まりちゃんの家出
〜実家に帰らせていただきますっ!〜
前編
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「直、俺やっぱりバイク見てもらってくる」 「やっぱ、おかしい?」 マンションの地下駐車場で俺を降ろすと、智はバイクに跨ったままそう言った。 う〜ん、やっぱり足の長いヤツはいいよな。転がしてなくてもかっこいいなんてさ。 「うん。どうも気になるんだ」 智が首をかしげて答えた。 高校を卒業して1週間後。 俺たちは結婚式をして、恥ずかしながら新婚旅行にまで出掛けてしまったわけだけど、その1週間の旅行を終えて(途中から家族旅行になっちまったけどな)、帰ってきたところだ。 俺にはいまいちよくわかんないんだけど、峠を越えたあたりから、マシンの調子が悪いらしい。 「すぐ帰ってくるから、先に戻ってて」 メットをかぶったままで、智はそう言った。 「うん。わかった」 メットを外した俺は、智の顔をジッと見上げる。 「気をつけて行って来いよ」 って言っても、ここから智のお気に入りのバイク屋まではそんなに遠くはない。 バイクだとせいぜい5〜6分ってとこだ。 メット越しに目のあった智は、ニコッと笑うと何故だかメットを外した。 どうして? わざわざ…。 智の顔が近づいて来る…。 間際でほんの少し顔を傾けて、智の柔らかい唇が俺のそれに触れてきた。 はいぃぃ〜? それはほんの些細なバード・キスだったけど、離れる瞬間に少しだけペロッと舐められたりして…。 「じゃ、行ってくるよ」 何事もなかったかのように言って、智はメットを被る。 おい…もしかしてそれだけのためにわざわざ…。 呆気にとられてる俺に、もう一度綺麗な笑顔を見せて、智のバイクは地下駐車場にエンジンの音を響かせて出ていった。 信じられないヤツ。 俺は、いくら薄暗い地下駐車場とは言え、思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。 智は、何でも出来るいい子ちゃんなんだけど、こう言うところは躾直しが必要だよな。うん。 そう思いながら、俺は俺のメットだけをぶら下げて、エレベーターホールへ向かった。 去年の秋以来、何度も出入りした智のマンション。 今日からは俺もここの住人になる。 親を騙して結婚式をした俺たちは、引っ越しのことも何もかもそっちのけにしていたんだけど、俺たちが旅行に出掛けた直後に、うちのお袋と智のお父さんの手で何もかもが終わっていた。 うちの親父はいつまでもブチブチ言ってたらしけど…。 まったく、自分が諸悪の根元だってこと忘れてるよな、うちの親父は。 まあ、おかげで俺はこんなに幸せだけど。 このマンションのいいところは、地下駐車場から直接部屋へ上がれるってとこだ。 いちいちエントランスへ出なくていいんだ。 ただし、エレベーターホールへ入るのにも鍵がいるけれど…。 俺が銀色のカードキーリーダーにカードを通そうとしたとき…。 「直…さん?」 …誰かが俺を呼んだ。 「熱田直さん…ですよね」 それは、女性の声だったけど、少なくとも歓迎できるような声色ではなく…。 俺は恐る恐る振り返った。 俺のいるエレベーターホール前は明るい。 けれど、振り返った先は、薄ぼんやりとして、車っていう無機質な物だけが並んでいる殺風景な空間。 その薄闇の狭間で、何かがユラッと動いた。 …うわ〜ん、俺、コワイ話は嫌いなんだよ〜。 思わず逃げ腰になった俺に、もう一度声がかかった。 「直さんでしょっ。私から…智雪さんを奪った…」 は?今、なんて? ユラッとうごめいた物が、ゆっくりと近づいてくる。 しっかりと金縛りにあっている俺に、その物体は漸く姿を見せた。 声の通り、女の人だった。しかも、若くて、可愛い…。 正体を見てしまえばなんてことない。 悔しいかな、俺とあまり身長差はないが、相手は確かに女の子だ。ちゃんと足もあるようだし…。 ホッとした俺は、漸く声を出した。 「あなたは?」 その子は、俺のすぐ近くまで来ると、強張らせていた表情を緩めて、今度は酷く儚げな面もちになった。 よく見ると…やっぱ、可愛い。もしかして俺より年下…? 「智雪さんと…結婚されたんですよね…」 え?どういうことだ? どうしてこんな、見ず知らずの人がそんなことをいうわけ? だって、俺は、表向きはちゃんとした『養子縁組』なんだから。 実は今、その事で智とお父さんがもめていて、俺は未だに『熱田直』なんだけど…。 「結婚って…」 俺が返事に窮していると、その女の子は訴えるような眼差しを投げてきた。 「無理矢理結婚させられたんですよね。そうですよね」 お、おいっ、ますます話の展開が…っ。 「ち、違いますって…」 詰め寄られて俺はズルズルと後ずさる。 「会社のために、身売りをされたって聞きました。そんな結婚、イヤでしょう?!」 そ、そんなことまで知ってるアンタはいったい誰っ!? 「あ、あなた、いったい何なんですかっ」 ええい、相手が女だからって遠慮してる場合じゃねーや。 こんなワケのわからんイカレたヤツ、相手にしてられっかってんだっ。 「私っ、智雪さんに…」 智、に…? ほんの一瞬の逡巡の後、イカレたねーちゃんはとんでもない言葉を口にした。 「捨てられたんです…」 ……はいぃぃぃぃぃ〜? 「会社を一つ手に入れるために、結婚させられることになったって…。智雪さん、そう言って…」 なんですとぉぉ。 「お願いっ、思い直して下さい。こんな結婚、すぐにダメになります!私に、智雪さんを返して下さいっ」 そ、そんな話…。 「待ってよ。そんなこと聞いてないよ」 …そりゃそうか。何を間抜けなこと言ってるんだ、俺。 浮気してんのをわざわざ報告するヤツいないよな。あっはっは。…って、笑ってる場合じゃねえってば。 けど、そんなことにわかに信じられるはずもない。 智は、俺一筋6年間…の、はず…。 「悪いけど…そんなこと信じない」 よっし、はっきり言ってやったぞ。どーだ、ねーちゃん。返す言葉、ある? だって、智はほとんど俺と一緒にいたもん。 俺に隠れて何かをするような暇、なかったはずだ。 学校帰りは、毎日駅のホームまで一緒で、正反対の電車に乗ってそれぞれ約1時間。 駅に着いた頃、携帯に『着いた?』ってかかってきて、夜も『何してる?』ってしょっちゅう携帯が鳴った。 何度考えても、今までの智にアヤシイ行動なんてなかったはずだ。 一生懸命、過去の記憶をたぐってみるけれど、本当に何も思い当たらない。 けれど、心の中でホッとため息をついた俺に、いきなり爆弾が落ちた。 「私…お腹の中に、智雪さんの子供がいるんです…」 「…へ?」 今…なんて? 「最初は、諦めようと思ったんです。智雪さんは大企業の御曹司で、将来は跡を継ぐ人。会社絡みの政略結婚なら、私は諦めるしかないと…。でも、この子が出来ていることに気がついて…。それで、どうしても諦めきれなくなったんです…。お願いです、直さん。智雪さんを返して下さい…」 その子は、まだ全然目立たないお腹を愛おしそうにさすって、涙ながらに崩れ落ちた。 俺は慌ててその子を支え、抱き起こす。 だって、本当に子供がいるのなら、こんなところでへたり込ませておく訳にはいかないじゃんか。 けれど…智…ホントなのか、これって…。 俺は、まだ信じられなかった。だって、智は俺に、何度も何度も『愛してる』って言ってくれたんだから。智が俺に向けてくれる優しさは、偽物なんかじゃない…。 「私を…疑ってますか?」 何も言わない俺は、泣き濡れた瞳を向けた彼女にそう聞かれた。 俺は静かに首を振る。 「そうじゃなくて…、智を、信じてるから…」 俺も相当しぶといよな…と思ったとき、濡れていたはずの瞳が、急に険を帯びた。 「智雪さんの脇腹に、傷があるの…知ってますか?」 彼女の口から告げられたそれは、俺の心臓を直撃した。 ドクン…と派手な音が鳴る。 「どして…それを…」 それこそが彼女の持つ『証拠』?『切り札』? 智の脇腹の傷。それは俺もつい最近まで知らなかったことだ。 うちの学校はプールがなかった。だから、そんなところの傷なんて、全然知らなかったんだ。 しかも、俺がそれに気づいたのは今年になってから。 ベッドの中で、ふと触れた弾みのことだった。 小学校の頃、遠足で行った山の中、友達とふざけていて、折れた枝で怪我をしたんだと智は笑っていたけれど…。 あの傷は、もう色が薄くなっていて、パッと見た目にはそんなに目立たない。 けれど、触ると、引きつりが残っているからよくわかるんだ…。 それを、この子は知っている…。 俺だけしか知らないはずの、智の傷を…。 「お願いします…返して下さい…」 彼女はもう一度、言った。 「それは…智が決めることだから…」 俺はそう言った。 彼女とよりを戻すかどうかは、俺の関知するところじゃない。 それは智が決めること。 ただ…俺は…。 気がついたら俺はカードキーを差していた。 僅かに重いドアのロックが外れる音。 俺は彼女を置き去りにして、ドアをくぐり、後ろ手に閉めた。 二機あるエレベーターのうち、一機が待機していた。 迷わずそれに乗り、迷わずに『1』と書いたパネルに触れる。 僅か数秒で、俺はエントランスホールに立つ。 そして走り出た先には…。 智…! きっとバイクをおいてきたのだろう。 俺もよく知るバイク屋のにーちゃんにタンデムさせてもらって、智が戻ってきた。 「直?」 智がバイクを降り、メットを外して目を丸くしている。 「どうした?」 「や、まりちゃん、元気か?」 バイク屋のにーちゃんが、脳天気に声を掛けてくれた。 「ね、俺んちまで送って」 俺はにーちゃんにそう言った。甘えるように。 ここから俺のうちまでは遠い。なんてったって電車で2時間だ。ちょっとそこまで…なんて距離じゃないのは重々承知だけれど。 俺はメットを被った。 「直? どうしたんだよっ」 智が俺の肩を掴む。 俺は、絶対泣くもんかと決めていた。 だから、思いっきり…。 「智のばかやろうっ!!」 叫んでやった。 「な…お…」 呆然としている智に、俺は今度は低い声で告げた。 「実家に帰らせていただきますっ」 |
☆★☆ |
なんなんだ、いったい…。 ほんの30分ほどの間に何があったって言うんだ。 俺が帰ってみると、直は目を真っ赤にして俺を睨んできた。 そして、理由も言わずに行ってしまった。 冗談じゃない! 今夜から楽しい新婚生活だってのに。 直…、顔は怒っていたけれど、目は泣いていた。 あんな顔をするときの直は、自分の中に一人で悲しみを抱えているとき…。 ええい、ウジウジ考えていてもしようがない。 俺はとりあえず着替えて、直を追いかけることにした。 バイクは修理に出してしまったから、電車で行くしかない。 一人で戻った二人の家(あ、親父もたまにいるか)。 ドアを開けると…。 どうして電気がついてるんだ? 親父は昨日、先にチェックアウトして、そのままアメリカへ飛んだはずだ。 足早に飛び込んだリビングで俺が見た物は…。 「君…だれ?」 直には遠く及ばないが、そこそこ可愛い女の子がにこやかに座っていた。 「お帰りなさい、智雪さん」 思いっきりリラックスして座ってるあんたは…。 「どうやって入ったの?」 どう見ても泥棒の類じゃなさそうだし。 「管理人さんにね、『妹です』って言って開けてもらったの。約束してたんだけど、まだ帰ってないみたいだからって」 あのボンクラ管理人め…。無茶苦茶だな。泥棒が『弟です』って言ったら入れるのかよっ。 「私、嘘なんかついてないわよ」 俺の表情を読んだのか、女は先手を打つように言った。 「私は成田さなえ。あなたの妹よ」 …はっ、ばっかばかしい…。 「なに、それ。親父の隠し子とでも言いたいの?」 そう口にしてから、『あり得ない話じゃないな』と思ってしまう俺って、かなり可哀相じゃないか。 「う〜ん、残念ながら、私、あなたのお父さんは知らないわ。いい印象は持ってないけどね」 「…もういいよ。悪いけど俺、忙しいんだ。あんたみたいな訳のわかんない人につき合ってるヒマ、ないんだよ」 そう、俺は直を迎えに行かなくちゃならないんだ。 何が何でも今夜中に連れ戻してやるっ。 俺はリビングのドアを大きく開け放つ。 「帰ってくれる?」 すると、女はニコリと笑った。 「直さんを迎えにいく?」 俺は、言葉をなくした。 「可愛い奥様は、泣いて実家に帰っちゃった訳ね」 「あんた…」 口から漏れた言葉は絶対零度の冷ややかさ。 そうか、俺がいない間に直にちょっかいかけたのはこいつか…。 「直に何をしたっ!」 |
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