第3幕 「青葉の頃」
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「紘太郎がね、渉に話がしたいって言ってるんだ」 「…え」 岡崎くんは、数日間部活を休んでいた。 今年は、黄金週間強化合宿中の合奏が少なくて、しかも僕の担当は今月末まで中等部。 メインメンバーの、夏のコンサート用の曲を見るのはそれ以降だから、顔を合わせることも少なくて、助かったんだけど、それでも『体調不良』と言う理由での欠席と聞けば、心配で。 「渉のこと、ちゃんとケジメをつけたいみたい。こういうことは、自分でケリつけないとね」 それって…。 「和真…」 呼びかけた声は、自分でも思いがけず不安な色になってしまったんだけど。 「大丈夫だから」 和真は僕に、穏やかに笑って見せた。 ならばきっと、大丈夫なんだ。 そして、今回もまた、僕に見えないところでずっと助けていてくれたんだ。 「…うん。わかった」 結局、直也と桂には何も言わなかった。 でも、2人はきっと、知っていた。 けれど、何もいわずにただ、僕を優しく包み込んで、『ここにいるよ、安心して』って伝えてくれた。 その事がどれだけ僕を強くしてくれたことか。 見守ってもらっているという安心感は、僕の中にずっと、暖かく留まっていて、僕を癒してくれた。 こんな風に、僕も、直也と桂を見守れるようになりたい。 あ、もちろん和真も…だけど、和真はきっと英が全力で護る。 そして和真もまた、英を護ってくれる。 「和真、ありがと…。いつも…」 「ふふっ、僕はね、渉を甘やかすのが生き甲斐になり始めて気がする」 ニタッと笑う和真は、なんだか例の派手な縞々の猫みたいで。 「これ以上甘やかされたら、僕、ほんとにダメ人間になっちゃうよ」 「何言ってんの。渉は自分で思ってるほど、人に甘えてないよ」 そんな…。 「まさか」 こんな甘ったれ、僕は他に知らないくらいなんだけど。 「まさかじゃないって。むしろ他のヤツより甘えてないと思うけど?」 「和真って、時々ムチャクチャなこと言うね」 和真はいつも褒めてくれる。僕が自信を持てるように。 「え〜、なんでムチャクチャ〜? 僕はこれ以上なく真剣だけど?」 あれ? 真顔なところを見ると、本気で言ってくれてるのかな? それはそれで、やっぱりムチャクチャだけど。 「…でも、和真に甘やかしてもらうの、好き、かも」 甘えてちゃいけないんだけど、でもちょっとだけ甘えちゃおうかな…なんて。 「あ〜、もう渉ってば可愛すぎ!」 和真が、がばちょと飛びついて来て、僕たちは危うく2人してひっくり返るところだった。 ☆★☆ 気詰まりな練習室16。 防音室は、何の音も出さないと、自分の心臓の音しか聞こえてこない。 それくらい、外からの雑音も遮断する。 向き合ったは良いけれど、岡崎くんも、なんだかきっかけを探しているようで…。 でも、一応僕の方が上級生だし、やっぱり僕から声を掛けないと、だめ、だよね…。 「あ、あの、身体、大丈夫?」 「…え?」 「えっと、体調不良…って聞いてた、から」 って、もしかして口実だったのかな。体調不良って。 「…あ、はい、大丈夫です。ご心配おかけしてすみませんでした。それと、合奏も始まってたのに、抜けてしまって、ご迷惑おかけしました」 や、それに関しては、多分桂がやりにくかっただろうとは思うんだけど…。 「それは、えっと、僕はまだメインメンバーを振ってないから、全然、僕は迷惑とかじゃなくて、ええと…」 あああ、ダメだ。何言ってんのかわかんなくなってきた…。 すると、硬い表情だった岡崎くんが、ふわっと笑った。 うわあ、こんな笑い方、できるんだ。 「やっぱり渉先輩って、みんなの言うとおりですね」 「へ?」 また何か言われてるんだろうか。 この前、後輩に『渉先輩って天然さんですね』って言われて、意味がわかんなかったんで和真に聞いたんだ。 どうも『ナチュラリスト』って意味ではなさそうだったから。 そしたら、和真に『漫才でボケる能力が生まれつき備わってる人のこと』って言われて、余計わけわかんなくなったっけ。 でも、和真は『渉は天然じゃないって』って言ってたけど。 まあ、僕はボケもツッコミも出来ないから。 「先輩は、優しくて、懐が深くて、可愛いのに大物で…って」 …あ、それね。 「あの、それは、みんな勘違いしてるだけだって。人見知りで引っ込み思案なのを、良い方に取ってくれてるだけだから」 なんでこんなに誤解が生じるのがわからないんだけど、とりあえず、嫌われるより良いかなあと思って、できるだけみんなが誤解してるとおりに、優しくありたいなあとは思ってるんだけど。 でも、こんな風に、みんなが適当に『伝説もどき』のことを作って出回らせてしまうから、知らない人まで誕生日をお祝いしてくれたり、『付き合って』って手紙もらっちゃったりするんだろうな。 …って。 そうだ。岡崎くんにもそんなこと言われて、今その大切な話の真っ最中なんだっけ。 なんか、不思議な感じ。僕の中にあった、張り詰めた警戒心がいつの間にかなくなってる。 目の前に岡崎くんがいるのに。 僕は、なんとなく逸らしたりしていた視線を、しっかりと岡崎くんに移した。 目が合うと、和真が『大丈夫だから』って言ったのが、わかる気がした。 この前みたいな、なんて言うんだろ…そう、手負いの獣…みたいな追い詰められた感じがない。 ここにいるのは、英みたいに、年齢以上にしっかりして見える、ひとりの高校1年生。 「俺、大切なことを忘れていました」 柔らかいけれど真剣な表情で、岡崎くんは僕をジッと見たまま言う。 「渉先輩の側で、音楽をやりたいと思って、ここへ来たんです。ずっとそれを夢見て頑張ったのに、何もかも駄目にしてしまうところでした」 「…岡崎くん…」 「先輩が、好きな人がいるっておっしゃったのに、それを無視してごり押しするようなマネをしてしまって…」 そう言って唇を噛んだ岡崎くんの声は、少し苦い感じがして…。 「でも、絶対に敵わないと思い知りました。本当に、気持ちが結び合ってるんだ…って…」 え? それって…。 「あ、もちろん誰にも言いません。先輩が、守り通そうとされたこと、俺もちゃんと守ります」 …もしかして、と思ってたんだけど、直也のあの行動にはやっぱり意味があったんだ。 だって、直也も桂もそれなりに無節操だけど、あの場所での突然の変容は、ちょっと考えられないことだった。 あの場所で、よりによって管弦楽部長サマが、あんな危ない行為に及ぶなんて。 まあ、あっさり流される僕も僕だけど。 「あ、あの…」 ともかく、あのシーンを見られてしまったということの恥ずかしさは半端じゃないし、でもそのおかげで事態が収拾できたとか、なんとなく結果オーライのような気がするんだけど、それでいいのかって感じもして。 でも、桂は知ってるんだろうか…。 「ともかく、渉先輩はもう、何も心配されなくて大丈夫です。俺、いつか栗山先輩を追い越せるように頑張ります。でも、先輩が卒業するまでは、精一杯トップサイドとして支えていきます」 「うん…」 「でも、その後もずっと、俺は渉先輩のタクトで弾き続けて行きたいんです。先輩の音楽を追い続けていくことだけは、許して下さい。お願いします」 吹っ切れて、どこか明るささえ感じさせる決意を滲ませる岡崎くんは、なんだか頼もしい。 「…ありがとう…。そんなに言ってもらえて、本当に嬉しい。僕の方こそ、これからも一緒にできたらきっと、楽しいだろうな…って」 「渉先輩…」 少し泣き笑いみたいな不思議な表情は、かなり岡崎くんを魅力的に見せて、何となく僕は、彼が人気者になりそうな予感がして、ちょっと嬉しくなる。 でも、なんだか岡崎くんって本当に弟っぽい感じ。 どことなく、雰囲気が英に似てるから…かもしれないけど。 ☆★☆ 「岡崎くんと話したんだけど」 直也が文化部長会議に行っている間、僕と桂は練習室1にいた。 ここは、今のところ僕が占有させてもらってる。 僕がピアノを使って総譜の譜読みをしたり、各パートの首席と打ち合わせしたりできるようにしてもらってるんだ。 「ああ、あいつ、なんか調子戻ったみたいだな。随分張り切って弾いてたぞ。合奏の勘もいいし、注意力と集中力のバランスがいいから、このまま頑張ってくれたら、来年はあいつに渡せるかな…って感じ」 「そうなんだ」 桂が言うんだから、間違いないだろう。 「振るの、楽しみだな…」 あと少しで、僕とメインメンバーの練習が始まる。 最後の1年。みんなと精一杯やりたいな…って思う…んだけど。 「ね、桂」 見上げると、いつもと同じ笑顔がある。 「ん?」 どうしよう。何て聞こう。 「あ、あの、ええと、その、岡崎くんのこと、で」 「うん?」 「ちょっと、何て言うか、色々と…」 「うん」 「それで、直也が、ええと」 あああ、こんなんじゃ、伝わらないよ…と、思ったら。 「ああ、もしかして、この前廊下の隅で、直也とエロいラブシーンやらかした件とその周辺の出来事?」 笑いを堪えた声で言う桂に、僕はどこかホッとするんだけど、でも、僕の意味不明の物言いで、よくわかるなあ。 「…やっぱり知ってたんだ」 「直也からちゃんと聞いてたよ。俺たち的には結果オーライだったけど」 僕をふわりと抱き締めて、労るように背中を撫でてくれる手は、暖かくて。 「頑張ったな。渉」 「ううん。頑張ったのは僕じゃないよ。桂と直也と…それから、和真が頑張ってくれたから…だよ」 「渉らしいな…」 頭をギュッと抱き寄せられて、僕は気持ち良さに目を閉じる。 「…ありがと…桂」 「それ、直也にも言ってやって? 喜ぶよ」 「うん」 「じゃあ、俺ともエロいラブシーンしよ?」 「えっ?!」 「え…じゃないの。ほら」 頭の後ろをすくい上げられて、仰向かされた唇に降ってくるのは優しいキス。 触れるだけですぐ離れたそれを、僕は思わず追いかける。 すると、ちょっとキケンに桂が笑って、今度こそ噛みつかれそうなキスがやってきた。 こうなると、僕はもうどうしようもなくて、ただ桂の腕の中でされるがまま……って…わああ! べ、ベルト外してなにする気?! 「ん〜!」 暴れる僕の唇を離して、桂が耳元で囁く。 「何?」 「だ、ダメだって…ば」 必死で桂の手を離そうとするんだけど、僕よりずっと力の強い桂は、僕の抵抗なんてものともせずに…。 「…や、あ…っ」 侵入して来た手に煽られて、思わず漏れたのがとんでもなく恥ずかしい声で、僕は慌てて桂の肩に顔を埋めて声を殺した。 「わたる…声出していいよ…。防音室なんだから…」 そ、そう言う問題じゃなくて〜! 「や…手、離し…て」 「ダメダメ、今やめたら辛いだろ?」 じゃあ最初からやらなきゃいいじゃん〜。 でも、そんな思いももう、言葉にはならなくて、僕はただ、弱く頭を振って、やめてと伝えるだけで。 「…いいから、全部俺に預けて、感じてな」 そんな、甘い声で囁かれたら、もう、足に力が…。 「おっと」 崩れそうになった僕の身体を抱えて、桂は部屋の隅に座り込んだ。 横抱きにされた僕と目が合うと、優しく笑ってまた、キスが始まって。 その間も、桂の手は僕を追い詰めていて、僕はもう、無駄な抵抗をやめた。 そうしたら、頂点はすぐにやってきた。 「…んっ」 小さく震えてしまう身体をきつく抱き締められて、僕はぐったりと桂にもたれかかってしまう。 「可愛い…わたる」 もう恥ずかしすぎて、顔が上げられない。 「ちょっとじっとしてな。キレイにするし」 って、桂のハンカチで後始末までされてしまって、動悸も収まらない。 「口でしてあげようと思ったんだけど、キスに夢中になってたら間に合わなかった。ごめんな」 う〜! 「…もうっ、桂のバカっ」 「あはは、ごめんごめん」 って、嬉しそうじゃん。も〜。信じられないし〜。 「…でも…」 「ん? なに?」 「桂…は?」 僕ばっかりされちゃって。 「俺は、今度の土曜日にまとめて『ヨロシク』だから」 ニッと笑った桂の瞳に危険な色を見つけてしまって、次の土曜日がコワい僕だった。 |
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