君の愛を奏でて〜外伝
歌の翼に〜第1章
【2】
![]() |
篤人と別れて音楽準備室へやってきた翼は、妙にハイな気分でその部屋のドアをノックした。 どうやら、自分でも思っていた以上に篤人のことが胸に支えていたらしい。 けれど、今度は質問に来られても笑顔で迎えてやれそうだ。 「忙しいのに呼び立てて悪かったな」 「いいえ、直人先生のお呼びとあれば、いつ、どこへでも」 ドアが開いてすぐ、笑顔で親しい挨拶を交わして翼は、音楽教諭・光安直人の部屋に入った。 「来年度、翼が担任をもつ2−Aについて話しておきたいことがあるんだが」 他の誰にもあんまり呼んで欲しくない、翼にとってはちょっと気恥ずかしいファーストネームも、直人に呼ばれると悪い気がしないのは不思議だ。 「あ、はい。今日中に教務課に引継書類一式を引き取りに行こうと思ってたところです」 「その必要はないよ。ここにあるから」 直人は書類がひとまとめにされた、分厚いファイルを差し出した。 「…え?」 確か、直人はまた中学の担任に戻るはずだと聞いている。 なのになぜ、次年度高校2年生のファイルを彼が? しかも一応これらファイルは、担任以外は持ち出し禁止のはずだ。 そんな彼の疑問はあらかじめお見通しだったのだろう、柔らかい微笑みで受け止め、直人は翼に着席を促した。 翼と直人は6歳違い。聖陵に着任したのは翼が2年あと…ということになる。 院長も一目置くというこのカリスマ教師に、翼も新任の頃は恐れ多いものを抱いて接していたのだが、自身では演奏しないものの音楽を聴くのは大好きという翼が、担任をしている管弦楽部の生徒に連れられて何度か練習を見に行って以来、親しく口をきくようになった。 そして今年度、なぜか突然――もちろん『裏事情』はきっちりとあったのだが――高校の担任を持つことになった直人は、初めて経験する『進路指導』について、あれこれと翼にアドバイスを受けていたのだ。 それがきっかけで二人は、プライベートではまるで兄弟のように気の置けない会話を交わすまでになっている。 机の上に置かれたファイルから目を離せないままにソファーに腰を下ろすと、挽きたての香りを漂わせて湯気を立てるマグカップが目の前に置かれた。 ちなみのこの『コアラ模様』のマグ、音楽準備室における、翼の専用だったりする。 「あ、すみません」 鼻は香りの方を向いているのだが、相変わらず目はファイルに釘付けだ。 確かに「2−A」と記されている。 「心配要らない。院長も了解済みだ」 担任以外持ち出し禁止のファイルがここにあることについての疑問をあっさりと解きながら、直人もソファーに腰を落ち着けた。 そして、単純明快が「売り」の翼は、その一言であっさりと納得する。深く突っ込まないあたり、あまり数学教師に向いているとは言い難いのだが。 「これを見てくれるか」 ピアノを弾き、指揮棒を振る長い指が添えられたのは、ファイルの中の1ページ。 茶色い付箋が張ってあるその場所を、その指がゆっくりとめくる。 そこには『奈月葵』と記されてあった。 この一年間教科担当してきたが、小テストも含むすべてのテストで満点を収めたという、まさしく『特異な例』といえる生徒だ。 「あ、もしかして、奈月は僕のクラスになるんですか?」 「そうなんだ」 「うわぁ、僕、実は『学年一位』って言う生徒を担任したことがないんですよ。嬉しいな〜」 そう言って単純な笑顔を見せると、その雰囲気は生徒たちとあまり変わらなくなる。 「おいおい、いったい何を喜んでいるんだ」 呆れながらも直人はその内心を隠さずに小さく笑いを漏らす。 「まあ確かに奈月は申し分のないほど良く出来た子だから、教師としてはやりやすくてありがたい生徒だがな」 言いながら、直人の指先はある一点にとどまった。 そこは、保護者欄。 ほとんどの生徒の場合、同じ姓の名が書かれているはずの場所だ。 だがそこには、翼にも見慣れた名前が記されていた。 『赤坂良昭』 つい最近その名を見たのは、自分が持っているCDのジャケットだったか。 確かお気に入りCDの一つ、『ベートーヴェンの交響曲第5番』だ。 薦めてくれたのは直人で。 「直人先生…これ、まさか」 「そうだな、大概の場合『同姓同名の他人』だと思うだろうな」 「…ってことは、『紛れもなく本人』ということですか?」 「そういうことになるな」 保護者欄に『世界的に活躍する指揮者』の名前。 翼は一度、首をひねった。 「あの、保護者って事は……」 「奈月の父親なんだ、彼は」 は……。 「はいぃ〜?」 その声があまりに間抜けていたせいで、直人は盛大に吹き出した。 「つばさ〜、お前、あんまり間抜けな声をだすなよ」 「え、でもっ」 「事実なんだから仕方ないさ。赤坂良昭は奈月葵の父親だ」 「嘘みたい……」 呆然と葵の身上書に視線を落とす翼に、直人は畳みかけるように続けた。 「まあ、お前の事だからいつ気づくかわからないからな」 「はい?」 「先に言っておいてやるよ」 直人はまた小さく笑うと、一呼吸おいて言った。 「つまり、奈月は『我が校の名物三兄弟』の弟になるというわけだ」 「……」 ええと。 しばしの沈黙。 「…そうか。そうですよねっ!」 「お前、鈍すぎ」 そうは言うが、直人にとっては予想通りの反応だ。 「いや、だって守と昇の保護者欄にはお母さんの名前が書いてあったから……」 昨年度の昇、そして今年度の守。 二人の『生徒調査票』を思い出しながら、ちょっと口を尖らせて翼が言う。 「…ああ、それもそうだな」 「そっかぁ、名物四兄弟になるわけかぁ…。あ、でも奈月だけ苗字が違うのはどうしてですか?」 「それなんだ……本当に聞いて欲しいことは…」 そうして直人がゆっくりと時間をかけて語って聞かせたこと。 それは翼のように『ごく普通』に育ってきた人間には驚異的な『物語』だった。 そんな話は『紙の上』のものだと思っていた。 そう言えば……。 話の後、たまたまかかってきた電話に光安が応対している間、翼はコアラ模様のマグで冷えた手を温めながら思い出していた。 あれは去年の秋。聖陵祭の大騒ぎの余韻も収まりかけてきた頃。 ちょうど部活の指導中だった。 コートで生徒たちに檄を飛ばしていたとき、サイレンを鳴らして正門から入ってきたのは、教師としてはこんなところでは絶対にお目にかかりたくないものだった。 騒然とする生徒たちに落ち着くようにと声を掛け、その場を離れないように指示をすると部長に後を任せて、とりあえず情報を入れるために教務のある本館へ走った。 そこでまず、生徒が血を吐いて倒れたことを聞いて驚き、次いでその生徒の名を聞いて更に驚いた。 テストを返すとき、『よくやったな』と声を掛けると、『ありがとうございます』と礼儀正しく返してくる優しい笑顔が脳裏をよぎった。 そして暫く後に大至急で輸血が必要との連絡が入り、自分も同じ血液型であることに幾ばくかの安堵を覚えつつ、数十人の高3生を学校の小型バスに乗せて慌ただしく病院に向かったのだった。 ――そう言えばあの時、早坂も『俺、O型じゃないけど、同室なんだから連れて行け』って大騒ぎしたっけ…。 「もしかして、去年の秋のあれって…」 翼は、直人が電話を終えて、ソファーに腰を下ろすのを待ちかねたように、聞いてみた。 「ああ、奈月が倒れた件か?」 さすがにカリスマ教師。自分と違って察しがいい。 「そうだな、あれは奈月が自身の出生に関して動揺した結果だな」 悟とのことは言わないでおくけれども。 「私は最も身近にいた大人だったのに、あいつの混乱に気づいてやれなかった。可哀相なことをしたと思っている」 静かに告げる言葉に、直人の愛情が滲む。 こんな教師になりたいな…。 翼は憧れと尊敬を込めて、直人を見つめる。 「というわけで、奈月のことは卒業までそっとしてやって欲しいんだ」 「はい、それはもちろんです」 「ただ、お前が『知っている』ということだけは、奈月に伝えてやってくれ。どんな形でもいい。それはお前に任せるから」 ☆ .。.:*・゜ 音楽準備室からの帰り道。 『なんだか今日ってスゴイ日だよな』と、脳天気な翼ちゃんはその歩き方からして若干浮かれている。 からかわれていると思っていた生徒が実は、自分の授業を気に入ってると言ってくれたことや、奈月葵のこと。 翼は聖陵でしか教えたことがないから、他の学校のシステムはよく知らないのだが、ここ聖陵では、次年度のクラス割りは主に当年度の担任たちが話し合って決めている。 次年度の担任に意見を聞くのは、必要に応じて…と言うことになっているので、特に問題がなければ次年度の担任は『決定したクラス割り』を受け取るだけ…と言うことになる。 つまりは奈月葵の『秘密』を守るために、直人は次の担任に自分を選んでくれたと言うことになるのだ。 なんだかとっても嬉しい。 「そっか〜、奈月葵か〜」 そして、成績優秀なだけでなく、その容姿と性格から『学院一のアイドル』といわれている生徒をクラスに持つことについて、『秘密を守る重さ』よりも、単純に嬉しさから浮き足だってしまうあたり、翼もまだまだ若い。 実は現在担任をもっているクラスにも有名人はいるのだが…。 ――守のやつにはおちょくられまくったからなぁ。 生徒の一言一句に素直に反応してくれる可愛らしい教師は、桐生守にとって格好の遊び相手だったらしい。ほとんど『ダチのノリ』と言ってもいい。 だが、それは翼にとっても決して不快なものではなかった。それどころか、はっきり言って楽しい一年だったと断言できる。 また、あんな楽しい一年だといいなぁ……な〜んて、お気楽に夢見つつ、『校外秘』と朱書きされた『生徒調査票』をめくってみれば…。 ――えっ、『古田篤人』? ヤツも俺のクラスっ?! わだかまりは解けたとはいえ、これはいきなりだ。 ――俺、またおちょくられるのかなぁ…。 篤人は守とは全然違うタイプだが、大人を大人と思っていないようなところはそっくりのような気がする。 ――ま、いっか。古田も俺のこと好きだって言ってくれたし。なんとかなるだろ。 この時のお気楽翼ちゃんに、『古田篤人に引っかき回される次年度』など、想像出来るはずもなかった。 |
【3】へ |