君の愛を奏でて〜外伝
歌の翼に〜第2章
【3】
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「なんだかさ、森澤の気持ちがわかったような気がする…」 どことなく情けない口調の翼の口から、悟自身も親しくあるが、何より守の一番の親友と言っていい名前が出て、悟は少し目を見開く。 「東吾の、ですか?」 「ああ、森澤のヤツ、ずっと早坂に追っかけ回されてたろ? 必死で予防線張ってる森澤が可愛くてさ、おもしろ半分に観察してたんだけど、あいつもこんな気持ちだったのかと思うと、ほんと、今さらながら無責任に楽しんじゃってさ、悪いコトしたなと思うよ」 はあ…とため息をついて、がっくりと肩を落とす翼に、葵が『あそこ、まとまりましたよ』と、楽しげに報告をした。 「え? まとまった?」 「はい。春休み以降、暑苦しいくらいラブラブです」 もっとも東吾は相変わらず周囲にはひた隠し…にしているつもりらしいが、陽司が嬉しさのあまり舞い上がって垂れ流し状態なので意味はない。 「森澤が? ラブラブ?」 ほんとに?…と目を見開く翼に、葵は『はい』と頷いてみせる。 「早坂の粘り勝ちってわけか?」 やっぱり信じられないんだけど…という様子をありありと浮かべる翼に、葵は『ふふっ』と色づいた笑いを漏らした。 「ですね。陽司もがんばったと思います。でも…」 言葉を切って悟を見る。視線を受けて、悟が穏やかに口を開いた。 「あそこは最初から、相思相愛だったんですよ」 意外な言葉に翼が目を丸くする。 「でも、東吾はずっと受け入れられなかった。失うことが怖くて、心を開けなかったんです」 「…そう、か…」 『失うことが怖い』 それはもしかしたら自分も同じなのかも知れないと、翼は思った。 教師として、慕ってくれる生徒が可愛くないわけはない。 けれど、その気持ちが肥大して形を変えてしまったとき、受け入れられなければ即、喪失に繋がるのではないかと。 ざわざわと音を立てて、銀杏の葉が揺れた。 滞りかけていた、湿気を帯びた空気を一層するような風に、葵が『う〜ん』と伸びをする。 それを見守る悟の優しい瞳に、翼は今の自分に欠けているものは何か…を、ほんの少し掴みかける。 自分は、こんなに優しい目で篤人を見守っているだろうか…と。 「で、2人はいつまでもここにいて大丈夫なのか? 夕飯食いっぱぐれても知らないぞ」 長い夏の陽の光も、それでもすでに暮色を灯している。 校舎の灯りはほとんど消えていて、その代わり、寮の灯りが賑やかになり始めていた。 「え? もうそんな時間〜?」 「行こうか、葵」 「うん!」 悟が差し出す手に掴まり、葵が勢いよく立ち上がる。 その制服に付いた葉を優しい手つきで払い、悟は翼に軽く会釈をする。 「先生、お先に失礼します」 「ああ。心配掛けてすまなかったな」 「せんせ、明日は元気だよね?」 「任せとけって。奈月も期末テストがんばれよ。小テストみたいなミスをしたら、順位落とすぞ」 「大丈夫。僕が順位を落としても、祐介も古田くんもいるんだから、学年一位は絶対2−Aがいただきですってば」 以前、翼が『学年1位がいるクラスを持つのは初めてなんだ』と浮かれて見せてしまったことを、葵はきっちりと覚えていたようだ。 「何言ってるんだ。一番から滑り落ちたらお父さんががっかりされるぞ」 「…えっ」 突然登場の『父親』に、葵がぎくりと肩をこわばらせる。 「あ、あのっ、お、お父さんって…」 「新学年が始まってすぐに、電話をいただいたんだ。よろしくお願いしますってな」 「…ひえ〜…。が、がんばりますぅ…」 隣では悟が笑いを堪えている。 「3者面談には必ず行きますからっておっしゃたから、思わず『その時CDのジャケットにサインお願いしますっ』って言っちゃったよ」 悟のお母さんにもサインもらったことあるんだけどな…と言って、あはは…と笑う翼はもうすっかり浮上したようだ。 そんな翼の様子に、葵と悟は顔を見合わせて幸せそうに微笑み合うと、夕陽の差す裏山の小道をゆっくりと降りていった。 その後ろ姿を見送ると、翼もまた、吹き込み柔らかい風に向かい、葵に倣って大きく伸びをする。 『弟だけれど、最愛の人…です』 静かに、けれど誇らしげにそう言った悟の穏やかな笑みが脳裏に蘇る。 葵の出生のあれこれだけでも相当に厳しい話だったろうに、2人は『その後』も乗り切ったのだろう。 高校3年生と2年生。まだまだ『大人』とは言えない。 翼から見たら十分に子供だ。 けれど、年齢など関係ないのだろう。 人を想うその想いの深さは、年齢などで測れるものではない。 『ちゃんと、わかって下さい。俺が言う、『好き』の意味を』 射抜くような瞳。体が痺れるような抱擁。そして、何かが堰を切ったような激しいキス。 『真正面から受け止めてあげて下さい』 上手くかわし続けるのが篤人のためだと思いこんできた。 その『想い』を子供のきまぐれだと勝手に決め付けて。 「……傲慢、だよな…」 ポツッと呟いてみれば、少しだけ視界が開けたような気がした。 これから自分がどうすればいいのか。明確な答えにはまだ至らない。 けれど、避けていたのでは良い結果は得られないのだと言うことだけはわかった。 それは、篤人にとっても自分にとっても。 もしも真正面から受けとめたら、その後どうなるのか。 それもわからない。 正直な気持ちを吐露するならば、受けとめきれる自信もない。 裏を返せば、だからこそ『かわす』という方法を選んでいたのかも知れないが。 ともかく。 自分は失いたくないのだ。篤人という可愛い生徒を。 だから、できるだけのことはしよう。 そう決めて、翼は勢いよく立ち上がった。 それから半月ほどで聖陵学院は夏期休暇に入った。 結局あの後、校内の全てが期末試験に意識を向けていたのと同じく、翼も教師として、そして篤人もまた、『奈月葵と浅井祐介』という自分の前に立ちはだかる壁を越えるべく、試験勉強に没頭して過ごし、2人にとってちょうどいいインターバルにもなった。 そして、何事もなく突入した夏休み中にも篤人からの接触はまったくなく、翼は『もしかしてあの一件で踏ん切りがついたのかな…』と考えるに至っていた。 そうであればいい。 そうして2学期に元気な顔を見せてくれたら、また元通りに…。 ――元通り? 自分が巡らせていた考えの中で、ふと突き当たりに行き着いて、翼は立ち止まる。 ――元通りって、なんだっけ。 あの激しいキスの前か、それとも『ちゃんと、わかって下さい』と言ったあの時か。それとも2年に進級する前か。 もしかしたら、入学してきた頃――出会う前――か。 そこまで考えたとき、胸がきゅうっと縮んだ。 合宿中の、炎天下のテニスコート。 背中を流れていた汗が、急に冷たくなった気がした。 「先生? どうかされましたか?」 立ち止まった翼に、東吾が声を掛ける。 「ん、いや、何でもないよ」 笑った顔に無理があることに、翼は気がついていない。 だが東吾は、いつもと違う翼の様子に表情を曇らせる。 振り返ると、陽司も気がついたのだろう、怪訝そうな顔をして見せた。 「先生、お疲れなんじゃないですか? よかったら先に上がって下さい。後のことは俺がちゃんとやっておきますから」 信頼する部長にそう言われて、翼は『大丈夫だって』と笑い飛ばす。 けれど、笑って見せたところで、胸のどこかにずっと、何かが痼ったままになっていた。 ♪ 夏休み中、篤人はずっと翼にコンタクトを取らないでいた。 委員長だから、緊急時のために担任の携帯番号もメールアドレスも教えてもらっているが、電話はもちろん、メールすらできない。 あの日、あんな風に貪るつもりはなかったのだ。 だが、自分でも無理はたたっていたのだろう。 いつもなら難なく解ける問題に手間取るほどまで頭の回転は鈍っていて、その挙げ句にあの暴挙だ。 合意の上でないキスなど、奪うつもりはなかったのに。 こうなったら若干の作戦変更だ。 押してばかりが能じゃない。もっともっと注意深く、翼の懐に入っていくためには『引き時』も大切だ。 だから、この夏は諦める。 ☆ .。.:*・゜ 9月。新学期が始まった。 「元気だったか?」 何事もなかったように声を掛けられて、篤人は複雑な気持ちになるが、夏休み中かかって気持ちを整えて、『今後』の展望を完璧にシミュレーションしてきたのだ。だからもう動じない。 「はい、おかげさまで。先生は少し焼けましたか?」 「ああ、大学のOB会合宿でテニス三昧だったんだ」 嬉しそうに語る翼を、微笑んで見つめる篤人。 ――2学期中には決着をつけてやる。 始まった新学期に、篤人は夏休み前のような接触を一切しなくなった。 目が合えば優しく微笑むし、委員長としては満点のクラス運営で、担任のフォローももちろん万全だ。 どれをとっても申し分ないが、あの過剰とも言えたスキンシップはまったくなりを潜めた。 ――元通り…なのかな。 翼はそっと、その胸を押さえる。 望んでいたはずの結果なのに何故か釈然としなくて、そのことがまた、翼を沈ませた。 そして、聖陵祭の季節がやってくる。 |
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