「I Love まりちゃん」外伝

憧れの33階
〜前編〜





「よっし!」

 気合い一発。
 先月大学を卒業して今日、めでたく新社会人になった長岡淳は、スレンダーな身体をまだ馴染まないスーツに包み、ノッポなビルを見上げた。

 見上げる顔はちょっと可愛い系。
 身長はある方なのだが、その容貌のせいかまったく社会人には見えない。

 しかしそれでも今日から社会人。

 この、国内でも『超』がつく一流企業ばかりが集まるこのビルが、今日から淳の職場になるのだ。

 踏み込んだ広いエントランスは淳のようにぎこちなくスーツを着た若者で溢れている。

 今日はどの社も一斉に入社式だ。
 当然エレベーターホールもいつにない混雑を見せている。 

「えっと…」

 どうにかエレベーターに乗り込んだ淳は、無理やり手を伸ばして30階のボタンを押す。

 その瞬間集まる羨望の視線。

 そう、この30階から33階が、今日、淳が入社する『MAJEC』の本社なのだ。

 『MAJEC』の今年度の採用試験は熾烈を極めた。

 採用予定人数は最初から明らかにされなかったのだが、結局技術部門の中枢である研究所に10名が採用になり、経営の中枢である本社採用は僅か二人に留まったのだ。

 その一人が淳。
 当然エレベーター内の視線は熱い。

 しかし、淳にとってそんな視線は取るに足らない。
 これからが自分にとっての闘いなのだ。

 たった二人の本社採用。
 もう一人は大学院卒と聞いている。しかも東大だ。

 いったいどんなヤツなのか…。
 ともかく負けてはいられない。
 必死でここまでやってきたのだ。

 どうしても入社したかった憧れの会社『MAJEC』。
 恐らく自分の持つ超強力なコネを使えば難なく入れたのかも知れない。

 だが、それをしても、きっとあの人には認めてもらえないだろう。

 自分の目標は『入社』がゴールではない。

 目指すは33階。
『MAJEC』の心臓部……秘書室だ。

 そこで、憧れて止まなかった『あの人』の側で働く。
 それが自分の子供の頃からの夢。

 その為には『あの人』に認めてもらわねばならない。
 だから実力で入社して、実力で30階から33階を目指す。
 

 30階でただ一人エレベーターを降りた淳は、静寂に包まれるMAJECへと一歩を踏み出した。
 








「会長!お待ちくださいっ、会長!!」

 MAJECの33階。

 それも、三重のチェックをクリアして漸くたどり着けるという扉の前で、普段はどちらかというと寡黙である長身の青年が、珍しく声を大きくしていた。

 この青年。最後の一年とは言え、まだ20代。
 だがしかし、やけに落ち着いた色合いのスーツを難なく着こなし、『会長』に真正面から対峙している。

 しかし、一代で『MAJEC』を起業し、世界的企業に育て上げた経済界の怪人は、その真っ直ぐな瞳もものともしない。

「やだね。だいたいどうして私が入社式ごときに顔を出さねばならん?そんなもの、あのボンクラ社長にやらせておけばいいんだ」

 言い捨てて踵を返す。

「しかし…」

 だが、なおも言い募ろうとする若い社員に『会長』はもう一度真正面を向いた。
 そしてグッと詰め寄る。

「だいたい、あいつにはその程度のことしかできんのだから、せっかくの仕事を取り上げることもないだろう?やらせてやれ」

 あいつというのは『ボンクラ社長』のことのようだ。

「そのお言葉は社長に失礼ですよ」

 口調は咎める言い方に変わったが、だが会長も負けてはいない。

「ほー。お前がそれを言うか?あのボンクラを社長に据えているおかげでお前が自由に動けるんだってこと忘れるなよ」
「それは…」

 珍しくも続く言葉のでない青年に、会長は満足そうに微笑むともう一度踵を返した。

「ともかく私はフケるからなっ」
「どちらへ行かれるんですか?」
「さあね。ともかく私は入社式なんぞにつき合う気はさらさらないぞ」

 いつまでもここにいてはろくなことがないと言わんばかりに、会長は大きなストライドで廊下を行く。

 チェックゲートのすべてで警備員や女性社員の最敬礼を受け、やがてエレベーターホールへ来たのだが…。


「なんだ?ちっともエレベーターが来ないぞ」

 ボタンは、どれか一つを押すだけで、もっとも近くにいるエレベーターをすぐに呼ぶはずだ。
 いつもならそう待たされることはない。

「今日はどこも入社式ですから、今の時間エレベーターは混雑を極めている頃です」

 ずっと後ろに従ってきた青年の……諦めたのか……先ほどとはうって変わった落ち着いた声に、会長はムスッとふくれてから、まるで当然の事のように言い放つ。

「8つもあるんだ。どれか一つ、MAJEC専用にしてもらえ」
「またそんな無茶を…」

 言外に『いい加減にして下さいよ』といったニュアンスが見え隠れしている。
 もちろん、わかるように言っているのだが…。

「ああっ、もう、鬱陶しいっ、階段で下りるぞっ」
「ここから1階まで?」

 ここは33階だ。

「当たり前だっ」

 引っ込みがつかないのか、会長はまたしても当然の事のように言う。

「そうですね、会長、最近運動不足ですからちょうどいいかもしれません」
「ふん」

 どう聞いても、どう間違っても、若手社員が仮にも『会長』と呼ばれる人物に掛ける物言いではないのだが、ここMAJECの代表取締役会長・前田春之は、まるで拗ねた子供のように口を尖らせるという反応を見せてから、非常階段へ向かった。

「ついてくるなよっ」

 重い扉を押し開けながら言うと、

「ついてなんか行きませんよ。私は忙しいんです。会長のお守りをしてるヒマなんてありませんから」

 などというとんでもない言葉が背中を追ってきた。

 そして、重い扉がその言葉を完全に遮ると、会長は『ふんっ』とまた一つ鼻を鳴らして軽い足取りで非常階段を降り始めた。
 









「長岡淳さんですね。お待ちしていました」

 その頃淳は、30階の受付で若い女性社員の熱い眼差しを受けていた。 

「あ、どうも…」

 言ってしまってからちょっと間抜けな受け答えだったかな…と反省してみる。

 仮にも秘書を目指そうと言う人間は、どんなときの受け答えも完璧であらねばならないのだが…。

「入社式は32階の第1会議室で行います。お手数ですが、そちらへお願いいたします」
「はい、わかりました。ありがとうございます」

 内心、今度ははきはきと答えられたな…と満足するのだが、この程度のこともできずにMAJECに…いや、どこであろうと入れるはずはない。

 普段の淳ならもっと冷静に物事を見ることができるはずなのだが、やはり憧れのフロアを目前にして、内心の高揚は押さえられないものがある。

「あの…」
「はい?」
「今日はエレベーターがとても混雑していますから、そちらの非常階段で上がられた方が早いと思います」

 にこやかに案内してくれる可愛い社員につられて淳も笑顔で返す。

「ありがとうございます」

 大学時代の担当教授が『淳にニコッと笑われて、不合格にできる面接官はいないだろうな』と密かに絶賛していた『一発必中』の笑顔だ。

 その笑顔に、当然受付嬢も一気に引きずり込まれたのだが、淳はそんな彼女の視線にもまったく気づかず、ほとんどスキップ状態で階段へ向かう。
 
 とりあえず、ワンフロアでも33階に近づけるのが嬉しくて仕方がなかった。






 誰もいない…………はずの非常階段。

 上からブツブツと声が降ってくる。

 自分と同じように、混雑したエレベーターを避けた社員がいるのかな?と思っていると、声は足音と共にだんだん近くなってきた。


「ふん。だいたい今年の採用が本社と研究所合わせて12人だってのが間違ってるんだ。200人300人と新入社員がいればその中からかわいこちゃんを捜す楽しみもあるだろうに、たったの12人じゃ知れてるに決まってる。和彦の少数精鋭主義も何とかしてほしいもんだ」

 どうやら思いっきり不満を垂れているらしいその声に、淳はどうしたものかと歩を止めた。

 そして、思わず見上げた先には…。

「あ…」

 高級そうなスーツに身を包んだその人は、けっして派手ではないのに、全身から威圧感一杯のオーラを放っている。

 え…? まさか…。どうしてこの人がこんなところに…。

 淳はその姿を目にして足を竦ませた。
 数段上で、『その人』も足を止めた。


「君は?」

 全身から放つオーラの強さとは裏腹に、眼差しがとても柔らかい。

「あ、あのっ、今日入社します、長岡淳といいますっ!」

 問われて答えた声は震えていなかっただろうか?
 思わず押さえてしまった喉は、やはり緊張しているのか、また一つ、大きく震えた。

 しかし、自分を見おろしてくる『その人』に、包み込むような温かさを感じ、淳はほんの少し緊張を解いた。

「本社採用かな?」
「はいっ、そうですっ!よろしくお願いしますっ!!」

 深々と頭を下げ、もう一度見上げると『その人』は満開の笑顔を見せていた。

「そうか。よし、私が第1会議室まで案内してあげよう」
「は?」

 言葉と同時にササッと数段を駆け下りてきた『その人』は、親しげに淳の肩を抱き寄せて再び階段を上がり始める。

 ど、どう言うことだぁ?

 淳は思わぬ展開に、狼狽えてしまう。
 まさか、天下のMAJEC代表取締役会長が、新入社員の案内などと…。  

 しかし、そんな淳の様子を気にも留めず…いや、実は反応をしっかり楽しんでいるのだが…会長・前田春之は、腕の中の獲物を引きずるように歩を進めていった。






 そして第1会議室の前。

「か、会長!」

『ボンクラ』というありがたくない称号を戴いている社長が、春之の姿を目に留めて、大きな声で呼んだ。

 その声で、社長の前に立っていた先刻の若い社員が振り返る。

「社長、お静かに」
「あ、ああ、すまない。小倉君」

 汗を拭きつつ答える社長に形ばかりの礼をして、小倉と呼ばれた青年は、春之の前に歩み寄ってきた。

「どうなさいました?やはり体力不足で階段を下りるのは断念されましたか?」

 からかうようなその口調に、淳は目を丸くする。

 目の前の青年は、どう見ても役員などの年齢には見えない。
 なのに、この口調、この態度はいったい…。

「やかましい。仕事熱心で新入社員を大切にする心優しい私が、迷える子羊をここまで案内してきたんだ」

 答える会長も会長だ。

 インタビューなどでみる『あの人』とはまるで別人のような口振り。
 まるっきり…そう…『子供』だ。

 春之の言葉に、青年がその腕の中の淳をジッと見つめてきた。
 目線は数センチ、上だ。

「君、本社採用の長岡淳くん…だね」
「あ、はいっ、そうですっ。よろしくお願いします!」

 どうして、一般社員に見えるこの青年が、自分の事を一目で『長岡淳』と認識したのか、今の淳には知る由もなかったが、ともかく先輩社員に変わりはない。

 しかし元気よく挨拶をした淳を、青年はクスッと鼻で笑ってのけた。

「初日から迷ったんだ」

 はい〜?
 僕…迷ってませんけど!

 だが、淳の内心の叫びも届こうはずがない。

 少し頬を紅くした淳に、青年・小倉和彦はからかうように続く言葉を投げた。

「いきなり会長のエスコートとは、ね」
「な…っ」

 相手の立場をしらない淳は、勢いに任せて思わず半歩踏みだした。

 しかしそれをとどめたのは、肩を抱く春之の力強い掌と、そして、後ろからかけられた溌剌とした女性の声だった。

「おはようございます。本日入社させていただきます、甘木春奈と申します」

 振り返った先には、長身の、あろうことか入社式からいきなりスレンダーなパンツスーツという出で立ちの、まるで『王子さま』のような『女性』がポーズを決めて立っていた。

「ああ、甘木君だね、おはよう」

 和彦は友達に接するような口調でそう言うと、また淳の方を向いて、今度は冷静な顔で言った。

「長岡君、こちらが本社では君の唯一の同期になる甘木春奈くんだ」

 本社の?唯一の?同期?

 淳はパニくりかかっている頭をフル回転で整理する。

 本社採用はそう、二人。
 自分以外の人間は一人しかいなのだ。
 その一人は確か…東大の…大学院卒の…。

 この美人の王子さまがそうだというのだろうか?


「よろしくお願いします。お互い頑張りましょう。長岡さん」 

 差し出された右手をどんな思いで取ったのか。

 それは定かではないけれど、ひんやりとした細い指の感触だけは、やけにリアルに淳の手に残った。




 そして、その後、何故か第1会議室には『フケる』と言い切っていたはずの会長の姿があった。

 ふんぞり返る会長をバックに背負い、ボンクラ社長は可哀想なほど冷や汗をかいていたのだが、肝心の会長の視線はまったりと丸い社長の背中など、当然見てはいなかった。


 そう、その射抜くような視線の先には………長岡淳がいた。



後編へ続く