「H・M氏の優雅な出張」

後編





 夜、祇園の街は賑やかだ。

 不況とはいえ、やはりここは京都一の歓楽街。
 人出も活気もやはり、ある。

 H・M氏一行は、そんな祇園の中でも最も格式の高い御茶屋の、一番いい座敷でとぐろを巻いていた。

 一行…とは言っても、今はH・M氏本人と、第2秘書、そして『海塚くん』の三人である。

 助教授と、その研究室の学生である弟君は、明日の講演会準備のために大学へ戻らざるを得なかった。

 特に、弟君が『海塚くん』を残していくにあたり、淳に瞳で『よろしくお願いします』と訴えていたのが印象的だったのだが。





 さて、今夜呼んでいるという一番の売れっ妓は、あちらこちらを飛び回っているらしくなかなか現れない。

 その代わり、年季の入った年かさの芸妓が三味線を弾いている。
 四十代の様だが、やはり垢抜けて粋な感じがするのはやはり、この世界で生きている所以か。

 相変わらず、H・M氏は『海塚くん』を離そうとしない。
 第2秘書は、そんな気の毒な『生贄の子羊』を慰めようと、ことさら会話を『海塚くん』に向けていた。

 やがて…。

「遅うなってすんまへん」

 はんなりとした京都弁が襖の向こうから聞こえてきた。

 言葉の終わりに音もなく襖が開き、鶯色の地に黄色い花を散らした振り袖を着て、真っ赤な地に金糸をちりばめた『だらりの帯』の舞妓が現れた。

 舞妓は座敷に入るとまず、三味線を弾いていた姐さん芸妓に声をかける。

「お姐さん、おおきに。よろしゅうおたの申します」

 そして、それから漸くお客に三つ指をつき、頭を下げ、挨拶をするのだ。

「おおきに。こんばんは」



 何よりも『お姐さん』優先。

 これは『祇園の常識』で、これを知らずに『無礼だ』などと怒ったりすると、もう『祇園』では上客扱いはしてもらえない。

 その点どうだろうかと、抱きかかえられたままの『海塚くん』はちょっとだけ冷静になった頭でH・M氏を伺う。

 彼は世界中を飛び回っていると言う。
 すると、かえってこんな古風な遊びは知らないのではないか。

 実際、『海塚くん』もこの業界に入ったばかりの頃はこのしきたりに大層面食らったが、やはりお偉方になるほどこの場面で怒る人が多いのだ。

 しかし、その杞憂をよそに、H・M氏も淳も、可愛い舞妓を前にして上機嫌だ。



 舞妓は座敷に呼ばれると、まず踊りを披露する。
 お茶屋遊びの常連でない客の場合は、たいがいお決まりの『祇園小唄』だ。

 姐さん芸妓の三味線に合わせ、金屏風の前で艶やかに舞い、そして優雅に手をつき頭を下げる。

 そして、H・M氏は慣れたタイミングで踊り終えた舞妓を呼んだ。

「こっちへおいで」
「へえ。おおきに」

 綺麗に裾をさばくと、音もなく近寄ってくる。
 示された先は、当然H・M氏の隣。
 『海塚くん』の反対側だ。


 H・M氏、両手に花とはこの事か。


「失礼します」 

 そっと腰を下した舞妓は、瞬間『海塚くん』に視線を走らせた。
 H・M氏を挟んで二人の視線が絡み合う。

 片方の視線は『助けて〜』と訴え、もう片方は『や〜ね〜、あっさりと掴まっちゃって』と笑っていることに、その場の誰も…恐らく…気付いてはいない。 

「君は何て名前かな?」

 本来なら、『海塚くん』が取り持たねばならないその会話なのだが、いかんせん『海塚くん』は今や完全にH・M氏のかごの鳥だ。

 H・M氏が声をかけると、菊千代はにこっと笑って懐から名刺をとりだした。

 舞妓の名刺は『花名刺』。
 切手を縦に二枚繋いだほどの大きさで、艶やかな花模様に囲まれている。

 そして、その真ん中には『ぎをん 菊千代』とある。

「菊千代ちゃんか」
「へぇ、菊千代いいます。よろしゅうおたの申します」
「可愛いね」

 花名刺を受け渡しする指先が偶然なのか、触れる。

 
 H・M氏、無節操全開か。

 しかし。

「おおきに。会長さんかて、素敵やわぁ」
 

 菊千代、こんな誉め言葉はお手の物である。


「海塚くんもいいけれど、菊千代ちゃんもいいねぇ。今夜は楽しくなりそうだ」
 

 H・M氏、もしかして秘書が邪魔?


「そやかて、ちさとちゃんの方が、会長さんの隣、お似合いやわぁ」


 菊千代、まさか二人の仲を取り持つ気か。


「菊千代ちゃんっ、ちさと、いうなっ」
「え?海塚くん、そんな名前だったっけ?」

 確か、彼は「うみづかゆきのり」と自己紹介したはずだ。

 H・M氏、可愛い子の名前は絶対に忘れない。
 それは物心ついた頃からの特技だ。
 幼稚園で隣の席だった可愛い男の子の名前だって、今だにしっかりと覚えている。


「ち、違いますっ、『ちさと』と書いて『ゆきのり』と読むんですっ」

 腕の中でジタバタと暴れる『海塚くん』。

「そうか、ちさとちゃんか。うん、可愛い名前だ」
 

 H・M氏、人の話を聞かないのも子供の頃からの特技だ。


「ところで菊千代ちゃん、お願いがあるんだが」
「へえ、なんどすやろ?」
「この子に着物を見立ててやって欲しいんだが」
 

 H・M氏、秘蔵のポケアル、ご開帳だ。


「いやぁ…。めちゃめちゃ可愛いわぁ」

 菊千代ほどの舞妓でさえ、感嘆の声をあげるのは、目に入れても痛くないほど可愛い嫁。
 どのページをめくっても、これでもかと言わんばかりの美少女画像が満載だ。

「そ、そうだろ?菊千代ちゃんっ。めっちゃ可愛いだろっ。会長さんの息子さんのお嫁さんだってっ」


『海塚くん』、会長の意識を自分から反らせようと必死である。


「お嫁さん?いやあ、幼妻どすなぁ」
 菊千代はクネッと身体をしならせる。

「いや、こう見えてももう18なんだよ」
 H・M氏はチッチッチと指を振る。
 もしや、彼の『幼妻』とは15歳くらいをいうのだろうか。
 はっきり言ってそれは犯罪である。

「え?18どすか?15くらいに見えましたわぁ。うちより一つ年上なんやぁ」

 ちなみに日本の民法では15歳は結婚年齢ではない。


「この子…まりちゃんって言うんだがね、これがまた、着物の似合う子なんだ。だからせっかく京都へきたのだから、一つ振り袖でも新調してやろうと思ってね」

 H・M氏が説明すると、菊千代はしっかりと頷いた。

「わかりますぅ。お嫁さん…まりちゃんて、肩幅も小さいし、小顔やし…。
 それに女の子と違うて、男の子は胸とかお尻があらへんさかい、着せる人が上手かったらすっきりしたシルエットになって女の子より綺麗になるんどす」



 一瞬座敷が静まり返る。



「菊千代ちゃん…」
 まず呟いたのはH・M氏。

「すごい…」
 次に呟いたのは、ことの成り行きを見守っていた淳。

「まりちゃん、うっとりするほどの美少年どすなぁ」


 菊千代、だてに祇園で生きてはいないようだ。


「菊千代ちゃんっ、君とは親友づきあいが出来そうだよっ」
 

 H・M氏、遠い京都で同好の士を見つけたか。


「うち、生まれたときからこのタイプの男の子が側におりましたさかい、美少年にはうるさいんどす」

 菊千代の華奢な白い手をしっかと握ると、菊千代もまた握り返し、ニッコリと笑って頷いた。





 こうして、千年の都の格式高い御茶屋にて、世界に冠たる巨大企業の会長と、ナンバーワン売れっ妓の奇妙な『年の差』友情が芽生えたわけだが、ここに忘れられたカワイコちゃんが一人…。



「あ。海塚くん、寝てますよ」
 淳が言う。

「いややわぁ、ちさとちゃんったら。お仕事中やていうのに」
 菊千代がコロコロと笑う。

「今日はがんばってくれたからね、疲れがでたんだろう。このまま休ませて置いてあげよう」


 H・M氏、カワイコちゃんには猛烈に優しい。


「目が覚めなかったら、私の部屋に泊めればいいことだし」



『海塚くん』、失神している場合じゃないようだ。
 貞操の危機は確実に近づいている。






 そして、後日。
 宅急便で仰々しく届けられた『おみやげ』の大きな箱を開いて、ため息をつく人間が約1名。

「京都へ行くって聞いたときから、なんとなくイヤな予感はしてたんだけどな、俺…」

 祇園ナンバーワン舞妓の見立てである、朱色の振り袖を広げて肩を落とすのは、嫁のまりちゃん、18才であった。



END



さらに、ちさとの運命やいかに(笑)

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*企画当時のクイズがこちらにあります。
記載内容は一部無効になっていますが、遊んでみて下さい(*^_^*)