君の愛を奏でて3

番外編

『Mallet & Bow』

〜5〜




 コンサートを無事終えて、管弦楽部は軽井沢合宿までの3週間の夏休みに入った。

 3週間と言うのは、ほとんどの生徒が『短いよなあ』と感じる期間だが、ここにひとり、『なんでこんなに長いんだよっ』と、文句を垂れているヤツがいる。

 高等部管弦楽部長だ。

 帰省先は名古屋。
 両親共に弁護士で日々忙しく、中3の妹は私立難関校合格を目指して受験勉強の真っ只中。

 貴宏自身、音大へ行かなかったとしても私立難関大学は堅いレベルの学力はあるが、妹が将来的に狙っているのは国立最難関大学で、そうなれば兄貴としても応援せざるを得ない状況で、とどのつまり、帰省して来た貴宏は、家事を担う『重要な戦力』と言うわけだ。

 貴宏としても、最初の頃は『なんで帰ってきてまで掃除洗濯、しかも料理なんだよ』…と不満もあったのだが、それがコロリと変わったのは、凪との将来を考えるようになったからだ。

 いつか凪と暮らす日のために、出来るだけの準備をしておこうと。

 掃除洗濯は寮生活のおかげで自分も凪も不自由なくこなせる。
 となると、残りの大きな問題は料理だ。

 だが貴宏は幸い器用な質で、いざ料理も真剣に取り組んでみると意外に面白く、今やかなり凝ったものまで作れるようになった。

『寮生活のおかげで役に立つ男子に育ったわ〜』…なんて、母親は喜んでいたが、寮生活で掃除洗濯のスキルは確かに上がるけれど、料理をしようとは普通は思わないだろう。

 まして聖陵は、食事に関しては至れり尽くせりなのだから。

 そして、貴宏の『日々奮闘』に妹は『お母さんのよりずっと美味しい』と喜んで、『お兄ちゃんのお嫁さんは幸せだね』と言ってくれた。

 そう、そのために頑張っているのだから。

 理玖にその話をしたら、『うわ〜健気過ぎてリアクションに困るじゃないですか』…なんて言われたが。

 その理玖とは、数日置きに連絡を取り合っている。

 メールの時もあるが、だいたい電話で、会話の内容は管弦楽部のことからノロケに愚痴まで色々だ。


 本日も、深夜枠が理玖とのコミュニケーションタイムとなった。


『えっ、毎日2回もかけてるんですか?』

「ああ。 会えない間に忘れられたら困るだろ」

 しれっと言い放つ貴宏に、理玖は電話の向こうで呆れ顔だ。
 この長期休暇中、貴宏は凪に毎朝毎晩電話をしていると言うのだ。

『それはかなりウザいですね』

「…えっ、ウザいか?」

『あ、今凹みましたね?』

 凪の気持ちはもう、貴宏に捕らわれていると理玖はみている。
 だからこそ毎日電話と言うのは、 実のところ有効だなとも思う。

 凪はその名が表すとおり、普段は気持ちの安定した柔らかくて優しい子だけれど、こと、貴宏に関しては、ちょっとしたことで不安定になるから。

 ただ朝晩2回はちょっと『ウザい』気がする。

 でも、本音を言えば自分も好きな子と朝晩話せたら嬉しいな…とは思うが。


『ま、いいんじゃないですか?好きな人からの電話は嬉しいのが普通ですから』

「…なら良いんだけどな」

『あれ?自信ないんですか?』

 久しぶりに気弱な様子が見えて、ちょっと可笑しくなる。

「自信がないってわけじゃないんだ。ただ、凪はまだ、全部を預けてくれてない。どこかに一線を引いていて、遠慮してるような気がするんだ」

 それは理玖も感じていた。凪はまだ、『自分の気持ち』と『これからどうありたいか』のバランスがとれていない。

 けれど、こればかりは端から説得してわからせるといった類のものではなくて、凪の気持ちが固まるのを――そう、ある意味『覚悟』を決めるのを――待つしかない。


『凪はまだ自分に自信がないんでしょうね』

 どうして自分が『こんなに凄い人』に想われているのか。

『遠くから眺めるだけの憧れの人』だったはずの貴宏が、いきなり目の前に現れて手を取った…という所から始まった恋だから、もしかしたら今でも最初の距離感は縮まっていないのでないかという危惧もある。

 恋は双方の『想い』の立ち位置が対等でないと、愛には育つのは難しいのではないかと理玖は思っている。
 今、貴宏と凪はその状況にはほど遠い。

 けれど2人が同じ場所で過ごせる時間は残り少ない。

 卒業という節目が少しずつ現実のものとして近づいて来ている中、なんとか凪の気持ちが前向きになってくれるのを願うばかりだ。

 できることなら…ではなくて、絶対に幸せになって欲しいから。


「…そうだな。それは感じてる。凪は俺に愛されてると、本気で信じてない」

 もどかしい想いが、声にも滲む。

『時間を掛けるしかないんでしょうね』

「ああ、そうだろうとは思うんだが、俺はあと半年ちょっとで卒業だ。このままの状態で凪を置いて行くなんて、絶対無理だ」

 このままだとそのうち『留年する!』なんて言い出しそうな様子に、理玖が落ち着いた声で宥めに入る。

『気持ちはわかりますけど、焦っちゃダメですよ。僕も出来るだけフォローしますから』

 理玖が一番気をつけているのは、とにかく凪の負担にならないようにすることだ。
 けれど、その負担を軽くする一番の方法は、凪自身が気持ちを決めることだともわかっているから、尚のこと気は揉める。

 とにかく悪循環に陥ることは避けなくてはいけない。

 貴宏は『そうだな…ここで焦っちゃダメなんだな』と小さく呟いてから、大きく息をした。

「でさ、そう言うお前はどうなんだよ。帰省中はこれでもかってくらい遠距離だろ。片想いな上に顔も見られない声も聞けないで寂しいんじゃないのか?」

 貴宏は、本気で慮ってくれているようなのだが。

『あのね、わざわざ電話で喧嘩売ってんですか? ご心配いただかなくても僕たちは毎日メールのやりとりしてます』

 理玖としては、こっちのことは放っておいて欲しいのだ。

「なんだ、電話じゃないのかよ」

『あの子は帰省中も忙しいんです。邪魔してどうするんですか』

「相変わらずあいつには優しいな、理玖は」

『その日本語おかしいですよ。僕が優しくないのは里山先輩だけですから』

 いや、理玖的にはこれは『愛のムチ』だ。
 愛情表現というのは、優しさばかりじゃない。


「そんなことは身に沁みてるさ。それよりほんとに告白しないのか?」

 そして貴宏も、理玖が本気で心配して付き合ってくれているのだとわかっている。
 だからこそ、理玖の恋の行方にも本気で心配してやっているのだが…。


『しませんよ。何回せっつかれても、答えは同じです』

 いつも『この話』になると門前払いだ。

「俺にはそれがさっぱりわからん。 苦しいほど好きなのに、なんで黙っていられるんだ? 他のヤツらならまず100%玉砕だろうけどさ、お前だったら可能性はフィフティフィフティじゃないか? まあ、お前の立場上難しい…ってのもあるだろうけど」


 そう、もしも告白してこじれた場合、色々と面倒なことになる可能性が高いのもわかっているし、それは絶対に避けなくてはいけないのだともわかっている。
 理玖も、貴宏も。

 けれど、その『可能性』を横へ置いて、理玖は少し無理をして、ことさら大人びた声を作って言った。

『あの子はきっと、世界へ出て行きます。でも、僕にはあの子のそんな大きな人生を背負ってやれる自信はないんですよ。だから、見守るだけでいいんです』

 格好をつけてみたが、所詮は詭弁だ。
 告白する勇気なんてこれっぽっちもないことへの言い訳に過ぎない。

 けれどいつか、もしかしたら自分のこの胸の内を漏らしてしまう可能性も無くはないと、理玖は思う。

 それはきっと、溢れる想いに耐えきれなくなった時…。


『それよりあと2日で軽井沢合宿なんですから、凪にも会えるでしょ』

 凪も今年から軽井沢合宿にも参加するのだから、去年に比べれば1週間も早く会える。だからあと2日、我慢しなさい…と言おうとしたら。

「そう、その合宿だ。あのな、散歩に連れ出すんだったら、朝と夜のどっちがいいと思う?」

『そんなの凪に聞けばいいじゃないですか。ってか、電話と一緒なんですね。この際、朝晩誘ってウザがられたらどうですか?』

「…っとにお前って容赦ナシだな…」

『はい?何か言いました?』

「いいえ、なんにもー」

 子供じみた棒読みが可笑しくて、理玖は声を上げて笑ってしまう。

『ともかく、先輩の卒業後は僕がちゃんと凪をフォローしますから、どうぞ安心して卒業して下さい』

 笑ったついでに言ってやったら、電話の向こうから延々と抗議の声が続いていた。


                     ☆★☆


 9月。
 前期授業が再開されて、聖陵祭の準備が始まった校内はざわついて、浮かれている。

 そんな中、凪は密かにふさぎ込むようになっていた。


 初めての軽井沢合宿は、聞いていた以上に楽しかった。

 普段出来ない小編成のアンサンブルの練習も新鮮で楽しかったし、これまた普段は出来ない花火やスイカ割り、学年別の雑魚寝の夜更かし等々、中等部の修学旅行よりもずっと面白かった。

 その上、毎朝毎晩、貴宏が散歩に連れ出してくれて、広くて鬱蒼とした森の中にある遊歩道を手を繋いで歩いた。

 1年と3年の2人にとっては、一緒に過ごせる最初で最後の軽井沢合宿。
 話し上手な貴宏が教えてくれるあれこれは凪を夢中にさせてくれた。

 そして、見つめてくれる優しい瞳と、その長身を屈めてそっと触れる柔らかくて熱い唇。

 いつまで経っても慣れなくて、身体も唇もギュッと硬くなってしまうけれど、それを温めるように抱きしめられるのも、気持ちが良すぎてうっかり甘えてしまいそうになる。
 
 まるで『恋人同士』になったような錯覚を起こして。


 ――夢…みたいだな。

 そう思った1週間はあっという間だった。

 9月に入って、日常が戻ってくると、あの夢のような1週間は、さらに夢だったような気がした。

 そして、聖陵祭の準備に入ると3年生の口から頻繁に漏れてくるのは『最後の聖陵祭』という言葉だ。

 聖陵祭が終わると、選挙の時期を迎えて3年生たちは本格的に受験体制に入る。

 それはつまり、卒業が近づいていると言うこと。
 凪にとっては、それが恋の終焉に思えてならない。

 同じ大学へ行こうと言ってくれる貴宏。
 けれど、追いかけてはいけない自分。

 それはきっと、見えない溝になっていつか2人を分かつ。

 それなら、あの夢みたいだった軽井沢合宿を思い出にして、忘れてしまおうと思った。何度も何度も。

 けれど、それが簡単にできるのなら、最初からこんなに苦しくはないのだ。

 凪のため息は、日々深くなっていった。



                     ☆★☆



「凪、練習見にいかねえ?」

 部活が終わった時、七生が誘ってくれた。
 練習とは、演劇コンクールのことだ。 

 今年、凪は貴宏や理玖と縦割りB組で一緒になった。
 本当ならきっと嬉しいはずなのに…。

「あ、うん。今日は帰るよ」

 作った笑顔は、顔の筋肉のどこかが突っ張った感じがして、自分でも気持ちが悪いな…と凪は思う。

 案の定、七生は表情を曇らせた。

「…大丈夫か? なんか最近しんどそうだけど、無理してねえ?」

 こんな風に、七生はいつも気遣ってくれる。

 いつも元気で賑やかで優しい七生は、すでに凪にとってはなくてはならない親友になった。
 どんなことでも相談し合えるほどに――当然、貴宏のことは省いて、だが。

 そんな七生が掛けてくれた気遣いに、凪は、今度は本当に微笑む事ができた。
 七生の気持ちが嬉しかったから。

「うん、大丈夫だよ。心配かけてゴメン。えと、ほら、まだメインメンバーってのに慣れてなくて、合奏についていくのが精一杯って感じなんだ。だから、早めに休んで明日に備えるよ」

 嘘ではない。けれど、全部が本当でもない。

 ふうん…と、やっぱり訝しげに凪を見る七生に、もう一度笑って、『晩ご飯待ってるからね〜』と手を振った。




 寮への帰り道を、今頃3−Bの教室では、練習が始まっているんだろうなあ…と、後ろ髪を引かれる思いで辿る。

 貴宏と理玖が演じるロミオとジュリエットは、これでもかと言うくらいに麗しく、見ているのはとても楽しい。

 出来ることなら、ずっと見つめてその姿を目に焼き付けたいくらいだ。

 けれど、それをしてしまうときっと忘れられなくなる。

 軽井沢合宿の思い出さえ、もしかしたら痛みに変わるかもしれない。

 だったらなるべく思い出は残さない方がいいのかも知れないと思うと、凪の足はますます『ロミオとジュリエット』から遠のいた。

 その間、理玖が心配してくれたのだが、やっぱり気持ちの悪い作り笑顔しか返せなくて、そんな自分が情けなくて、すっかり八方塞がりに陥ってしまった。

 貴宏からも、何度も『会えないか?』とアプローチがあったけれど、一度も応えることはできなかった。

 そうしてバタバタと聖陵祭が終わると、凪の様子の変化は誰の目にも明らかになり始めた。




 そんなある日。

「あの、凪…」

 聖陵祭直後で部活も短縮時間になっていた放課後に、渉が声を掛けてきた。

「今ちょっと、時間ある、かな? 話したいことが、あるんだけど」
「あ、うん、大丈夫だよ」

 入学以来、チェロパート唯一の同級生として色々な話をして、情報交換したり相談し合ったり、時には慰め合いながらやってきた2人だったが、いつになく深刻な様子の渉に、 夏合宿の事件がよぎり、何かあったのかと凪は表情を曇らせた。

 ところが、渉が口にしたのは予想外のことだった。

「凪、最近元気がなくて、心配なんだけど」

 まさか自分のことだとは思わなかった。

 そして、四六時中一緒にいる同室の七生ならともかく、渉の目にも留まるほどだったかと反省した。
 渉にまで心配をかけるつもりはなかったのに。

 けれど、やっぱり自分は誰かに聞いて欲しかったのかも知れないと思った。

 理玖は、聖陵祭の準備期間中もそうだったように、いつでも心配して話を聞いてくれるし、自分と貴宏の間を繋いでいてくれていることも良くわかっていた。

 でも、理玖の向こうに貴宏がいるのがわかっているからこそ、最近は諸々をさらけ出せなくなっていたのもまた事実で。

 そして、七生にも話すことができなかった。
 せっかく心許し合う親友になれたのに、先輩に恋してるなんてことがバレたらきっと、友達でいられなくなると思ったから。

 だから…。

「…な、凪っ?」

 うっかり、涙を零してしまった。

 渉は狼狽えながらも、一生懸命背中を撫でてくれて、ひとしきり涙を流し終えるまで、黙って見守ってくれた。




「先輩は、待ってるから同じ大学へおいでって言ってくれるんだ」

『もし良かったら、話してみない?』と、静かに問いかけられて、凪は貴宏とのことを正直に話した。

 根拠はなかったけれど、渉は『ここでの恋』を拒絶しないような気がしたから。 

 渉は2人のことについて、『全然わからなかった』と目を丸くしてから、『ぼんやりの僕にわかるはずないか』と恥ずかしそうに笑ってくれて、凪は妙に素直な気持ちになれた。


「あ、じゃあ、よかったじゃない」

「ううん、そうはいかないんだ」

「…どうして?」

 凪は渉に洗いざらい話した。

 両親は『音楽は高校まで』と言っていて、自分もどうしても音大へ行きたいとは思っていないこと。
 それは、技量の面でも気持ちの面でもだということも。


「だから、僕は追いかけていけない。だから、ここで終わってしまう恋なんだ」

 口にすると、余計に悲しくて切なくて、心が閉じてしまいそうになる。

「…えと、同じ大学でないと、気持ちは続かないものなの、かなあ」

 渉は相変わらず静かに口にする。

「距離と環境って言うのは、埋めようのない溝になっていくんだ」

 だから、凪も静かに応える。

 けれど、静かに口にすると、一層溝が深く落ち込んで行くような気がして、背筋が少し冷たくなった。


「あの、さ、凪」
「うん?」
「その話、先輩にした?」
「進路のこと?」
「そう」

 渉は珍しくしっかりと視線を捉えたまま尋ねてきて、その瞳が持つ思わぬ力強さに、凪の方が視線を逸らせてしまった。

「…してないよ」
「どうして?」
「…言っちゃうと、終わっちゃうような気が…して」

 聖陵を出てしまったら、もう後はないのだと、自分から告げる勇気はない。

「でも、今すれ違ってるの、そこ…じゃないの?」

 渉の言葉がど真ん中に落ちて、視線を落としたまま、凪は沈黙した。

「ええと、ひとりで考えて出ない答えも、あの…もしかしたら、2人だと、何かあるかも、だし」

 自信なさげに途切れながら、でも一生懸命に話しかけてくれる渉に、落としていた視線を上げて、凪はしばし考えこんでから口を開いた。

「…先輩に相談するって発想…全然なかったよ…」

 あれだけ頼りになる人なのに、それができないのは、自分をさらけ出すのが怖かったからだ。

 素直になれないのも、甘えられないのも、預けられないのも、すべて自分に自信がないから。

 学校という狭い世界の中でさえ、自分に目を留められたことが不思議でならないのに、外へ行って魅力的な人とたくさん出会えば、あっという間に自分なんかは色褪せるに違いない…と、そればかりに捕らわれていて。


「なんだか、凪が先輩のことが大好きなの、すごく、伝わってきた感じがする」

 少し頬を朱くして、照れくさそうに言われ、凪は目を見開いた。

「…渉」

 後ろ向きなばかりの今の自分から、『好き』という気持ちが伝わったとはとても思えなくて。

「好きだから、怖いって言うの、なんか、よくわかる…気がするんだ。だから…えっと、いっそのこと、この際だから…諦めるのは、最後…でもいいんじゃない、かな。凪が先輩のこと好きで、先輩が凪のこと、好きなんだから、それを繋いで行こうと思えば、いいと思うんだ…けど」

 言葉を選びながら、渉は懸命に伝えようとしてくれている。

 それは、目を背けていた凪の背中をそっと押した。

 上手く伝えられるか自信はないけれど、貴宏と話をしてみよう…と、思った。

 ただ、まだまだ『諦めるのは最後』と言う覚悟はつかなかった。
 傷つくのが、怖くて。



                    ☆★☆



 役員改選を間近に控えたある夕方。

 凪は漸く…久しぶりに貴宏の誘いに応えて一緒に裏山へとやって来た。

 こんな所まで来てしまって、ひとりで帰れるかなと少し不安になるほど奥の方へと入ってきたが、寮の屋根は見えているから何とかなるな…と、凪は最初の頃のように、心のどこかで逃げる算段をしている。

 けれど、貴宏は凪の手をいつもより強く握っていて、逃げることはできなさそうで。



 岩場の陰の一角に腰掛けると、風が遮られて何となく温かい。

 貴宏は、そっと凪の肩を抱いてきた。

「俺は今まで、たくさんのことを凪に話してきたけれど、凪の話をちゃんと聞いてなかったと思うんだ」

 凪が誘いから逃げ続けてきたことには触れず、殊更優しくそう告げた言葉の内側には、懺悔のような痛みが見え隠れして、凪は返す言葉をなくした。

「凪が不安に思っていること、俺に少しずつでいいから聞かせてくれないか?」

 久しぶりに真っ直ぐ見つめた貴宏の瞳には、今までに見たことの無いような色が浮かんでいた。

 見慣れているはずの、優しさでも強さでもなく、それは…。

 ――…どうして…?

 不安や哀しみといった類の、ほの暗さを刷いていた。

 ――もしかして…先輩も…

 不安なのだろうかと思ったが、まさかそんなはずはないと打ち消したその時。

「俺は凪の本当の気持ちを知りたいだけなんだ。そうでないと、不安なんだ。凪が離れて行ってしまいそうで…」

 自分から離れて行くなんて、そんなことがあるはずもない…と思った端から、ずっと逃げる準備ばかりしていた自分を思い出して、情けなくなった。

 そして、初めてその口から不安を言う言葉を聞いて、凪は狼狽えた。

 自分が自己表現に乏しいのは自覚していたけれど、それも過ぎると相手に不安を与えてしまうのだと初めて気づいた。

 そんなつもりはなかったのに、大好きで大切な人に、『不安だ』と言わせてしまうなんて。

「…ごめんなさい…」

 申し訳無くて、思わずこぼれ落ちた言葉に対する貴宏の反応は思わぬ激しさだった。

「…凪っ?」
「えっ?」

 両肩を強く掴まれて、至近距離でかち合った視線はまるで、迷子の子供のようだった。

「ごめんなさいって…それ、どういうこと…だ? まさか…凪…」

 何がまさかなのだろうと首を傾げてみたが、目の前で貴宏の顔色が、まるで血の気が引いたかのように青ざめたのを見てしまい、凪はまたしても狼狽えた。

「せ、先輩、大丈夫ですか?顔色が…」

 見るだに冷たそうな感じになった頬が可哀相で、凪はそっと両手のひらでその頬を包み込んだ。

 貴宏は、その手に一回り大きな自分の手を重ねてキュッと握り込む。

「なあ、凪。ごめんなさいってどういう意味、なんだ?」

「あ、あの…ええと、不安にさせてしまってごめんなさい…って言う…」

 ただそれだけだったのに、どうして貴宏がこんなにも反応をしたのかがわからずに、凪は言葉を途切れさせたのだが、貴宏はあからさまに力を緩めてからギュッと目を閉じた。


「…脅かさないでくれよ…。俺、振られるのかと思って心臓止まりそうだった…」

 はあ〜…っと、大きく息をつきながら、もたれかかるように抱きしめられたその重さが、その想いの重さそのもののように感じられて、凪は少し、紅くなる。

 そして同時に申し訳なくて、青くなる。

『ごめんなさい』の意味を、そんな方向へ捉えるほどに、不安にさせていたなんて思いも寄らなかった。

「なあ、凪…」

 抱きしめられたまま聞く貴宏の声は、やっぱりどこか寂しげで。

「はい…」

「俺は絶対に凪をひとりにしない。だから、抱えている不安を俺にも預けてくれないか?」

 少し身体を離して出会った視線は、少し強さを取り戻しているようで、凪は小さく息をつく。

 話してみよう…と、思った。 
 諦めるのは、この次にして。


「僕…」 

 凪は進学の不安を漸く口にした。

 同じ大学へ行きたいけれど、両親の許しもないし、自分の力も熱もないと。そして、それをどうしても言えなかったのだと。

「それを言ってしまったら…」

 終わってしまうかも知れない…と言う言葉は、あまりにも怖くて口に出来なかったが、貴宏は正しく受け取めた。

「ごめんな、俺があれこれ言ったから、不安にさせてしまったんだな…」

「先輩…」

 もう一度凪を抱きしめて、その背中をあやすように撫でながら、いつもの貴宏らしい力強さで告げる。

「凪は凪の思うままに進めばいい。俺は凪がどんな道を歩んでも、ずっと護っていくから。それと、凪が別れたいって言っても、別れてやる気はないから、そこのところももう諦めて、覚悟を決めておいてくれ」


 ――覚悟…。

 今、一番自分から遠い言葉のような気がした。

 けれど、『今』は確実に自分を想っていてくれる貴宏の気持ちを、自分から振り解く勇気もない。

 だから、こうなったらもう、行き着くところまで諦め悪くあがくしかない。

 そう思った。

 そして、もし諦めなくてはいけない日が来たら、思いっきり泣いて、渉に慰めてもらおうと、自分を励ますように、少しだけ笑った。



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