君の愛を奏でて〜外伝
歌の翼に〜第2章
【5】
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出るのはため息ばかりだ。 聖陵祭が今年も無事に終わり、2日間の代休も過ぎて学院内が平常通りの毎日を取り戻しても、翼の心の内は、あの日――聖陵祭初日――のまま。 あの日以来、篤人は翼の側へやってこなくなった。 夏休み以降の一歩引いたような感じとはまったく違う、完全に距離を置かれた状態に、翼は手も足も出ない。 もちろん、相変わらず委員長としてのサポートは万全で、一見表情も穏やかなので誰も気がついてはいないようだが、その瞳は決して真っ直ぐに翼を捉えようとしない。 だから、いつも目が合うと見せてくれたあの微笑みもずっと見ていない。 何か話すきっかけは掴めないかともがいてみても、篤人はあっさりと抜け出て行ってしまい、翼にどんなチャンスも与えてはくれなかった。 ――どうしよう。どうしたらいいんだろう。 思考のほとんどがその難題に向けられていて、神経がずっと高ぶったままだ。 眠れない。 生まれてこの方、不眠になど悩んだことのない翼にとって、眠れないという事態は体力の消耗に拍車をかける。 もちろん授業でヘマをやるようなマネをしてはいない。 そんなことをすれば、さらに教師失格だ…と、翼は自分の体と神経を休めることをしないままに、2週間ほどの日が過ぎた。 秋らしく柔らかい日差しが差し込む2−Aの教室。 私立進学校の聖陵では土曜日も4時限までの授業がある。 その4時限目を終え、終礼の時間ともなると教室内の雰囲気は開放的なものとなってくる。 月曜の予定を手短に篤人が伝え、その後各委員からの連絡事項が伝えられるのがいつもの手順で、今日は図書委員からの連絡が最後になった。 「それと、10月購入分は、2−Aからのリクエストが2冊通っています。11月1日から貸し出し可能です」 そんな報告の色々を、翼は教室の後ろで窓枠にもたれて聞いていた。 何となく、生徒たちの声が遠い。 頭に輪がはまっているような感じもする。 「先生、終わりました。連絡事項は以上なんですが」 声を掛けられて、伏せていた顔を上げた瞬間、強烈な目眩が翼を襲った。 視界がブラックアウトし、頭全体を鷲掴みにされて振り回されたような衝撃を感じ、翼は堪らず額を押さえると、そのまま言葉もなく崩れ落ちた。 「「先生っ!」」 多くの生徒の叫びがこだました。 椅子の倒れる音、机同士がぶつかる音。翼へと向かう足音。 その時、教壇の横、前方入り口の側に立っていた篤人は、対角に正反対のところにいた翼の元へ、クラスメイトたちを蹴散らす勢いで駆け寄った。 目の前で突然起きた信じられない光景に、何を考える余裕もなく、翼の体を抱き起こそうとしたその時。 「古田くんっ、動かしちゃダメ!」 ど真ん中の一番前の席から、葵が叫んだ。 何が原因で倒れたのかわからない。こう言うときに『無闇に動かさない』というのは鉄則だ。 そして、その声に篤人は伸ばし掛けていた腕をビクリと止めた。 だが、すぐに切り替える。 「浅井っ、斎藤先生を呼んでくれ!」 「了解っ」 祐介が駆け出していく。 クラスで自分の次に短距離が早い祐介を咄嗟に指名したところはさすがに篤人と言うべきなのだろうが、それでも篤人にはこれっぽっちの余裕もなかった。 まさか、目の前で翼が…。 「だ…いじょうぶ…。さわぐ…な」 目を閉じたまま、呻くように、翼が言った。 意識があると言うことには若干の安堵を覚えるものの、今までに聞いたことのない、翼のくぐもった声に、周囲を取り囲んだ生徒たちが狼狽えたまま悲痛な表情を浮かべる。 「今、斎藤先生を呼んでいます。もう少しの辛抱です」 告げる篤人の声が震えている。 触れることも叶わないままで、斎藤が駆けつけるまでの僅か数分が、篤人には永遠にも感じられるほど長い時間だった。 ♪ 保健室の通常のベッドではなく、翼は病室の方に寝かされていた。 症状が重いからではなく、こちらの方が防音が効いていて静かだから…という理由だ。 駆けつけた斎藤の判断で、ともかく眠らせようということになり、篤人に背負われて翼はここまで運ばれてきた。 それまでに、幾度と無く『大丈夫』だとか『心配ないから』を繰り返す翼の口を、結局斎藤が『黙ってろ』と睨むことで閉じさせて、漸く翼はベッドに入ったという状況で、斎藤が差し出した小さな錠剤のおかげか、すやすやと寝息を立て始めたところだ。 「で、本日の日直は奈月というわけか?」 「はーい。松山センセのハンコがないと帰れません〜」 ベッドの横に立つ葵が斎藤に記入済みの日誌を広げてみせる。 担任の確認欄に、捺印もしくはサインがないと、日直はその日の役目を終えられないのだ。 「そりゃあ運が悪かったな」 笑いながら頭をくちゃくちゃと撫でる斎藤に、葵は『ほんとですー』とおどけてみせるものの、実のところは日直でよかったというのが本音だ。 何といっても、この目で翼が落ち着く状況を確かめられたのだから。 保健室前の廊下には、翼を案じる2−Aの生徒たちが大勢いるはずだ。 きっと篤人はこのままここに残るだろうから、クラスメイトたちへの説明は自分がしなくてはいけないだろうと葵は考えている。 祐介も、本音では葵と一緒にここへ来たかったのだが、就任したての管弦楽部長が遅刻をするわけにいかず、後ろ髪を引かれる思いで部活に行った。 「さて、今回のことについて、クラス委員長に何か心当たりはないか?」 斎藤に問われ、一瞬返答に詰まった篤人に、隣に立つ葵が『悪いのはこの人です』と言わんばかりの視線を流して来た。 どうやら葵は気付いていたらしい。篤人が翼に揺さぶりを掛けていることを。 そんな生徒たちの無言のやりとりを、斎藤は瞬時に見て取ったが、だが追求してはこなかった。 知らぬ顔で言葉を続ける。 「寝不足が原因だと思うんだが、それに加えて栄養失調気味ということもあるだろうな」 篤人が目を見開いた。 翼がそんなにまで思い詰めているとは予想外だった。 「実はな、先週の土曜に飲みに行ったんだが、翼のヤツ、ほとんど食わなかったんだ。普段は体格に似合わずかなり元気に食うヤツなんだけどな」 奈月はもうちょっと食った方がいいぞ…と、ついでに言われ、何で僕の話になるんですかー…と、葵が膨れるが、篤人の表情は一段と曇った。 食事もとれないほど追いつめたのは、自分…だ。 自惚れでも何でもなく、自分に違いないのだ。 「話を振ってもどこか上の空で、同席していた先生方からも心配する声があがっていたんだが…」 言葉の終わりに、斎藤は安心させるかのように、ポンッと一つ、篤人の肩を叩いた。 「まあ、元気印の翼のことだ。一晩しっかり寝て、ちゃんと食ったら治るだろう」 とりあえず、今日明日の薬を用意してくるから少しの間頼む…と2人に言い置いて、斎藤は静かに病室を出た。 スライド式のドアが音もなく閉じた後、葵は篤人をチラリと見上げる。 「古田くんってば、ちょっとやりすぎじゃないの?」 潜めて告げた言葉は若干呆れ声だ。 「……気づいてたのか?」 「見てればわかるもん。古田くんは全然翼ちゃんを構わなくなっちゃうし、翼ちゃんはどんどん元気がなくなっていくし」 好きな子いじめるなんて、今時流行んないよ…とまで言われ、篤人は一つ、大きなため息をついた。 「…そうだな。奈月の言うとおりだ」 「あれ、どしたの。えらく素直じゃん」 「堪えてるんだよ。先生……翼をこんな目に遭わせてしまうなんて」 だが、沈痛な面もちの篤人に、葵はうふふ…と、色めいた笑いを漏らした。 「愛されてるねえ、古田くん」 「奈月……」 そうなのだ。翼に振り向いて欲しかったのだ。 こうすることで、翼が自分を見ているのだという証拠が欲しかったのだ。 押して押して、押しまくった後にスッと手を引いてみせ、揺さぶりを掛ける。 そんなことで策略を張り巡らせた気でいたが、何のことはない、ただの子供の我が儘だ。 「僕は、先生の方が先に、自分の気持ちに素直になったと思うな」 優しい声でそう言われ、篤人はキュッと唇を噛みしめると、小さく頷いた。 けれど、まだわからない。 翼の『愛』の方向が、いったいどちらを向いているのか…は。 2時間ほど眠って、翼は自然に目を開けた。 その時、視界に入った姿は斎藤と、そして悲痛な顔をした篤人だった。 その事に、自分の気持ちが少し軽くなったのを覚えて、翼は少なからず狼狽える。 結局、その後翼は斎藤の運転で、篤人も伴って自宅に戻ることになった。 どうしても帰ると言って聞かない翼に斎藤も、明日は日曜だから、慣れたベッドでゆっくり休む方がいいかもしれないと、送り出したのだが、歩いて帰るというのは認めなかった。 篤人が同行することになったのは、もちろん篤人本人の強い希望があったからだが、『夜までには先生の誰かを送り込むからな。それまで古田、頼むぞ』と斎藤に言われ、篤人は強い決意で頷いた。 翼が落ち着いたら、ちゃんと、謝ろう…と。 そして、きちんと正確に自分の気持ちを伝えるのだ…と。 先日訪れたときには入らなかった翼の寝室は、本人の申告通り『寝るためだけ』の部屋らしく、作りつけのクローゼットの他は、ベッドが置いてあるだけの殺風景な部屋だった。 「これ、帰ったらすぐに飲むようにと斎藤先生が仰ってました」 差し出された錠剤とミネラルウォーターのボトルを受け取り、翼は言われるまま素直にそれを飲み下す。 錠剤は軽い睡眠導入剤だと斎藤は言っていた。 『ともかくしっかり眠ること。それが先決だ』 何も考えないでともかく眠れ…と言われて、翼も素直に頷いていた。 「も、いいから学校に戻れ。そろそろ晩飯の時間だぞ」 ベッドに入って一つ大きな深呼吸をすると、翼は教師の口調で――しかし柔らかい物言いで――篤人にそう言った。自分はもう、一人でも大丈夫だから…と。 だが、そう言う翼の様子はいつになく儚げで、篤人はあれこれ思う間もなく、翼の枕元に跪いていた。 「先生…ごめんなさい…」 目頭が熱くなる。 その様子に翼は目を細めると、小さく頭を振った。 「なんでお前が謝るんだ? お前は何にも悪いことしてないじゃないか。謝るのは、俺の方だ…」 思わぬ言葉に、篤人が目を見開いた。 「先生…?」 何故だ? 自分こそ言いたい。どうして翼が謝る必要があるのか。 「ごめんな…古田…」 手を伸ばし、篤人の頬をそっと撫で、しかし謝る理由を語らないまま、翼はふわりと目を閉じた。そしてそのまま、すうっと眠りに引き込まれていく。 「先生…」 はたりと落ちた手を拾い上げ、そっと握りしめると、篤人はそのまま為す術もなく、翼の寝顔を見つめるばかりだった。 そして、とっくに日も暮れただろう頃。 唐突に響いたチャイムに、篤人は意識を引き戻され、インターホンへと急いだ。 教師の誰かが来たのだ。 だが応答した声に、篤人は驚きを隠せない。 ――え? 嘘、だろう…? 現れたのは、予想もしなかった『教師』だった。 |
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