幕間 「僕は君のもの」

【4】





 ――まさか…渉先輩、浮気…?

 渉に限ってそんなことがあるはずないと、必死で打ち消す端から、今見た光景が浮かんで脳裏から離れない。

 けれど、どんな見方をしたところで、あれは恋人同士の触れ合いにしか見えない。

 キスまで、して。


 ――どうすれば、いいんだろう…。

 渉がもし本当に浮気をしていたとしても、紘太郎には関係はない。

 でも、直也と真剣に愛し合っていると思ったから、諦めたのだ。

 けれど、だからと言って、今の自分に何ができるのか。


 結局その夜は一睡もできなくて、次の日の放課後に、紘太郎は和真を呼び出した。

 ただ、呼び出した時点では、何をどうするのはまったく考えて、いてもたってもいられなくなった結果…にすぎないのだが。


「紘太郎、顔色悪いけど大丈夫?」

 体力に自身はあるけれど、眠れなかったツケはやはり顔に出ているようで、和真が心配そうに覗き込んでくる。

「あ、うん、平気」

 けれど、それきり言葉が続かない。

 そして、そんな紘太郎の様子に、和真がおかしいと気づかないはずはなくて。

「…何か、あった?」

 いつもより柔らかい口調で問いかけられて、紘太郎は取りあえず口にした。

「…なあ和真、英先輩と付き合ってるって噂、あれ、ほんとか?」

 気にはなっていたが、わざわざ呼び出して聞くつもりはなかった。

 何かのついでに事実を知ることができれば…そして、それが本当なら、和真も英も大好きだから、応援したいなと思っていた程度で。

「ほんとだよ」

 なんだ、そんなこと?…とでも言いたそうな口調で返ってきた答えに、つい畳みかけてしまった。 

「いつ、から?」
「もう少しで、1年…かな?」
「え、そんなになるんだ…」

 勝手に、近々の話だろうと思い込んでいたから、やはりこれも驚きで。

「まあね」

 全然気づかなかったと呟いてから、チラッと和真を見れば…。

「…なんか、顔、緩んでるぞ…」
「えっ、ウソっ?!」

 慌てて両手で頬を覆い、目を見開く和真の様子は、チビの頃から知っている紘太郎でも、『こんなに可愛かったっけ?』と思わせるものだ。

 いや、確かに美少女ではあったけれど、可愛らしさの質が違っている。

「幸せそうだな」

 嬉しくて、紘太郎の頬も緩む。

 けれど、そんな紘太郎に、少し表情を引き締めた和真が言った。

「ね、紘太郎」
「…なに?」
「ほんとに聞きたいこと、それじゃないだろ」
「和真…」


 ここに入ってから、和真がどれほど『切れ者』なのかと言うことは、これでもかと言うくらい周囲から聞かされてきたが、紘太郎の前では『いつもの和真』で、頭は良いけれど、それを見せつけないところは変わらなかったから、あまりピンときていなかった。

 だが、今まさに、それを目の当たりにした気がする。

「何? もしかしなくても、渉のこと?」

 しかも、ここまでお見通しなら、もうストレートに聞くしかないだろうと、紘太郎は腹を括った。

「渉先輩と麻生先輩って、恋人同士だよな」
「…見たんだろ? 現場」
「…うん」
「それが真実だよ」  

 事も無げに返されて、紘太郎は続く言葉が見つからない。

 そんな紘太郎の様子を見て取って、和真はこっそりため息を漏らす。

 これはどうみても、『アレ』しかないだろうと。


「もしかして、違う事実に気がついた?」

 和真の問いかけに、紘太郎の目はこれでもかと言うくらいに見開かれた。

「…和真?! まさか…」

 自分が見てしまったことを、よもや和真も知っているのかと、驚きを通り越して、思考は停止寸前だ。

 そんな紘太郎の反応に、和真は今度こそはっきりとため息をついた。 

「あのさ、5分だけ、待ってて」
「あ、うん」

 停止しかかっていた思考を戻す間もなく、和真は練習室を出て行った。



 だが、紘太郎が漸くぐるぐると考えを巡らせ始めたところで、和真は戻ってきた。

 走ってきたようだが、さほど息は弾んでいない。

「紘太郎…渉のこと、好きだよね」

 当たり前のことを尋ねられて、紘太郎は当然だろうとばかりに頷いた。

「ああ。軌道修正はしたけどな」
「これからも渉のために、がんばれる? 色々とさ」

 それも至極当然のことで、今更言われるまでもない。

「もちろんだ。俺、渉先輩の為だったらなんでもできるぞ」
「じゃあ、英や僕と一緒に渉のことを護っていけるよね」

 それこそ願ったり叶ったり…だ。

「当然だろ…っていうか、そうありたいと願ってたんだ。渉先輩が絶対の信頼を寄せている、和真みたいになりたいって」

 その決意を見て取って、和真は少し表情を緩めた。

「…それを信じて本当のことを話すけれど、秘密も当然守れるね」

 有無を言わせない視線が紘太郎を射抜く。

 逸らすことなど出来ないほど強い視線だけれど、逸らすつもりもない。

「それはもちろんだけど、でも、それって渉先輩の秘密ってことだろ?」
「当たり前じゃん」

 この流れで他に何があるっての…と、口を尖らせた和真に、紘太郎は真っ直ぐ疑問を突きつける。

「それ…渉先輩に黙ったまま話していいのか?」

 だが、それも和真はあっさりやり返す。

「渉の了解はとってきたよ」
「え? まさか、今出てったのって…」
「うん、練習室にいるの、わかってるから」

 フットワークの軽さに唖然とするばかりだが、たったあれだけの時間で出来るような話なのかと言う疑問も湧いてくる。

「かなり動揺してたけど、紘太郎なら良いってさ」
「渉先輩が?」
「そう。紘太郎も渉に信頼されてるんだよ」

 それは、天にも昇るほどに嬉しい言葉ではあるけれど、でも話の内容はきっと軽くはないはず…だ。

 そんな紘太郎の内側の葛藤にも、和真は当然気づいているが、構わずに続けた。

「このことは、僕と英と…あと、渉の身内の大人の人がひとり、知ってるだけだ。この先も、多分誰にも言えない。でも、渉も桂も直也も、たくさん悩んで、それでもこの選択が最良だと決めた」

 言って、和真がもう一度、紘太郎に向き直った。

「心の準備、OK?」
「うん」

 ここまで来たら、後には引けない。いや、引く気もないが。

 和真は頷いて、ゆっくりと話し始めた。
 彼らの恋の経緯を。



                     ☆★☆



 課題も楽譜も山積みなのに、どれにも手がつけられず、頭の中は数時間前に聞いた話で埋め尽くされている。

 あまりにも想像の範疇を超えた話で、理解するのに少し時間がかかった。 

 そんな紘太郎の様子に、和真は『無理もないよ。だって、当の本人たちでさえ、結論出して踏み出すのに何ヶ月もかかったんだからさ』…と言っていたが。

 そして、和真から『紘太郎が気づいたみたいだ』と聞かされた渉が、『僕、岡崎くんに嫌われちゃったかな…』と言ったと教えられて、紘太郎は慌てて『そんなことがあるはずない!』と、和真相手に叫んでしまった。

 和真は『それ、ちゃんと渉に伝えておいてあげるよ』と言ってくれて、 『ま、渉はあの通り、計り知れない大物だから』と、笑った。

 そんなやり取りの色々を思い起こしながら、様々な考えを頭の中に散らかしている時に、ふと思い出した。


 渉に告白したあの時。

 誰かともうつきあってるのかと問い詰めた紘太郎に、言葉を無くして沈黙してしまった渉。

 どちらも正しく恋人なのだから、『どちらかひとり』の名を挙げる訳にはいかなかったのだ。

『どっちもそうだ』と言えない以上は、どちらも無いことにしてしまわなくてはいけなくて、渉はどれほど苦しかっただろう。

 その渉の心の内を思うと、自分はなんて酷いことをしたのだろうかと、心底落ち込んでしまう。

 それでも渉は自分を許してくれた。
 これからも一緒に音楽ができたらいいねと、笑顔を向けてくれた。

 渉が好きだ。

 それはこれからもずっと変わらないだろう。
 だから…。

 二重の秘密を抱えた恋でも、渉がずっと幸せでいられるように支えていければ、それは自分にとっても幸せなことだ…と、紘太郎は思い至る。

 そう、最初から決めていたはずだ。

 渉の側で、ずっと奏でていたいと。



                     ☆★☆



 翌日、部活で顔を合わせた桂は、ちょっと照れくさそうに笑うと、紘太郎の肩をポンと叩いて言った。

「ごめんな、心配かけて」
「…先輩」
「びっくりしたろ?」

 全く陰りのない、いつもの桂らしい笑顔に、紘太郎の方が救われる。

「確かに驚きましたけど、でも、あんなに幸せそうにされちゃったらもう、羨ましいばかりですってば」

 だからこちらも、屈託なく返す。

「だろ〜? もう、毎日がバラ色でさ〜」

 男前台無しの顔面土砂崩れに、紘太郎は思わず吹き出してしまう。

 桂もまた、紘太郎にとって、この先もずっと追いかけていきたい人だ。

 だからきっと、自分は『この結末』が嬉しいのだ。
 その証拠に、心がほんわか暖かい。

 そして、部活が終わった時に、渉には直接伝えた。
 ずっと側で、支えて応援していきたいと。

 ありがとうと涙ぐまれて、あまりの可愛らしさにうっかり抱き締めてしまったら、『調子に乗ってんじゃないよ』と言う言葉と同時に、後ろから薄い楽譜の束で頭をはたかれた。

 振り返ってみれば、そこには笑顔の直也がいて、『ま、今日だけは特別に見逃してやるか』と言われた途端に、渉が『あ、ほんとに?』と笑って紘太郎にしがみついてきた。 

 目を丸くした紘太郎と、言い出しっぺのくせに慌てる直也を、隣で和真が大笑いしながら見ている。そしてその和真もまた、英の眼差しに護られていて…。

 願った通り、『彼ら』の強い絆に一歩近づけたような気がした。



                   ☆ .。.:*・゜



 桂と直也に囲まれて、渉が楽しそうに笑っている。

 あの笑顔が護られるのならば、やはり自分は何でもするんだろうな…と、紘太郎は小さく笑った。

「うーん。なんかさあ、麻生先輩と栗山先輩に囲まれてる渉先輩って、十割り増しで可愛いよな」

 紘太郎の隣で章太が唸る。

「俺さ、栗山先輩も恋人だったらいいのにな…って思ったんだけどなぁ」
「章太?!」

 まさか気づいているのかと慌ててみれば…。

「だって、幸せそうなんだも〜ん。見てて嬉しいじゃん」

 茶化したように言ってのけて、章太は紘太郎に『行こ』と促す。

 もう一度、渉の笑顔に目を向けてから、紘太郎は章太の後を追う。

 ずっと、渉の側で、渉を護り、そして渉と音の世界で生きていきたい。

 そのためにできる限りのことをしようと決めた紘太郎に、渉との、分かち難い強い絆が生まれるのは、もう少し先の話になる。



                    ☆★☆



「年始に提出の進路調査票だけどさ」

 今日もまた、夜の音楽準備室で勝手に珈琲を淹れている生徒がひとり。

「渉と同じところに行くんだろ?」

 と言うよりは、今ではもう『安藤と同じところだろ?』と、言ってやりたいところなのだが、取りあえず今は我慢してやろうと、祐介は笑いを飲み込む。

「ん、それはそうなんだけどさ…」

 珍しく何かの思いを溜めている様子の英に、祐介は『座ったらどうだ』と促して向き直る。

「何か思うところでもあるのか?」

 水を向けてみれば、返ってきたのは意外な言葉だった。 


「なあ、教師になろうと思ったら、やっぱり『演奏学科』より『音楽教育学科』に進んだ方がいいのか?」

「英?」

 よもや英の口から『教師』と言う言葉を聞くとは思っていなくて、祐介は目を瞠る。

 その視線を真正面から捉えて、英ははっきりと告げた。

「俺、目標ができたんだ。ここの音楽教師になって、祐介の後に続きたい」

 それはつまり、管弦楽部の顧問が目標だと言うことに他ならない。

 だが、その言葉に喜びを感じるより前に、その心境の変化を聞いておかねばならないと、祐介は少し、身を乗り出した。

「チェロはどうするんだ?」

 そう、英の目標はずっと、チェリストになって、父親を超えること…だったはすだ。

「別にチェロを捨てるなんて思ってない。だいたいチェリストなんて、資格のいることじゃないんだし、俺がチェロ弾くのは息してることと同じだから、教師になりたいって希望の邪魔になることじゃないと思うけど」

 どうやら英自身の中でもすでに解決済みのようで、自分に打ち明けたということは、それなりに覚悟はついていることなのだと感じ、祐介は『そうか…』と応えて、ひとつ、息をつく。


 自分の後を追って行きたいと言われて嬉しくない教師はいないだろう。

 しかもそれが、甥っ子とくれば尚のことで。

 けれど、喜ぶのはもう少し後にして、今は英の疑問に答えてやらなくてはいけないと、祐介は気持ちを引き締めた。


「教員免許ならどちらの学科でも取れる」

 いずれにしても、教員免許取得に必要なのは『教職課程の履修』であって、それらは学科に関係無く同じ課程だ。

「じゃあ、なんで『音楽教育学科』があるんだ? あ、川北先輩が受験する『音楽療法士課程』とかならわかるんだけどさ」

 英の疑問に祐介が頷いた。

「そう…教員にも色々あるだろう? 例えば音高の教員を目指すなら、実技の高さは当然求められるけれど、普通科の中学や高校の教員が目標なら、専攻実技の技量よりも優先されることがある。 『音楽教育学科』の『音楽教育専攻』ってのは、専門性よりも総合力に長けた指導者を育成するのが目的だからな。 つまり、普通科中高の音楽のレベルを上げて、一般的な音楽の普及に貢献しようってのが狙いだ。 だから入試も演奏実技はピアノのみだ」

「ってことは、俺は…」

「管弦楽部を背負って立つ気なら、まず『演奏学科』へ行くべきだろうな」


 今や『プレ音大』などと呼ばれている『聖陵学院管弦楽部』は、かなり以前に音高のレベルを抜き去ったとまで言われていて、卒業後の進路をプロの世界に向ける者は、例年管弦楽部の高校3年生の3割から5割に及ぶ。

「そっか」

「まずチェロ専攻で奏者としての力を磨いて、同時に教職課程を取る。その後に大学院で指揮法と音楽教育学を修めるのが必須だな。6年間にやることはいっぱいあるぞ」

 同じ道を先に進んできた先輩として、厳しかったが充実したあの日々を、同じように英が有意義に、そしてたくさんのことを吸収して過ごしてくれればと願うばかりだ。

「うん」

 口を引き結んで頷く英に、祐介は漸く表情を解いて、ふわりと笑った。

「きっとお前なら良い教師になるだろうな」

「そう、かな?」

 珍しく、照れくさそうに英が目を伏せる。

「ああ。その日が楽しみで、待ち遠しいよ」

 恩師・光安直人から引き継いだ大切なものを、更に育てて、この愛しい甥っ子に引き継ぐことが出来たなら、こんなに幸せなことはないと、祐介は静かに心を熱くする。

 そして英は、祐介の元で同じ道を歩む未来を必ず実現しようと固く誓う。
 それはきっと、充実した毎日に違いない。


                     ☆★☆


 いつもよりももっとたくさんのことを話して、寮へ帰る道すがら、英は祐介が最後に言った言葉を頭の中で繰り返し、刻みつける。


『ひとつだけ、アドバイスしておくよ』

 そう言って、祐介は英の瞳を真っ直ぐに捉えた。


『教師の下に生徒がいるんじゃない。 生徒がいるから、教師という職業は成り立っている。 自分が誰のために在るのか、それさえ忘れなければ、道を見失うことはない』


 きっと、演奏家になるのとはまた違う、厳しい道に違いない。

 けれど、贈られた大切な言葉を忘れずに、真っ直ぐに歩いて行こうと決めた。

 いつの時も、和真の手を離さずに。

 

END

第5幕〜初雪の頃』へ


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