君の愛を奏でて〜外伝
2007年夏企画
【中編】
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篤人にとって待望の8月下旬。 北海道だとか寝台特急だとかいう話はおじゃんになってしまったが、それでもやはり二人で過ごす『非日常』は楽しみで、『古田篤人』ともあろう人間が、前夜になかなか寝付けなかったほどなのだ。 上野駅から特急とバスを乗り継いで約2時間半。 昼過ぎに到着した翼の故郷は、都心の酷暑を一瞬にして忘れてしまえるような爽やかな風が吹き抜けていた。 8月下旬だというのに予想最高気温は23℃。極楽だ。 「え? ここ?」 「そう、ここ」 バスターミナルから歩くこと約15分。 2人が立ったのは、それはそれは立派な構えの風格ある宿の前。 『そういうこと』にあまり興味のない篤人ですら、TVで見たことがあるという、有名老舗料亭旅館ではないか。 もちろん翼の実家が何をやっているかは知っていたが、何しろここは日本でも屈指の有名温泉地で宿の数も半端ではないから、家業の規模など気にも留めていなかったのだ。 「翼って、老舗のボンボンだったんだ」 「…やめろって、その言い方…」 半ば呆れたように呟いた篤人に、翼もまた、半ば諦めたように呟いた。 きっと今までも散々言われてきたのだろう。 そもそも翼としては、こんな大層な門構えを見せるつもりもなかった。 一つ奥の道を曲がれば裏手にある実家へ直接行ける。 客ではないのだから、当然そちらへ向かうはずだったのに、昨夜また電話を寄越した兄から、『正面玄関から来いよ』と念を押されて、こうなっただけのことなのだ。 どうしてなのかと理由を問うた翼に、兄は『お前はともかく、お前の友達はお客様だからな』と言った。 どうやら、この『ごり押しの帰省』に、旅行へ行こうとしていた友人まで巻き込んだことに、少なからず悪いことをしたと思っているようだ。 いずれにしても、篤人を歓待してもらえるのなら異存はない。 時刻はちょうどいい頃合いだ。 チェックアウトが済んでチェックインまであと3時間。 玄関まわりに宿泊客の姿はない。 「おっ、翼! 着いたんなら電話しろよ。迎えに行ってやったのに〜!」 翼たちの姿を認めて、背の高い、がっしりとした体格の男前が走ってきた。 「いいって。忙しいだろ?」 翼とは似ていないが、どうやらこれが兄貴のようだと篤人は見て取る。 「あ、これがこの前電話してきて、今回のことをごり押しした兄貴」 わざわざ嫌みをくっつけて紹介してくれた翼の額を小突き、『兄』は『はじめまして。ようこそ。お待ちしていました』…と、それはそれは人当たりのいい笑顔で迎えてくれた。 「はじめまして。古田篤人と申します。この度はお言葉に甘えてお邪魔してしまいまして…」 こちらも負けてはいない。声のトーンといい物腰といい、優等生満開の対応に兄が相好を崩す。 「いやあ、いつも翼がお世話になってすみません」 どうやら見た目に騙されたらしい。12年の差をものともせず、翼の方が年下に見えるから。 「いえ、とんでもありません。お世話になってるのは…」 自分の方だと言おうとした篤人の言葉を遮ったのは、華やかな女性の声だった。 「翼〜! お帰り〜」 「翼ちゃん、待ってたわ〜!」 見れば、声に見合った華やかさの和服美人が足早にやってくる。 「た、ただいま…」 翼の腰が引けたように見えたのは、多分見間違いではないだろう。 「えっと、こっちが姉さん、あっちが義理の姉さん」 紹介してくれる声も心なしか小さい。 もしかすると、翼が帰ろうとしなかった理由はこれかも知れない。 聡い篤人には何となくわかった。翼は多分、この2人が苦手なのだ。 だが、2人とも感じのいい女性には違いない。 客商売がそうさせるのかも知れないが。 いずれにしても、篤人の第一印象は良かったようだ。 華やかな美人2人は篤人の自己紹介を受けた後、嬉々として両側から篤人を挟み、我こそは…と言わんばかりに連行ポーズで館内へ引きずり込んだ。 「篤人くんは聖陵のお友達? それとも大学の時の?」 「いえ、松山先生にはこの春まで聖陵でお世話になっていました」 「え〜! もしかして翼ちゃんの教え子っ?!」 「翼の方が年下に見える…」 姉からチラリと流された視線に、後ろについていた翼が小さい声で『どーせ』と、ふくれる。 「で、この春までってことは、今年卒業したばかり?」 「はい。現在は大学一年です」 「うわー。大人っぽいのね〜。翼とは大ちが…」 「東大生だよっ」 最後まで言わせてなるものかと、翼が大きな声で口を挟んだ。 「え〜! 東大!」 「きゃ〜、凄いわっ、優秀なのね〜!」 案の定、2人は篤人の見かけ倒しではない優秀さに目を瞠り、翼がいることなど忘れたかのように、チェックインでお客を迎えるまでの時間、散々篤人を構い倒してくれたのだった。 ☆ .。.:*・゜ 「ごめんな、疲れただろ?」 「いや、全然」 宿泊客が到着し始めて、漸く篤人は解放された。 「それにしても、凄い部屋だけど、本当にいいの? こんなにしてもらって」 2人が通されたのは、離れにある特別室。 3部屋ある特別室のうちの一つだが、常連客のみに使用するため普段は使っていない。 「兄貴がいいっていうんだからいいんだろ? 義姉さんの両親が来た時もこの部屋だし、お得意さんと身内用…って感じみたいだから」 専用庭に露天風呂までついているこの部屋は、2人では持て余すほどだが、そもそも余所へ行くつもりだった2人をわざわざ召還して、挙げ句に『暫くあいつらの相手、頼むな』なんて、耳打ちして自分はそそくさと退散していったのだから、これくらいの見返りは当然だろう。 手入れの行き届いた庭に、夏らしからぬ柔らかい高原の日差しが差し込む。 背後からそっと抱きしめてきた篤人に体重を預け、翼がポツッと言った。 「俺が帰らなかったわけ、わかった…だろ?」 「うーん。もしかして、お姉さんたちかな…とは思ったけど」 予想通りの察しの良さに、翼は小さく嘆息した。 「2人とも、優しいし明るいし、いい姉貴たちなんだけど…」 「張り合ってるように見えたね」 柔らかい口調でそう言った篤人に安心して、翼は義姉が嫁いできてから後の、2人の若女将争いを篤人に話した。 「だいたい、女将になりたがるってのがわかんないよ。母さん見てたら、女将の仕事がどれだけ激務か…っての、わかってるだろうに…」 げんなりした様子で翼が落とした肩を、篤人がそっと抱きしめる。 「でも、2人ともきっとこの仕事が相に合ってるんだよ。だから、激務を承知でがんばりたいと思ってるんじゃない?」 好きな仕事なら、辛くても乗り切れるものだろう…というのは、まだ学生の身の篤人でも察しがつく。 何と言っても目の前にいいお手本がいるのだ。 学校の教師と言うのは激務だ。 聖陵はまだ、私立で生徒のレベルも揃っているから随分マシなのだろうけれど、それならそれで、いい大学へ進学させなくてはいけないだとか、部活でいい成績を上げなくてはいけないだとか、いろいろある。 何よりほとんどが寮生なのだから――数年後には全寮制になるらしいという噂もあるのだが――その点での気遣いは、他の学校にはないことだ。 やんちゃざかりの男子の6年間を、生活全般で管理するのはとてつもない労力に違いない。 それでも、翼は毎日楽しそうに教師をやっている。 行事や試験の前後、入試前などにはかなり疲労を溜めてしまうことももちろんあるようだが、それでも辛いとは言わないのだ。 「それに、2人とも元気で明るいから、見てる分には面白いよ」 なんて、ちょっと無責任に楽しんで見せれば、翼はホッとしたのか、少し身体の力を抜いたようだ。 ともかく。 翼としては、身内故に『うんざり』だとか『げんなり』というところなのだろうが、少なくとも『陰湿』な確執には見えなかったので、その点で篤人は安心して、しばしの滞在を楽しませてもらおうと思ったのだった。 そして案の定。 これでもかというくらいに礼儀正しくて好青年をアピールする篤人は、夕食時に地酒の一升瓶を持って現れた翼の父にも、深夜になって漸く挨拶のできた翼の母にも当然受けが良く、翼はホッとしたのだった。 そしてその頃。 ほとんどの客が就寝して静まり返った館内の片隅で、深夜だというのに疲れた様子もヨレた様子も見せず、凛とした和服の立ち姿でひそひそ話を交わす美人が2人…。 「ねえ、ちょっと」 「…何よ」 兄・昴の嫁、依子に声を掛けられて、翼の姉・茜が振り返る。 「言っとくけど、さっきの『桔梗の間』のお客様のクレームなら私が完璧に処理したんだから、文句を言われる筋合いは…」 「そうじゃなくて」 寄ると触るとロクでも会話にしか発展しない2人は、最近では基本的に仕事以外で言葉を交わさないようにしている。 お互い自分こそ正しいと思っているのだから、論戦ならいつでも受けて立つのだが、その度にいちいち昴や両親がおろおろと仲裁に入ってくるのもウザったいので、お互い不必要に近寄らないことにしているのだ。 だが、義姉依子は茜に思わぬ事を尋ねてきた。 「翼ちゃんと篤人くんって、歳離れてるのよね?」 「…そうよね。篤人くんが19歳って言ってたから、翼とは一回りも違うってことよね」 いったい何の脈絡だと首を捻って答えてみれば、依子はまたしても、漠然と聞いてきた。 「どう思う?」 「どうって?」 やっぱり何のことだと思ってみれば。 「だって、教師と元教え子でしょ?」 「ええと…確か高校3年間教えてて、高2の時は担任だったって言ってたっけ」 「そうよ。そんな2人が、卒業してからも旅行に行くって…」 依子がずいっと顔を近づけてきた。 「…しかも、2人きりよ?」 そこで茜は初めて気付いたのだ――何しろ翼同様、物事を深く追求しない質なので――確かに、一回りも離れた教師と教え子が二人きりで旅行に行くとは…。 「それにね、『篤人くんはテニス部だったの?』って聞いたら、違うって言うのよ。テニス関係なら、2人でどこかへ練習に…なんて事もアリかと思ったんだけどね」 依子にだめ押しをされて、茜がグッと顎を引いた。 「相当だと思わない?」 「…かなり…ね」 「これって、ちょっと探ってみる必要、ない?」 「…確かに、放っておけない気がするわ…ね」 和服美人は顔を見合わせると、深く頷いた。 ここは一時休戦し、結託して翼と篤人の真実を探らねばならない! 大事な大事な可愛い弟に、何らかの危機が迫っていては大変だ…! …な〜んてことはこれっぽっちも思ってなくて、ただの野次馬的『興味』にしか過ぎないのだったが。 ヽ(^0^)ノ ![]() ![]() そんな2人の『姉』は、翌朝からさっそく行動を開始した。 朝食後、2人が散歩に出かけたのを確かめて、部屋に潜入する。 普段、特別室の世話は部屋付きのベテランの仲居がやるのだが、『泊まってるのは翼だから』…なんて言う、説得力があるのかないのかわからないような理由を付けて、2人して布団を上げにやってきたのだ。 「あらま」 依子がそう言って、何故か嬉しげに広げた手のひらで口元を覆った。 「こっちは使ってないと見た」 どちらも相応に使用感のある布団。 しかし、よく見れば、その乱れ方が微妙に違う。 片方は、そのシーツの皺に、人の重さを感じさせないのだ。 しかし、その事に怪訝な顔をするどころか、茜はニタリと笑った。 「この道十年の私の目を誤魔化せると思ったら大間違いなのよね〜。舐めるなよ、翼め〜」 「ねえねえ、茜ちゃん。ティッシュの残量数えてみるってのどうかしら」 妙にワクワクと、依子が言った。 しかも相当生々しいことを、ニッコリと笑いまでつけて。 「無駄よ、依子義姉さん。部屋風呂があるんだから」 「あら、そういえばそうね。シャワーを浴びたらおしまいだものね」 ふと気付き、2人は顔を見合わせた。 そう言えば、今までお互いをこんな風に呼び合ったこともなかった。 いつも『ちょっと』とか『ねえ』とか、そんな風に仕方なく声を掛けていて。 だがやはり、名前の方が呼びやすい。今さらだが。 その『今さら』を気づいてしまった気まずさに、ほんの少し顔を反らしてはみたが、やはり今回のこの『珍事』への好奇心には勝てず、茜は依子にある提案をした。 「ねえ、今夜、庭園露天風呂に放り込んでみる…ってのはどう?」 品のいい日本庭園に囲まれた、総檜造りの露天風呂は予約制の貸し切りで、この旅館の名物の一つだ。 「なるほどね。他のお客様の予約は10時でストップだものね。その後なら…」 先ほどの気まずさも何のその、2人はまたしても顔を見合わせてニヤリと笑い合う。 「じゃあ、さっそく作戦会議ね」 「ラジャ!」 |
【後編】へつづく |
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