幕間 「会いたくて」





 まだ、たったの14年と半年しか生きていない。

 けれど、多分こんなに心が揺さぶられることは、もう無いかも知れない。

 紘太郎はそう思った。


 演奏を聴いて、涙してしまったことなど今まで一度もなかった。

 音楽は、聴くのも弾くのも好きだけれど、ただ綺麗なものであって、美しいと感動することはあっても、それが身体の中までやってきて、心まで支配するものだとは思ってもいなかった。

 なのに、たった2つ年上なだけの『彼』は、1000人を超える聴衆の前で、それをやってのけた。

 楽器ひとつで。オーケストラを背負って。


 

 その場に居合わせたのは偶然だった。

 たまたまチケットを譲られて――後から知ったのだが、そう簡単には手に入らないプラチナチケットだった――母親と出かけたコンサート。

 プロをも凌ぐと言われている名門進学校の管弦楽部の定期演奏会だったが、しょせん自分と同じ年頃の『子供』が奏でる音楽でしかないと、大した期待も持たずに席に着いた。

 けれど、自分と同じ中学生の演奏からして、すでに『子供の音楽』ではなかった。

 さらに高校生の演奏は、とんでもないレベルと情熱に溢れていて、それだけでも鳥肌が立つ思いだったのに、最後に演奏されたコンチェルトは、目を閉じればもう、プロの演奏としか思えなかった。

 そして、そのとんでもないレベルのオケを背負ってソロを弾いたのは高校1年生。

 そのバックグラウンドが華やかなのは、すでに母親からも聞いていたし、開演前や休憩時間中のロビーや客席も、その話題で溢れていた。

 父親とその兄弟、そして祖父や祖母に至るまで世界的奏者が揃う、まさに『サラブレッド』。

 さぞその存在は重たかろうと、ハリウッドにまで進出している俳優の父と、国内で不動の地位を築いている女優の母を持つ身の紘太郎には容易に察せられたが、舞台に現れた彼は、そんな重さはみじんも感じられないほど堂々として、全てが自信に溢れていた。

 そして、その第1音から観客を掴み、最後まで離すことはなかった。

 紘太郎もまた、彼に心を掴まれて、息することすら忘れていたかも知れない。




 それから毎日、思い起こすのはあの演奏と、ステージでの堂々とした立ち居振る舞い。

 目を瞠るほどの愛らしい顔立ちが、 スタンディングオベーションに一瞬はにかんだように微笑んだのも、指揮をした教師――叔父だという彼の話も母からは聞いていたが――と抱き合った時にふと見せた、幼い笑顔も忘れられなかった。


 それから紘太郎は、すべてのコンサートを聞きに行った。

 ただ、翌年の夏のコンサートでは、彼の姿がなくて焦った。

 チェロパートにも名前がなく、何かあったのだろうかと不安になったのだが、よく見れば、生徒指揮者にその名があり、ツテを辿って確認してみれば、今回は下振りだったのでステージには上がらなかったが、次回は本振りをするだろうという話で、次のコンサートを指折り数えて待った。


 そして、次の聖陵祭コンサートは一般のチケットがほとんどないため、両親に頼み込んで関係者用のチケットを入手してもらい――頼み事などしたことのない息子の『我が儘』に、両親は嬉々として尽力してくれたが――彼の『指揮デビュー』をこの目と耳で確かめて、一層輝きを増した彼の姿に魅せられて、その夜は一睡もできなかった。

 彼が振ったその曲の総譜を手に入れて、毎日飽くことなく、読み、聴き、弾いた。

 まるで彼の側にいて、自分が演奏しているかのような、夢現の中で。


 その後、2社の音楽雑誌に彼の取材記事が載った。

 どちらも当然、その非凡な才能を讃えていたが、また同時に、普段の彼は物静かで控えめで、今時の若者とは少し違う、どこか古風な感覚を持った可愛らしい少年であるのだと締めくくっていた。


 彼に会いたい。熱烈にそう思った。


 そして、彼を初めて見た日から1年後の定演を聞きに行った時には、紘太郎はすでに決心していた。

 何が何でも、聖陵に入ると。

 幸い幼い頃からヴァイオリンのエリート教育を受けてきた。

 音楽の道へ進むことには躊躇いがあって、それほど気合いを入れて励んできた訳では無かったが、彼に出会って、紘太郎は自身の道をはっきりと定めた。

 彼に認められる奏者になりたいと。
 そして、彼の側にいたいと。

 毎夜毎日、彼と、彼の音楽を思わない日はない。

 胸が焼き切れそうだった。

 早く…早く会いたい。

 桐生渉という、とてつもない才能の側へ、早く…。



                   ☆ .。.:*・゜



 桜舞い散る中、漸く聖陵学院の制服に身を包んで正門をくぐることができた。

 コンサートと試験のために5回通った音楽ホールの前で、同室になる生徒が待っていてくれた。
 管弦楽部の持ち上がり組で、楽器はホルン。

「ようこそ、岡崎紘太郎くん」

 にこやかに迎えられて、緊張の糸が少し緩む。

「はじめまして、よろしくお願いします。結城章太くん」

 同室者の名前はすでに伝えられていた。

 大切に保管してあった過去のコンサートのプログラムを確認してみれば、彼の名は中等部の部長と記されていて、中3ですでに次席奏者という実力者だ。

 寮への道すがら、話し上手で聞き上手な彼のおかげで、さらに緊張はほぐれた。

 名前で呼び合おうと提案してくれたのも嬉しかったし、何より一番嬉しかったのは、『色々と周りが騒々しいかも知れないけど、そのうち収まるから。でも、何か面倒なことや嫌な目に遭ったりしたら、すぐ相談してほしい。それだけは約束して』と言ってくれたことだ。

 さすが、中等部とはいえ、管弦楽部長になるだけのことはあるのだな…と感じた。


「そういえば」

 思い出したように言われて、何かと思えば成績の話だった。

「浅井先生に聞いたんだけど、入試、トップだったんだって?」
「あ、うん。明日入学式で総代だって言われて…」

 実技だけでなく、勉強もそれなりに必死でがんばった甲斐があったと、自分でも満足している。

「これで、3年連続だな」

「え?」

「入学式の総代だよ。3年連続で管弦楽部の新入生なんだ」

「そうなんだ」

「渉先輩に、英先輩に、紘太郎…ってわけだ」

 胸にズキンと甘い痛みが走った。

「渉先輩…って」

 声が少し震えた。

 もしかしたら、その名を初めて口にしたかもしれない。
 今までずっと胸の奥でひっそりと、独りで呟いて来ただけだから。


「知ってるだろ? 生徒指揮者の桐生渉先輩」

「も、もちろん、知ってる。コンサート、ずっと聞いてたし」

「じゃあ、渉先輩のすごさは今さら言うまでもないと思うけど、あの人は管弦楽部の…ううん、聖陵学院の至宝…だな。またの名を『聖陵学院の天使』」

 章太が話すことはいちいち納得出来た。
 そして、自分だけではないのだと改めて思い知る。

 誰もが、彼の才能に心酔し、惹かれている。


「音楽も勉強もとんでもなく出来る人で、しかも見かけがあの可愛らしさだろ? なのに驕ったとこなんかこれっぽっちもなくて、上級生下級生問わず、誰にでも同じように優しく穏やかに接してくれるんだ。 だからみんな、いろんな意味で渉先輩が大好きなんだ」

「いろんな…意味?」

「そう。いろんな意味。どんな色々かは、ここで生活していくうちにわかってくると思うよ」

 そう言われて、自分はどんな意味で彼が好きなのだろうと自問する。

 けれど今すぐに出てくる答えは、ただ、焼けるような胸の痛みだけで、それが一体何なのか、どういう名前を付ければいいのかわからないほどで…。


「あの、さ」

「うん?」

「渉先輩…と、話したりってできるの、かな?」

「ああ、そりゃいくらでも。部屋に尋ねていって、管弦楽部に入りますって、挨拶してみてもいいんじゃない? よかったら、連れてったげようか?」

「えっ、ほんとにっ?!」

 つい、勢い余ってしまえば、章太はケラケラと笑った。

「紘太郎も、渉先輩に憧れて入ってきた…ってところ?」

「…あ」

「心配しなくても、去年もそういうのいっぱいいたし、今年はもっと多いんじゃない? 中等部の管弦楽部の入部希望って、過去最多らしいし」

 中等部ですら入試以前に試演会があって、全員が入部を許されるとは限らないと聞いている。
 管弦楽部に入れないのなら受験しない…という者も多いと聞いたことがあるくらいだ。


「ま、中等部の場合、入れたからって、どれだけ残るかは未知数だけど」

 章太の言葉に、あのレベルの高さは、幾度ものハードルを越えることの出来た生徒たちによって保たれているのだと知り、少し怖くなる。

 自分はついて行けるのだろうか。

 いや、何が何でもついて行かなくてはならない。
 それも、ただついて行くだけでは駄目だ。

 コンサートマスターにならなくてはいけないのだ。

 目標は『彼の側に在ること』…なのだから。


「まあ、明日入学式の後に管弦楽部のオリエンテーションがあるから、そこで色々わかって来るとは思うけど、今年はオーディション厳しそうだから、みんな気を引き締めてるかな」

「うん。12月の定演聴いて、中等部がすごく上手くなってて、びっくりした」

「だろ〜? 浅井先生が付きっきりで見てくれたからなあ」


 そう言えば、章太の情報を得るために見返した、定演のプログラムのメンバー表に、幼なじみと同姓同名を見つけた。

 年も幼なじみと同じ、当時高校2年生。首席奏者だった。

 だが、彼が楽器をやっているとは聞いたことはない。

 紘太郎がヴァイオリンをやっていると知っていても、彼の口から楽器の話が出たことは一度もない。

 毎年、夏休みの終わりに1週間だけ会える、とても可愛いくて頭のいい男の子で、彼に会えるのが楽しみで退屈な家族旅行にもついて行けたのに、2年前から彼の姿はそこになくなった。

 遠方の高校に行っていて、8月の終わりにはもう学校へ戻っているのだと聞かされて、自分でも驚くほどがっかりしたのだ。

 定演の時に気付いていれば、この目で確かめられたのだが、あの時この目は、桐生渉と言う人しか見ていなかったから…。


「紘太郎?」

「あ、ごめん。なに?」

「大丈夫? 疲れた?」

 気遣わしげに覗き込まれ、紘太郎は慌てて頭を振る。

「ううん、ごめん。大丈夫」

「ならいいけど。じゃあ、取りあえず部屋に荷物置いて、片付け済んだら先輩のとこ、行ってみる?」

「あ、うん。ありがとう」

「どういたしまして」


 自分ではごく普通の性格をしていると思っているが、そのくっきりとした目鼻立ちと体格の良さから、周囲は勝手に紘太郎を闊達な質だと思い込む。

 だから実際以上に『なんだ、意外と大人しいんだ』とか『結構ヘタレ?』とか言われてしまうこともあり、それを苦痛に感じる時もあったのだが、ここへ来て最初の友達は、むしろリードするのが当たり前…とばかりに振る舞ってくれるので、ほんの少しの間にも、嘘のように心が軽くなっている。

 決して人見知りでも引っ込み思案でもないのだが、すでに出来上がっている人間関係の中に飛び込んでいくのは、やはり緊張を強いられるし、不安も大きかった。

 けれど、これなら大丈夫かもしれないと、その表情が漸く緩む。

「お。笑った」 

 章太が嬉しそうに言った。

「人気出そうだなあ、紘太郎は」
「え? 俺が?」 

 中学まで私立の共学に通っていて、女の子たちにはそれなりにモテたが、それは自分のバックグラウンドの所為だと思っている。

 けれど、男子校ではそのバックグラウンドはかえってマイナスかもしれないと思っていたのだが。

「そ。ちなみに聖陵学院の一番人気は圧倒的に浅井先生」

「あー、それわかるかも。先生、スッゴい男前だよな。スタイルもいいし、しかも優しいし」

 入試の面接、実技審査、入学が決まってから…と、何度か話をしたが、いつも温かくて包まれるような感じだった。

「でも指導は容赦ないぞ?」

 笑いながら言えるのは、顧問との信頼関係の成せる業だろう。

「あと、生徒じゃあ、コンマスの栗山先輩と部長の麻生先輩の『NKコンビ』。それから渉先輩の弟の英先輩辺りが『男前系』ではダントツってとこだろうなあ。あと、剣道部やテニス部、バスケ部にもモテ男がいるな」

 あいつだろ、こいつだろ…と指折り数えて、章太はひとり納得している。

「あと、『カワイイ系』では渉先輩と安藤先輩のコンビが他の追随を許さないってとこだろうなぁ。ほんと、何でこんなに可愛いオトコが存在するんだろうって感じ。あ、チェロの水野先輩も美人さんで人気あるな」


 気になる名前がセットで現れた。

「あのさ、その安藤先輩…って、オーボエの?」

「うん。オーボエの首席で管楽器リーダー」

「もしかしてその人も高校から? 音楽推薦とか…」

「いや。先輩は中等部からの持ち上がり組だよ。中等部で生徒会長やってた切れ者でさ、『難攻不落の美少女』って呼ばれてる」

 それならきっと、同姓同名の他人だと思った。 

 確かに『美少女』と言って差し支えない容姿だったが、彼は中学の頃にはまだあそこにいて、会えていたのだから。

 それに、『生徒会長』とか『切れ者』と言う印象からは遠い。

 確かに『一を聞いて十を知る』と言える頭の良さだったが、彼はいつも、柔らかい優しさで接してくれたから。


「安藤先輩も実力は超高校級だからなあ。多分音大進学だろうし。先輩が卒業した後のオーボエがちょっと不安なんだよなあ」

 元部長らしく、管弦楽部の『行く末』を案じる様子は同い年ながら頼もしい。

 そして部屋に到着してからは、バカな笑い話もしながらさっさと片付けを済ませ、いざ、目的の地へと出陣となった。



 
「ここ。渉先輩の新しい部屋」

 部屋番号を見るだけで、心臓が踊り出す。

「あ、いた! 章太、ちょっといい?」

 同じ1年生らしき生徒が声を掛けてきた。

「あ、ちょっとだけ待って」

 そう答えると、紘太郎に向き直る。

「ごめん、ちょっと用事出来たから、先輩に紹介したら、俺、席外しちゃうけど、大丈夫? なんだったら出直す?」

「あ、ううん、大丈夫だと思う」

 誰にでも優しいと評判の彼ならば、きっと、大丈夫。
 それに、少しでも早く、会いたい。

「そう? じゃあ…」

 章太の手が、ドアを軽くノックする。

 中から応えがあったように聞こえ、章太がそっとドアを開けて声を掛けた。

「ホルンの結城です。渉先輩いらっしゃいますか?」

 返答の声はよく聞こえないが、章太は『同室の『正真正銘』を連れて来たんですけど』…と話していて、それからこちらを向いて、笑顔でOKサインを見せてくれた。

「じゃ、ごめんな。紘太郎、また後で」
「うん、ありがとう。章太」

 言いながら、章太に押し込まれた部屋の中。

 焦がれた彼の姿を目にする前に、紘太郎は、もうひとりの可愛い『彼』の姿に、思わず声を上げた。

「え? 和真?!」

 だが、驚愕に目を見開いたのは紘太郎だけで、『彼』は曖昧に、笑った。

「…えっと、紘太郎、久しぶり」

「なんで、ここにっ?」



END

第2幕〜春宵の頃』へ


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