幕間 「ここにいるよ」

【1】





 そんなつもりではなかったのに。

 焦がれ続けたあの人を、腕の中に閉じ込めてしまった。

 ステージではあれほど大きく見えたのに、腕の中で震える身体は、思っていたよりずっとずっと、華奢で、そっと触らないと壊してしまいそうで。

 そして、その華奢な身体の中にあるその心は、繊細で、妥協することなく自分を奥深くへと突き詰めて、その苦悩すら、さらけ出してくれて。

 すでに『彼の音』に掴まれていたこの心が、『彼自身』に惹かれないはずがなかったのだ。


『ずっと一緒にいようって、約束してる』


 誰が、彼の心を握っているのか。
 それも知らずに諦めることなど、絶対にない。 



                     ☆★☆



「何? 話って」
「渉のこと」

 翌日、同じ『練習室16』に呼び出して、和真は紘太郎に向き直った。

「…やっぱりね。渉先輩から聞いたんだ?」
「ううん、聞き出した。ここに、座り込んで呆然としてたから」

 ここに…と指差して、紘太郎が去った後の様子を聞かせてやると、その表情が曇る。

 だがそんなものに構ってはいられない。 

「人見知りで引っ込み思案の渉には、相当なストレスだったと思うよ。僕の顔を見た途端に泣き出したくらいにはね」

「それは…」

 それなりに、後悔している部分もあるのだろう。
 和真から目を逸らし、唇を噛む。

「渉には、直也と桂がついてる」

「それは知ってるよ。みんなが噂してるから。栗山先輩も麻生先輩も、渉先輩にぞっこんだってね。でも、それだけだろう?」

「それだけ…って?」

「 渉先輩は繊細で、身体も丈夫じゃないって聞いた。だから、栗山先輩も麻生先輩も、渉先輩を護ってるんだって話も多かった。それとも、実はどっちかが恋人だとでも言う?」

「それは…」

 どっちも恋人だ…と本当のことをストレートに口に出来るのなら苦労はない。

 言えるものなら、その場で渉だって告げていただろう。
 そして、それで終わりにできた話…かもしれない。


「渉先輩にもはっきり言われたよ。好きな人がいるって。片想いじゃないとも言われた。でも、俺はこの目で確かめない限り諦めない。生半可な気持ちで追っかけて来た訳じゃないんだ」

 静かに深く思いを語る紘太郎に、和真は内心で『マズいことになったな』と舌打ちしたい気分になる。

 一本気なところがあることは知っていた。
 こうと決めたらやり通すところがあることも。

 幼い頃からそのバックグラウンドに左右されない強さも持っていて、だからこそ、立場を超えた友人であれたのだ。

 その、本来ならば歓迎すべき色々が、渉にとって大きな障害になろうとは。

 だがどんなことがあろうとも、和真にとっての最優先は、やはり変わらず、渉の幸せ…だから。


「渉が嘘を言ってると思うわけ?」

「そうは言ってない。ただ、確かめもしないで諦めるなんてことは絶対しない…ってことだ」

「もしそれが、渉を傷つけるとしても?」

 痛いところを突かれたのだろう、一瞬息を呑み、またそれを大きく吐いた。

「諦めたくない。俺は渉先輩が好きだっ。ただ、それだけだ!」

「紘太郎!」

 部屋を飛び出して行く背中を呼び止めたが、紘太郎は振り返ることもなく、行ってしまった。


 残された和真は、これからどうするのがベストなのか、頭をフル回転させた。 

 もう一度話をしたところで、おそらく自分の言うことを素直に聞くようなことはないだろう。

 だからと言って、渉ひとりで処理できるとは思えない。

 まして、渉は本当のことを言ったのだ。
 両想いの相手がいるのだと。 

 そうなれば、これ以上、渉に打つ手はないだろう。

 ――桂と直也に言うしかない…か。

 出来ることなら知らせずに終わらせたい。
 渉は、絶対知られたくないと思っているだろう。 

 けれど、黙ったままでいて、もっとマズいことになってしまったとしたら…。

 こういう類のトラブルは、長引かせるほど傷が深くなる。

 そう自分に言い聞かせて、和真は直也と桂のもとへ向かった。


                    ☆★☆


 和真に、昨日からの話のあらましを聞かされた直也と桂は、当然顔色を変えた。

「僕たちが行って話しをつける」
「無駄だと思うよ」

 言下に否定されて直也がムッとした顔を見せる。

「それとも何? 渉の恋人は『自分たち』だってはっきり言うってこと?」

 渉が2人のことを思ってそうとは言えなかったように、直也と桂もまた、それは言えないはずだ。

「じゃあ、どうすればいいって言うんだよっ」

 桂もまた、苛立ちを隠せない。

「だから、それを考えようって言ってんだよ。渉のためにも、傷や禍根を残すような解決法は避けたいだろ?」

 桂と直也の苛立ちがもっともなのは、和真もよくわかっている。

 ようやく穏やかに3人が想いを育めるようになって、まだ1年足らず。

『そういうこと』に寛容な『ここ』でさえ、誰にも言えない恋愛の形を、守り通しながら障害をクリアしていくのは並大抵ではない。

 だから、真実を知る自分は、できる限りの力になりたいと思っているのだ。

「少なくとも、相手が誰かはっきりわからせない限り根本的な解決はないと思う」

 殊更穏やかに言う和真は、そうすることで、浮き足立つ2人に自制を促す。

 それは2人も理解したのだろう。
 今ここで取り乱しても得るものはないと。

 それから暫しの時間を3人は沈黙したのだが…。



「おおっぴらにした方がいい…んだろうな」

 桂がポツリと言った。

 その言葉に目を瞠ったのは和真だけで、直也は静かに聞いていて、そして頷いた。 

「そうだな。どちらかひとり…な」
「そう言うことだな」

 和真は信じられないと言った面持ちで、2人を凝視した。

 まさかこの2人が『どちらかひとり』と言う結論を出すとは夢にも思わなかった。

 だがそれは、直也と桂の成長の証しだろう。

『何よりも渉のため』

 それが2人にとって、この愛の形を支えている根幹だから、そのために為すべきことを、直也と桂は着実に覚え、積み重ねているようで。

 1年生の頃からは比べるべくもないほど頼もしい男になりつつある様子に、和真は『こんな結果が得られるなら、多少の障害もアリかも』などと思ってしまったりもするのだが、ただ、渉だけは絶対に傷つけたくない。

 だから…。 

「でも、それを決行するなら、渉の了解を得ないとダメだよ」 
「それは、そうだな」
「ああ、言う通りだ」

 直也と桂はあっさりそう言ったが、和真には渉が納得するとは思えなかった。

『どちらかひとり』

 例えこの場を取り繕うだけでも、渉にその選択肢はないはずだ。

 それが、渉の深い愛情だから。


                    ☆★☆


「そんなの、ダメ。絶対、ダメ!」

 あれから更に3人で話し合った結果、直也と桂が『知っている』と言うことを、渉にはしばらく伏せておくことにした。

 理由は簡単。
 第1に、渉は直也と桂に知られたくないと思っているだろうから。

 第2に、直也と桂から、例の『どちらかひとり』を提案されても絶対に渉は受け入れないだろうから。


 だから、和真から『例の提案』をしたのだが、案の定、渉は真っ向から否定してきた。

「今だけの、その場しのぎでも?」

「だめ。どちらかひとりなんて、有り得ない」

 正直なところ、自分の説得力をもってしても難しいだろうと、和真は端から思っていた。

「もしそれが、直也と桂からの提案だとしても、僕は嫌だ」

 瞬間、ギクリとした。
 もしかして、渉は気づいているのだろうかと。

 それは、続く渉の言葉で確信に変わった。

「今そんな逃げ方をしたら、この先もずっと逃げ続けなくちゃいけなくなる。僕は逃げたくない。直也と桂が僕のこんな想いを受け入れてくれたことを、負い目になんかしたくないんだ」

 普段の渉とは思えないほど力強く、だが、いつものように大きな瞳に涙を湛えて懸命に話す渉に、和真は深い感動を覚えていた。

「そうだね。渉の言うとおりだ」
「和真…」 

 吸い寄せられるように抱きしめる。

 渉もまた、直也と桂を愛することで着実に成長していると思うと、やっぱり『これからの桐生渉』がどうなっていくのか、楽しみで仕方がない。


「ただね、これだけはわかってあげて欲しいんだ。直也も桂も、何よりも渉が大切なんだ。渉のためなら、『どちらかひとり』になれなくてもいいくらいに…」

 和真もまた、暗に白状した。
 直也と桂が心配しているのだと。

「…うん」

 小さく頷いて、しがみついてきた腕は少し震えていた。

 本当は、直也と桂にしがみつきたいのだろう。

 けれど、渉は踏みとどまって、何とかしようとしている。

 渉がそう決めたのなら、自分のやるべきことはただひとつだと和真も決めた。

 そばにいて、全力で護るのみ。

 しばらくしてもまだ、状況が変わらなかったり、もしくは悪化するようなことがあれば即、英も巻き込む。 

 その時にはもう、手段は選ばない。

 そう、決めた。



                   ☆ .。.:*・゜



 その日から、和真と直也と桂は、渉をひとりにしないように、必ず誰かが側についた。今まで以上に。

 部活中に、渉が中等部の練習に行くなど、どうしようもない時には、桂がそのポジションの強みを生かして、トップサイドである紘太郎を側から離さないようにした。

 とにかく、渉と紘太郎を2人きりにさえしなければ、これ以上何かが起こることはない。

 ただ、このまま何事もなく卒業まで行けるはずはない。
 どこかでいつか、何かが起きるはず。

 けれど、何も起こらなくても、空気は張り詰めていった。

 引き離していても、紘太郎の視線は熱く、射抜くように渉を見つめている。

 誰にも気取られないように、ひっそりと。

 渉も、いつものように意識していなければ気付くこともなかっただろう。
 
 普段から、渉の預かり知らないところで、そんな『熱い視線』は渉に向けて飛び交っているのだから。

 しかし、神経を尖らせている渉は気づいてしまった。

 一度気づいてしまうと、頭から離れなくなる。

 当然、いつも渉に注意を払っている和真と直也と桂には、すぐにわかった。

 しかし、さすがにそれを牽制するのは難しく、ストレスは少しずつ溜まっていった。



                     ☆★☆



 それから数日で黄金週間強化合宿に突入した。 

 各パートの首席・次席を対象に行われる、外部講師による個人レッスンの初日。

 直也は気を引き締めてレッスンに臨んだが、集中しているはずのどこかで、ふと意識が裏返る。


「麻生くん、何か悩みでもある?」

 演奏を止めて、彰久が見上げてきた。

 優しく微笑まれたが、自分の失態に直也は唇を噛む。 

「…すみません…」

「あ、責めてるんじゃなくて、心配なんだよ。しっかり者の君が、珍しいなと思って」

「先生…」

 目を見開く直也に、彰久はもう一度、緊張感をほぐすように柔らかく微笑み、言った。

「音ってね、不安な時が一番コントロールし難いんじゃないかって、僕は思うんだ。辛いとか悲しいとかは、意外と自分の意のままになるんだけど、でも、不安だけはどうしようもない…って、あくまでも僕の経験則だけど」

 穏やかに話す彰久には、今、不安な『何か』の影はない。

「先生も、不安…って、そんなことあるんですか?」

「そりゃあるよ。…もちろん、中学から高校、大学、社会人…って、年を追う毎に図太くはなっていくけどね。それでも不安なことはあるよ。それはもう、いくつになっても、生きてる限りは仕方のないことだよ」

 どこか達観したように話す口調の裏に、きっといくつもの『何か』を乗り越えてきたから、この綺麗な人はこんな風に穏やかに笑むことができるのかも知れないと、直也はどこか漠然と感じとる。

「で、麻生くんの不安は、何?」

 話せることなら、話してみる?…と言われ、直也はその温かい笑顔に縋ることにした。

「大切な人を、どうやったら護れるのか、わからなくて…」

 結局、『どちらかひとり』という作戦は、渉が頑として受け入れなかったため実現しなかった。

 その後は打つ手のないまま、まるで神経戦のような状況が続いている。

 もちろん、一番消耗しているのは渉のはずだが、直也と桂の前では、何事もなかったかのように振る舞っている。

 それを見ているのが辛い。
 早くなんとかしてやりたいのに…と、気ばかりが焦る。


「その人とはもう、気持ちは通じてる?」

「…はい」

「じゃあ、そんなに悩むことなんてないよ。君がいつだって見守っていることさえちゃんと伝わっていれば十分だよ」

 明るく言われても、でも納得は出来なくて。

「…でも」

「物理的に護るなんてことは容易い。手段はいくらでもあるから。でも本当に護らなきゃいけないのはそんなものじゃない。 麻生くんだって、大切な人の身体だけを護りたいわけじゃないでしょう?」

「はい。心ごと、全部大切に護りたいんです」

 彰久は、笑顔で頷いた。

「そうだよね。でも、残念ながら、自分の心は自分にしか護れない。ただ、壊れそうになったときでも、見守ってくれる人がいれば、踏みとどまれる。万一壊れてしまっても、再生出来る。 本当に護るっていうのは、『いつも必ず見守っていてくれる』っていう『信頼関係』なんじゃないかなって、僕は思うんだ」

 言葉が出なかった。

 ――自分の心は自分にしか護れない。

 それは、直也には全く無い発想だった。

 そして、何の瑕疵もないようにと、真綿でくるめばいいのではないのだと、思い知る。

「気持ちが確かに寄り添っていて、それをいつもちゃんと伝える努力を怠らなければ、それでいいんじゃないかな」

 それならきっと、自分にも桂にも出来るはず…と、直也は思う。

 一生寄り添う覚悟で踏み出した道だから、自信はある。

 あとは、見失わないように、いつもしっかりと伝えていくこと。

『ここにいるよ』…と。

 ほうっ…とひとつ、温かい息をついて、直也は彰久に向き直る。

「先生も、見守っている人がいらっしゃるんですね」

「そう見える?」

「はい」

「そのつもりではいるんだけどね、でも実際は護られてばかりかなあ」

 その言葉に、ふと思う。

 渉もいつも、寄り添って見守っていてくれると。
 それは桂も同じことだ。

 3人がそれぞれに寄り添って、見守って…。

 ――2人より、3人。絶対こっちの方が心強いじゃん。

「そんな人がいるって、幸せ…ですよね」

「ふふっ、良い顔になったね、麻生くん」

「先生、ありがとうございます」

「どういたしまして。じゃあ、もう一度最初から聴かせてくれる?」

「はい! お願いします!」


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