幕間 「僕は君のもの」
【2】
![]() |
その頃、渉と桂は、部屋で直也の帰りを待っていた。 「直也もこれで受験勉強に力を入れられるようになるね」 いつも先頭に立って部をまとめる直也の姿はそれはカッコ良くて、渉は毎回ときめいていたのだが、その姿ももう、見られないんだなあ…と、寂しさも感じている。 年末の定演では、奏者として乗るだけだ。 直也もサポートはするだろうけれど、実質取り仕切るのは、英たちの新体制だから。 「確かに部長は激務だからなあ。なんであんなに雑用多いんだろうな」 桂が言う雑用とは、部内の事ではなくて、対外的な色々…のことだ。 部長会を中心とした様々な会議の他に生徒会との折衝や、年間行事の調整。 規模は小さいが、校外コンサートもあるし、定期的に行われている演奏ボランティアの予定も組まなくてはいけない。 サポートの手は多いし、みなそれぞれに優秀だけれど、最後は部長が目を通して顧問に上げるのだから、どうしても部長の負担は大きくなる。 「ま、この1年の経験が、将来ここで生かせるようになればいいな…とは言ってたけどな」 桂の言葉に渉はそうだよね…と応える。 「先生って立場の人が部長と一緒に動けるようになったら、良いよね、きっと」 負担が減るだけではなくて、また新しい可能性も出てくるかもしれないと、そう考えて、渉は自分のポジティブな感覚に少し驚く。 それはもちろん、ちょっといい気分で…。 「あ、でも…」 流れでふと思いついた。 「コンマスって、ギリギリまで任期だよね」 コンマスの交代はオーディションまでない。 卒業した場合は、オーディションまでトップサイドが代理を努める決まりになっているが、その間に合奏があることはまずないから、有名無実の決まりだ。 「音大へ進む予定のコンマスだったら、弾き続けている方が良いだろうから、引退しなくてもいいとは思うけど…」 特に桂のような実力者なら、明日が入試でも難なく入れてしまうだろうから、問題はないと思えるが。 「でも、歴代のコンマスがみんな、音大受験ってわけじゃないよね?」 「ああ、俺が入学した時のコンマスは、聖陵祭で引退したな。大病院の跡取りでさ、何が何でも国立の医学部へ入らなきゃならなかったんだ。だから楽器弾いてる時間がなくなるからって」 最後まで努められないことに無念を滲ませていた先輩の姿は、今でも忘れられない。 「じゃあ、どうしたの? 定演」 「トップサイドが繰り上がったんだ。臨時でオーディションやることもあるんだけど、その時は、浅井先生が繰り上がりでOK出したから」 顧問が問題ないと判断すれば、それは『絶対』だから。 「桂はどうなったの?」 「え? 俺?」 何のことかと思えば。 「うん、中1で3番奏者だったって聞いたよ? 繰り上がったの?」 「ああ、それね。うん、繰り上がってトップサイドになった。1回限りの臨時措置だけどさ」 「中1で?」 「そう。腕に自信はあったけど、周りがほとんど高校生だろ? ちょっとやりにくかったな」 ただ、あの時ばかりは父親の知名度にちょっと感謝した。 『栗山重紀の息子だから仕方ないか』 実力で抜かれたと言う悔しさを、そんな言葉でくるんでもらえたから、後ろに控える4つも5つも年上の高校生たちとうまくやれたのだ。 「凄いね、桂」 嬉しそうに微笑まれて、桂はデレッと蕩ける。 これから先も、こうして渉が褒めてくれれば、何でも乗り切れそうな気がしてくる。 「あ、でも俺が最速記録ってわけじゃないんだ」 「え?」 「中学に入学した時のオーディションで、いきなりトップサイドになった人、いるからさ」 「そんな人、いるんだ」 中1でトップサイドとは、並みの演奏能力でないのは確かだが、おそらくそれだけではダメだろうと思われて。 「渉の伯父さんじゃん」 「あれ? 昇くん?」 「そう。桐生昇さん。長い管弦楽部の歴史の中でも、1年目で次席になった、ただ1人の人だよ。ちなみに管楽器の次席最速記録は中2で、タイ記録保持者は3人。1人は渉のお父さんの少し先輩で、伊藤治樹ってフルート奏者」 「あ、知ってる。うちに来たことあるよ」 人見知り故に顔は覚えてないけけれど、気さくな人だった気がする。 「父さんと室内楽のコンサートやってた」 「ああ、ヨーロッパが拠点の人だからな。うちの親父の弟子なんだ。3年くらいいたかなあ」 「あ、そうなんだ」 桂の父に教えを乞うのは物理的にも難しい。 精力的にレッスンをしているのだが、フルーティストなら誰でも、単発でもいいからレッスンを受けたいと思うから、希望者はいつまでたっても絶えず、常に数年待ちと言う状態だ。 それを継続して3年も師事できると言うことは、その実力のほどが知れようものだ。 「で、後の2人は渉の同級生」 「え? もしかして、直也と和真?」 「そう。凄いだろ?」 「うん!」 「でもな、直也と和真は2年間次席やって、高1で首席になったけど、伊藤さんは中3で首席になったんだ。中学で管楽器の首席になった人って、伊藤さんしかいないんだ」 その伊藤治樹は、『奈月が中学からここへ来てたら中1で首席だったんじゃない?』なんて言っていたのだが、言われた葵が『中1の時にはまだ楽器に触ったこともなかったんですよ』と、答えたものだから、『お前、どんだけ凄いんだよ〜!』と、崩れ落ちていた…と言うのは、ここにいる高校生たちは知らないことだが。 「でもさ、院長センセが言ってたけど、藤原先生なんか、上がつっかえてなけりゃ中3で首席だっただろうって」 「上って?」 「葵さんと浅井センセがいただろ? 3年間まるまる被ってるからさ。だから藤原先生が首席になったのは…」 「ゆうちゃんと葵ちゃんが卒業したあと…ってことか」 「そういうこと」 祐介が、その次席の座を3年間、気合いと根性と練習と執念で守り抜いたことも、高校生たちは知らないが。 「そうそう。うちの母親ってさ、藤原先生のこと、何て呼んでるか知ってる?」 「え? 由紀おばさまが? うーん、なんて呼んでるんだろ…。あーち…じゃなくて藤原さんも、桂のお父さんの弟子だよねえ」 大学院の1年目を留学コースに進み、ウィーンで桂の父に師事していた彰久は、その後も機会があれば、恩師を訪ねてレッスンを受けている。 「そう。だけど、聖陵にいた頃から知ってるんだ。葵さん絡みでさ」 「あれ? そうだったんだ」 それは初めて聞いた話だった。 「で、なんて呼んでるの?」 ネタ明かしを求めると、返ってきたのはあまりにも驚きの一言だった。 「『浅井くんとこの子猫ちゃん』」 渉は瞬間、大きな瞳をさらに見開いた。 「……えええええっ! ばばば、バレてんのっ?」 渉の驚きをよそに、桂は何でもない風情で続ける。 「まだ高校生だった頃から知ってたらしい。あ、親父も多分知ってるな。わざわざ何か言ったりはしないけどさ」 「うわあああ」 だが、よく考えれば、自分が引っ込み思案で疎遠だっただけで、栗山家と桐生家は、それはそれは密接な間柄で、かなり何もかもがツーツーの筒抜け状態なのだと、渉は改めて認識する。 「ちなみに直也もあれは、知ってるっぽい気がするな」 「えええっ、直也までっ?」 どこまでバレてるんだと青くなってしまうけれど、でも、その誰もが静かに見守っているのだから、きっとこれは幸せなことなのだろう。 「あくまでも『気がする』ってだけどな。直也も言わないし、俺も聞かないし」 そして、こんな風に、踏み込まなくてもいいことと、腹を割らなくてはいけないことの区別がきっちりとついている直也と桂の信頼関係は、いつも渉に安心感を与えてくれる。 「そう言えば、直也、卒業してからもあーちゃんにレッスンしてもらえることになったって、喜んでたね」 「あれ? あーちゃんって呼んでんだ。可愛いなあ」 「あわわ」 しまった…と、口を塞ぐ渉の頭をポフポフと撫でて、桂はヒョイと渉を抱き上げて膝の上に乗せた。 ついでを装って頬に小さく口づけると、渉がふわっと頬を染めてもたれかかってくれるからもう、たまらない。 「ってさ、渉と英はいつから知ってんだ?」 「…んと、物心ついた頃…かな? 当たり前みたいな感じだったから、うちでは。母さんなんて、ゆうちゃんの顔みたら、『あーちゃんほったらかしにしてないでしょうね』って、必ず言ってたから」 「…太っ腹なお母さんだな…」 綺麗で優しい人というのが、子供の頃の印象だったが、この夏にじっくり話しをした感じではかなり豪胆な人のようで、自分たちの将来も、ちょっと明るいような気がする。 葵もついていてくれることだし。 けれど…。 「あのさ、ちょっと踏み込んだこと聞くけどさ」 「あ、うん」 「答えられなかったら、言わなくていいからな?」 いつもの桂らしくない遠慮がちな物言いに、渉は首を傾げるのだが、そんな様子がまた可愛くて、つい脱線しそうになるのを引き締める。 「浅井先生と藤原先生って籍入れてないだろ?」 「そう、だね」 「そういうつもりって、ないのかな? 先生たちって」 心さえ結ばれていればそれでいいという愛の形は、男女にだってある。 籍を入れるのがすべてではないことくらい、桂にも当然わかってはいるのだが。 「…ん、難しい、みたい。浅井の家はもうとっくにOKなんだけど、あーちゃんの方がね…」 「カミングアウトってわけにいかないか」 「ううん、そうじゃなくて、お母さんは認めてくれてるらしいんだけど、お父さんがね、ゆうちゃんとも仲良いいそうなんだけど、それとこれとは別だって…」 「…そっか…」 むしろ、それが普通の反応だろう。 いや、『事実』を認めてもらえていること自体、幸せなのだろうけれど。 「あーちゃん、一人っ子だからね。 お父さんは、ゆうちゃんが来てくれるなら…って言ったことがあるらしいんだけど…」 「え、そうなんだ」 こだわる点はそこなのか…と、桂は少し、目を見張る。 「ゆうちゃんは、それでもいいって言ったらしいんだけど、あーちゃんがそんなこと絶対させられないって言い張ったんだって、葵ちゃんに聞いた」 いつかは…と言う想いはあるのだろうけれど、浅井家が彰久を無条件で受け入れているのだから、祐介も焦らずにいるのかもしれない…とも、葵は言っていた。 「でもね、2人はいつも幸せそうなんだ。僕も、見ていて幸せな気分をもらっているから」 「わたる…」 桂が、キュッと抱きしめて耳元で切なげに名を呼んだ。 「かつら…?」 考えこむような様子に、渉が少し不安げな声を出す。 「ん、ちょっとこのままでいて…」 渉の華奢な肩に顔を埋めて呟くと、よしよしと撫でてくれる手が温かい。 護られた環境から巣立つ日は近づいている。 けれどそれは、自由に愛し合える未来でもあると、桂は自身に言い聞かせて、不安を振り払う。 少しでも早く大人になって、自分の力で生きていけるようになりたい。 誰にも、何も言わせないように。 「あー! ずるいっ!」 いきなりドアが開いた。 ノック無しでいきなり開けられるのは、もちろんここの住人しかいない。 「2人で何イチャイチャしてんのー!」 後ろ手にドアの鍵を掛けると、直也は渉と桂の間に割り込んで、渉をひったくる。 「おい、直也。心の狭いダーリンは嫌われるぜ?」 「ふーんだ。狭かろうが何だろうが、抱っこした者勝ちだ」 言って、頬に口づけると、渉は恥ずかしげに目を伏せる。 いつまで経っても慣れない様子が可愛いくて、直也も桂もデレッと蕩けるが、お互いの顔を見て思わず吹き出してしまう。 きっと自分も、相方のように顔面崩壊状態なのだと思うと、情けないやら可笑しいやら…だ。 「あ、話違うけどさ、さっき英と話してたんだけど、最近また膝が痛くなる時があるってさ。もしかしてこの前、桂も言ってなかったか?」 「ああ、さすがに3年になったら随分減ったけどさ、でも1、2回はあったな。寝てる時に突然痛くなったりするの」 2人の会話に渉が不安そうな顔を見せている。 ――膝痛いって、なんで? どっか悪いのかな…? 英もそんなこと、僕に言ったことないし…。 「ってことは、3年になってまだ身長伸びたってこと?」 「そう。ちょっとだけどな、184cmになってたけどさ」 「うそっ」 直也が大声を上げた。 「へへっ、直也、もしかして伸びるの止まっただろ。2年の中頃から膝痛いって言わないもんな」 2人の会話を一生懸命聞いている渉が、今度は複雑な顔を見せている。 ――背が伸びると、膝、痛いんだ…。僕、1回もなかったけど…。 「うー。悪かったねっ、182だよっ」 「やった、2cmも勝ったぜ、俺ってば」 「くっそ〜、悔しいいいいっ」 その時2人の谷間から、地を這うような不機嫌な声が聞こえてきた。 「…2人とも、もしかして僕に喧嘩売ってる?」 その言葉に、一瞬顔を見合わせたNKコンビだったが…。 「…わあっ、ごめんごめんっ、そんなつもりじゃなくてっ」 「そうそうっ、そんなつもりじゃないんだってば!」 「渉だって、ここに来てから1cm伸びたって喜んでたじゃん!」 「うんうん! 166もあるんだから、OK、OK!」 こういう場合、取り繕おうとすればするほど、大きな墓穴を掘ってしまうのは、往々にしてあることで。 案の定、渉はこれでもかと言うくらい、ぶすくれている。 「機嫌直して〜、渉大先生〜!」 「マエストロ、許して〜」 「…べ〜だっ」 その後、コンマスとフルートの首席が、合奏中に指揮者から仕返しされたとか、されなかったとか…。 |
【3】へ |