幕間 「君は誰のもの?」
【2】
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7月のある日、1年と数ヶ月ぶりにアニーが母校へやってきた。 今回も後輩たちのレッスンの為の来校だったが、最も重要な目的は和真に会うこと…だ。 「和真、久しぶりだね。会いたかったよ。元気そうで何よりだ」 会うなりアニーは、包まれた和真が見えなくなるほどの大きな身体で抱きしめる。 「またお目にかかれて本当に嬉しいです。ええと…」 「アニーと呼んで、和真。そう呼ばれるのが一番嬉しいから」 そう言われて、少し逡巡する和真にアニーはもう一言、添えた。 「それと、先生とは呼ばないでほしいな。僕と和真の間では」 茶目っ気たっぷりにウィンクされて、漸く和真は微笑んで、応えた。 「はい。アニー」 そんな和真の様子に、以前とは違う柔らかさを感じて、アニーの頬が自然と緩む。 高校3年とは思えない可愛らしさの中に、それでも以前の凛とした雰囲気はそのままで、もしかしたら少し音色も変わっているかもしれないと、期待が膨らむ。 「ずっとお礼を言いたいと思っていました。あの時頂いた手紙が、僕を音楽の世界で生きていくことを決心させてくれました。本当に、ありがとうございます」 そう、留学が実現するにしても、しないにしても、和真はあの時もらった手紙にあった、『君のオーボエは僕の心を踊らせてくれた』と言うアニーの一言で、心を決めたのだ。 それは、自分の演奏で誰かの気持ちが動くのだと知った喜びに他ならない。 「そう言ってくれると、僕も本当に嬉しいよ」 また抱きしめてくれてからアニーは本題に入った。 「和真の気持ちを聞かせてくれる? 僕の所へ来てくれる気持ちはあるのだろうか?」 和真は表情を引き締めた。 「気持ちは、ついて行きたいと思っています。ただ…」 和真は、渉と英のアドバイスに従って、正直に打ち明けることにしていた。 こちらで音大を出てから、留学したいのだと。 理由もきちんと伝えた。それが両親の願いなのだと。 「4年も先になってしまいます。それでも許していただけるのか、それが…」 言葉は最後まで言わせてはもらえなかった。 アニーがまた、キュッと抱き締めてくれたからだ。 「もちろん、待つよ。和真が僕のところへ来たいと思ってくれている限り。だから心配しないで、君とご両親のために、まずはこちらで頑張ろうか。僕もできる限り応援するから」 本当に、渉と英の言った通りだと和真は思った。 アニーは身体だけでなく、器も大きい…と。 「ありがとうございます。凄く、凄く嬉しいです」 思わず抱き返してしまった和真を、アニーはまた嬉しそうに抱き締めたのだが、不意に顔を上げていった。 「あ、そういえば、和真」 「はい?」 「奏…って知ってる?」 唐突な問いに、一瞬何のことだろうかと思ってしまったのだが、その次の瞬間には、どうにか思い出せた。 「…ええと、渉と英の妹さん…ですよね?」 「そう。会った事ってある?」 「いえ、ないですけど」 今年の夏休みには絶対会って…と、渉からは言われているが。 「…だよねえ」 「あの、なにか?」 「いや、何でもないよ。ごめんごめん。さ、レッスン始めようか? 今回はソロ・ステージだって?」 「はいっ、そうなんですっ。よろしくお願いします!」 それからアニーは、夏のコンサートの曲を丁寧に見てくれて、和真はもう、何の不安もなくステージに乗れると、喜びに身体を熱くした。 ☆ .。.:*・゜ 「…参ったよ」 お疲れ様と、祐介が差し出してくれたコーヒーカップを手にして、アニーがため息をついた。 「アニー?」 「和真だけどさ、あんなに音色が進化してるとは思わなかった」 「レッスンで何か感じたわけだ」 祐介も、その変化には気づいていた。毎日聞いているのだから。 「この前会った時に僕を捉えたあの音色に、艶やかさが加わってた」 その言葉に祐介が頷く。 「もともと『駆け引き』は上手い子だから、合奏でも安心して預けられるんだが、合奏中の音色はどちらかというと抑え気味というか、若干ストイックな感じだったんだ。それが去年の秋頃から音色にブリリアントな部分が増えてきて、それがだんだんメロウになりはじめて、面白いな…とは思ってたんだが」 アニーが感じたのだから確かなのだろうと、祐介も納得する。 そして、祐介の言葉にアニーも頷いた。 「もしかしたら、和真は恋をしたのかもしれないな」 「えっ?! 安藤がっ?!」 祐介の、見開いた目にアニーもまた目を見開く。 「え? 祐介、なんでそんなに驚くわけ? 和真が恋するって、変なんだ?」 「あ、いや、変…っていうわけじゃなくて、ただ…」 「ただ?」 うー…と、ひとつ唸ってから、祐介が言う。 「安藤はあの見てくれだろう? それはそれはモテるわけだ」 アニーが頷いた。あの面構えでは、『ここ』では引く手あまただろう…と。 「ところが…だ、中身は『聖陵きっての切れ者』と言われて久しくてだな。ちょっとやそっとのヤツじゃ落とせないってわけで、おかげで『難攻不落の美少女』とか言われてるらしいんだ」 アニーが目を丸くして、小さく口笛を吹いた。 「『難攻不落の美少女』とはまた、凄いな。まあ確かに中身が相当しっかりしてるのはわかるし、翼ちゃんもそう言ってたけど」 外見と中身のギャップの激しさは、それだけでも魅力になり得る上に、その中身も外見も実際魅力的となれば、致し方がないだろう…と、アニーはひとり、納得する。 「まあ…ただ、最近は雰囲気が変わってきたな…とは確かに思ったんだがな」 そっかー、安藤が恋かー…なんて、祐介がブツブツ言う正面で、アニーもまたしばし考えに耽る。 渉も英も、ここで一層魅力を増した。 特に渉の変容は驚愕に値するほどだ。 そして、ここの音楽と生徒たちは、直人が率いていた時代と変わらずレベルが高く、真摯で情熱的で。 ――祐介、凄い指導者になったもんだな…。 キャリアを中断してまで追いかけた、かつての愛しい人の凜々しい姿に、アニーは小さく笑いを漏らし、そしてまた思考を和真に戻す。 これほどまでに、手元で育てたいと思った子は久しぶりだ。 4年先になるのは惜しいが、その間の成長も楽しみであるには違いない。 幸い進学先には懇意の教授もいるから、『その後』を見据えての対応も依頼できる。 「で、安藤はこっちで大学へ行きたいと?」 考えに耽っていたアニーを、祐介が引き戻した。 「ああ。両親の意向らしいな」 「本人もしばらく悩んでいたようなんだが…、実は年度初めに両親揃って来られたんだ」 「顧問に直訴?」 「いや、その反対。自分たちの希望を押しつけてしまったけれど、それが息子の足かせになるようなら、無理強いはしたくないってな。ただ、息子もああ見えて頑固だから、多分自分たちがもういいと言っても聞かないだろうから、その時にはよろしくお願いしたいってさ」 せっかくの『留学』が自分たちの所為で駄目になるようなら、息子には自由にさせてやりたいと言うことだった。 だが、祐介にはわかっていた。 アニーは和真の気持ちを受け入れるだろうと。 だから敢えて、今は両親の来訪を和真には告げなかった。 ただ、『自分の納得がいく結論を出さないと後悔するぞ』とだけアドバイスして。 「いい親じゃないか。まあ僕も、和真を連れて行く時には会っておきたいけどね」 「ああ、そうしてあげてくれ。あちらもいずれご挨拶に…って言ってたからな。まさか留学なんて声を掛けてもらえるなんて、って感謝されてたぞ」 そんな両親の気持ちも、近いうちには和真には伝えてやろうと思っているが。 「で、本音のところはどうなんだ? やっぱり4年先ってのは残念だろう?」 「まあね。本音を言えって言われたら、そりゃもう、今日にでも連れて帰りたいところだよ」 和真を育てることは、和真のためだけではなくて、自分の心の糧にもなるとアニーは思っている。 奏者としてだけではなく、後進を育てるのもまた、自分の大切な一部分であるから。 「でも、こっちでの4年間が彼にもたらす色々も、楽しみではあるんだ。本当に恋をしたのなら、それがこれから彼にもたらすものはきっと大きいはずだから」 アニー自身、恋をすることで殻を破った。 そして、ここでの多くの出会いと経験で内なる成長を遂げた。 聖陵を卒業してドイツに戻った時には、周囲の大人たちがみな驚いたものだ。 いくら赤坂良昭の母校とは言え、わざわざ極東のハイスクールへなど行って、いったい何になるのだと陰口を叩いていたヤツらは皆、帰ってきたアニーの演奏に度肝を抜かれたのだ。 その、進化したパフォーマンスに。 「しかしアレだな。和真が誰かに恋をしたってことは、奏は失恋確定ってわけだ」 「そう、それ!」 祐介が食いついた。 つい先日、守に聞いたのだ。 奏が和真のお嫁さんになると言いだした話を。 「奏が安藤の嫁になるって言いだしたって、いつのことだ?」 「ん〜? 去年の夏以降…だな。なんでも渉が写真見せたらしい。それで一目惚れってところじゃないのか? 奏の年頃からしたら、渉や和真なんかは理想の王子様に見えるだろうからなあ」 綺麗で優しそうで男臭くなくて、まさに小さな姫のための『王子様像』そのものだ。 「それにしても、その『難攻不落の美少女』が恋に落ちた相手っての、ちょっと興味あるな」 あの子のハートを射止めたのはいったいどんなヤツなのか。 「…あ、そういえば」 「なになに? もしかして心当たりでも?」 ついさっき、『安藤が恋っ?!』なんて驚愕したわりには、浅井先生にはちゃんと心当たりがあるんじゃないか…と、アニーがニタッと笑う。 「いや、最近ちょっと噂になってた話があったんだけど、頭っから『無い無い』って思ってたもんだから、真面目に聞いてなかったんだ」 『ここ』の生徒たちは噂話が好きだ。 それが全寮制男子校の数少ない娯楽のひとつなのは、OB教師はみな知っているから、敢えて口も挟まずに、聞かぬ振りで楽しんでいたりするのだが。 「今年の『正真正銘』で、トップサイドにいるヤツと噂になってるみたいなんだ。『アレは絶対、お互いに意識しあってる』って」 「桂くんの隣で弾いてたのって…。ああ、体格のいい男前がいたな。桂くんといい、トップコンビは目を引くなあって思ってたんだ」 レッスンの後、合奏を覗いた時のことを思い出して、アニーが納得する。 「まあ、噂話の域を出ない話ではあるし、時系列的に辻褄があわないからな」 和真の変化は、紘太郎の入学以前からのことだ。 それに、こういう話ばかりは、本人の口から聞かない限り信用できないものではあるが。 「そうだなあ、僕のここでの3年間の経験からしても『噂話は隠れ蓑』っての、あるからなあ」 「だな。噂そのものが意図的に流されてることも多いからな」 「祐介と葵みたいにね」 「ああ、そういえばそうだったっけ」 あははと笑いあいながら、2人の話はさらにディープな方向へと弾むのであった。 ☆★☆ その夜、久しぶりに、和真と英はいつもの岩場に並んで座っていた。 コンサートのソロ曲は、もう十分に自分のものにできているから、これからは練習の根を詰めるのではなくて、1日1回だけ、本番だと思って集中して曲を吹ききることに専念した方がいい…とアニーからアドバイスを受けて、和真は漸く、こうして英と2人でのんびりするために裏山に上がってきた。 「で、どうだった?」 いきなり抱き上げて、膝の上に横抱きして座っても、和真は抗うこともなく素直に身体を預けてきたから、嬉しくなってつい性急に尋ねてしまった。 和真が話始めるのを待とうと思っていたのに。 「うん…」 英のしっかりとした肩に小ぶりな頭をもたれかけさせて、和真は呟くように『英…』と、呼んだ。 「ん?」 抱く腕の力を少し強くする。 「ちょっとだけ、こうしてていい?」 身体を丸ごと預けたまま、和真はそっと目を閉じた。 そうすることで、和真自身の中で整理をつけているのだと知れて、そんな様子も愛おしくて頬が緩む。 「ちょっとだけと言わず、ずっとOKだけど?」 笑いを含んだ声で言えば、和真も小さく笑う。 その口元が可愛くて、思わず小さなキスを落とすと、『こら』…と小さな拳骨がやってきて、和真が瞳を開いて見上げてくる。 「アニー、待っててくれるって。だから、こっちで進学することにした」 一気に告げるが、両親の願いも留学も、どちらも叶う結果になったのに、和真の表情は晴れない。 それはもちろん、和真にとって、英と遠く離れる数年間を覚悟しなくてはならない結果でもあるから。 そんな和真の様子に、自分への強い想いを感じた英は、嬉しくてたまらない。 こんなに想いを返してもらえるなんて、始めの頃は考えられなかった。 けれど、自分の和真への想いは誰よりも強いと自負していたから、それでもいいと思っていた。例え同じ質量の想いを返してもらえなくても構わないと。 けれど、いつの間にか和真の想いは強く深くなっていて…。 「そっか…。じゃあ離れないで済むな。良かった」 ちょっと甘えた声で、小さな身体をぎゅっと抱き締めて言えば、耳元で『…え?』と、呟く声がする。 「英?」 腕を突っ張って身体を離し、英の瞳を捉えた和真は大きく目を見開いている。 「俺も、やりたいことがあるから、こっちに残ることにしたんだ。同じ大学行くことにしたからさ、当分は離れないで済むってこと」 微笑んで見せれば、 渉に負けないほどの大きな瞳に、見る間に涙が盛り上がる。 「な…っ…なに言って…」 「でさ、和真が卒業して留学する時には、俺は4年生だろ? 1年我慢して大学院に行けば、あそこの院は留学でも単位が取れるから追っかけて行けるだろ? で、うまく行けば一緒に帰って来れるし…ってことで、it's all right!」 最後だけやたらとネイティブな発音で決められたことも癪に触って、和真はボロボロと盛大に涙を零して辺りも憚らずに泣きじゃくり始めた。 「決めてたんなら、さっさと言えってばっ。僕がどんだけ悩んだと思ってるんだよっ」 やっぱり悩んでくれてたんだと、喜びに緩みきってしまう英の表情を目にして、和真は『なに笑ってんだよっ』と、大暴れだ。 腕の中で…だけれど。 そんな様子も可愛らしくて仕方がないのだから、もうこれはつける薬がないほど重症だろう。 「ごめんごめん。でもさ、俺は和真に、俺の進路とは関係無く、自分の道を決めて欲しいなと思ったんだ」 和真の動きが止まった。 「だってさ、自分自身で決めた道なら、誰にも文句言わせないし、後悔もないから」 「…英」 「それに、何があっても俺が和真を手放すはずがないだろ?」 あやすようにポンポンと身体を揺すれば、美少女台無しの真っ赤に腫れた目が見上げてきて、溜まっていた雫が目尻からポロッと落ちた。 濡れた頬をそっと拭えば、また視線を落として身体を預けてくる。 「…ありがと…英」 「うん、俺も、ありがとう、和真」 側にいてくれる感謝の気持ちを、小さなキスにして額に贈る。 「でも、僕がもし卒業と同時にドイツへ行くって言ったら、どうするつもりだったわけ?」 「ん〜…。もう思い出したくないくらい、俺も悩んだんだってば。離れたくないって」 不安だったことを思い出すと、胸がキュッと詰まる。 けれどそれも、和真を抱き締めると嘘のように消えていく。 「…そっか…」 離れたくないと悩んでいるのは自分だけだと思っていた。 だから、余計に辛かったのかもしれないと、和真は英の肩に顔を埋めて小さく息をつく。 「色々考えたんだぞ。どうすればいいんだって」 「うん…」 ずっと一緒にいたいと思っていてくれているのだと知って、胸が痛いほど熱くなる。 「…よかった…ほんと…」 そしてホッとしたあまりに、和真としたことが、英が言った『やりたいこと』が何なのか、それを聞くのをすっかり忘れてしまっていたのだった。 ☆★☆ 夏のコンサートは今年も盛況だった。 英のソロは『兄貴より上手いんじゃないか』との評だったが、英にしてみれば『当たり前』だ。 チェロだけは負けない。例え渉が『ミューズの落とし子』でも。 和真のソロは、オーケストラの中にいる時とは全く違う音色と表現力で聴衆を魅了して、さらに『玉砕者』を増やす結果となってしまい、英は気が気でない。 どちらも悟が伴奏を務めたことで対外的な注目も集めたため、またしても取材が殺到したのだが、学校はコンサート終了と同時に夏休みに入ったために、それらを捌くのに忙殺されたのは、顧問と院長だけだったりしたのだった。 |
END |
『第4幕〜子守歌』へ
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