「桜色の風吹くとき」



 


 一瞬、ここは何処だっただろうかと思った。

 僕が真新しい制服で初めて踏み込んだ、明るい教室。



 僕は今日、中学生になった。

 お父さんは、僕を自分の母校に入れたかったらしいんだけど、僕の家からその学校は遠くて、校則で寮に入らなくてはいけないことになる。

 それをお母さんが大反対した。
 ただでさえ、お父さんがほとんど家に帰ってこないのに、この上僕まで取り上げないでくれって、泣いて怒ったんだ。

 僕は別にどちらでも良かったんだけど…。
 ううん、寮の方がよかったかもしれない。
 毎日、飽きもせずにお母さんが並べ立てる、お父さんの悪口を聞かなくて済むんだから。
 



 今日、僕が袖を通した制服は、県下でも名門って言われる大学の付属で、中高一貫教育の男子校のもの。
 ここはお母さんのお兄さん、つまり、僕の叔父さんの母校だ。

 家の最寄りの駅から1時間、ちょっと遠いと思うけど、もっと遠いところから通ってる子もいるそうだから、大きな声では言えない。



 入学式を終えて、上級生の案内で入った1年2組の教室。
 3階にあるんだけど、窓の外は一面の桜…。

 同じ小学校から上がって来た友達がいない僕は、一人、それぞれの机の上に載せられている名札を探した。

 でも、僕だけでなく、ほとんどの子が知り合いを持っていないようで、同じように、みんな静かに机の上を探している。

 ほんの少し会話が聞こえるのは、きっと同じ小学校から上がってきた者同士なんだろう。
 とても遠慮がちに、会話を交わしている。
 それほどまでに、静かな教室。



 僕の席は、一番廊下側の前から4番目だった。
 白いプラスティックの名札には、学年とクラス、名前が書いてある。
 これは、校内でだけ付けるものだっていう説明があった。
 校外では、校章と学年章だけでいいんだって。

 僕は自分の席に座り、名札を付けた。
 その時、急に風が通った。
 誰かが窓を開けたんだろう。
 ふわっと何かが薫った。

 窓の外には桜。
 でも、桜は匂わないんじゃないかな…。

 その桜を背景にして、一人の子が座っていた。
 一番窓際の、一番前。


 一瞬、ここは何処だっただろうかと思った。


 制服が不似合いに大きいその子は、真っ白な肌に朱い唇。
 影が出来るほど長い睫が伏せられている。

 名札を付けようとしているその子は、不器用なのか、なかなか手元が上手くいかないようだった。
 小さな手で、一生懸命に、ピンを刺している。
 何度も、何度もやり直す。

 後ろの席に座った子が、ほんのちょっとの躊躇いの後に声をかけ、その子の名札に手を伸ばす。

 決まった位置にきちっと納まった名札を、その子は嬉しそうに撫で、顔を上げて微笑んだ。
 声は聞こえなかったけど、口元は『ありがとう』と言っていた。



 ここは何処だっただろう。



 僕は…女の子がいるのかと思ったんだ…。

 

 やがて担任の先生が来て、自己紹介が始まった。
 僕は、自分の番ではなく、その子の番が来たときに胸がドキドキしたので、びっくりした。
 僕の身体の中から聞こえる心臓の音がうるさくて、困った。

 だって、僕は一生懸命に、その子の声を…その子の名前を知ろうとしているのだから。


「…た……お、です…」

 消え入りそうな声だった。


 俯いてしまっているので、余計に声は届かない。
 風だけが僕のところまで流れてくる。
 

 ああ、あの子の名前はなんて言うんだろう。
 

 教科書を取りに、一人ずつ先生のところへ行ったとき、僕は横目でその子の名札を見ようと、ほんの少し、身体を捩った。

 白いプレートに、くっきりと黒い文字。
 僕と同じ『1年2組』の下には…。

 あれは…何て読むんだろう。
 苗字はたぶん、わかるけど、下の名前は…。

 そのまま読んでいいのかな…。
 小学校の同級生に、同じ字で『ただし』って言う子がいたけれど…。

 僕はほんの少し、目を上げた。
 真っ黒の大きな瞳とぶつかった。
 また、僕の胸が大きな音をたてる。

 けれど、僕より先に、その子は困ったように視線を落としてしまった。
 


 新しいカバンに新しい教科書を詰めて、みんながそれぞれ、お父さんやお母さんと帰っていく。
 僕のお母さんは、途中で気分が悪くなったらしく、先に帰ったって、担任の先生から聞いた。


「お母さん、ほら、これ綺麗」

 唄うように、風に乗って流れてきた声。
 あの子が、桜の小さな花弁を、隣にいる女の人…お母さんだろう…の、髪に乗せている。

 ぴょん…と跳ねると、あの子の身体は、大きめに作られた制服の中で泳いでいるようだ。

 二人は楽しそうに笑い声を上げながら、正門を出ていった。




 次の日、僕は駅のホームで、あの子にあった。

 この路線はそんなに混む路線ではないから、人もめちゃくちゃ多い訳じゃない。
 だから見つけることが出来たんだろうか、あの小さな身体を。

 あの子はベンチにへたり込んでいた。

「大丈夫?」

 声をかけてしまった。

「あ…」

 またぶつかった、大きな黒い瞳。
 けれど今度はそれが逸らされることはなかった。

「う、ん。大丈夫」

 ちょっと顔色が悪そうだった。

「カバン持ってあげるよ」

 僕はそう言って、返事を待たずにその子のカバンを取り上げた。

「あ、でも」
「いいから」

 学校指定のカバンは、空っぽでも結構重い。
 僕は年の割には大きい方で、ずっとテニスをしてたから腕の力も付いていて、重いものは結構平気なんだけど、年の割にはずっと小さいこの子には、このカバンはキツイと思う。

「さ、行こう」

 僕が先に立つと、ちゃんと後ろをついてきた。
 それが何だか嬉しくて。 

「僕、同じクラスなんだけど」

 駅から学校までは5分ほど。
 話しかけた僕に、この子はニコッと笑った。

「うん、知ってる」

 それも…すごく嬉しかった。
 僕は、この子の歩調に合わせてゆっくりと歩く。
 この子は、僕に追いつこうと一生懸命歩く。
 


 いつの間にか、僕たちは綺麗に並んで歩いていた。
 正門の桜が、頭の上から花びらのシャワーを降らせてくる。

「綺麗だね」

 この子は、昨日と同じように、唄うように、そう口にした。



「ね、君の下の名前、何て読むの?」

 僕が見おろした先で、小さな可愛い男の子は、両手を広げて、降り注ぐ桜色の風を全身に受けていた。 



「僕は…なお。直っていうの」



 君の名前は直。
 それは、素直の…なお…。



END

智クンの可愛い想い出話…二人の出会いの物語はいかがでしたか?
智クンが、みんなと同じように、直を「まりちゃん」と愛称で呼ばないワケ…
それは、智くんの「直」と言う名前に対する思い入れもあったのかもしれませんね。
まりちゃんのお話は、これから先もシリアスになることはありません。
(番外で遊ばせていただくことはあるかもしれませんが…)
この先大学生になって、ちょっぴり大人の世界へ踏み出しても、彼らはきっと、
元気良く歩いていくことでしょう。
だって、「ずっと二人で歩いていこう」って誓ったんですものねv

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