君の愛を奏でて〜外伝

歌の翼に〜第2章

【2】






 1学期末の試験を間近に控えた聖陵は、部活動も停止になって校内は至って静かだ。

 大概の生徒が寮に帰ってそれぞれに机に向かっているだろう放課後、2−Aでは3人の生徒が担任の監視の元、大量の課題に取り組んでいた。

 3人の生徒とは、クラス委員長の篤人、そして祐介と葵。
 つまり2−Aが誇る学年TOP3だ。

 だがこのTOP3は、今回揃ってクラスの平均点の足を引っ張った。

 彼らが成し遂げたのは、雁首揃えて小テストで0点という珍事――クラスメイトたちは『快挙』と囃し立てていたが――だ。

 おかげで2−Aはクラス平均が学年最低――しかもダントツ――ということになり、よりによって担任をしているクラスが自分のテストで最低点だなんて、さすがの翼もぶち切れてしまい、3人を残して課題責めにしたのだ。



『うわー! 0点!』

 返ってきた答案を見て、妙にはしゃいだのは葵だ。
 自身で見たことのない点数に、新鮮な驚きを覚えたようだ。


『…やば…』

 ため息をついたのは祐介。


 そして、篤人はと言うと、『ああ、やってしまいましたね』と、平然としているではないか。


 もっとも優秀な生徒が揃ってこんな事になってしまったわけは至極単純なことだ。

 要は勘違いから『+』『−』を逆につけてしまっただけなのだ。

 だが、勘違いとは言え間違いは間違い。


『これが入試だったらどうするつもりだ〜!』

 仁王立ちの翼に3人は首を竦め――葵は『でも音大入試に数学ないも〜ん』などと考えていたのだが――とにかく翼が用意した大量の課題に取り組むことになったのだ。

 ほとんど罰ゲームのノリなのだが。

 だがしかし。
 大量の罰ゲームにも葵は涼しい顔でさっさと全問解いて教室を出ていった。

 同室の祐介を待ってやろうという気はないらしく、後ろも見ずに駆けていく。

 そして、それから暫くして祐介も全問をクリアして寮へと戻っていった。

 残されたのは篤人一人だ。

 だが。


 ――やけに時間かかってるな。


 葵はともかく、こと数学に関して、祐介と篤人の学力の差はほぼ無いに等しい。

 なのに祐介が全てを終えてから30分経ってもなお、難しい顔で答案を見つめている篤人に、翼はさすがに不審を覚えて背後からそっと答案を覗いてみた。

 最後の問題が白紙のまま、手つかずだ。

 声を掛けたものか…と、翼が思案したとき、篤人が顔を上げた。


「先生。わからないので解説をお願いします」

「…あ、ああ」

 素直に解説を求められて――だいたい最後の問題は、半ばやけくその当てこすりでくっつけた相当な難問なのだ。正直、あっと言う間に解いて行った葵には驚いたくらいだ――翼は篤人の横に椅子を引きずってきて解説を始めた。

 それを篤人は神妙に聞いていて、一通りの説明を終えると自分の口で繰り返し、答案の上に実施してみせる。

 さすがに飲み込みは早い。これで同じ傾向の問題はもう大丈夫だろう。篤人は応用力にも優れているから。


「よし、よくできた」

 100%教師モードの翼がそう告げ、ざっと目を通してみても全問正解のようだったので『帰っていいぞ』と、言おうとしたその時…。

「先生……」

 熱い息が頬に触れた。

 その感触に背筋がざわりと騒ぎ、本能が翼に『回避』を命じたが、身体が動く前に翼の身体は篤人に深く抱き込まれていた。


「…ふ…っ」

 突然のことに、最近被り続けていた大人の余裕を取りこぼし、翼は目を見開いて篤人の名を呼ぼうとする。

 だがそれは叶わなかった。

 その唇が、篤人の唇で塞がれてしまったからだ。


 自分に何が起こっているのか、一瞬理解できずに呆然と全てを預けてしまった格好になった翼の唇を、篤人は容赦なく割って、更に深く貪ってくる。

 息を継ぐことなど到底不可能なほど、深く激しく。



 抵抗することも忘れている舌を絡め取ってきつく吸い上げると、翼が『くぅ…』と、小さく啼いた。

 何もかも甘すぎて、離せない。
 篤人がそう感じて更に腕に力を込めたとき、翼が身じろいだ。

 力無くぶら下がっていた腕が突然始めた抵抗に、篤人の体が押しやられる。

「…は…っ…」

 僅かにずれた唇の端で、翼が大きく息をした。

 ぶつかる視線。

 その中に、小さな涙の粒を見た篤人は、もう一度正面から翼をきつく抱きしめると、あっと言う間に――日頃の篤人からは予想できないほどの荒々しさで――その体を解放すると、もちろん振り返ることもなく、教室を駆け出ていった。



                      ♪



 頭の中が真っ白だ。
 燃え尽きて灰にでもなったような気もする。


 翼は裏山の奥、銀杏の木の根本で自分の膝を抱えていた。

 自分の体を篤人は手荒く――まるで突き飛ばすかのように解放すると、そのまま走り去ってしまった。

 声を掛ける暇もない早さだったかが、時間があったところであの時掛けられる声など翼は持ち合わせていない。


 暫くそのまま呆然としていた翼だったが、やがてヨロヨロと足を運んだのはここ、裏山だった。

 とてもそのまま数学準備室へ戻ることができず、頭を冷やそうとでも思ったのだろうが、冷やす頭も無いほどに、その中身は空っぽになっている。


 自分の身に何が起こったのか。

 一瞬の出来事に、思考を停止してしまった脳は、舌に鋭い痛みが与えられるまで活動を再開してはくれなかった。

 それまでの間、ただ篤人になされるままを許してしまった。


 予想を遙かに越えてしまった篤人の行動。

 突然の、そしてあまりの出来事に、今まで懸命に『余裕』を取り繕っていた緊張感がぷつりと切れてしまい、何も考えられない。


 ただ体が熱い。心臓の鼓動が納まらない。
 絡め取られた舌に、まだ痺れが残っているような気がする。


 その正体不明の疼きを納めようと、翼が自分の口元を掌で覆ったとき、すぐ側で枝を踏む音がした。


「せ、せんせ…」

 掛けられた声は、よく知っているものだ。

「な、奈月? …え? 悟も?」

「…松山先生…」


 どこから出てきたのか――この先は行き止まりで、道から少し外れたところに、大木の割には死角に入っていて目立たない『沙羅双樹』があり、その下にあるそこそこ大きな岩は、翼が中学の頃によく昼寝に使っていた場所だ。滅多に生徒の来るところではなく、その存在を知らない生徒ももちろん多い。


 それにしても、こんな場所でこの組み合わせとは、もしかして。

 しかも悟は葵の肩をしっかりと抱きしめているではないか。愛おしげに。

 察しの悪い翼でもピンと来るシチュエーションを突きつけられては、素直に感じ入る他はない。

 確かにお似合いのカップルだ。


 ――え、でも…。こいつら、兄弟じゃんかっ! もしかして、兄弟で、しかも…ってことか?


 生徒時代と教職についてからと、合わせて聖陵学院生活通算12年目の翼にとって、『校内でカップル』なんてものは、良いのか悪いのかは別にして、最早驚きに値するものではないが、それにしても兄弟で…となると、これはオドロキもいいところだ。


 いやしかし、兄弟だとわかったのは秋のことだ。
 それ以前に2人の関係が何らかの形をなしていたのだとしたら、それは仕方ないし、葛藤もあったのかも知れない。

 それくらいのことはぽややんな翼でも想像はつくが、いずれにしても、想像の域をでない事には違いない。


「先生、こんなところでどうなさったんですか?」

 悟が翼の前で膝をついた。
 もしかして気分でも悪いのかと不安げな表情だ。


「しんどいの? せんせ」

 葵も翼の顔色が気になったのだろう。ちょこんと隣に腰を下ろして覗き込んできた。


「あ、いや、すまん。そうじゃないんだ。大丈夫」

「…それならいいんですが…」

 微笑んで見せた翼に、悟は完全とは言えないまでも少々は納得したのか、葵の隣に腰を下ろす。

 夏の夕暮れ。時折抜けていく風が心地よい。



「…もしかして、先生、悩んでません?」

 とりあえず疑問形ではあるけれど、確信に満ちた、しかもちょっと嬉しそうな表情で葵が尋ねる。

 翼は頭を抱えるしかない。生徒にまでバレバレだなんて…。


「…まあね」

 でも、こうやって気負わずに弱みを見せてしまうところも、生徒たちにとっては『翼ちゃん』の魅力なのだ。


「…ズバリ」

 葵の、好奇心を抑えきれないかのような、弾んだ声。
 嫌な予感がする。

「相手は古田くん」

 瞬間、思いっきり身体が強張ってしまった。
 何か言わねばと思うのだが、喉が張り付いたようになっていて声が出ない。

 そして、その『無言』は『肯定』になってしまったのだ。


「…え、古田って、さっき話してた委員長だろう?」

 悟が驚きを隠さず、葵に問う。
 2人はつい先ほどまで、翼と篤人の噂話をしていたのだ。
『愛の鞭』とかなんだとか。

 ともかく、翼と篤人の仲を揶揄するような会話だったのだが、話している時は冗談のつもりだったのだけれど、本当だったのか。

 それにしても相手は一回りも年下だ。

 しかし…。

 ――昇と光安先生はもっと違ったっけ…。

 そう思い直してみたのだが…。

 葵の向こう側にちんまりとしゃがみ込んでいる教師は、いくらその表情や内面が可愛いとはいえ、女性に見えるわけでもなんでもない。

 身長だって170は多分――ちょっとだけど――越えているだろうし、細いけれど脆弱なわけではない。

 中学の時からずっと、テニスで鍛えた健康的な体つきだ。

 けれど。
 どうみても篤人の方が『大人』に見える。


 ――…ってことは…。

 もしかしなくてもやっぱり、昇の場合と立場が逆だよな……などと、要らない心配までしてみたり。



「そう、古田篤人くん。僕らの委員長だよ」

 あられもない想像をしかけたところで、葵の返事で我に返る。

「…ああ、そう言えば大貴が『次期生徒会は古田に任せる!』って息巻いてたな」

「うん、それに関してはうちのクラスも『当然だよな』って感じ。ね、せんせ」

 話を振られて、収まりかかっていた動悸がまたぶり返す。

「あ、ああ、そうだな。当確って言われてるみたいだな」

 言葉と一緒に心臓が口から飛び出しそうだ。


「先生」

 葵が妙に生真面目な声で翼を呼んだ。

「古田くんと何かあったんでしょ」

 表情は柔らかいが、茶化した様子はない。

「あ、別に何があったとか、僕たちに言う必要はないですけど、でも」

 葵がニコッと笑った。一撃必殺の笑顔だ。

「古田くん、本気だと思いますよ?」

「…奈月」

 それはわかっているのだと翼は思う。だが。

「先生の許せる範囲ででもいいですから、真正面から受け止めてあげて下さい」

 その一言は、翼のど真ん中に落ちた。

『真正面』

 かわすことばかり考えていて、受け止めるという選択肢はまったくなかった。

 受け止める=受け入れる…だと思っていたから。


「…許せる範囲で受けとめる…」

 呟いた翼に、葵はえへへ…と舌を出した。

「生意気言ってゴメンナサイ。僕もよくわかってないんだけど」

 その言葉に、悟が葵の頭をくしゃっとかき混ぜた。

「こら、葵。先生を悩ませるんじゃないよ」

 笑いを含んだ言葉――悟もまた、助け船をくれたのだと翼は気持ちを暖かくしたのだが――に、葵がまた小さく可愛らしい声で『ごめんなさ〜い』と答える。


「…仲が良いんだな」

 暖かくなった気持ちのまま、表情を緩めてそう言うと、葵は『だって、兄弟ですから』と肩を竦める。

 けれど悟は違った。

「先生、もう気付いてらっしゃるんでしょう?」

 全ての教師が全幅の信頼をおく、悟の穏やかな微笑み。

「弟だけれど、最愛の人…です」

 ふわっと抱き寄せられて、葵が頬を染める。


 そして、その眩しいほどの光景に、翼もふわりと微笑んだ。



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