「桃の国」さま 100万記念お祝い



アイドル&アイドル



前編




 サンダルをつっかけて家を出る。

 回覧板を胸に抱え、お隣の門をくぐり、チャイムを鳴らした。



「は〜い…」

 中で住人の声がするのと同時に、なにやら大きな物音が聞こえ、それっきり静かになってしまった。


 愛川愛川あいかわ(あいかわ) 奈月奈月なつき(なつき) は小さく首を傾げ…もう一度チャイムを鳴らした。



「回覧板です…」

 中へ向かって呼びかけると、うめくような声が漏れ聞こえた。



「な…奈月ちゃんかい…?」


 あいたたた…と、辛そうな声が続き、奈月は慌てて呼びかける。


「おじさん? どうしたの? …開けますよ?」


 返事を待たずに扉を開けて…奈月は目を見開いた。

 その家の主人が、玄関ホールで倒れていたのだ。




「大変…!」

 回覧板を放り出して、奈月は駆け寄った。


 芳永芳永よしなが(よしなが)のおじさんは、床に這いつくばったまま、腰に手をやって呻き声を上げている。


「やだ…大丈夫ですかっ!? …小百合さんはっ!?」

 痛みに顔をしかめている芳永を、抱き起こしていいものかどうか迷いながら、奈月は芳永の妻、小百合の姿を探す。


「…留守なんだ…仕事…行ってる…」

 喘ぎ喘ぎ言う様子はかなり辛そうで…小百合も留守だと聞いて、奈月は動転している頭を振った。


「そうだ…救急車をっ…」



 玄関ホールから伸びた廊下に電話があった。サンダルを脱いで電話に取り付こうとしていた奈月を、しかし、芳永が止めた。


「待って待って…ただのぎっくり腰だから…」

 奈月は泣きそうな顔で芳永を振り返る。

「だって…」



 妻の小百合と共に、愛川家の姉弟を小さい頃から可愛がって来たのだ。
(パチンコの景品でもらうチョコレートは、今でも奈月と弟の哲平へのお土産だった。)
 その奈月にこんな顔をされて、芳永は少しだけ、痛みが和らいだような気がした。


 かなり無理があったが、芳永は苦笑して見せた。



「大丈夫だよ…ぎっくり腰は前にもやった事がある…。いきつけの整体の先生に診てもらうから、呼ぶならタクシーにしておくれ…。」


 訴えるような眼差しに、奈月はようやく頷いて…また慌ててサンダルをつっかけた。

「お母さん呼んで来る…待っててね。」

 言い残して、奈月は飛ぶように玄関を出て行った。











 で…

 どうしてこうなっちゃったんだろう…



 奈月は溜息をついて、目の前の門柱に掘り込んである名前を、恨めしげに眺めた。

『私立聖陵学院』

 その正門前で、すでに五分以上は佇んでいるのだ。







 駆け付けた母と一緒にタクシーを待つ間、芳永の腰を擦ったり、診察券の用意をしたりしながら、ふと気付いたのだ。


 芳永は奈月が訪ねた最初から、その手に封筒のようなものを握り締めていた。



 中身は、今人気のお芝居のチケットだった。しかも、今夜の公演のものだった。

 母が言うには、なかなか手に入らないものだそうで、芳永の妻・小百合が、何度もトライしてようやく勝ち取ったものらしかった。




 しかし聖陵学院の学生食堂で働いている小百合は、いつもなら休日である土曜にもかかわらず、勤務に出ていた。


 厨房で、大掛かりな殺菌消毒を行う日だったのだ。

 夕方まで仕事をして、そのまま劇場へ直行する予定であったが、その何よりも大切なチケットを忘れて出かけたらしい。


 芳永は、それを届けて欲しいという小百合からの電話を受け、茶箪笥の引き出しの封筒を発見した。そこへ玄関のチャイムが鳴り、立ち上がりざまに振り返ろうとして、腰に激痛が走ったのだと言う。




 奈月の母は真剣そのものの表情で言った。



 奈月、チケットを小百合さんに届けてあげなさい。

 おじさんの事は、私が付き添って整体へ連れて行くし、夕食の事も心配いらないからって伝えてね。


 せっかくのプラチナチケット、無駄にしちゃ勿体無いわ。



 …今思えば、後でお芝居の感想を聞かせてもらおうとか、パンフレットを見せてもらおうとか…そんな母の期待がありありと窺える表情であったが…。


 しかし、使命感に燃えた奈月は、頷いて…勢いでここまで来てしまったのであった。







 すっかり忘れてた…

 聖陵って…男子校だよね…?



 仲間内では「超」がつく「天然」で通っている奈月であったが、とりあえず入校前には、その事実に気付いたらしい。


 途端に足がすくんだ。

 奈月は、おとなしくて引っ込み思案な女の子でもあったのだ。



 どうしよう〜〜…

 男子校なんて…入れないよぉ…



 はぅ〜〜…と、頭を抱えてしゃがみこんでしまった奈月の背後に、すぅっと影が射した。

「キミ…大丈夫…?」

 気遣うような声色で呼び掛けられた。

「え…?」

 頭を抱えた態勢のまま振り返って、奈月は目をぱちくりと瞬いた。



 うわぁ…綺麗な男の子…



 膝に手を置いて屈み込むように、美人な男の子が、奈月を覗き込んでいた。

「具合でも悪いの?」

 ちょっと小首を傾げる仕草が可愛くて、つい見惚れてしまった。



「あ…いいえ…っ!」

 我に返って慌てて立ち上がると、思いっきり至近距離で…奈月はわたわたと数歩後ずさりをした。


「…そうじゃなくて…用事を頼まれて来たんですけど…」

 ガチガチに緊張している様子の奈月に、美人の男の子はくすっと笑った。



「呼び出し? それとも入校許可かな…? どちらにしろ、そこの守衛室で頼めばいいんだよ。…どうぞ…。」


 案内してくれるというのだろう…男の子は奈月を安心させるような微笑で、先に立って歩き出した。


 戸惑いながらも、またここにひとり取り残されてはどうしようもない。奈月は慌てて彼の後に従った。




「あの…ありがとう…。どうすればいいのかわからなくて、とても困っていたの。」

 奈月が言うと、美人の男の子はくすくすと笑った。

「そうみたいだね。長い事、あそこで佇んでたもんね。」

「見てたの?」

 思わず目を見開いて訊くと、男の子はとうとう声を立てて笑い出した。

「うん、見てた…。面白かったよ〜。」



 屈託のない笑顔に、奈月の緊張も一気にほぐれる。

 打ち解けるのに時間のかかる性質の奈月を、あっという間に楽にしてしまった不思議な男の子…。


 もしかしたらこの男の子は、姉妹とか親戚とか、女の子がたくさんいる家庭で育ったのかも知れない…と、奈月は思った。


 男子校の生徒なのに、女の子の自分が側にいても、少しも動じたところのない自然な空気を漂わせているのだ。




 それにしても…



 奈月は半歩前を歩く男の子を見つめる。

 綺麗なのは顔だけではない。姿勢も、身のこなしも、コミックスに出て来る王子様のようだ。


 手にぶら下げた買い物袋に、お菓子がたくさん入っているのは、ご愛嬌だ。



 聖陵の生徒は、綺麗な人が多いって話…本当なんだなぁ…。



 本当も何も、のっけからスーパーアイドルに出くわしたのだと奈月が知るのは、もう少し先の事であった。








「お帰り…おや、お客さんかい?」

 扉をくぐるなり、守衛さんに笑顔で訊かれた。

 男の子はにっこり笑って、ただいま…と、言った。

「面会だって。」

 そう告げながら、奈月を振り返り、おいでおいでをした。



「このノートに呼び出したい人の名前と、キミの名前を書けばいいんだよ。」

 説明しながら、側のペン立てからボールペンを一本寄越してくれた。

「ありがとう…。」

「どういたしまして…。」

 またしても綺麗に微笑んで…、彼は傍らで別のノート…「外出届」と表書きがあった…を開いた。そこへ『帰校』と書き込んでいる。




 奈月は整ったちんまりした字で、学年の欄に『学食』と書き、名前欄に『芳永小百合』と書き込んだ。


 続いて自分の名前、『愛川愛川あいかわ(あいかわ) 奈月奈月なつき(なつき) 』と、ふりがなも書き終えたところで、じっと見守っていた守衛さんが、ほう…と声を上げた。




 え…?と、顔を上げると、守衛さんはにっこり笑って、男の子の手元…彼がたった今、『帰校』と書き込んだばかりの欄の、名前を指差した。




 2−A 奈月奈月なづき(なづき) あおい(なつき)



 目を丸くした奈月の側で、男の子も奈月の書いた字を覗き込んでいる。

「へぇ〜…同じ字を書くんだ。すごい偶然だね〜。」

 にこにこと嬉しそうに言われて、奈月の顔も、自然に笑顔になった。







 守衛さんが呼び出しをしてくれている間、奈月は奥の面会室には入らず、ずっと美人の男の子、「奈月葵」くんとおしゃべりをして過ごした。


 同い年という気安さもあってか、妙に気が合ってしまったようだった。

 男臭さとは全く無縁の葵の美貌は、他の人にはそれだけで緊張する材料なのであろうが、色恋に疎い天然娘の奈月には、逆に異性を感じさせない安心素材としてインプットされたのである。




 奈月くん…と呼びかけると、彼は笑って

「『葵』でいいよ。めちゃめちゃ紛らわしいもんね。」
 と言ってくれた。

 その上、買い込んで来た貴重なおやつの中から、新発売のチョコレートを分けてくれて、二人でその味を品評したりした。








 ようやく現れた小百合は、そこにいたのが夫ではなく奈月だった事や、昔からの仲良しのような葵と奈月に驚いていたが、夫の事を聞かされて、さすがに表情を曇らせた。




「大丈夫よ小百合さん…おじさんも、うちのお母さんも、心配しないで行ってらっしゃいって…。もう整体の先生にも診て貰ってるはずだし、そのお芝居のチケット、なかなか手に入らないんでしょう?」


 奈月が言うと、小百合は苦笑した。

「おばちゃん相当気合入れたのは確かだけどねぇ…。小巻ちゃんと待ち合わせて行く事になってるし…。でもホントにいいのかねぇ…。」




 奈月は悪戯っぽい表情になって、心持ち声を潜めた。

「あのね、実はうちのお母さん、そのお芝居に興味津々なの…。あとで感想を聞かせて欲しいって、楽しみにしてるよ。」


 笑顔で言われて、急に気持ちが楽になったのか、小百合は微笑んだ。

「奈月ちゃんは優しい子だねぇ…ありがとうね。お言葉に甘えて行って来るよ。」



 そんな様子を眺めていた葵が、可愛らしく言った。

「小百合さんも、なんだかんだ言って、旦那さまに惚れてるんだ…。」

 小百合は赤くなって、しなを作って見せた。

「いやだねぇ、からかうんじゃないよ〜…。おばちゃんは葵ちゃん一筋なんだからね〜♪」

 守衛さんまでが一緒になって、皆で笑った。







「葵!」

 守衛室から出たところで、別の声が掛かった。

「良かった…帰りが遅いから心配したぞ。」



「祐介…」

「おや、浅井くん…」

 振り返って、葵と小百合が同時に言った。



 また…

 めちゃめちゃカッコイイ子が現れちゃった…

 ホントにこの学校ったら…。



 奈月は、駆け寄って来る背の高い少年をぼんやりと見つめた。



「そういえば、珍しく一緒じゃなかったんだねぇ?」

 小百合がニヤニヤ笑いながら訊くと、葵が肩を竦めた。

「お菓子の買出し一緒に行く予定だったんだけど、祐介、用事が出来ちゃったんだよね。 藤原くん、何て?」

 最後の質問は祐介に向けたものだった。

「新しい楽曲の件で、午後練習が始まる前に質問しておきたいところがあるって…って、そんな事はどうでもいいよ…。何やってたんだ?」


 珍しい取り合わせの面々を、祐介は不思議そうな面持ちで見回した。



「小百合さんに面会だったんだけど…彼女、学校に入れなくて困っていたから、案内してたんだ。」


 葵が奈月を示して言うと、小百合が続ける。

「亭主が腰をやられてねぇ、代わりにお隣さんのこの子が届け物に来てくれたんだけど…引っ込み思案な子だから、葵ちゃんが通り掛ってくれて助かったよ。」




 何だかよくわからないが、自分のせいで、この祐介という男の子は、葵をひどく心配していたようだった。


 奈月はぺこりと頭を下げた。



「ご心配をおかけしました。」

 と、祐介に…

「本当に助かりました。ありがとう。」

 こちらは葵に…。



 そして…

 チョコ、ごちそうさま…と、愛くるしい笑顔で、そっと呟いた。











 それから数ヵ月後の昼下がり…

 奈月はひとり、聖陵学院最寄の駅前に佇んでいた。







 あの日、親切にしてくれた葵に、奈月はお礼状を書いた。

 その手紙は小百合を通じて葵の手に渡る事となり…

 それがきっかけになって、文通が始まった。



 葵はパソコンも携帯も持っておらず、電子メールならぬ「原始メール」のやり取りのみであったが、二人の間には奇妙な友情が確かに育っていたのだ。


 それは同性間の友情ではもちろんない。しかし、異性間の友情とも、どこか違っていた。



 奈月はその純粋無垢な天然ぶりで、誰が決めたのか知れないような常識より、感覚や感性でものを捕らえるところがある。


 それゆえ、鈍感なようで、妙に鋭い部分も持ち合わせており…葵との交流が進むうち、彼の恋人の話なども出るようになると、それが身近な人なのではないか…と言い当てた。




 戸惑う葵に、奈月は言った。



 尊敬できて、信頼できて、側にいて幸せ…

 そんな人が身近にいたら、例えば友情のようなものが、もっと強い想いに育つのも、ごく自然なこと…




 素直でシンプルな文面が、葵の戸惑いを取り払った。

 屈託のないやり取りが、そんな些細な心配事のせいで途切れたりはしなかった。







 …なんていうと、いつもリアルで真剣な手紙が交換されているのかと、勘違いしそうであるが…


 このふたりの絆は、何より食い気で繋がっていたのである!



 何と言っても、このふたり。仲良くなって最初にやったのが、新発売のチョコの品評なのだ。


 手紙の内容もほとんどが、

『ムース○ッキーより、フ○ンの方が断然好き〜v』

 とか、

『不○家のホームパイは、たまに食べるとハマる。大袋なのがまた嬉しいよねv』

 とかのやり取りであった。

 どこそこのチョコパが美味い…だとか、プリンはあの店のに限る…だとか…

 そんな情報交換がひっきりなしにされていたある日。

 奈月が書いて寄越した手紙に、葵のハートを鷲掴みにするお誘いがあったのだ。



『プリンの美味しいお店があるって前に書いたでしょう? そこに最近、新メニューの抹茶プリンが登場したの! 今度、トライしてみようかな〜って思っています。葵ちゃんも一緒にどうですか?』




 葵は速攻で飛びついた。

 スケジュールの確認をして、午後から空きのある日を見付けると、僕もぜひ連れてって!…と、奈月に連絡を入れた。








 そして今日が、その約束の日であった。



 約束の時間通りに現れた葵を、奈月はじぃぃ〜っと見つめる。

「な…なぁに?」

 思わずたじろいだ葵に、奈月はにっこりと笑って言った。

「やっぱり『アン』だ…。」



 つくづく予想の出来ないジャブに、葵の頭はくらくらしそうだ。

「…どうしてわかったの…?」

 モデルをやっているという話は、まだしていないはずであった。

「瞳…」

 奈月は、うふふ…と笑って言った。



「瞳の中の光みたいなもの…。葵ちゃんと初めて会った日、帰り道に『アン』のポスターを見かけて…思わず、さっきはありがとう…って、頭下げちゃって…それで気付いたの。今度会ったらもう一度、瞳の中を確かめようって、ずぅっと思ってたんだ〜。」




 はぁ…?



 やっぱりそうだったんだ〜♪と、嬉しそうにひとりごちている奈月を、葵は目をぱちくりさせながら眺めた。




 瞳の中…?

 ポスターに…お辞儀…?



 やがて可笑しさが込み上げて来て…葵はくすくすと笑い出した。

「奈月ちゃんって、やっぱり面白〜〜い♪」











「あれ… 奈月 奈月なづき(なづき)じゃないか?」



 久々の自由時間に、駅前まで遊びに出て来たのは、聖陵学院の管弦楽部の一行であった。


 改札口から漂う、妙に百合百合しい空気を、日頃から鍛え上げられた(?)鼻が嗅ぎ分けたらしい。




「本当だ…女の子と一緒だぞ。」

「ええっ!?」

 全員の視線が一斉にそちらへ向かう。



 今やふたりは、にこやかに談笑しながら、駅の構内へ消えて行こうとしていた。



「あの子…確か前に…」

 ひとり呟いたのは、最後尾を歩いていた祐介。



「あの子って確か、若葉台学園高校のアイドルって言われてる子だぞ?」

 情報通の茅野が言った。

「そんな子と、うちのアイドルの奈月が、なんで一緒にいるの?」

 やっぱり奈月はノーマルだったのか?…と、思いながら羽野が疑問を口にする。



「なんか知ってる? 祐介。」

 全員が、納得できる答えを求めて振り返った。



 が…



 祐介の姿は、その場から忽然と消えていた。





                                      つづく




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祐介はどこへ?

あろう事か、後編へつづく(滝汗)

さあ! 後編へ行く前に愛川奈月ちゃん出演の『秘密の扉』を読みに行こう!
祐介の姿が忽然と消えた理由がわかり、後編をさらに楽しく読むことが出来ますよ〜(^_-)

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