幕間 「ここにいるよ」

【3】





 紙面で微笑むたおやかな和服美人は、やっぱり『美少女』と評判の恋人に似ているなと思った。

 和真に借りた旅行雑誌を、英は丹念に見ていた。

 日本でも有数の老舗旅館を紹介しているそれの、巻頭カラーページを飾っているのが和真の実家だ。

 守り続ける伝統と革新のホスピタリティーの絶妙なバランスが高く評価されて、各界著名人の顧客も多いと書かれている。

 岡崎紘太郎の家族などは、その『各界著名人』のうちの一組だろう。


 音楽推薦のヴァイオリニストという以外に興味はなかったのに、その後聞かされた和真との意外な結びつきに、いてもたってもいられなくなり、そのバックグラウンドまで調べてしまった。

 父親は舞台から映画までこなす、所謂『名優』と呼ばれる人物で、海外の映画祭で賞を取り、近年ではハリウッドにも進出しているという。

 母親も大学在学中から女優をやっていて、今でもCMや映画に数多く出演しているようなのだが、浅井の祖父とどこかで繋がっているらしいので、夏休みにでも詳しく聞いてみようと思っている。
 
 姉と弟がいて、姉はすでに芸能界入りしているらしいが、弟はまだ小学生だと言うことしかわからなかった。

 いずれにしても、小さい頃の和真を知る紘太郎に対し、少なからず『羨ましい』と言う感情があるのは確かだ。

 ただ、当初に若干抱いていた『もしも友情以上のものを和真に抱いていたら』と言う懸念は完全に払拭された。

 どうやら渉に想いを抱いていたようで、『トラブってるな』と感じて注意を傾けているうちに解決を見たらしく、桂とのトップコンビにも影響がないようなのでひとまずホッとしているところだ。

 そう、渉と桂と直也は、徐々に揺るぎのない関係を築いていっている。

 その想いを打ち明けられた時には、正直なところ、あまり明るい未来は想像ができなかった。

 けれど今はもう、彼らなら『添い遂げる』だろうと信じられるし、彼らの幸せな姿をずっと間近で見ていたいと思う。

 そして、自分は…。

 ひとつため息をついて、また雑誌に目を落とす。


 見開き一面に映し出される、緑鮮やかな風格ある見事な庭は、もちろん専門の造園業者が管理しているそうなのだが、夏場の毎日のちょっとした雑草引きなどは、チェックアウトからチェックインまでの僅かな時間に和真たち家族でやっていると言っていた。

 その他、常にその設えを完璧に保ち、人をもてなすには、24時間365日気が抜けないのだとも聞いた。

 だからこそ、永きに渡って栄える老舗旅館でいられるのだろう。


『まあ、繁盛してるおかげで、学費のバカ高い私立に中学から入れてもらえてるんだけどさ』

 だから、せめて休みの間くらい手伝わないとね…と言った和真が、いつも以上に頼もしく見えて、やっぱりこの美少女は男前だなあ…と、可笑しかったり嬉しかったりしたものだ。

 そうして、一族で守っている老舗の看板だが、跡を継がなくても良いのだとは聞いている。

 音楽家を目指すことも、留学も、家族は反対していないとも聞いた。

 それは本当に幸いな事だと思っているのだが…。

 それでも一人っ子の和真と、将来に渡って共に生きていくためにはどうすればいいのか。

 夏休みには会えるはずの和服美人にもう一度視線を落とし、英は小さく息を吐いた。


                    ☆★☆


 徐々に日が長くなっていることを実感できるのは、夕食後の空の明るさだ。

 梅雨に入るまでの爽やかな夕暮れは、散歩には持って来いで、この時期裏山の人口密度は高くなる。

 だが、誰もが慣れたもので、それぞれにしっかりとお気に入りの秘密基地を持っている。

 英のお気に入りはもちろん、渉が葵から教えてもらった『沙羅双樹』の下のそこそこ大きな岩。

 ここのところ、和真と来ることの方が圧倒的に多い。

 渉たちにはまた別のお気に入りがあるようだ。


「なあ、どうするつもりなんだ? 留学のこと」

 腰掛けるなり、切り出した。

 アニーが卒業後のことを考えていると聞いていたはずなのに、英はすっかり失念していた。

 そもそも、アニーから話を聞いた当時はまだ『安藤和真』という人を名前しか知らなくて、その時にはよもや、こんな関係になるとは夢にも思っていなかったから、『聖陵にはレベルの高いヤツが多いんだな』と思っていた程度なのだ。

 それを思い出させたのは、年始に浅井家で彰久と話したことからだった。


「夏にアニーが来るって聞いたんだけど、その時に話するんだろ?」
「…うん。そのつもり」

 珍しく言葉に覇気がない。

「行くのか? アニーのところに」

 直球で尋ねても、返答までには間があった。

「…正直なところ、まだ、決めかねてる…かな」

 言ってから少しだけ、笑う。

「行きたい気持ちはもちろんあるんだ。けど…」

 その先の、本当の不安が口に出来ず、和真は口ごもる。

 英はやはり、卒業したらドイツへ戻るのだろうか。

 それを聞いてみたいと思うのだが…。


 言葉を濁して黙ってしまった和真の様子に、思うところがあるようだと英はもちろんすぐに気づいた。

 そして、それは『不安』という類のものではないかと。

 和真自身から、高校入学時分にはまだ、プロの音楽家を目指すことについて迷っている状態だったが、今はもう、はっきり決めたと聞いている。

 ならば、留学は大きなチャンスだ。

 ましてや、引き受け手は世界の第一人者で、普通は望んで叶うものではない。

 それを『決めかねている』というのは、何故なのか。

 ――もしかしたら、俺の進路を気にしてるのか?

 自惚れかも知れないが、もしも『離れたくない』と思ってくれているのなら、それはそれでとんでもなく嬉しいのだが、だからといって、和真のチャンスと将来を自分の進路で左右するわけにはいかないと、心は少し、重くなる。

 もしも和真が卒業と同時にドイツへ渡ったら…。

 その1年後、自分が卒業してドイツへ戻るのなら、大して問題は無い。
 1年我慢すればすむことで。

 けれど…。

 まだその姿はおぼろげだけれど、英には『本当にやりたいこと』が見え始めていた。

 そうなれば、ドイツへ戻ることはない。ずっと。

 もしこのまま日本にいるのなら、和真とは…。

 何となくお互いが考え込んでしまい、密着して座っていても、今の気持ちは少し、遠かった。



                     ☆★☆



「なんか珍しいね」

 渉が見上げてそう言った。

「え? なにが?」

 何のことかと、英は渉を見下ろした。

「だって、今ため息ついたよ、英」

 いつものように、部活終了後の待ち合わせ場所――ホールのロビーで、大概一番最後になる渉が今日は珍しく一番乗りで、次に現れた英と少し会話を交わしたところで、英がため息をついたのだった。


「もしかして、なんか悩んでる?」

 茶化すでもなく、けれど深刻そうではなく尋ねてくれる渉に、張り詰めていたどこかがふと緩む。

「…ん、まあ…和真と俺の、進路について、ちょっと」

 まだ渉にも言っていない。
 見え始めてきた自分の未来の展望については。

「ああ、留学のこととか、色々あるもんね」

 色々…の中に何が含まれているのか、渉の考えは読めなかったから、英は曖昧に『まあな』と返す。 

「基本的には、英の足がきちんと地に着いていて、気持ちが揺るがないなら、大した問題じゃないと思うけど」

 気楽にポンッと言われて、英は『ネガティブわたちゃんのクセに、なんだその脳天気な発言は』…と、恨めしそうに渉を見る。

 自分の足はちゃんと地に着いているし、気持ちも揺るがないという自信はある。

 けれど、物理的な距離はやはり怖いのだ。
 まして、8時間もの時差がある距離なのだから。


 少しぶすくれた英の様子に、渉は静かに話しかける。

「大事なのはね、『相手の言葉を深く心に留めて信じること。迷ったら、必ず言葉に出して、確かめること。心から出た言葉は必ず通じるから、諦めずに伝える努力をすること』…なんだよ」

「渉…」

 目を瞠る英に、渉はニコッと笑んで見せる。

「いい言葉だと思わない? 実はゆうちゃんに教えてもらったんだけどさ」

「…なんだよ、驚かすなって」

「なんで? ここ、驚くところじゃないだろ」

 感動してくんなきゃ…と、ぶつくさ言いだす渉の頭をパフパフなでて、英は笑った。

「いや、『引っ込み思案で人見知りで時々後ろ向き』の渉が考えたとは思えなくてさ」

「なにそれ、めっちゃ失礼なんだから」

 確かに自分の『わりと後ろ向き』な性格では、こんなことは思いつかなかっただろう。

 それを教えてくれて、道を照らしてくれたのだ。祐介は。


「や、でもさすが祐介だよな。そう言う境地に至るまで、きっとたくさんのハードルがあったんだろうな」

 物心ついた頃から一番接触時間の少なかった叔父で、『優しい男前』と言う程度の認識しかなかったのだが、ここへ来て長い時間を側で過ごし、たくさんの話をするようになって、その認識は大きく変わった。

 とてつもなく深い包容力と、突出した指導力で生徒たちの心を掴んで離さない。

 学院ナンバーワンの人気であるのは、見た目と優しさだけではないのだと。

 だから、自分は…。


「信じて、確かめて、伝える…か」

 呟いた顔つきが、いつもの英に戻っていて、渉はホッと、柔らかく息をついた。


                     ☆★☆


 音楽ホールの定期メンテナンスのため、ミーティングのみで部活が終了した土曜日の午後。

 英は和真を誘って、沙羅双樹の下にいた。

 できればアニーが来るまでに、和真の思いをきちんと把握しておきたいと。 


「渉には話したことがあるんだけど、実は、進学について両親の希望ってのがあるんだ」

 話し始めた和真は、今日もうつむき加減で、いかにこの問題が和真の中を占めているのかがわかる。

 そして、渉が知っているのに自分が知らないことがあったなんて、ちょっとムカついてしまったり。

 しかし、今ここでそんな顔を見せる英ではなく、いつものようにポーカーフェイスを装う。

「そうなんだ…。でも留学は反対じゃないんだろ?」

「うん。それはいいんだけど…」

 また言いよどむ様子になる和真に、英は今度こそはと、先を促した。

「気になることがあるなら、この際全部、言ってみたりしない?」

 そっと肩を抱き寄せて顔を覗き込んでみれば、和真は少し英の瞳を見つめたあと、小さく頷いた。

「とりあえず日本の大学は出ておいて欲しいって言うんだ。あと、教員免許もとっておいた方がいいとかも言ってて…」

 それは英にとって、まったく予想していなかった話だった。

 ただ、留学を迷う理由がなんなのか、まるでわからなかったのだが。


「親の気持ちはわかるんだ。客商売も水物だけどさ、音楽家ってのは、生まれた時から客商売の両親にすら、不安定だと思われてる。でも、僕はやるからには自分の足で最期までしっかり歩いて行きたい。ただ、親の不安を取り除くってのも、必要なことかなと思うんだ。…一人っ子でもあるし…」

 英は堪らず、その華奢な身体を抱き込んだ。

 和真も力を抜いて、身体を預けてくる。

「だから、こっちで大学出てから…なんて話、出来るなかなあ…って。4年も先になるからさ、それでは遅いかなって」

 とりあえず、和真はすぐには行ってしまわない…というだけでも、英の心は一気に軽くなった。

「今の話、全部アニーに伝えるのが一番いいと思う。アニーってさ、柄もデカいけど、器もデカいから、たった4年に拘る人じゃないと思うんだ。だから、和真の思うところを正直に話すのが最良の方法だよ」

 力強く言い切る英に、和真は嬉しさと寂しさの両方を感じてしまう。

 きっと、英も『たった4年』に拘ることはないのだろう…と。

 日本で進学する自分と、おそらくドイツへ戻るのであろう英。

 離れ離れになるのが辛いのは、自分だけなのかもしれないと、心の隅がチクチク痛む。

 けれど、その後、自分がドイツへ行くことが叶えば、また会えるじゃないか…と、何度も自分に言い聞かせる。

 ただ、離れている間に、何かあったらと思うと…。

 本当に、いつから自分はこんなに甘ったれになったのだろうかと、情けなくなる。

 恋をしてしまったからなのだとわかってはいるけれど、だからと言って、今更もう、英が居ないなんて考えられない。

 恋することがこんなに苦しいとは思わなかった。

 7年間の片想いなんて、可愛いものだったのだ。



 夕暮れの、乾いた風が肩を撫で、その冷たさに少し身を縮めると、英は労るように肩を撫でてくれて、ちょっと泣きたくなった。

 そして、納得したようなのに、何故かまだ沈んだ表情の和真に、英は今度こそ、自惚れでなく、和真が離れたくないと思ってくれているのだと感じて、頬が緩むのが押さえられない。

 和真は英がドイツへ戻ってしまうと思い込んでいる。

 だが英は決めていた。

 和真がアニーにきちんと話して、和真自身がその意志で道を決めてから、自分のことを話そうと。


END

第3幕〜青葉の頃』へ


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