幕間 「育みの手から手へ」





「なんかね、『振る』っていうのはほんのちょっとだった。宮階先生がピアノ弾いてくれたんだけど、それに合わせてちょっとだけ。和声もすぐ出来ちゃったし、あとは、作曲科の卒業制作の楽譜を見せられて、『君だったらどう解釈する?』って聞かれて、先生3人と僕とで意見の交換みたいな…。だからほとんど、喋ってた」


 日曜の夕方。
 祐介は渉を呼び出して、入試の様子を詳しく聞いていた。

 これは渉だけではなく、祐介は毎年、音大受験生全員から話を聞いている。

 次年度のために、明文化されない微妙な傾向の変化を掴むのが主な目的だ。

 だが、特に今年は指揮科の渉と音楽療法士課程の凪の2人が聖陵から初めての受験ということもあり、2人からは念入りに話を聞いている。


「先生3人に囲まれて、大丈夫だったか?」  

「うん、楽しかったよ。先生たち、わざと『それはないよ』って解釈を振ってきたりするからそれに反論するのも面白かったし」


 嬉しそうに話す渉を、祐介は感慨深く見つめる。

 大学という行ったことのない場所で、見知らぬ大人が3人もいる密室で、以前の渉ならそれだけで身動きもとれないほどに緊張して、顔を上げることさえままならなかっただろう。

 なのに、『楽しかった』とまで言った。

 本人にしてみれば、『音楽だから』…なのだろうが、それもまた、以前には考えられなかったことで。


「楽しめそうか? 指揮科と言うところは」

「うん。何だかやりたいことが色々出てきそうな気がする」

 ちょっとはにかんだ笑顔が、以前と少し変わったことに、祐介は気がついた。

 顔の造りだけでなく、笑い方も葵に似てきたように思えたのだ。


「ここを離れるのはほんとに寂しいし、いられるものならずっといたいんだけど、でも、そんなこと言ってても仕方ないし、それならちゃんと勉強して、出来るだけ帰ってきて後輩たちの面倒もみたいなあ…なんて思うんだ」

 葵は言っていた。

『渉は、僕たちなんかが及ばないところまで高く飛んで行くよ』…と。

 その日はきっと、近い。

 けれど、遠く高く飛んでも、渉の想いは側にある。
 彼が愛する人たちの側に。いつも。


「頼もしいな。出来るだけ帰ってきて、僕に楽をさせてくれよ」

「んと、そこまで役に立てたらいいんだけど、でも、頑張る」

 もう一度見せた笑みは、今度こそはっきりと、葵に瓜二つの、鮮やかな笑顔だった。



                    ☆★☆



 その夜、指揮科の宮階教授から祐介に電話がかかってきた。

 息子の珠生は1年後輩のホルン奏者で、現在はフランスを拠点に活躍している。


「宮階先生、今年もお世話になりました」

『いやいや、毎年優秀な子たちを送り出してくれて、こちらこそ感謝してるよ』

 聖陵の卒業生はみな成績優秀で、その後の活躍も著しく、大学の高評価の原動力だ。


『正式な合格通知は明日だし、言うまでもないとは思うけど、聖陵の受験生は全員Aプラス判定だったから』

「ありがとうございます」

 全員合格は確信していたことだから、祐介もいつも通り冷静に受け止める。


『ちなみにAのツープラスが2名。さらにAスリープラスが2名。まあ、誰がとは言わなくても、浅井くんにはわかると思うけどね』

 おそらくツープラス評価のひとりはコンバスの七生。
 スリープラスのひとりは渉。

 あとは、桂と和真のどちらがひとつ上の評価になったか…だが、多分、和真の方だろうと考えた。

 祐介が6年間見てきた2人はどちらもスリープラスに値すると考えている。

 けれど、今年の入試に限って言えば、ヴァイオリンよりもオーボエの方が高得点が出やすい課題曲になっていた上に、ヴァイオリンの課題曲には、現在の桂が唯一苦手にしている表現が含まれていたからだ。

 ただ、桂本人もそれは自覚をしていて、克服に向けて努力していきたいと祐介にも語っていたところだ。


『ま、一応伝えておくよ。ツープラスはヴァイオリンとコンバス。…スリープラスはオーボエと君の甥っ子だ。まあ、甥っ子くんに関しては、フォープラスでもファイブプラスでも良いんだが、残念ながらスリープラスが評価のてっぺんなんでね』

 電話口で笑う声が弾んでいる。
 元々陽気な質の宮階だが、今夜は特に上機嫌のようだ。


『まあ、とりあえずちょっとでも振ってもらわないことには点数残せないから、一応やってはもらったけど、彼の技術力はもう今さらだし、制限2時間の和声の課題も30分で仕上げちまうし、あとはスコアリーディングのディスカッションに費やしたよ。
 正直、こっちも途中でマジになっちゃってさ。ほんとに楽しかったな。
 悔しいが、良昭が爺バカになるのがわかるよ。あいつ、ことあるごとに『うちのわたちゃんは天才だから』ってほざきやがってさ。
『何言ってんだこいつ』って思ってたんだが、よく考えたら良昭はビッグマウスでもほら吹きでもなかったなって思い出したさ』


 電話口で悔しそうに…それでも愉快そうに笑うのは、赤坂良昭と宮階幸夫がここまでずっと、ライバルであり親友であったからに他ならない。

『渉くんとこれからしばらくの月日を共に過ごせると思うと、まさに『血湧き肉躍る』…だね。指揮科の連中もみんな、青ざめて待ってるから』

 青ざめて…と言うのも、強ち嘘ではないだろう。

 渉の才能は『脅威』だ。
 30代ですでに世界的評価を得ている悟をして、『すぐに追いつかれるだろうな』と言うほどなのだから。


『ああ、ただ、渉くん効果で指揮科の連中…僕も含めてだが、嬉しいことにもなったな』

「何かあるんですか?」

 祐介には、ひとつだけ心当たりがあるのだが、まさかな…と言う思いもあって、敢えて口にしなかったのだが。


『年明けの理事会と教授会で正式に決まったら、浅井くんにも報告があると思うんだけどさ、実は、悟くんがついに 『うん』 と言ったんだよ』

 まさかな…が、思っていたより随分早く、現実になったようだ。

「本当ですか? もしかして、渉が行くから…ですか」

 悟は数年前から、母校の音大から熱心な招聘を受けていたのだ。
 教鞭を取ってもらえないだろうかと。

『半分はそれだろうな。渉くんが可愛くて仕方ないってのは、少し話した端々にもダダ漏れだったからさ。だが、あと半分は葵くん…だろう』

「葵…ですか?」

 尋ねる形はとったが、祐介にはもうわかっていた。
 悟が目指していたのは、『葵のピアニスト』…だから。


『そう。活動のほとんどを葵くんの伴奏にあてて、指揮者としてはステージよりも後進の指導に力を入れて行こうってところだろう。
 ただ、あの才能を世間が放っておくはずはないし、悟くんはまだ若い。  『もう振りません』って訳にはいかんだろうし、こっちとしても、それは困るからね』

 当面は専任講師程度の扱いでないと、悟の演奏活動に支障が出て困るのは大学側だ。

 現役で活躍してもらいながら、大学にも…と言う腹積もりなのだから。


『まあ、少なくともきっかけは渉くんの入学だからね、こっちとしては、悟くんと渉くんをゲットできてウハウハってわけだ』

 宮階教授が自分の『跡』を悟に渡したいと熱望しているのは、香奈子からも葵からも聞いていた。

『これで一気に余所の指揮科を突き放してやるよ』

 そもそも志す人間が少ない指揮科は、優秀な人材の取り合いになる。

 どうしても国立大学寄りになってしまう志望者を取り込むには、学内に『美味しい人材』が欲しいには違いない。

 そして、それを開けっぴろげに笑ってみせる宮階教授は、実は昨年度に学長に内定していたのだが、渉が指揮科を受けると香奈子に聞いて、内定を蹴って指揮科に留まっていたのだ。

 もちろん、渉の『指導教授』になるためだ。

 それを香奈子から聞いたときには、何よりも『渉の威力』に改めて感嘆したものだ。

 良昭は『そりゃ、うちのわたちゃんは天才だからね。幸夫にしちゃ上出来の反応だろ』…と、相変わらずの『爺バカ』っぷりだったが。


『そうそう、オーボエの子…安藤くんだったか、卒業したらアニーが連れてくって?』

 聖陵在学時のアニーの帰省先であり、日本での保護者でもあった宮階の自宅は、今でもアニーの来日時の居所…だ。

「はい。2年前のレッスンがきっかけだったんですが、アニーとしては高校を出たら連れて行きたかったようなんですが、安藤の両親の意向もあって、とりあえず日本で大学を出てからということになりました」

 今年もスケジュールの都合でアニーとの帰国が叶わなかった司が、『噂の安藤くんに会いたかったのに〜!』…と、メールしてきたのが思い出されて可笑しくなる。


『オーボエの主任教授が、アニーから『くれぐれもよろしくお願いします』って直接言われてビビってたよ』

「本音を言えば、今すぐ連れて行きたいと言っていたくらいですから、熱心に『お願い』したんじゃないですか?」

 笑いを含んだ祐介の声に、宮階も『まったくだ』と笑う。

 いや、笑いが止まらないと言ったところだろう。

 和真の在学中には、アニーもたびたび顔を出すと言うのだから、『公開レッスン』でもやらせようと目論んでいるに違いない。


『ああ、随分長電話になってしまって申し訳なかったね。また来年も優秀な生徒たちを頼むよ。期待しているから』

「ありがとうございます。来年度もよろしくお願いします。それと…」

 祐介に最後まで言わせず、だが宮階は祐介の思いを正しく汲み取った。

『もちろん任せておいてくれ。君が手塩にかけた大切な子供たちだ。大事に育てていくよ』 

 こうして毎年、6年ないし3年を共に過ごした子供たちを送り出し、そしてまた新しい子供たちを迎えて、育てていく。

 同じことの繰り返しのように見えて、実は毎年まるで違うのだと気づいたのは、教職に着いてすぐのことだった。

 子供たちはそれほどまでに、みな個性があり、様々な可能性を秘めている。

 それをこの手で温め育てていける喜びを、いずれは英も経験するのかも知れないと思うと、心が躍るのを止められない。


 もう一度丁寧に礼を述べ、通話を切った祐介は、漸く安堵の息をついた。



END

第6幕〜初雪の頃』【3】


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