「H・M氏の優雅な出張」

前編

「恋・爛漫」とリンクしてます〜〜)





 H・M氏は49歳。身長179cm、体重70kg。ごく一般的な男前。
 今をときめく情報産業関連企業の創始者にしてワンマン会長。
 念願叶って、一人息子と可愛い嫁との3人暮らし。
 ただいま幸せまっただ中。

 

 「面倒なことだ…」
 初夏のある日、H・M氏はネクタイを結びながら、一人ため息をつく。
 

 一時は減らしていた海外出張も、事業の拡大によってまた増えてきた。
 本当なら、家にいて、可愛い嫁とゴロゴロ遊びたいところなのだが…。

 今忙しいのもすべて、息子と嫁により良いものを残してやりたいが為のこと。

 昨夜5日ぶりに日本へ戻ったのはやはり深夜。
 その時、息子と嫁は、すでに仲良く夢の中。

 嫁の『お帰りなさい』が聞きたかったが、起こすのも忍びなく、せめて可愛い寝顔の一つでもと思ったが、どうせ息子ががっちりと抱き込んでいるに決まっていて、H・M氏は一人寂しくシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。


 そして朝。
 目覚めるともうすでに二人の気配はない。
 ダイニングテーブルの上には置き手紙。

『大学に行ってきます』

 息子の筆跡で、たった一言だ。
 しかし、その横にはもう一枚のメモ。

『お帰りなさい。サラダは冷蔵庫です。京都はもう暑いらしいです。気をつけていってらっしゃい』

 筆跡は、嫁のものだ。
 知らず顔の筋肉が緩む。

 優しいと評判の子だったが、身近に暮らしてみると、評判通り、いや、それ以上であることがよくわかった。
 本人は何もできないことを気に病んでいる様子で、一生懸命に息子の手伝いをしている。

 しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
 あの子は、その存在だけで周囲を癒してしまう。 

(さすが我が息子。相手を選ぶ目は私に似て確かだったようだな…)


 …H・M氏、自分が「バツイチ」であることは棚に上げているようだ。


 息子と嫁…戸籍上はどちらも自分の息子なのだが…彼らは今、大学の経営学部へ通っている。

 経営オンチだった自分の父親の助けになれば…と、その道を選んだ嫁と、それを追った息子。
 しかし、いつか、自分が本当に向いている世界をそれぞれに見つけるだろう。 

 それをずっと見守っていく幸せ…。
 H・M氏はまたしもだらしなく頬の筋肉を緩めてしまう。

 そして、息子と嫁が用意してくれた朝食をしっかりと平らげ、食器を食器洗い機に放り込むと(使い方などまったく知らなかったのだが、嫁に『お父さんもこれくらい出来なきゃダメ』と言われて操作を覚えたのである)、H・M氏はだるそうな手つきで支度を始めたのである。



「面倒だな…」

 またため息が出る。
 今日から3日間、京都へ出掛けねばならない。
 ネクタイをしっかり結んだところで、インターホンがなる。

「やれやれ、相変わらず時間厳守なやつめ」
 

 迎えに現れたのは第2秘書の長岡淳。
 入社と同時に秘書室に入り、あっと言う間に第2秘書まで昇ってきた弱冠28才である。

 自分が留守をするときは、第1秘書の小倉和彦はたいがい本社に残している。
 だから、常について歩くのはこの第2秘書の淳なのである。

 マンション前ではすでに、運転手が一礼してドアを開けて立っていた。

 その前にはすっきりと細身のスーツを着こなした第2秘書。

 身長はかなりある方なのだが、可愛らしい系の顔が災いして20代前半に見えてしまう。
 それは本人も気にしているようなのだが。

「おはようございます。会長」
「ああ、おはよう…」

 後部座席にするりと乗り込むと、淳も反対側からH・M氏の右に乗り込んでくる。

 他にお客のいないときはこのポジションで座ることになっている。
 助手席に座られると話がしにくいからだ。

 車は音もなく走り出す。

「お疲れが取れていらっしゃらないご様子ですが…」

 かけられた声に、当たり前だろう…と言いたくなるのをグッと飲み込むH・M氏。

「新幹線は個室をとっておりますので、京都まではゆっくりお休みいただけますが」

 淡々と話す淳に、この疲労感が、たかだか2〜3時間で抜けるものかと珍しく心中で悪態をつくH・M氏。

「それはいいが…。だいたいどうして私が行かねばならんのだ」
「…まだおっしゃってるのですか?会長もいい加減往生際が悪いですね」

 この第2秘書は平気で会長にこういう口をきく。
 もちろん二人だけの時だが。

「仕方がないじゃありませんか。笠永助教授には、うちも特許の関係でお世話になっているのですから」
「はぁぁ〜」
「大げさにため息をついてもダメです」

 チラッと冷たい視線を投げてくる。

「ふん。こうなったら、せっかくの京都だ。まりちゃんに可愛い着物でも買って帰るかな…」
「そうですね。まりちゃんなら朱色がいいと思いますよ」

 今までの仏頂面は何処へやら。
 とたんに破顔して嬉しそうに話し出した淳に、H・M氏は眉を寄せる。

「おいっ、どうしてお前がまりちゃんの着物の色を決めるんだ」
「いいじゃないですか。私たちは大の仲良しなんですから」

 …そうなのだ。

 嫁を迎えた時の、ごくごく内輪の食事会の席上、なぜかこの第2秘書と嫁は意気投合してしまったのだ。

「まりちゃんは智雪の嫁だからなっ」

 鼻息も荒く、力説するH・M氏を、淳は慣れた様子でサラッと受け止める。

「わかってますよ。心配しなくても、私は智雪くんとだって仲良しですから。それに、だいたい私に釘を刺すよりは、ご自分に釘を刺しておいた方がいいんじゃないですか?」

「…どういうことだ」

 聞き捨てならんとばかりに、H・M氏の目が細められる。

「まりちゃんを見る目つきは、会長が一番アブナイですから」

 ニッと淳が笑ってみせると、H・M氏も負けじと
「いい年をして、十も年下の子にヤキモチ焼くな」と、煽るように返す。

「会長っ」
「ふんっ」

 H・M氏はそれこそいい年をして、拗ねた子供のように口を尖らせると、

「京都についたら起こせ」

 そう言って目を閉じた。

「無茶言わないで下さい。このまま車で行くんじゃないんですから。駅に着いたら、新幹線までは自力で歩いて下さいよ」

 目を閉じたH・M氏からは精悍な表情がスッと消え、実年齢よりずっと若い顔になる。

 ダンディで隙のない身のこなし。
 海外の社交界でも、そつなく渡り歩くH・M氏のこんな素顔を知っているのは自分だけ?

 もしかすると、第1秘書の和彦ですら知らないかもしれない…そう思うと、淳はふんわりと柔らかい笑顔になった。

 そう、自分はこの人に憧れて、この人を追いかけて、MAJECに入ったのだから…。



 
☆.。.:*・゜



 H・M氏の京都入りの目的は、とある大学の記念講演に招聘されたためであった。

 講演は京都入りの翌日。
 わずか1時間半の講演の為に、2泊3日のスケジュールが組まれている。
 これもみな、余計なお世話の『接待』のおかげだ。



「前田会長!」

 新幹線のホームで待ち受けていたのは笠永助教授と見知らぬ二人の青年だった。

「ご無沙汰しています」

 握手を交わす笠永助教授はまだ30才。
 しかし、電子工学の1分野ですでに国内外に名を馳せている研究者である。

「やあ、長岡くんも元気そうだね」
「はい、おかげさまで。この度はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、会長はお忙しいと知りながら、無理なお願いをして申しわけありませんでした」

 しかし、その時すでに、H・M氏には二人の会話は耳に入っていなかった。

(これは可愛いぞ…。スーツなんぞ着ているが、学生か…?)

 ターゲットは目の前の青年。
 2人の内の…そう、1人。
 もう1人の青年は、かなり綺麗な子ではあるが、はっきり言って好みではない。

「会長、長岡くん。これはうちの弟で、行範といいます。私の研究室の学生でもあります」

 綺麗な子の方がまず紹介された。

(弟だったのか…似てないな)

「初めまして、笠永行範です。兄がいつもお世話になっています」

 握手を交わすと、ひんやりとした細い指が意外に力強いことに気づく。
 

 H・M氏、なんとなく同類の匂いをかぎ分けているようだ…。


 弟君と挨拶を交わすと、ついにターゲットが紹介された。

「そして、こちらの可愛らしい彼は…」

 助教授がそう言うと、言われた本人と、何故か弟君までがジロッと睨み上げた。
 しかし、そんな視線に慣れているのか、助教授はおかまいなしに続ける。

「海塚千里くん。私たちの友人なのですがJOTツアーの社員さんなんですよ。で、今回の京都旅行を会長に楽しんでいただくに当たって、彼にいろいろと世話になろうと思っています」

「初めまして。JOTツアーの海塚と申します。京都でのご滞在を快適にお過ごしいただけますようお手伝いさせていただきます」

 スッと差し出される名刺。

「そう。君がお世話してくれるんだね」


 H・M氏、名刺を受け取るはずが、何故だか名刺ごと手を握っている。 


「あ、あのっ…」

 狼狽える様子も初々しくて可愛い。 

「楽しくなりそうだね。京都の旅は」


 H・M氏、いきなり観光モードに突入か。


 弟君が湯気を噴き、第2秘書が呆れていることなど何処吹く風のH・M氏である。





「うわ〜、可愛いですね」
「そうだろう?まりちゃんっていってね。まだ18才なんだよ」

 移動のリムジンの中、H・M氏はちゃっかりと隣に『海塚くん』をはべらせて、背広の内ポケットから取りだした『秘蔵のポケットアルバム』を披露している。

 その中身は、まりちゃんを見初めるきっかけになった『犬ころと戯れるまりちゃん』に始まり、『振り袖まりちゃん』『白無垢まりちゃん』『ピ○クハ○スまりちゃん』『メイドのまりちゃん』などの豪華ラインナップだ。

「まりちゃんに着物を買って帰ろうと思うんだが、海塚くん、見立ててくれるかな?」
「え?私がですか?」

(ふふっ、可愛い)

 目を丸くしたところなど、とても社会人には見えない。
 ヘタをすれば我が子と同じくらいに見える。

「生憎、私にはそう言うセンスは…」
「モデルになってくれればいいんだよ」
「は?はぃぃ?」

 さらに目を丸くした『海塚くん』はそのまま固まってしまった。

「会長。悪ふざけが過ぎますよ。海塚くん怯えてるじゃないですか。可哀相に」

 淳が心底気の毒そうに声をかけるが、『海塚くん』は怯えているのではない、思考が麻痺しているだけである。

「悪ふざけなものか。それとも何か?お前、変わりにモデルやってくれるのか?」

「どうしてそうなるんですかっ」

「心配するな、誰もお前に朱色の振り袖をきせようなどと思わん」

「当たり前ですっ」


 笠永助教授はその会話を聞いて笑いをかみ殺し、弟君はニジニジと『海塚くん』との間合いを縮める。

 どうやら、かなりの危機感を持っているらしい。

 そして、渦中の『海塚くん』はというと、ブラウン管や雑誌でしか見たことのない経済界の雄、立志伝中の傑物『前田春之氏』と、その若く有能な第2秘書との間で当たり前のように交わされているあまりにもおバカな会話に呆然と我を見失っている。


「おや?かわいい海塚くんはどうしたのかな?」

 サワッと頬を撫でられて、初めて我に返る。

「あああ、あのっ」
「今夜はつき合ってくれるんだろう?」
「は?」

 意味の中心を捉えかねて『海塚くん』はまたもあんぐりと口を開ける。
 隣で噴火しているのは弟君だ。

「会長、今夜は祇園にご案内しますよ。とてもいい舞妓がいましてね。楽しんでいただけると思います」

 呆けている『海塚くん』に助教授が助け船を出す。

「そ、そうなんですっ。今、祇園のナンバーワン売れっ妓がお待ちしていますのでっ」

「ふふっ。では今夜は御茶屋で飲み明かそう」


 ニタッと笑いつつ、H・M氏は『海塚くん』の肩を抱き寄せた。 

「会長っ」

 第2秘書の低い声にH・M氏は小さく舌打ちをする。

「ったく…。淳がいると遊べやしない…」
「何かおっしゃいましたかっ」
「べ〜つ〜に〜」


 H・M氏、開き直ったようである。




「後編」へつ・づ・く



ちさとの運命やいかに(笑)