君の愛を奏でて〜外伝

歌の翼に〜第1章

【3】






 何年教師をやっていても、自然と気持ちの引き締まる4月。

 聖陵学院も、散り始めた桜の中、新年度を迎えた。

 今日は入寮日。

 担任を持たない教師は明日から登校してくるが、担任を持つ教師は必ずやってくる。

 なにしろクラスの9割が寮生なのだ。入寮チェック一つとってみても、寮長である教師だけに任せるのは酷である。


 ――いずれにしても、2年は楽でいいよな〜。


 2−Aの寮生のほとんどが早い時間に入寮したとあって、翼はすでにお気楽モードだ。

 これが1年の担任だとこうはいかない。
 高校はまだしも、中1の担任など持った日には…。



 翼が教師になって2年目に初めて持った担任は中学1年だった。

 偏差値の高い私立とあって、理解力の点でも行動の点でも問題のある子はいないのだが、なにしろ聖陵学院は広い。

 迷子にでもなられた日には、それこそ校内をバイクに乗って探し回りたいほどだ。…もちろん校内では自転車すら禁止されているが。


 あの時は1週間で3キロ痩せたっけ…。


 そんなことを考えながら、数学準備室へと戻ってきた翼を廊下で待っているヤツがいた。


「先生」
「古田…」
「今年1年、よろしくお願いします」


 礼儀正しく頭を下げる。
 むろん篤人には、二人の関係を1年で終わらせる気など毛頭ないが。


「こちらこそ、よろしくな」
「俺、先生のクラスになれて嬉しいです」

 本当に嬉しそうな顔をすると、案外子供っぽいな……などと思った翼だが…。


 そう言えば…。

 2月末に直人からクラス割を受け取ったとき、少し不思議に思ったのだ。

 学年1位である奈月葵は、直人からの直々のご指名で預かることになった。

 2位の浅井祐介は葵の同室であるからもれなくついてくるとして、どうして3位までが同じクラスなんだろう…と。

 普通、ワン・ツーが同じクラスなら、3位は違うクラスへ分けないか?

 それを思い出したとき、篤人が歩を進めて翼の目の前に来た。

 視線は数センチ高い。

 見下ろしてくる銀縁眼鏡がやたらと知的に見えた瞬間、翼は『こいつならやりかねないな』と思った。



「まさかお前…、なんか裏技使ったんじゃないだろうな」

「何の話ですか? いきなり」

 そうは言うものの、さして不思議そう顔などしていない。翼の言いたいことなどお見通しといったところか。

「ええと、クラス編成、とか」

 話を振っては見たものの、それはあまりに非現実的だろうかと、ぽややん翼もちょっと気がついたようだ。急に言葉に勢いがなくなる。

 そんな翼に、篤人は口の端だけ僅かに上げて、大人っぽい笑みを返す。

「滅相もない。俺は正真正銘、善良なる一般生徒ですよ。調査票も見たでしょう? 聖陵とは何の関係もない、ごくありふれたサラリーマン家庭の長男です。そんな俺に『裏技』なんて使えませんよ」

 本心を言うならば『使えるものなら使ってるって』…といったところだろうか。


 そして、静かに語る篤人に、翼もちょっと口を尖らせながらも納得するしかない。 

 確かに調査票は見たし、特別な通知も受けていない。

 もし生徒が学校関係者の親族だったりしたら、担任には一応その旨通知がある。通知をもらったところで別に何も変わらないのだが。

 むしろ成績が悪かったりしたときにはデメリットに働く方が多いだろう。
『お父さんが泣くぞ』とか『叔父さんに恥じかかせるなよ』などと脅されてしまうのだから。


 しかし、それでもまだ疑わしげな上目遣いでジッと見つめてくる翼を、篤人は何故か嬉しそうに見下ろしてくる。


「俺の『引き』が強いんですよ、翼セ・ン・セ」


 いきなりの『ファーストネーム呼ばわり』に翼が零れんばかりに目を見開いた。


「その名前で呼ぶなってばっ」
「どうして? 可愛いじゃないですか」
「あのなっ」


 可愛いから嫌なのだ。

 そりゃあ、中学高校時分ならまだいい。
 柄も少し小振りだったし、自分でもちょっと「翼くん」って雰囲気が漂っていた気も…しなくはない。

 だが、20代もラストスパートに入る頃になると、親には申し訳ないが、この名前はちょっと恥ずかしいのだ。

 さらに、30代40代になると一層そう思うようになるだろう。

 かえっておじいちゃんになってしまった方がマシかも知れない。


「先生、自己紹介の時、わざと苗字しか言わないでしょう? あれ、かえって逆効果ですよ。 みんな影では『翼ちゃん』なんて呼んでますからね」

「なに〜?!」

「先生が恥ずかしがってて言わない…っての、バレバレですから」


 なんだ、そのバレバレってのはっ!
 俺は別に恥ずかしがって……いや、恥ずかしいんだけどさ。


 一人でにグルグルと回ってしまう頭を、ええいっ…とばかりに振り切って、翼は人差し指をビシッと篤人に向けた。


「とにかくだっ、名前でなんか呼ぶんじゃないぞっ」

 キッパリと言い切ってみる。これは、もちろん命令…のつもり、だ。

 だが、篤人はそんな翼にお構いなく、爆弾を一発、投下してきた。

「どうしてですか。光安先生は『翼』って呼んでるじゃないですか」
「お、お前、どこでそれをっ!」
「さて、どこでしょう」


 言われて翼は真剣に『あの時だろうか』『いや、この時だろうか』と悩んでいるようだ。


 …先生…、先生の事なら何でも知ってる俺を舐めちゃダメですよ。


 こう言うのを世間ではストーカーというのだが、そんなことは知ったこっちゃない。


「とにかく、明日の『2−A初顔合わせ』ではちゃんとフルネームでの自己紹介お願いしますね」

「…やなこった」


 新年度の初日――初日どころかマイナス1日――の時点ですでに生徒に主導権を握られるなどとんでもない。

 翼はぶすくれた顔で、『いいからさっさと寮に帰れ』と言い渡す。

「どうせ荷物の整理もしてないんだろっ」


 …こんなに早々とここまでやって来やがって……。


 だが、篤人はあくまでも篤人だった。

「いえ、部屋の整理はすべて終えました。生徒会室にも顔を出してきましたし、明日への備えは万全です」

 言い切られてしまって返す言葉もない。

「ということで、先生。お茶でもしましょう」
「はい〜?」

 なんでお前とまったりお茶なんて…と、じたばた無駄な抵抗する翼。
 しかし…。

「明日からの2−Aについて熱く語りあいましょう」

 こう言われて黙ってしまうあたり、かなりの純情教師であることに間違いはなさそうだ。

 篤人は、誰にもわからないように、ひっそりと、しかしとても嬉しそうに微笑んだ。



                   ☆ .。.:*・゜



 そして翌日。

 本格的にスタートを切った新年度。

 2−Aの教室で翼は今年も自己紹介で苗字しか言わなかった。
 むろん翼もちゃんと『いいわけ』を用意していた。

 この学年、5クラス中3クラスだけだが、去年も教科担当をしているのだ。

 しかも、ほとんどの生徒が中学から数えて5年目の聖陵生活だ。知らない顔を探す方が難しい。
 だから、わざわざフルネームであらたまった自己紹介の必要はない。

 篤人に突っ込まれたら、そう言い返すつもりでいた。
 翼がそこまで用意周到になることは稀なのだが。


 そして、新2−Aのオリエンテーションは『クラス委員選挙』で篤人を委員長に選出、他の委員も、その新委員長のもとで混乱なく決まっていった。

 その様子を教室の後ろで見ていた翼は、こういう場面で『中高一貫、しかも9割寮生』と言う環境は便利だなと感じていた。生徒同士が『適材適所』を把握出来るほど『知り合って』いるからだ。


 まあ、確かに古田の議事進行もまずまずいけてるけどな…。


 手放しで誉めるのがなんとなく悔しくて、評価はついつい辛口になる。

 けれども、全くの新入りであるにも関わらず、入学3ヶ月後には生徒会執行部員に選ばれ、今年秋の選挙では『浅井祐介の出馬がない限り、生徒会長当確』などと言われている篤人は、確かに人の心を掴むのが上手そうだ。

 教師の立場で掴まれていてはお話にならないのだが。





「先生」

 生徒任せで成り行きを見守っていた翼に、篤人が教壇から声を掛けた。

「なんだ」
「クラスの席決めは抽選でいいですね」
「ああ、構わない、任せる」

 …とは言ったものの…。

 見れば、小柄な――いや実際はそう小柄でもないのだが、周囲が大きいせいで損をしているのであろう葵が、新委員長に何やら抗議をしているではないか。

 どうやら、彼の席だけがあらかじめ決められているらしい。

 これは面白そうだな…と、翼はさりげなく会話の聞こえる所まで場所を移動してみる。


「2−A全員の精神衛生状態を考えるとこれがベストなんだ」


 クラス全員の精神衛生状態か〜。
 ふうん、古田のヤツ、面白いこというじゃないか。


 脳天気な担任に、いたいけな子羊ちゃんを救う気はさらさらないようだ。


「奈月にはこんな経験はないか? 『あの子がいるから学校が楽しい』っての」

「そりゃまあ、学校へ行く一番の楽しみは友達に会えること……だけど」

 学年ダントツの頭脳を持つ生徒が、いいように説得されている姿が何だか可愛らしい。

「だろう? 気になる子がいるから学校が楽しいとか、『好きな人に会えるから部活が楽しい』とか」

 ついでに篤人的私見を混ぜると『あの先生がいるから学校が楽しい』……のだが。

 篤人に言われた葵は、なんだかちょっと頬を染めたように見えたが、結局篤人と周囲に押し切られたようだ。

 そんな様子を全くの第3者的ノリで眺めていた翼だが…。



 あれ、なんだこれ?
 学食の割り箸じゃないか。
 面白そうだな。一本引いちゃえ。



「おい、古田〜! クジ、一本足んねぇぞ!」
「そんなはずはない。ちゃんと39本……」

 自分にそんな落ち度があるはずはなかろうと、原因究明のためにあたりを見渡した篤人が見たもの。それは…。


「先生…」
「あ?」
「どーして先生まで引いてるんですかっ」

 だって、面白そうだったんだも〜ん……とはさすがに言えないが。

「ったくもう、いくら生徒に混じってる方が似合ってるからって…」


 おいっ、それはないだろうっ!


 周りで篤人の言葉を耳にした連中がクスクスと笑っている。
 見れば葵にまで笑われているではないか。

 ――ったく、お前のおかげでとんでもないスタートになったじゃないか…と、完全に自分のことは棚に上げ、翼はこっそりとため息をついた。



                   ☆ .。.:*・゜



「奈月」

 クラスのオリエンテーションが終了して、食べ盛りの生徒たちが待ちに待った昼食のために食堂へと移動を始めたとき、翼はあまり周囲に気づかれないように注意しながら葵を呼んだ。

「ちょっといいか?」

 隣には祐介の姿。
 実際いつ見てもこの二人は一緒にいる。

 直人からも『浅井はすべて知っているから』と告げられているので、ここは慌てる必要もないのだが、何かを察したのか、葵は祐介に『先に行ってて』と告げた。

 二人きりになると、何だかかえって気詰まりだが。


「ええと、光安先生から聞いているんだが…」

 どうしてだか語尾を濁してしまいがちになる。

 だが、葵の回転の速さはやはり普通ではなかった。
 翼が濁した部分で、すでに話の内容を掴んでいたようだ。

 ふんわりと優しい眼差しが返ってきた。

 癒し系…ってこんな感じを言うのかな……なんて、ついつい余計なことを考えてしまう。

 実際、その眼差しの柔らかい光のせいで、こんなにも気持ちが楽になっているのだから、それも外れではないのだろうが。


「あのな、個人面談の日程とか、一応出席番号順で出すけれど、お父さんが忙しかったらいくらでも変更してやれるから遠慮なく言って来いよ?」

 もっとメンタルな面を持ち出されると思っていたのだろう、葵は、ちょっと驚いたような顔を見せたが、すぐに花が綻ぶような…学院中を魅了している笑顔に変わった。


「はい、ありがとうございます」

「それと、学校からの通知も全部お父さんに郵送していいのかな? もし都合が悪いのがあるのなら教えてくれ」

 言葉だけの慰めでない、翼の精一杯の気遣いが葵の胸に染み込んでいく。

「はい、大丈夫です。ええと……父……、からも、全部きちんと報告するように言われていますから」

 言いにくそうに『父』と言った葵がなんだかとてもいじらしくて、思わず抱きしめたくなってしまう。


「とにかく何でもいいから、遠慮なく俺に言って来いよ?」

 そう言うと、葵は心の底からくつろいだ微笑みを見せた。

「ご心配おかけしてすみません。でも、大丈夫です。僕、今すごく幸せですから」


 それは、この年齢にしていくつもの困難を乗り越えてきたという事実が物語る、強さのように思えて…。

 そして、それを目の当たりにして、翼の腕は、ごく自然に葵を抱きしめていた。


 だが……。


「「先生…」」


 ダブルウーハーの重低音がステレオで翼の耳に飛び込んできた。

 振り返ってみると、いつの間に戻ってきたのか、そこには2−Aが誇る美男子二人。

 甘系ハンサムは葵の首根っこを掴んで引き剥がし、優等生系ハンサムはあろうことか担任の首根っこをひっ掴む。


「カワイコちゃん同士でいちゃついてるんじゃありませんっ」


 ――なっ!
 どうして俺がカワイコちゃんなんだよっ!


 翼はこの1年の前途多難を――いくら『ぽややん』教師であっても――予感しながらそのままズルズルと数学準備室に引きずられていった。



第1章〜END

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