「I Love まりちゃん」外伝

誘惑の33階
〜1〜


 


 大きく一つ、深呼吸をして僕は秘書室のドアの前に立つ。

「よっし!」

 やっとやって来た、秘書室研修初日。
 僕は気合いを入れて始業1時間前に出社した。

 ここMAJECはさすがに『あの』会長のもとで急成長を遂げた会社だけあって、『新入社員は早く出勤して全員のデスクを拭く』だとか『お茶を入れるのは女子社員の役目』などという前時代的な不文律はない。

 あくまでも自分のデスクの管理は自分でやるし、お茶が飲みたければ自分で入れる…のが基本だ。

 だって会長も言ってるもんな。
『MAJEC内でお茶を入れてもらえるのは、私とお客だけだ』って。

 ま、そんなことはどうでもいいとして、つまり自分のデスクの管理もできないようなヤツに仕事は回ってこないし、仕事が来なければ評価は下がり、いずれはいられなくなる…という厳しい世界なのだ。ここは。

 まあ、『あの』秘書室長兼第1秘書が事実上の人事部…というだけあって、そんなヤツは一人も入ってこないようだけど…。
 


 …って、そんなこと言ってる場合じゃないや。

 僕がそんなMAJECの中でも1時間早く出社してきたのは、他でもない、あとから来るであろう『その人』…そう、秘書室長=小倉和彦(29歳・独身)を迎え撃つためだ!


 現在秘書は、室長を含む3人。

 第2秘書の沢木さんは30歳。身長192cmでがっちりした体格の人。
 絶対学生時代にはラグビーとかアメフトとか柔道とかやってたでしょ…って感じなんだけど、これが意外なことにソシアルダンスの名手だそうで、学生選手権を制したこともあるのだと聞いて、春奈さんと『人は見かけによらないねー』なんて、酒の肴にしたこともあるんだ。

 第3秘書の佐保さんはまだ26歳。165cm…と、ちょっと小柄な人なんだけど、なんでも母方のお祖父さんがスペイン人だとかで、どことなくエキゾチックな顔立ちの…そう、はっきり言って美人さんだ。
 人当たりがよくて笑顔がとんでもなく可愛いから、MAJECの女性社員の中では一番人気なんだそうだ。

 そういえば、誰か言ってたよな。あの癖毛が可愛いのだとかなんだとかって……あ、言ってたのは会長だったっけ……。
 そう言えば、コロンビア大学の学生だった佐保さんを会長が秘書にスカウトしたんだって話、ホントかな?
 機会があったら聞いてみたいけど、そんなチャンス、ないだろうな、きっと…。

 …とまあ、ここまでの情報収集は完璧。

 問題は…第1秘書である室長だ。

 証券会社から引き抜かれた…って話は誰もが知ってることなんだけど、それ以外の事ってあんまり伝わってこない。
 現在まだ29歳だってことと、178cmある僕よりも、まだ背が高いってことくらい。

 悔しいけど、面構えもかなりいけてる人だから、さぞかし女性陣の人気も高かろうと思ったのだけど、意外なことにそうではなかった。

『できすぎ』…なんだそうだ。つまりは『高嶺の花』。 
 MAJECの実質ナンバー2には、誰も手が出せないらしい。

 それって、あの人にお似合いの評価だよね…とか考えちゃう僕は、かなりイヤなヤツになってるな。


 はぁぁ…。それにしても、よく考えてみれば室長に関しては役に立たない情報ばっかりだよな。

 そう、春奈さんが言っていた『室長のとんでもない弱点』。
 この週末、僕の頭はそのことばかりが渦巻いていたけれど、ここに来て僕は2度3度、強く頭を振って、その考えを払い落とす。

 ここは『戦場』だ。

 敵の弱点にばかり気を取られていると、僕の足元が掬われる。 
 まずは真っ正面からぶつかるしかない。

 …で、何から始めるかって言っても、まだ何にも出来ない僕だから、せめて『やる気』だけは見せつけようと言うわけだ。

 僕のデスクは当然末席にあって、先週末まで春奈さんが使っていたから綺麗なはずではあるんだけど、でも、ぴっかぴかにしてやるんだ。

 見てろよ、小倉和彦。
 僕は負けないからな。
 絶対、春奈さんが言ってた『室長の弱点』とやらを見つけてぎゃふんと言わせてやるんだ。

 気合い一発!

 誰もまだ出社してないはずのドアを元気よく、一応礼儀としてノックして、当然返事なんてものがあるとは思わずに開けた僕を待っていたのは…。


「長岡、遅いぞ」

 はぃぃぃ〜?

 ソファーにふんぞり返って新聞を読んでいる人影が、ゆっくり顔を上げる。

「し…室長…」

あろうことか、今、呆然と立ちすくむ僕を射抜いているのは、室長の冷たい視線…。

遅いって…。

「あの…」
「なんだ」
「まだ始業1時間前なんですが…」

 漸く吐いた言葉は、そんな間抜けな言い訳で…。

「なんだって?」

 うわ、むっちゃ不機嫌…どうしよう、もしかして口ごたえしたから怒られる…?

 それとも秘書室にだけは『前時代的不文律』が息づいていて、研修社員は1時間以上早く出社して室長の肩を揉まなければいけない…なんてのがあったりして…。

 そんなバカなと思うものの、目の前の仏頂面を見ていると、あながちそれも冗談じゃないような気がして、僕は背筋を寒くする。

 どっちにしても、また、嫌みや皮肉やお小言が飛んで来るに違いない…。

 僕は覚悟を決めて室長の言葉を待った。
 …のに。

「なんだ、まだそんな時間か」

 そう呟いて――もちろん僕にではなく、あくまでも独り言、だ――室長はまた、何事もなかったように新聞に目を落としたんだ! 

 …それって…

「いったいいつからここに…」

 …う?うわーーーーー!
 し、しまったっ、つい、思ったことを素直に口にしてしまったぁぁぁ!!

 き、きっと『上司より遅れてくるような間抜けな新入社員に教えるつもりはない』だとか『しりたければ私より早くくることだな』とか言われるぞっ。

 …なのに。

「昨日からだ」

 へ?
 意外なことに、返事はあっさりともらえた。でも…。

 も、もしかして秘書室長って、家に帰る暇もないほど激務なわけ?

「長岡はどうしてこんなに早く来た」 

 え?

 ナガオカハドウシテコンナニハヤクキタ?

 そそそ、それって、もしかして、僕への質問?

 室長が僕にものを尋ねるなんて、今まで一度もなかったことだから、僕は酷く狼狽えてしまった。すると…。

「どうした。研修とはいえ今日からお前は秘書室の人間だ。問われたことには即座に答えろ。答えに窮するような人間はいらん」

 うわ、出た…。これが本来の小倉和彦だ…。

「あの、自分のデスク周りを整頓しようかと…」

 漸くそう言えば、室長は顔も上げずに言うんだ。

「『あの』は余分だ」

 う。

「それにお前が使うデスクは、先週甘木くんが磨き上げていった。2〜3日掃除はいらんだろう」

 …そうなんだ。

 じゃあ、僕はここであと1時間何をしていればいいわけ?
 ここで、この、室長と二人、顔をつきあわせて…。

「邪魔だ」
「は?」
「間抜けた返事を返すな。邪魔だといったんだ。ボケッと突っ立ってないで、そこに積んである新聞に目を通しておけ。会長が来るまでに全部だ。特に経済ニュースは隅から隅までたたき込んでおけ」
「は、はい!」

 僕は慌てて新聞の束を抱えて自分のデスクへ向かう。

 …すごいや…。勤務時間外でもこの人は戦ってるんだ…。

 僕は、ずっと言われ続けてきた嫌みや皮肉の事などすっかり忘れて、ただ感じ入ってしまう。

 世界に冠たるMAJECの中枢を、それこそ会長の片腕として築きあげた…ってのは、きっと伝説なんかじゃなく、本当のことなんだ…。



  
 それから僕は新聞を読むことに専念した。

 会長は出張中でない限り、始業時間きっちりに現れる。
 その短い間にこれを全部となると、真面目に読んでいたのでは間に合わない。
 必要な情報と必要でない情報を振り分けながら読まなくては到底…。



 どれくらい没頭していたんだろう。
 ふいに電子音がなった。

 見ればすでに第2秘書の沢木さんと第3秘書の佐保さんの姿が…。

 やばっ、全然気がつかなかった。

 慌てて立ち上がった僕を、佐保さんは笑顔で制してインターフォンのボタンを押す。どうやら秘書室のそれはハンドフリーで取れるようだ。

「はい、秘書室」
『会長がご到着です』

 時計を見れば…やっぱり時間ぴったり。

 急に室内が慌ただしくなる。
 今まで閉じられていた一際大きなドアが開かれ…。

 …会長室だ…!

 そこだけまるで空気の色が違うような気がする。
 ひんやりと、研ぎ澄まされたような…。
 ずっと憧れ続けてきた人の、城。

 そこへ、室長が当たり前のように…当たり前なんだけど…入っていき、そして沢木さんが身体に似合わない…ソシアルの名手の噂に違わぬ…軽い身のこなしで続く。

 そして、僕がじっと佇んだままでいると、二人の後に続いた佐保さんが、ちょいちょい…っと手招きをした。

 慌てて僕は佐保さんの後に倣い、会長室へ…。


 同時にもっと立派な扉が開いて、会長が入ってきた。

 質のいい三つ揃いをさらっと着こなし、左手には丸めた『News week』。

 か…かっこいい…。かっこよすぎるっ!!

 下のフロアで見かける会長は、気さくで優しい雰囲気を纏っているけれど、こうして『ここ』で見る会長はやっぱりちが……。

 会長がこっちをみた。

 え?…か、会長?

「淳じゃないか!そうかそうか、今日から秘書の仲間入りか」

 ……じゅん〜?仲間入り〜?

 う、うわぁぁぁ!
 会長は僕をみるなり『News week』を放り出して、だだだ、抱きついてきたんだっ。

 突然のことに硬直してしまった僕なんだけど、それを救ったというか…突き放したというか…は、当然、あの人で……。

「会長。社内では長岡とお呼び下さい。それに長岡はまだ秘書ではありません。本日から2週間、研修に入っているだけですから、個人的なお声掛けはご遠慮願います」

 その声は氷点下だというのに…。

「和彦〜。何を意地張ってるんだ」

 会長、全然堪えてない…。

「社内では小倉とお呼び下さい。それに、意地など張っておりません」

 あ、あのですね、そんなことはどうでもいいんですっ。どうでもいいですから…離して下さいっ!

 僕は視線を彷徨わせて沢木さんの姿をとらえた。そして救いを求めようとしたら…。

 沢木さん、どーして肩が震えてるんですか?
 それに、横にいる佐保さん!何で口元押さえて震えてるんですか?

 もしかして、笑ってるっ?!

「沢木さん、佐保。笑わないように」

 やっぱりぃぃぃぃ!! 

「あーっはっはっはっはっ」

 こらっ、今、鬼の室長から笑うなって言われただろーがっ!


 ……いいから会長、離して下さいってば……。
 




 こんな風にして、僕の『秘書室研修』はとんでもないスタートを切った。

 それでも午前中は穏やかに過ぎた。
 佐保さんが付きっきりで、秘書室内の雑事を教えてくれたんだ。

 そして、昼過ぎ…。

「淳くんはね、午後は室長のお供。会長の外出は食事会や懇親会っていうのしかないから、お供は僕一人で十分だからね」

 ニコニコと可愛い顔で言うのはもちろん第3秘書の佐保さん。

 そりゃ可愛い声で呼ばれたら嬉しいですけど、その『淳くん』ってのやめて下さい…。

「今日の室長のお供は多分遅くなると思うから、直帰のつもりでいた方がいいよ。淳くん」

 うっとりするようなバリトンで話すのは第2秘書の沢木さん。

 この人ってば、結構強面なのに、動作は綺麗だし声は腰が砕けるほどいいし…。
 でもその声で甘く『淳くん』なんて呼ばないで下さいってば。

 それにしても、秘書室ってもっと怖いところだと思ってた。

 もちろん仕事は厳しいだろうし、使う神経も半端じゃないだろうけど、その空気は意外なほど穏やかで、沢木さんも佐保さんも、むちゃくちゃ親切で優しい。

 ま、それは僕がまだ半人前だからなんだろうけど…。

『秘書室』にもっと張りつめた雰囲気を想像していた僕は、結構肩すかしを…。

「長岡っ、何してるっ、行くぞ!」

 …っと、この人だけは別だった…。

 その時…。

「ひゃ、室長、荒れてるぅ」

 小さな声だったけど、僕は佐保さんの呟きを聞き逃さなかった。

 …やっぱり僕の、せい…?

「はい!」

 イヤな考えを振り切るように、そして、室長の声に負けないように、僕はことさら大きな声で返事をした。

「「淳くん、がんばって〜」」

  …後ろから掛かった緊張感のない声が、僕の背中を押した。 
 


2へ続く