君の愛を奏でて〜外伝

2007年夏企画 


【前編】






『伝説の学年』が卒業して最初の夏がやってきた。

 翼にとっては、篤人を送り出して最初の長期休暇だ。

 篤人が高校2年の秋に、誰にも言えないナイショの恋人同士になって――ある方面にはバレバレだったが――校内はもちろん、校外でも気を張ってきた翼は、春に篤人が卒業した時には肩の荷が下りたと安心もしたが、それ以上に、距離的に離れる日々を寂しくも思ってきたのだから、この夏休みは随分早くから楽しみで、それは当然篤人も同じだった。


 卒業して、篤人は実家へ戻ったのだが、結局その自宅から大学へ通ったのはたった1ヶ月のことだった。

 その後はと言えば、ちゃっかり大学と聖陵との中間点あたりにこざっぱりしたワンルームを見つけて一人暮らしを始めたのだ。

 確かに篤人の自宅から大学へは結構な距離がある。
 むろん通えない距離ではないのだが、1コマ目が必修だとしたら、冬場になると『まだ暗いうち』から家を出なくてはいけない羽目になるだろう…程度には遠かった。

 それでも生真面目な篤人のことだから、きっと弱音も吐かずに4年間を全うするだろうとは容易に想像がついたものの、それでも無理をして体を壊したりはしないだろうかと翼が案じるのは、教師としては至極真っ当な感覚だろう。

 いや、『学校』と言う枠から解き放たれた今では、『恋人』として案じていると言った方が正解ではあるのだが。


 ともかく、高校を卒業して環境の変わった篤人の身の上を案じる翼としては、その通学距離の長さが気に掛かっていたのだ。
 自分は大学時代、ちゃっかりとキャンパスから徒歩5分のところに一人暮らしをさせてもらって、楽をしていたから余計にそう思うのかもしれないが。

 だが、篤人のことだ。
 きっと高校3年間にバカ高い学費と寮費を払ってもらった身の上としては、大学ではあまり親の負担になるまいと考えているのだろう…と、翼は思っていた。

 しかし、それが大きな間違いであることが、ゴールデンウィーク明けには露呈してしまったのだ。

 篤人はちゃっかり、『あまりに大学が遠いので、一人暮らしを始めました』と、引っ越しから最初の日曜日には、やけに壁やドアの厚そうな、しっかりとした造りのワンルームに翼を連れ込んだ招待したのだ。

 その事に関して、篤人は翼に『思っていた以上に遠かったから』と説明をして、『ぽややん翼』は単純に、『そっか、楽になってよかったな』と喜んだのだが、当然篤人が『通学距離』について、そんな『誤算』などしていようはずはなかったのだ。

 当初から、自宅通学は1ヶ月と決めていた。
 理由は簡単。その方が楽に親を丸め込める…からだ。

 自慢の可愛い一人息子を高校3年間寮に入れていた両親――特に母親――が、せめて大学の間は自宅にいて欲しいと望んでいることは篤人にもわかっていた。

 篤人の父は大手商社に勤めていて、年の半分近くを海外出張に費やしている。だから、半分一人暮らし状態の母が、立派に育った息子に側にいて欲しいと思うのはごく当たり前の発想だった。

 だから、最初は聞き分けよく『そうするよ』と模範解答で両親を喜ばせていたのだが、入学して2週間も経つ頃には、母が音を上げたのだ。

 3年もの間、『ダンナは出張、息子は寮』…という、気ままな『プチ一人暮らし』を謳歌してきた母は、毎日毎日、早朝からきちんと起きて真面目にしっかりと朝食を摂り、大学からは定時に帰宅して自宅でこれまたしっかりと夕食を摂る篤人の世話に、目を回してしまったというわけだ。

 だから頃合いを見て、篤人は母にこういったのだ。

『通ってみると思ってたより遠かったんだ。一人暮らしをしたらダメかな』…と。

 当然、すべては『母の性格を完全に把握』している篤人の筋書き通りなわけだが。


 ともかくこうして篤人は一人暮らしを難なく手に入れ、日曜ごとに翼を引きずり込んでいるというわけだ。

 もっとも、翼は相変わらずテニス部の顧問で、日曜の半分が部活に費やされてしまうことも、ままあるのだが。

 篤人と翼は、ウィークデーにはもちろん会えない。
 その分を、毎日のように電話やメールのやりとりで埋めているのだが、夏休みには一緒に過ごそうと楽しみにしていた。

 だが、翼はテニス部の合宿とインハイがあるため、夏休みは7月末か8月後半だけしかない。

 もちろん篤人はその両方を独占したかったし、翼もその気だったのだが、7月末は学校の用事でまとまった休みが取れなくなり、結局近場へ食事に出かけたりする程度のことしかできなかった。

 そうなればもう、8月後半にかけるしかない…と思い、2人で旅行の計画を練ろうと、7月末日、翼がすっかり通い慣れた篤人の部屋を訪れているところで、それは起こった。



「やっぱり北海道がいいなあ。篤人は行ったことないんだろ?」

「札幌だけはあるよ。でも他は知らないから、北海道でもいいね」

 旅行のパンフを広げながら、翼が背後の篤人にもたれかかる。

 篤人はと言えば、彼らしく掃除の行き届いたフローリングに腰を下ろし、大きなクッションに背中を預けた状態で、長い手足の中に翼を囲い込んでいる。

 出会ったときから篤人の方が随分大きかったが、高校3年間でさらに成長した篤人の腕の中に、翼はすっぽり納まってしまい、最初のうちは抵抗もあったようだが、今では素直に体を預けてくれるから、幸せなことこの上ない。


「北海道だと飛行機使えばすぐだしな」

「飛行機もいいけど、北海道なら寝台特急で行こうよ。時間はたくさんあるんだから。ね、翼」

 その方が絶対盛り上がる!…と、篤人に熱弁を振るわれて、『そんなもんか』と単純に納得してしまう翼は相変わらずなのだが、もちろん篤人の『盛り上がり』がナニを指しているかなんてこれっぽっちも考えちゃいない。

 そんな翼が愛しくて、篤人は背後から、抱き心地のいい健康的な体をギュッと抱きしめる。


「あ、こら、暑いってば」

「嘘ばっかり。こんなにエアコン効いてるのに」

 ウィークデーは真面目に『節電』を心がける優等生も、翼が来る日ばかりは『地球温暖化防止』も明後日の方角にさようなら…だ。

 室内温度を下げておけば、抱きしめても翼が逃げ出さないことを知っているから。


「篤人〜、パンフが読めない」

 背後から首筋に唇を当てられて、翼がくすぐったそうに身を捩る。

「気にしない気にしない」

 2人のいきさつを知っている同級生の葵や桐哉辺りが見たら、『この2人、いつの間にこんなバカップルに』…と、目を覆ってしまいそうな熱々振りを展開しつつ、篤人が本格的に翼の体に悪戯を仕掛け始めた時、突然それは鳴った。


 篤人が聞いたことのない、翼の携帯の着メロ。

 一応着メロのグループ分けをしているらしく、『学校関係』『友人』など、いくつかの着メロが鳴るのを篤人も聞いてはいたが、今日のは初めて聞く着メロだ。

 見れば翼が眉間に皺を寄せている。滅多に見せない表情だ。


「翼、出ないの?」

 手を伸ばせば届くところにある携帯に、翼は手を出そうとしない。

「…んっと…、いい」

 すいっと目を逸らした翼に、篤人が不安を覚えた。
 いったい相手は誰なんだ。

 ラブラブデートの邪魔は許せないが、こうなったら出てもらわないとかえって気になって仕方がないではないか。

 相変わらず着メロはしつこく鳴り続けている。


「出た方がいいんじゃない?」

 堪りかねて、篤人が携帯に手を伸ばした。

「篤人っ」

「いいから、ほら」


 もし相手が翼にとって歓迎できない相手だというのなら、途中で携帯をひったくって『二度とかけてくるな』と恫喝してやろう…なんて物騒なことを考えつつ、篤人は翼の手に携帯を握らせた。

 翼は不服そうに唇を尖らせて、上目遣いに篤人を睨んできたが、それでも鳴り止む気配のない携帯の通話ボタンを渋々押した。


「……もしもし」

 翼には珍しい、低く無愛想な声。
 どうやら本当に歓迎できない相手のようだ。

 篤人の耳がダンボになって、翼の携帯に張り付く。
 背後から体ごと抱きしめている現状は、盗み聞きにはもってこいだ。


『おいっ翼っ、何やってんだっ。 随分待たせてくれたじゃないか』

 幸いなことに、相手の発音は明瞭で、良く聞こえる。

 それにしても、むかつくほどに馴れ馴れしい。いったい誰なんだ。


「…寝てたんだよ。何か用? こんな時間に」

 応える翼は不機嫌を隠そうともしない。
 もしかすると、よほど近しい相手と言うことか。


『こんな時間ってな。普通の人間は元気に活動している時間じゃないか。お前、夏休みだからってぐうたらしてんじゃないぞ』

 随分な言われ方だ。これではまるで保護者のような…。

「なんだよもう〜。いきなり掛けてきて説教って? いつまで俺を子供扱いしたら気が済むんだよ、兄ちゃん。用がないんなら切るよ」


 ――兄ちゃん〜?

 そう言えば、翼は3人兄姉の末っ子だと聞いていた。
 上にいるのは確か、兄と姉だったはず。

 その兄と姉は実家の家業を継いでいるとも聞いている。
 だから、翼はこうやって、実家を離れて好きな職業に就けているのだと。


『待てっ切るなっ、翼っ。大事な話があるんだ』

 焦った様子で翼を引き留める『兄』に、翼が『はあ〜』…と、だるそうにため息をついた。

「なに?」

 どうせロクでもない用件だろう…と言いたげなのがありありだ。

『お前な、夏休みはいつからいつまでだ?』

「8月下旬だけ」

『なんだ。聖陵は人使いが荒いんだな。普通教師っていったら夏休みが長いのが利点じゃないか』

「あのね。何回も同じ事言わせんなよ。俺はテニス部の顧問やってるのっ。夏は合宿もインハイもあるから忙しいのっ」

『あ〜、わかったわかったっ。わかったから、8月下旬には帰ってこい。いいなっ』

「ちょ…待ってよっ」

『いいか、絶対帰って来いよっ。お前、いったい何年帰ってきてないと思ってるんだ。親不孝も大概にしろっ』

 そう言えば…と、篤人は首を捻った。

 翼が帰省したと言う話は聞いたことがない。

 だが、家族のことを話してくれた時の翼の様子では、実家を嫌っているという様子はまったくなかった。

 むしろ仲の良さげな雰囲気が伺い知れて、翼がこうも素直で柔らかな性格に育ったのは、恐らく家族から愛されて育った末っ子だからだろうな…と、篤人は納得していたのだ。


「何年って…。たったの3年じゃないか。それくらいでガタガタ言わないでよ。だいたい、父さんや母さんにはちゃんと定期的に電話してるんだから、親不孝でも何でもないだろっ。それにさ、そっちは『年中無休』なんだから、俺が帰ったところで仕方ないじゃんか」

 せっかく篤人と予定している旅行を邪魔されてなるものかと翼も必死の様子だ。

『四の五の言うなっ。いいから帰ってこい!』

「だからっ、こっちの都合も聞けってばっ。俺はね、もう予定があるのっ」

『予定? 何のだ?』

「…と、友達と約束してるんだ。旅行行こうって」

『じゃあ、ちょうどいいじゃないか』

「はい〜?」

 ちょうどいいって何なんだよっ…と、抗議しようとした翼の言葉を、電話の向こうから兄はあっさりと塞いだ。

『その友達を連れて帰ってこい。思いっきり歓待してやるからな』

「ちょ、ちょっと待ってってば」

『なんだ? 不都合でもあるのか? …お。もしかして彼女か?』

「ち、違うってばっ」

 翼の焦りはピークの様だ。抱きしめている背中が汗ばんでいるから、篤人にはよくわかる。

『なんだ。野郎の友達なら別に問題ないじゃないか。いいから、絶対帰ってこいよ、翼! 一番良い部屋と料理を用意して待っててやるからなっ』

 一方的に言い置いて、翼の兄は電話を切った。


「…どうしよう…」

 翼が暗い顔で俯いたままに呟いて、恐る恐る篤人を振り返る。

『教師モード』の時には明晰な頭脳も、今は『大切な恋人にこの由々しき事態をどう説明しようか』と、ぐるぐるに渦巻いて半ばパニックの様相だ。


「あ、篤人…」

 泣きそうな顔も可愛いのだけれど、無闇にいじめるつもりもないから、篤人はニッコリ微笑んで先回りをした。

「聞こえてたよ、全部。いいんじゃないの?」

「いい…って?」

「帰ろうよ。翼の家に。2人で」

「…ま、マジ?」

 翼が目を丸くしている。
 まさか篤人が了承するとは思っていなかったのだろう。

 だが、篤人的にはコレは大きなチャンスだ。
 頼んでも、きっと実家には連れていってくれないだろうと踏んでいたのだが、こんなチャンスが巡って来ようとは。


「もちろん」

 篤人だって、いきなりカミングアウトをかますつもりはないが(いくら足掻いてみたところで、こちらはまだ学生で未成年なのだ。自立するまでは大人しくしている他はない)、翼の家族には会ってみたいし、自分が翼に一番近い…という立場を刷り込んでおきたい。


「楽しみだな」

 社交辞令でもなんでもなく、本当に楽しそうに浮かれている篤人に、翼はとりあえずホッとしつつもやっぱり『帰省』は気が重い。

 今や篤人は翼にとってなくてはならない存在だし、カミングアウトということではなくても、篤人を『一番親しい友人』として、ちゃんと家族に引き合わせておきたいという気持ちも翼にはあった。

 だが、別件で『あの家』へ戻るのは気が重いのだ。


『翼っ、あんたはいったいどっちの味方なのよっ』

 年子の姉が、美人台無しの形相で翼に迫った顔が思い出されて、翼は思わず重いため息をついた。

「翼?」

 どうしたの?…と、篤人が抱きしめてくる。

 その暖かさに、『何でもないよ』ともたれかかり、今度は篤人に気取られないように息をつく。

 隠すこともないので篤人には言ってあるが、翼の実家は群馬の有名温泉地で旅館を営んでいる。

 父が社長で母が女将。
 バブルを乗り越えられずに次々と同業者が倒れていった時にも持ちこたえ、そして、兄と姉が跡を継ぐことになっていて、家業の未来は明るいはずだったのに、それが怪しくなってきたのは3年前に3つ年上の兄が結婚した頃からのこと。

 兄嫁と独身の姉が、熾烈な『若女将争い』を始めてしまったのだ。

 そもそも、父が娘を『女将の後継に』と勝手に考えていたのに対し、兄が『次の女将は当然うちの嫁さんだろう』と言いだしたのが発端だ。

 なまじ2人とも華やかな容貌をしていることも仇になった。
 TVの旅番組が『老舗を背負う美人義姉妹』なんて持ち上げたのも火に油を注ぐ結果になった。

 ともかく2人の仲は最悪で、そのとばっちりを、帰省するとモロに受けてしまうのだ。

 いや、いじめられると言うわけではない。

 それどころか、帰れば義姉も姉もこれでもかというくらい可愛がってくれて構い倒してくれる。

 だが、結局のところ、最後は散々に相手の愚痴を聞かされて、挙げ句は翼を自分の味方に引き入れようと画策するので、翼はいつも、ぐったりと疲れてしまうのだ。

 だから、帰らなかったのに。

 兄はきっと、自分の手に余る2人の争いから一時的にも逃れようと、人身御供として翼を召還したに違いないのだ。

 それにあの様子から察するに『仁義なき抗争』はきっと更に激化しているのだろう。

 だが、篤人が一緒なら、いくらなんでもそんなにみっともないことはしないだろうと考えて、翼は仕方なく頭を切り換えて、妖しく絡みついてくる篤人の手に、心ごと委ねていった。



【中編】へつづく

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