君の愛を奏でて〜外伝

歌の翼に〜第2章

【6】






「院長先生…」

「古田くん、ご苦労だったね」


 柔らかい声でそう言うと、院長の館林祥太郎はにこりと微笑んだ。

 教師の誰か…と、斎藤は言ったが、よもや院長が現れるとは思わなかった。





「翼は、それはそれは健康優良児でね。中高6年間、無遅刻無欠席だったんだ。そんな生徒は聖陵の歴史の中でも数えるほどしかいない」

 寝室に入り、翼の枕元に座り込むと、院長は翼の頬をそっと撫でる。


「その翼が、いったい何を…こんなになるまで悩んだんだろうね…」

「…院長先生…っ」

 悪いのは自分だと言おうとした篤人の言葉を、院長は優しい口調で、しかし淡々と遮った。

「古田くん、君はもう戻りなさい。寮食は閉まっているが、ちゃんと残しておいてもらうように頼んであるからね」

「先生…っ」


 こんな状態で翼をおいて帰りたくない。自分がいても、何もできないが、今、引き離されたら狂ってしまう。

 お願いだから帰さないで下さい。

 そう言おうとした篤人の口を、院長は、今度は有無を言わさぬタイミングで遮った。


「明日は日曜日だ。だが生憎と私は朝から理事会でね。しかもその後は出張と来ている。ずっと翼についていてやりたいのはやまやまなんだが、どうにもならない。古田くん、明日、私の代わりに翼についていてやってはもらえないだろうか」

 穏やかに微笑む院長に、篤人は壊れたように、何度も頷いた。



                   ☆ .。.:*・゜



 翌日曜日。
 早朝、正門が開くのと同時に篤人は学校を出た。

 その手には、昨夜のうちに斎藤と相談して用意した、翼の食事などがある。

 とにかく体を休めて栄養をつける。そうすれば明日からまた、通常通りに戻れるだろうと斎藤は言った。

 篤人の本音からすると、この際何日か休んで欲しいところなのだが、翼がそれを了承しないであろうことも容易に想像ができたから、とりあえず翼の一刻も早い回復の助けになろうと決めていた。






「これはまた、随分早いね」

 やって来た篤人に、一瞬目を丸くした後、院長はどうしてだかえらく嬉しそうに笑った。


「先生? 誰か…」

 寝室から翼が出てきた。昨日より随分顔色がいい。ほとんど元通りと言っていいくらいだ。


「…古田…」

 篤人の姿を認めて、翼も目を丸くした。

「先生、おはようございます」

 つい今し方、院長に告げたのと同じ挨拶を今度は翼にかける。

「すまんな、翼。私は9時から理事会でね。古田くんに後を頼んだんだよ」

「…えっ?」

 篤人の登場が、よもや院長の『ご指名』だとは思わなくて、翼は驚きを隠せない。


「じゃあ、古田くんも来てくれたことだし、私はこれで失礼するとしようか」

 妙に嬉しそうな様子が若干ひっかかるが、それでも『これから理事会』と聞いて、翼は慌てて院長を送りだそうと後に続く。

 だが院長はそれを遮った。


「ああ、見送りはいいから。今日くらいは大人しくしていなさい」

 ポンポンと頭を撫でる様子は、まるで教師と生徒だ。

 過去には確かにそうだったのだが、結局、いくつになってもこの関係は変わらないのだろう。
 院長にとって翼は大事な『生徒』で、翼にとって院長は大切な『先生』なのだ。


「…先生、お忙しいのに、本当にすみませんでした」

「いやいや、久しぶりに翼とゆっくりと思い出話ができて嬉しかったよ」

 本当に嬉しそうにそう言うと、院長は篤人に『後は頼んだよ』と言い置いて、翼の部屋を後にした。



 そして、二人きりになった部屋の中で、篤人は甲斐甲斐しく翼の世話を始めた。

 斎藤が寮食のおばちゃんたちに頼んで作ってもらった、消化が良くて栄養満点である3回分の食事を、翼の部屋にある数少ない食器の上に綺麗に盛りつける。

 斎藤はもちろん篤人の分もちゃんと頼んで置いてくれたのだが、自分の食事など後回しだ。


「…凄いな」

 かなり手の込んだメニューに翼が感嘆するが、ふと顔を上げて、『もう大丈夫だから』と、篤人の手を止めようとした。

 だがそんな翼に篤人は『ともかくちゃんと食事を摂って下さい』と、取り合わず、結局篤人の監視の元、翼のはいつもよりしっかりと朝食を摂らされることになった。


「さ、昼までゆっくり寝て下さい」

 食事を済ませた翼を寝室に追い立てようとすると、『もう眠くない』…と、座り込んだまま動こうとしない。


「昨日から寝過ぎでもう眠くないよ。それより…」

 ちょっと座れ…と、翼は篤人の手を引いて、自分の前――リビングのラグの上に座らせた。


「先生、俺…」

 どうやら翼の意志は固いようだと見て取った篤人は、それならばとにかく謝らなくては…と、口を開きかけたのだが、翼がそれを遮った。


「話が、あるんだ」

 ジッと篤人の目を見つめ、少しの緊張を含んではいるが、それでも翼の表情は昨日までのように沈んではいない。


『先生の方が先に、自分の気持ちに素直になったと思うな』

 唐突に、昨日の葵の言葉が蘇った。

 素直になった翼が、自分に何というのか…。

 翼が、自分に言い聞かせるかのように、口を開いた。


「俺、わかってなかった」

 篤人を失うと言うことが、どういうことなのか。

「お前がずっと、俺に向けていてくれた気持ちの重さを」

 ずっと痼ったままだった胸の疼きの正体は何だったのか。

「…先生」

 翼は漸く悟った。
 失いたくないのだ、篤人を。
 この胸の疼きを癒してくれる、ただ一人の人を。


「大切なお前の気持ちを、俺は真正面からきちんと受けとめてやれなかった」

「……先…生」

「ごめんな、古田」

 翼の目尻に光るものを見つけ、篤人は思わず見入ってしまう。

 言葉が、出ない。
 普段は放っておいても溢れてくる言葉が、出てきてくれない。


「…もう、遅い、か?」

 何も言わない篤人に、翼は不安に満ちた瞳で問いかけてくる。

 あれ以来続いていたすれ違いはもう、修正が利かないのだろうかと。


 篤人は胸を熱くして、ゆっくりと頭を横に振った。
 ちゃんと、翼に謝らないといけない。


「遅い、とか、遅くない、とかじゃないんです。最初からずっと、俺の気持ちは先生の側にあったから」

「…古田…」

「先生、ごめんなさい。全て、俺の我が儘なんです」


 伸ばした腕が自然に翼を捉えた。
 掻き抱くと翼は素直に腕の中に納まってくれて、『なんのことだ?』と、見上げてくる。



 目の前で翼が崩れ落ちるのを見たとき、体が震えた。

 薬で眠る翼の姿に、もしかしたら、自分は翼の心を永遠に失ったのではないだろうかと怖くて仕方がなかった。

『愛されてるね』と、葵は言ったけれど、そうかも知れないと思うのと同じくらい……いや、それよりもっとたくさんの『不安』を抱えていた。

 結局自信があったのは、自分の気持ち…だけだったのだ。

 それなのに、翼は自分から告白してくれた。
 お前の気持ちを真正面から受けとめてやろう…と。


「先生に振り向いて欲しいばっかりに、先生を追いつめて、苦しめた」

「…え…じゃあ…」

「目を合わせなくても、いつも先生を見ていました。先生しか、見てなかった…。どんなときも、先生だけ……」

 抱きしめられ、初めて聞く篤人の切ない声に、翼の表情は柔らかく緩む。


「…そっか…よかった」

 篤人が、傷ついた訳ではなかったのだ。

 ふうっと一つ、安堵の息を吐いて、翼は閉じこめられた胸に、くたっともたれかかった。

「ほんとに…よかった……」

 翼の腕が、自分より少し大きい篤人の体に回されて、そのままギュッとしがみついてきた。


「…せん、せ…い」

 篤人が呟く。
 妙に切羽詰まった余裕のない響きは、先ほどの切ないそれと同じく、翼が今まで篤人の口からは聞いたことのない類のものだ。


 ――どうしたんだろ?

 なんて思った瞬間、翼の視界がぐらりと揺れる。

 ――え?

 背中に、ラグを通して感じる固い床。


「…先生っ」

 あっと思う間もなく、唇が塞がれていた。

 あの夏の日を思い出させる熱い感触に、翼が身を震わせる。
 だが、実際には震わせられないほど強く抱きしめられていて、身動きがとれない。

 体ごと、全て篤人に覆い尽くされたような感覚。

 いや、きっと心ごと抱きしめられているのだ。
 この胸の内を、素直に開いて見せたから。



 それにしても。

 ――…く、苦しい〜!

 口は奥深くまで塞がれていて、鼻で息をしようにも、きつく抱きしめられていて、肺まで届いてくれない。

 ――も、キブギブっ。タオルっ、ロープ!

 翼の頭の中はプロレス用語まで渦巻いて、もうダメだ…と火事場の馬鹿力で腕を突っ張った。

 漸く篤人との間に、ほんの少し隙間ができた。


「…おいっ、古田っ」

「はい?」

「お前…って」

 自身も中学の頃からやって来たテニスで、相当に運動用の筋肉はついているはずなのに、なぜかまだ17歳の…しかも運動の方はどうも…とでもいいそうな優等生然とした生徒にのし掛かられたまま身動きがとれないとはどう言うことなのか。
 確かに上背は篤人の方が10cm以上大きくはあるが。


「…馬鹿力…っ」

 赤い目元をしてジロリと睨み上げて来られても、可愛いだけなのだが。

「ああ、もしかして先生、俺の運動能力を舐めてましたね」

 図星である。返す言葉がない。

「先生はOBですから当然ご存じとは思いますが、この学校で学年TOP5に入ろうと思ったら、勉強だけじゃダメなんですよ。体育、芸術、技術…取りこぼしが一つでもあったら確実に順位は下がる。というわけで、俺はこう見えてもスポーツテストは総合2位なんですよ」

「…げ」

「何が『げ』ですか。先生、担任でしょう? 春のテストの成績見てないんですか? まったくもう…」

「や、特に問題がない場合はだな、そう言うのは学年末にまとめて評価を……」

「職務怠慢ですよ、先生」


 言いながら、大きな掌はなにやら妖しい手つきで翼の体を辿っている。

 普段の服装ならともかく、現在の翼の出で立ちと言えば、着衣の中ではもっとも軽装である『パジャマ』だ。

 薄い布一枚めくればそこはすぐに素肌。
 のし掛かって押さえつけ、難なく『触り放題』が可能なシチュエーションに、『我慢』だとか『辛抱』だとか『理性』だとか、そんな綺麗事を言っている場合ではない。篤人的には。


「わ、わかった。お前が運動能力も優れてるってことはよ〜くわかった! だから、この手、どけよう…な?」

 片腕であっさりと抱え込まれている体は動きを完全に封じられ、もう片方の手は、遠慮するでもなくパジャマの裾から忍び込んで翼の素肌に触れていて、その熱い感触に震えそうになる体を必死で宥めながら、翼は篤人をも宥めようと努力するのだが。

「いやです」

「や、いや…じゃなくて…」

 言うことを聞け…と言える立場にも関わらず、翼はすでに『お願いだから』…と、懇願モードだ。

 頼むから…と、さらにお願い気分で篤人の顔を見上げて見れば、そこには翼の知らない獰猛な表情をした篤人がいた。

 さらに至近距離でかち合ってしまった視線はゾッとするほど危険な色を浮かべていて、翼は思わず息を飲む。

 そんな翼の『怯え』にも似た感情に気付いたのか、篤人はほんの少し、ばつが悪そうに笑んで視線を緩めた。


「先生、ごめんなさい」

 言葉と口調は謝罪だが、態度はどう見てもそれではない。
 利き手が翼のパジャマのボタンを外しているのだから。


「…ちょ…ちょっと待てっ、な、古田、落ち着い、て…っ」

「落ち着いています」

 ちょっと嘘だけど。

「でも、無理です。もう止まれません」

「そ…んなっ…」

 物事をそんなにあっさりと諦めるな!…とは教師の常套句だが、この状況では意味が違うだろう。

「俺、こう見えてもまだ17です」

「そんなこ、と…わかっ……あっ」

 開いた胸元に唇を寄せたまま喋られて、翼の声が裏返る。

「ずっと思い続けてきた人を腕にして、途中でやめられるほど枯れてないんです」

 それはいったい何の自慢だ…と言いたいところなのだが、そんな言葉が紡げようはずもなく、翼はただ、喘ぐように、切れ切れに断片を口にするだけだ。


「ば…っ、こん、なとき…だけ……んっ」

 濡れた感触が胸先を摘んで舐めた。

 覚えたことのない感覚に、思考が徐々に霞んでいくような気がする。


「こんなときだけ?」

「…っ…としし、た…ぶる、なっ」

 聞き返されたからどうにか返事ができたが、篤人が悪戯なあれこれをぴたりと止めたため、ふいに現実に引き戻されて、またそれが翼をいたたまれなくする。


「年下ぶるも何も、正真正銘の年下ですよ。まだまだ子供なんですから、我慢なんて利きません。子供は子供らしく、これからは素直に思った通り振る舞うことにしましたのであしからず」


 翼の目を見てキッパリ言い切ると、篤人はまた、翼の胸に顔を伏せた。

「あ、あしからず…ってなっ。…だったら、教師に、向かって…ちょっとは……ん、あぁっ」


 両手首をラグの上に縫い止められ、全身に篤人の重みを受けながら、翼は半ば押しつけのように与えられる愛撫についに言葉を放棄した。

 どう考えてもこれは、『子供』の行動じゃないだろう…なんてツッコミも、最早口にできるわけでもなく。


 そして。

「先生は確かに俺の先生だけど、でも好きって言う気持ちに教師も生徒もないでしょう? 俺は先生が……翼が、好きだ」

 熱く、力強い口調で名前を呼ばれ、翼は頭の芯まで痺れてしまいそうな心地の中で、無自覚にふわりと笑った。





 それからのことを、翼はほとんど覚えていない。

 いや、覚えていないと言うのは嘘になるかも知れない。
 体はちゃんと覚えているからだ。ただ、どうしてか記憶がどうにも曖昧なだけで。


 いつの間にか、翼はベッドに運ばれていて、『暖かい…』と思ったときにはすでに、自分の素肌に篤人の熱を直に感じていた。

 体中を篤人の熱い愛撫に覆われて、口を閉じるだけでは押さえきれない声を、なんとか漏らすまいと拳の背を当てて口を塞げばその手を取って顔の両側に縫い止められ、勝手に捩れてしまう腰が怖くて逃れようともがいた足がシーツを蹴れば、その足が割られて篤人の体を挟まされてしまう。

 体の中に篤人の指が侵入してきたときには、引きつれるような痛みと不快感を覚えたが、それもほんの数分のことだった。

 その後は、気が遠くなりそうなほど――いや、気が遠くなっても――体がバラバラになりそうな感覚――もしかして、快感…とでもいうのだろうか――に、ずっと翻弄され続けた。


 そして、圧倒的な存在をその身に受け入れたときにはもう何も考えられなくて、激しく揺すられるまま、その肩にしがみついている他はなかった。


 ただ、ずっと名前を呼ばれていたことに、途方もない幸福感を得ていたことは確かだった。


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