君の愛を奏でて〜外伝

歌の翼に〜第2章

【4】

〜聖陵祭〜






「失礼します、生徒会です」

 聞き覚えのある凛とした声と共にドアが開き、篤人が姿を現した。

 翼はすっかり支度を整えられて、身動きならないままに座るだけ。

 深いグリーンのドレスは体を締め付けて、真っ黒な巻き毛はむき出しの肩でふわふわと跳ねてくすぐったいことこの上ない。


 生徒会長・浦河真路の陰謀で、今年から参入することになった教職員組の演目は大胆にも『風と共に去りぬ』。

 翼が演じるのはヒロイン、スカーレット・オハラだ。

 この年になって女装なんて絶対嫌だとごねてごねてゴネまくったのだが、院長に『あの頃の可愛い翼にもう一度逢いたいなあ…』なんて遠い目で呟かれ、翼は敢えなく陥落してしまったのだ。



 篤人が、室内にいる教師たちと挨拶や軽口を交わし会いながら真っ直ぐに翼の元へとやって来た。

「松山先生」

 真横に立ち、よく通る声で翼を呼ぶ。

 いくら不本意な姿を晒しているからとは言え、呼ばれて無視するほど自分は子供ではないし、ましてや教師だ。

 翼はゆるゆると視線を上げて、篤人を見つめた。

 その瞳は、緊張の所為か、はたまた『この歳になって女装なんて絶対いやだっ』と暴れまくった挙げ句のこの屈辱の所為か、酷く潤んでいて、綺麗に施された目元の化粧が際立つ。


「…見回りか。ご苦労さんだな」

 目が潤んでいるという自覚は恐らく翼にはない。
 だが、掛ける声は教師らしくて篤人が思わず微笑みを漏らす。

 同時に『抱きしめたい』という情動に駆られたことは、おくびにも出さないが。


「先生こそ、俺たちのわがままにつき合っていただいてありがとうございます」

「そう思うなら今年っきりにしてくれよな」

 これから恒例に…なんて冗談じゃないぞ…と、翼は真っ赤なルージュの上にグロスまで塗られた唇を可愛く尖らせて、ブツブツと文句を言ってくる。


「でも、特にOBの先生方は非常に楽しんでおられるようですが?」

「…ったく、無責任だよな、みんな」

 言葉と一緒に漏れたため息の悩ましさが、篤人だけではなくてその辺りの教師陣まで巻き込んでいることに、当然翼は気がついていない。


「聖陵の演劇コンクールはかなり前からやっていると聞きましたが、先生の在校中もあったでんしょう?」

 振られた話題もまったく歓迎できない。

 唇を尖らせたまま上目遣いに篤人をみると、ここしばらく見ていなかった、思いもかけないほど熱い視線とぶつかった。

 ほんの少し歪められた口元に、翼はしまい込んでいた記憶を唐突に蘇らせる。

 あの夏の日、放課後の教室で奪い取られた嵐のようなキス。


「ん? あ、ああ、あるにはあったな」

 けれど、それを振り切るかのように翼は殊更気のない振りで返事をする。

 自分にはあんまり関係なかったと、目が泳いでいるとも気付かずに膨れてみせる翼に、篤人はニッコリと笑い掛け、そして言った。


「1年、赤ずきんちゃん」

 ――え?

 泳いでいた視線が篤人を見据える。


「2年、白雪姫」

 ――ま、まさかっ。

 真っ黒な瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれる。


「3年、ジュリエット」

 ――ななな、なんでっ!?

 サッと変わった顔色に、篤人は笑いを堪えるのが精一杯だ。

 ちなみに周囲の教師陣も肩を震わせているのだが、当然翼の意識には入っていない。


「聖陵史上初の3年連続『主演女優賞』受賞。しかもこの記録は未だ破られていない。お見事ですね。松山翼くん」

 言いながら篤人がブレザーの内ポケットから出してひらひらさせたのは、当時の校内新聞のコピー。
 翼がもっとも抹殺してしまいたい『過去の汚点』である。


「お、お前っ…」

 絶句したきり固まった翼が、可愛いくて仕方がない。


 在校していた6年間、現在の葵に匹敵する、まさに聖陵のトップアイドルだった翼。

 しかし、現在も過去も本人にはそんな自覚はまったくなく、故にどうして自分がこんな目に合わなくてはいけないかと、話題にされる度に情けないやら腹立たしいやら…なのだ。

 しかもそれを、よりによって篤人に知られてしまうとは。

 もしかして、これをネタにしばらく遊ばれてしまうのだろうか。

 嫌な予感が翼の脳裏を過ぎったが、それでも新学期以降続いている、余所余所しい微笑みを見せられるよりはマシかもしれない…と、翼は内心でため息をついた。


 実はこの時の篤人が、『こんな姿、誰にも見せたくないのに』などという、独占欲丸出しのことを考えていたなんて、この時の翼には当然思いつかなかったのである。



                      ♪



「おう、翼、お疲れさんだったな」

 数学準備室の扉を開けたところで、気心の知れた先輩教師にそう声を掛けられ、翼は大げさにため息をついてみせる。

 このOB教師は、自ら進んで本日の校内巡回を買ってでて――広大な敷地を有する聖陵の校内巡回は、教師の間ではもっとも敬遠される当番なのだが――ちゃっかり演劇コンクールをフケていたのだ。

 もちろん、舞台のビデオは入手済みだが。


「ほんっとに疲れましたよ。来年は交代しましょうね」

 恨めしそうに翼が文句を垂れる。

「あはは、院長がいいって言ったらな」

「え〜」

『院長』が『いいよ』というはずは無いのだ、絶対に。


「それはそうと、エライことになったな、翼」

「え? 何がですか?」

「ほら」

 先輩教師が嬉しそうに指し示したのは翼の机だ。


「………」

 いつも綺麗に整頓してあるはずなのに。

「コンクール直後から生徒どもが押し掛けて来てなあ。ま、やつらも翼の美しさにノックアウトされたというか…」

「………」

 どうして紙屑が山積みなのだ。

「おい? 翼、大丈夫か?」

 硬直しているらしい翼に、先輩教師が心配そうな声を掛けたとき…。


「失礼します」

 担当したことのない教師でも知っている、校内有数の秀才が入ってきた。

「ああ、古田、ちょうどいい」

「なにかありましたでしょうか?」

 篤人もまた、名前と顔だけは知っているが、今まで接点のなかった教師に声を掛けられて、何事だろうと銀縁眼鏡を光らせる。

「固まっちまったんだ」

 ひょいと指された先をみると、篤人の訪ね人が自分の机を見つめたまま凍り付いているではないか。


「…ああ、これはまた壮観ですね」

 机の上には紙屑の山。

「翼のやつ、もしかしてこの手紙の山がショックだとか?」

「そのようです」

 胸くそ悪い…などとは、もちろんこの優秀な生徒はおくびにも出さないが、眇められた視線に怒りの炎がチラチラと見え隠れしている。


「あはは、翼も相変わらず初だなあ。中高6年間で免疫ついてるだろうに」

 いいながら、先輩教師はあろうことか翼の頭をヨシヨシと撫でるではないか。

 その行為に瞬殺の視線を投げ、篤人は殊更感情を抑えた声で告げる。


「この手紙の山、俺が処分しておきますね」

「翼に見せなくていいのか?」

 ――誰がこんなもの見せるものかっ。

 …などとは、口にしないだけ。


「これだけショックを受けておられるんですから、一刻も早く処分すべきでしょう」

「そうかな〜。もったいないなあ」

 ――何がもったいないんだっ!

 …と、怒鳴ってみるのも心の内だけ。


「先生、すみませんが不要の段ボールなどありませんか?」

「あ、ああ。あるぞ。配布済みの教材の空き箱がある」

「では、それに入れて焼却炉まで持って行ってきます」

 あくまでも冷静に、沈着に、篤人は黙々と――しかもあっと言う間に――紙屑の山を空き箱に移すと、左腕にそれを抱え、翼の手を引いた。


「すまんな」

「いいえ、松山先生は俺たちの大切な担任ですから。じゃ、松山先生、一緒に行きましょうか?」

 背後で先輩教師が『なんで翼も連れて行くんだ?』と、怪訝な顔をしていたのだが、篤人はもちろんそんなことはお構いなしに、翼を連れて数学準備室を後にした。






 第一体育館裏にある焼却炉には、生徒会の当番がいた。

 演劇コンクールの終了と同時に運び込まれるゴミの色々を選別して、安全に焼却するためだ。

 その当番に、『松山先生担当の、数学準備室の焼却書類です。今すぐ処分お願いします』…と、目の前で燃やさせて、篤人は体育館横のベンチに座らせておいた翼のところへ駆け戻る。


「さて、先生」

 声を掛けても翼はまだ半分魂の抜けてるような顔をしている。
 コンクールの疲れも若干はあるのだろう。


「今夜は校内にお泊まりですか?」

 今夜、聖陵学院は明日の準備のために不夜城になる。
 なので、教師のほとんども帰宅せずに校内に残ることになるのだが。

 質問されて、目を何度かパチパチさせると、漸く翼は普段の顔つきになった。


「…えっと、あ、うん、泊まるつもりはしてるんだけど、一度帰るんだ。取ってこなきゃいけないものがあって」

 言葉遣いが少し子供っぽくなっているのは、まだぼんやりとしているからだろうか。

 そんな翼ももちろん可愛くて、篤人は思わず優しい笑みを漏らすのだが、その裏側でもちろん、『これはチャンスだ』とほくそ笑む。


 ――この調子では自宅の郵便受けも危なそうだな。

 それは数学準備室で翼の机を見たときに思ったこと。 

 翼が学校から歩いて5分のところにある単身者用のマンションに住んでいることは、生徒たちにも知れ渡っている。

 準備室の惨状を見た連中が、わざわざ自分の手紙を目立つように自宅に入れに行くことは十分考えられる。

 明日にでもついていって、それもさっさと処分してやろう…などと考えていたのだが、チャンスは早くも巡ってきた。


「先生。ご自宅までお供します」

「へ? 何で?」

 目を丸くした翼に、篤人はずい…と顔を寄せ、したり顔で言ってのける。

「ご自宅の郵便受けも、手紙が一杯だったらどうします?」

「…えっ?!」

「心配いりません。俺がさっきみたいに処分しますから、ご安心下さい。さ、行きましょう」

「や、でも、そんな」

「さっさと帰ってさっさと戻ってきた方がいいでしょう? さ、早く」


 手を取られて引かれると、翼のささやかな抗議もあっと言う間に引っ込んでしまう。

 ここのところ、当たり障りのない接触しかしてこなかった篤人が、久しぶりに見せた執着めいたものがなんだか妙に嬉しくて、翼はよくわからないままに、篤人を伴って自宅マンションへ戻った。



                    ☆ .。.:*・゜



「へえ、綺麗にしてるんですね」

『どうぞ』と言われて――言われなくても上がり込む予定だったが――初めて足を踏み入れた翼のプライベート空間は、1LDKながら結構な広さがあり快適な空間だった。

「寝に帰るだけだからな、散らかしてるヒマもないよ」

 エントランスで回収した大量の手紙をリビングのローテーブルに置いて、翼が疲れた様子で座り込む。

 戸別の郵便受けはオートロックの内側にあるのだが、聖陵の制服で訪れると無条件で管理人が預かってくれる…というのは、篤人がすでに去年入手していた情報だ。


「そう言えば斎藤先生に聞いたんだけど、古田の部屋はいつも綺麗に片づいてるんだって? 寮内で一番掃除と整頓が行き届いているのは、悟の部屋と古田の部屋だって言ってたなあ」

 言いながらモゾモゾと動き出して、翼は小型の冷蔵庫を開けた。

 チラッと見えた中身は結構ガランとしていて、それこそ飲み物と何か少しが入っているだけのようだ。
 プリンらしきパッケージが見えたのもご愛敬か。


「そうなんですか。まあ、確かにとんでもない部屋もあるにはありますが、奈月と浅井の部屋なんかも綺麗そうですけど」

「ああ、それがな、面白いんだ。浅井はあの通り結構几帳面なところがあるからいいんだけど、奈月に問題があるらしいんだな」

 ほら…と手渡された炭酸飲料の缶を、篤人が『すみません』と受け取りると、翼も座り直す。


「奈月に?」

 翼の言葉に、それは意外だと篤人が目を瞠った。
 普段の隙のない美少年ぶりからして、『だらしない』という感じはまったく受けないからだ。

「おおむねちゃんとしてるらしいんだけど、どうやら奈月は洗濯物をたたむのが苦手らしくてな、時々取り込んだ洗濯物をベッドの上に積み上げてしまって、その中に埋もれて寝ていることがあるらしい」

 あの奈月がなあ…と可笑しそうに言う翼に、篤人も笑いを漏らす。

「見かねて浅井がたたんでやったりするらしいんだ。可愛いよなあ、まったく」

 ぷぷ…と吹き出したのは、洗濯物に埋もれて眠る葵を想像したからだろうか。


 それから少しの間、誰の部屋がどうだとか、翼が寮にいた時分はどうだったとか、そんな話題に花が咲いていたのだが。

 テーブルの上に積み上がった手紙の一つがはらりと落ちた。


「しかしなあ…」 

 翼がため息をつく。

「どうかしましたか?」

「ん? いや、何が面白くてさ、青春まっただ中の中高生が30目前の男の教師に騒ぐのかなあ…なんて」

 すぐ目の前に積まれた手紙を遠い目で見つめて、寂しげに翼が呟いた。

「先生……」

「どんなに騒いだって、未来はないのにさ…」

 言葉終わりに突然腕に衝撃を受けて、翼が目を大きく開いて篤人を見た。
 大きな手が、自分の二の腕をがっちりと掴んでいる。


「…古田?」

「先生、考えてくれてなかったんですか?」

「え?」

 射抜くような、それでいてどこか悲しげな瞳を目の当たりにして、翼は息を飲んだ。


「俺が『好きです』って言った意味と、夏休み前のキスのこと」


 すっかり封印したつもりでいたあの時の激しいキスを、よりによって篤人の言葉で思いだし、翼は指の先まで赤くなった。

 そんな翼を何故か痛ましげに見つめると、篤人は突き放すように掴んでいた腕を放し、そのまま無言で立ち上がり、踵を返した。


「あ、おい、古田っ?!」

 腰を浮かし、翼が手を伸ばしたが、篤人は振り返らなかった。


 ドアが閉じる、重い音がした。



                     ♪



 篤人が突然見せた変化に翼は戸惑う。

 けれど一つだけわかった。自分は恐らく、篤人を傷つけたのだ。


「……どう、しよう……」


 大人の余裕を取りこぼし、翼は呆然と呟いた。

 はぐらかさずに、できる限り受けとめて…と、あれだけ決意していたのに、何となく漏らしてしまった呟きは、鋭い威力を持って篤人を傷つけてしまったのだ。

 大切にしたいと思っていたのに。



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