君の愛を奏でて〜外伝

歌の翼に〜第2章

【1】






「あ、先生! 古田が探してましたよ」

 ――げっ。


 初夏のとある放課後。

 インハイ地区予選を目前にして練習にも気合いが入るテニス部での部活を終え、顧問の松山翼が数学準備室のある第1校舎へ戻ってきたとき、彼に声を掛けたのはテニス部長の森澤東吾だった。

『古田』という固有名詞に激しく反応してしまった自分の心臓をこっそりと宥め、翼は東吾を振り返る。


「どうしたんだ、森澤。会議じゃなかったのか」

 運動部会の会議があると言って、部活後のことを副部長に任せてそそくさと出ていったはずの東吾が何故ここにいるのか。

 翼が尋ねると、東吾は『それが…』と、翼の元へやってきた。

 大きいとは言えない翼の、更にもう少し小さい東吾がぱっちりと見開いた目で見上げてくる。


「部会長が戻って来れなくなったんですよ」

「加賀谷が? 遠征か?」

「はい。横浜へ行ってたんですけど、帰りの高速で渋滞に巻き込まれたらしくて、予定時間に帰校できなくなったって」


 今期運動部会長を務める加賀谷賢が率いる剣道部はまさに黄金期のまっただ中で、それ故遠征だなんだと忙しいことこの上ない。


「そっか、それなら無理か」

「はい。会議は明日に延期になったんですけど…」

 東吾がニコッと笑った。
 元々可愛らしい顔立ちだけに、こんな風に笑うと華があってさらに愛くるしい。
 本人に言うと怒り狂って大暴れと言ったところだろうが、とても高校3年の男子には見えない。


「古田が来ていて、『松山先生は来られないんですか?』って聞いてましたよ」

 またしても心臓に悪い固有名詞を繰り出され、翼はウッと息を飲む。

「な、なんで古田が運動部会にいるんだ」

 言葉に詰まるのも情けないが、そんなことも言っていられない。

 そもそも篤人が運動部会に顔を出していても、生徒会執行部員なのだから何ら不思議ではないのだが、なにしろ篤人は次期生徒会長最有力の執行部員なので、主な仕事は正副会長の補佐のはずだ。

 なのに、わざわざ運動部会に顔をだすとは…。


「運動部会担当と兼任って言ってましたよ。ま、あいつ頼りになりますから、俺たち運動部会としても大助かりですけど」

 兼任だなんて初めて聞いた。

 わざわざそんな面倒を背負い込むなら、いっそのこと文化部会との兼任にしてくれ…とは、ここでは口にはできないが。


「あいつ、先生のこと好きなんですね」

 ニコニコと屈託なく東吾が笑う。

「…なっ…」

 なんで知ってるんだ…とは更に口に出せない。

「俺が『真路たちの補佐と運動部会と兼任じゃ大変だろう?』って聞いたら、『松山先生のお役に立ちたいから、運動部会にも関わっていたいんですよ』って、そりゃあ嬉しそうにいってましたよ」


 だが、ここで東吾の言う『好き』と、篤人が言う『好き』の意味は恐らくまったく違うだろう。
 それくらい、天然の翼にもわかる。
 あの時の、篤人の瞳の強い光を翼は忘れていないから。




『俺、先生のことが好きなんです』

 やたらと真剣な瞳が銀縁眼鏡の奥で光ったかと思ったら、その口からでたのはそんな台詞だったのだ。

『ちゃんと、わかって下さい。俺が言う、『好き』の意味を』





「な、森澤っ」

「はい?」

「古田に会ったら、俺はもう帰ったって言っといてくれっ」

「え? あ、はい」

「頼んだぞっ」

 怪訝そうな顔をする東吾を背に、翼は走り出した。



                  ☆ .。.:*・゜



 あれは新学期が始まってすぐのことだった。

 一旦却下されていたテニス部の新しいネットの購入費について、もしかしたら計上できるかもしれないので顧問の意見を聞きたい…と生徒会から連絡を受けて行ってみれば、そこには正副会長などの他に2年生執行部員では篤人だけがいて、かなり遅くまで生徒会室で話し合った。

 話し合いはめでたく決着し、テニス部は予定の半分とはいえ新しいネットを購入する予算を得、翼が上機嫌で帰宅しようとしていると、その後を篤人が追ってきた。


「先生、お話したいことがあります。正門までいいですか?」

 もちろんいいよと返事をして、2人で連れ立って校舎を出た瞬間、春とは思えない冷たい風が吹き抜ける。

「ひゃ、寒…」

 思わず首を竦めた翼を、背後から暖かい腕が抱きしめた。

「ふ…古田っ?」

「こうしていれば暖かいでしょう?」

 耳元にかかる息もなんだか妙に熱い。
 そして、篤人の腕の中は存外に心地よく……。

「お、俺は寒くないぞ!」

 思わず預けてしまいそうになった体を慌てて捩り、翼が強がると、篤人は小さく笑った。

「俺が寒いんです。だから、少しの間、温めて下さい」

 ギュッと腕に力を込められて、翼の体が硬直する。

 言葉が出せない。
 やめろ、とも。 いいよ、とも。

 そんな翼の内側を察しているのかいないのか、篤人もまたしばし無言で翼の体を抱きしめる。


「…寒いんだったら、早く寮に帰れって…」

 観念したのか、意外に落ちついた声で翼は、背後から自分に回された力強い腕をトントン…と、軽く叩いた。

 素直に『はい、そうですね』とは言わないだろうと思っていたのだが、これまた意外なことに、篤人は一つ息を吐くと、『そうですね、戻ります』と、あっさり翼の言葉に従ったのだ。


「じゃあ、先生、また明日」

 離れた体の隙間に容赦なく入り込んだ冷たい風が、また翼を震わせる。

「…ああ、風邪ひくなよ」

「はい。先生も」

 そう言うと、くるりと踵を返し、篤人は寮へと続く坂道へ向かって駆けだした。


「…寒…」

 その背中をぼんやりと見送ってしまった翼は、もうとっくに残っていない篤人の熱を惜しむかのように――もちろんまるっきり無自覚だが――自分の体をギュッと抱きしめた。


                      ♪


 腕の中の熱がいつまでも離れない。

 寒いと呟いた翼の言葉に乗じて、あれこれ思う間もなくその体をこの手の中に閉じこめてしまった。

 途端に硬直してしまった翼の体が、愛おしくて、少し寂しい。

 自分よりも一回りも年上の男性教師。
 普通なら抱きしめたところで心地の良いものではないのだろう。
 けれど、翼は違った。

 テニスで鍛えたしなやかな体も、元は華奢な造りなのだろう、ぴったりとこの腕の中に納まってしまい、そのあまりの充溢感に一瞬我を忘れた。

 それは、ずっと探していた失せ物を取り戻したかのような喜びで…。


「しまったな……」

 寮の灯りが見えてきたところで篤人は呟いた。


 もう少しゆっくりと事を運ぶつもりだったのに、自覚していた以上に余裕のない自分にいっそ笑いが漏れる。

 腕の中の感触が忘れられない。

「つばさ……」

 胸が、苦しい。



                   ☆ .。.:*・゜



 それ以来、何かというと篤人は翼に触れてくるようになった。

 もちろん校内であんな――腕の中に閉じこめられるような――接触はないのだが、翼が資料を抱えていると、『持ちましょう』と言って触れた手がそのまま翼の手を握り込んできたり、『質問があります』と言って、座る翼の背後から覆い被さってそのまま肩を抱いてきたり。

 翼にしてみれば、どう考えても『教師と生徒』の触れ合いではない。
 おまけにここは男子校。自分もOB教師。お互いに歴とした男性だ。

 そう言えば、この前などは、呼ばれて振り返った瞬間に篤人の唇が自分のこめかみに触れたのだ。

 しかも…。
 どうも押し当てられたような気すらする。

 そして、爆弾発言があったのは、昨日のことだ。



『俺、先生のことが好きなんです』

『…古田?』


 こんな台詞は少し前にも聞いた気がする。

 そうだ。数ヶ月前――前年度の終わり頃――連日質問に訪れる篤人に、『先生の授業はわかりやすくて好きです』と言われてホッとしたときのことだ。

 だが、あの時の篤人はこんな瞳をしていただろうか。
 射抜くような。燃えるような。


『ちゃんと、わかって下さい。俺が言う、『好き』の意味を』


 そう言って、唖然とする翼をギュッと、正面から一度だけ強く抱きしめて、篤人は教室から走り去った。




 もしかしてあいつは本気なのか?

 ここのところ、考える隙が生じた瞬間、翼の頭の中を占めるのは篤人のことだ。

 相変わらず過剰なスキンシップは続いていて、けれど言葉を重ねることはない。

 ただ、ふと目があった瞬間の強い光が翼を釘付けにするだけで。


『俺、先生のことが好きなんです』


 告げた言葉の意味をちゃんとわかってくれ…と、篤人は言った。


『好き』の意味。

 翼だってとっくに子供ではなくて社会人も7年目の歴とした大人だ。

『好き』の意味くらい知っているし、それが色んな意味を含むこともわかっている。


「守備範囲の広い便利な言葉だよな」

 ポツッと呟いて、翼は準備室のデスクに突っ伏す。

 軽い好意を現すのに『好き』という言葉は打ってつけだ。

 充実していた聖陵での6年間の学生生活の中でも、何度もこの言葉は使ったし、告げられもした。

 でも、それらはみんな、暖かい友情を内包したものだったはずなのだ。


 大学に入ったら、今度は女の子たちからそんな言葉も聞いた。

『好きなの。つき合ってくれない?』

 あの時の『好き』…は、恋愛感情の好き…だったはずだ。

 拒む明確な理由も見いだせなかったから、告白されるままに何人かの女の子たちと何回かはつき合ってみたけれど、自然に寄り添える子には出会えなくて、結局自分から誰かのことを『好き』と口にできることはなかった。



『俺、先生のことが好きなんです』

 よしんば篤人が本気だとしても。

 彼はまだ子供だ。
 17歳という、まだまだ自分の気持ちを持て余し、誤解をしてしまっても不思議ではない年齢だ。

 まして、こんな閉鎖された空間で日々過ごしていれば、手近な人間を恋愛対象にしてしまうのも無理からぬ事かも知れない。

 それに、教師への想いなどにかまけていて成績に響いては大事だ。
 今のままで十分、国立の最高峰を狙えるところにいるのだから、このまま問題なく学力を伸ばし続けてやりたい。

 だから、篤人が卒業してここを巣立つまで、自分が余裕を持って接し、それとなくかわし続けてやることが大人の…いや、教師のつとめだろう。


 翼はそう結論付けて、一つ深呼吸をした。

 何故か、すっきりはしないけれど。




 その日から翼は、篤人が触れてくるたびに余裕の笑顔でかわすようになった。

『こらこら、暑いからそんなにくっつくな』

 何にも意識していないぞ…という、それとない意思表示は、本来の翼の性格からすると相当の努力を要するものではあったのだが、これも篤人のため…と、萎えそうになる自分を叱咤する。


 日に日に塞いでいく自分の気持ちを検証する余裕もなく。



 そして、そんな翼の変化を当然篤人は見逃していなかった。

 聡い篤人に読めないはずもない。
 翼が大人の余裕でかわそうとしていることなど。


 見えない一線を引かれた。

 その事実は篤人を少なからず追いつめる。
 しかし、ここで暴挙に出るつもりなど毛頭ない。

 自分はもう、翼をこの腕に抱いた未来しか考えていないのだ。

 翼を心ごと抱きしめるために、今は、焦らずにいたい…。



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