでしょうか」 正論を正面から突きつけられて、翼は言葉どころか息まで飲んでしまう。 そんな翼に、篤人はふわっと微笑んで見せた。 滅多に見ない――いや、そうそうこの優等生の顔を正面からまじまじと見たことがあるわけではないのだが――やたらと優しげな表情に、翼の胸が一つ、トクン……と音を立てる。 「仰るとおり、理解できなかったから質問に来たわけではありません。先生の授業は丁寧で分かり易いですから」 え? 「俺はそんな先生の授業が好きです。先生は俺たちの視点で物事を見てくれる」 ――なんだ。そっか。 「俺は先生が……好きなんです」 ――そうなのか。それならいいか。 たった一言で単純にも浮上してしまう、ある意味お手軽な質の翼。それが、生徒たちから慕われる点でもあるのだが。 「それは、すまなかったな。…なんか、からかわれてるのかと思ったからさ」 肩の力を抜いて見上げてみると、篤人は珍しく、硬質の光を放つ銀縁眼鏡の奥で、切れ長の目を丸くしていた。 「どうした、古田」 見上げてくる翼の『きょとん』とした瞳は、まったく無自覚の産物のようだが。 見開いていた瞳をまた知的な切れ長に戻し、篤人は喉の奥で『くくっ』と笑いを漏らす。 「先生、今俺が言ったこと、理解して下さいましたか?」 「俺の授業、気に入ってくれてるんだろ?」 教師にとっては願ってもない言葉だ。 「ええ。とても」 「そう言ってもらえると、励みになるよ」 「先生が?」 「そりゃそうさ。教師だって人間だからな。自信があったりなかったり。これでも日々試行錯誤して授業に備えてるんだぞ」 ちょっと偉そうに言ってみると、篤人はにやりと不敵な笑みを湛えた。 「そうですね、先生も『人間』ですよね」 スッと表情が近くなった。 吐息がかかりそうになる。 「…古田?」 「俺は、先生が好きです……とも言いましたが」 「あ、うん。嬉しいよ」 素直に喜びながらも、なんだか気圧されてしまって思わず顎を引いてしまう。 「それは、教師として? それとも人間として?」 「ええと……どっちも、だ」 好かれて気分の悪い人間なんていやしない。まあ、ストーカーは別だけれど。 「では、俺がこれからすることすべてを『教師として』ではなく、『人間として』受け止めて下さい」 「へ?」 思わず間抜けな声を発した翼だが、篤人は今度は笑うことはなかった。 その代わり、恐ろしく真剣な眼差しが近寄ってきて…。 「お、おい…?」 これ以上近寄ると……。 「先生…、目、閉じて…」 くっついてしまう……。 閉じてと言われたはずの目を、翼が更に見開いた瞬間…! 『Pururururu……』 お互いの息づかいの音しかしなかった準備室に、いきなり電子音が割り込んだ。 「は、はいっ! 数学準備室ですっ」 ほとんど触れていた篤人の胸を押しのけて、翼は慌てて受話器を取る。 「……ちっ」 だから、篤人が優等生にあるまじき態度で舌打ちをしたことに、翼は気がつかなかった。 「あ、はい、大丈夫ですよ。すぐに行きま〜す」 受話器を置くと、翼は真っ直ぐな瞳で篤人を見上げてきた。 つい先ほどまでのあの状況はいったい何だったんだろうと思いつつも、これといって何も考えつかない。 だいたい、からかわれているのだとばかり思っていたのが、そうでなかったことがわかっただけでも妙にすっきりしてしまって、翼はすっかり自己完結していた。 「すまん、古田。光安先生から呼び出しなんだ」 「…そうですか。仕方ないですね。ではこの続きはまたの機会に」 「この続き?」 「また、質問に来ます」 「ああ、そうだな、うん」 すっかり脳天気お気楽モードの翼だ。 準備室を出た二人は、そのまま当たり障りのない会話を交わしながら階段まで並んで歩き、そこで別れた。 軽い足取りで楽しげに階段を上がっていく翼を見送り、篤人はらしくもなく一つ、ため息をつく。 『光安直人』 聖陵学院でもっとも有名な教師にして隣のクラスの担任でもあるからもちろん知ってはいるが、芸術の選択授業では美術をとっている篤人にとっては縁のない教師だ。 それにしても、数学教師と音楽教師。担任をしている学年も高2と高1。 顧問をしている部活も体育系と文化系。 年齢もそこそこに離れていて、接点は何もないように見えるのに、先刻の電話でのやりとりもやたらと親しげで、今去っていった翼の足取りも妙に浮かれていた。 まさか翼に目をつけているんじゃないだろうか…。 篤人は一瞬そう思ったのだが、そう言えば光安直人は管弦楽部の生徒との噂が絶えない。 もちろんそんな噂は、男前のカリスマ教師という格好のネタを得た男子校ならではの娯楽の範囲だと思ってはいるのだが…。 それにしても生徒と噂になる教師だなんて……。 そこまで考えてから篤人は自嘲気味な笑いを零した。 自分の想いも同じじゃないか…と。 ともかく、相手ときたらある意味カリスマ教師の対極を行く『ぽややん』教師だ。焦らずじっくりいくしかない…。 しかし問題は、2年になって教科担当が外れた場合だ。 翼は高1高2を担当することが多いから、来年度も教科担当に当たれば今までのように質問にかこつけてアプローチはできるのだが。 まあ、『教科担当が外れたとき』のために、この1年間、自分の存在を印象づけるための行動を続けてきたのだが。 理想を言えば、『担任になってくれたらな』…というところなのだが、いくらなんでもその確率は低かろう…と、篤人は、らしくもなくちょっと入ってしまった『ドリーム』に苦笑した。 |
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