「I Love まりちゃん」外伝

誘惑の33階
〜2〜





 相変わらず無駄口を聞かない室長の、それは長くて速いストライドに必死でついていくと、そのまま車に乗れといわれた。

 それは国産車ではあったけれど、黒塗りで。しかも運転手つきの社用車なんかに乗るのは初めてだ。
 さすがMAJECと言うべきか――いや、きっとこの人が別格なんだろうけど――秘書が出かけるのに運転手つき社用車とは…ね。


「ええっと…どちらへ…?」
「『ええっと』は余分だ。そう言う言葉遣いはビジネスの現場では不要だ」
「あ、はいっ」
「『あ』もいらない」
「う…」
「言葉に詰まるな。必ず同意をするか、言い返すか、どちらかにしろ」
「は…い」

 どうしろってんだよ…。

 そうして、車中での会話はそれっきりとなった。
 もちろん僕に、外の景色を眺める余裕があるわけでなく、車はそのまま不気味なほどの沈黙を乗せてひたすら走って…。

 どれくらい走っただろう。
 車はいつの間にか閑静な住宅街へ入り、やがて大きな門の前に到着した。

 気詰まりな沈黙のせいで必要以上に感じたのかも知れないけれど、それにしても長かった…って、時計を見れば…。

 え?30分しか経ってない?
 嘘だろ〜。半日くらい走ってた気がするぞ〜。

 それにしても大きな家だな…と、無邪気に感心していたら、やがてその大きな門扉が静かに開きはじめる。

 人の姿はない…ってことは、自動?
 うわ、すごいや。
 うちも、父親の仕事のせいでかなりでかい家だけど、いくら何でも門扉は自動じゃない。


「ここは?」

 質問しても無駄かと思ったけど、案外あっさりと答えは返ってきた。

「会長の自宅だ」

 え?…ええっ?!
 どうして会長本人抜きで会長の自宅なんかに…。

 そうこうしているうちに、車は吸い込まれるように門扉の中へ…。そして広い玄関前で止まった。すご…。車寄せまである……。

「行くぞ」
「あ、はいっ!」
「『あ』は余分だ」

 …もう〜。



 吹き抜けの広い玄関では、白いエプロンのおばさんが待ち受けていた。

 この人は…年齢的にも会長夫人って事はないな。それに会長夫人は派手な人だって噂だし。

 見るからに…そう、人の良さそうな家政婦さんだ。

「いらっしゃいませ」
「遅くなりました」

 そう言って室長はチラッと僕を見る。
 まるで僕がもたもたしていたから遅れたと言わんばかりだ。
 …そうかも知れないけど…。

「奥様は?」
「一昨日からお出かけになられたきり…」

 室長の問いに、なぜだか家政婦さんがすまなそうに答える。

「またか…」

 舌打ち一歩手前って感じで、忌々しそうに室長が言う。

 もしかして、あの噂は本当なんだろうか。
 会長夫人が最近やたらと『NARITA』の社長と親密だって言うの…。
 うちの響子さんの耳にも入ってしまって、かなり気にしてたけど……。 

「すみません」
「いや、あなたの責任じゃない。むしろその方が彼のためにはいいかもしれない」

 ペコペコと可哀相なくらい頭を下げる家政婦さんの肩を労るようにポンポンと叩いた室長の声は…。

 なんだ。結構優しい声も出せるんじゃんか。

「あの…智雪さまはお部屋においでだと…」

『智雪』って…。そうだ、会長の一人息子だ…。

 そういえば、響子さんが『入学祝いは何がいいかしら』って悩んでたな。
 私立の名門中学に入ったって喜んでたっけ。結局何を贈ったんだろ?聞いてないや。

「わかりました」

 室長は短く答え、それはもう、勝手知ったる風情で広い階段を足早に昇る。
 当然僕は、訳もわからずにその後を追った。

 掃除が行き届き、方々に趣味のいい装飾がしつらえられた廊下を行く。
 期せずして、初めて入った会長の家…。
 けれどそんな感慨に浸る間もなく…。

 室長は一番奥の扉を丁寧な仕草でノックした。


「小倉さんっ!?いらっしゃい!」

 いきなり元気よく開いた扉から出てきたのは、年の頃は15〜6、いかにも利発そうな男の子だ。

 あれ?智雪くんじゃないのかな?

「お待たせしました、智雪くん」

 え?やっぱりこれが?

 小学校を出たばかりの小さな男の子を想像していた僕の頭の中はあっさりと裏切られた。

 けれどその驚きを遙かに凌駕したものは…。
 室長だ。

 今、やさし〜い声で喋ったの、誰っ?
 よもやと思うけど……室長?…んなことないよね…って、え?室長が…笑ってる?
 なんだ…この人笑えるんじゃん…。
 しかも、結構綺麗じゃん…。


「あれ…?」

『智雪くん』の声に、僕は一瞬見つめてしまっていた室長の顔から慌てて視線を外す。

「どなた?」

 室長の後ろに所在なく立ちつくしてる僕を、賢そうな瞳がじっと見る。

「こちらは新入社員で長岡と申します」

 そう紹介されて、僕は慌てて姿勢を正す。

「あの、初めまして。長岡ですっ」
「『あの』は余分だ」

 こ、こんなときまでチェック入れるなっ。ほらっ『智雪くん』が笑ってるじゃないかっ!

「初めまして。僕、前田智雪です」
「会長のご子息だ」

 子供とは思えないほど慣れた仕草で堂々と差し出された右手を握ると、意外に力強くてびっくりした。

「どうかなさいましたか?」

 びっくりが伝わったのか、智雪くんがニコッと笑って僕に尋ねる。

「いえ、すみません。とてもしっかりなさってるなと思って…」

 そう言うと、智雪くんははにかんだようにまた、笑う。

「そうですか?僕にはあまり自覚はないのですが…。それより、長岡さんは年より随分お若く見えますね」

 う。それは僕のコンプレックスですから触らないでいただきたい…です。

 そう思ったとき、隣で『ふふん』と小さな音がした。
 …室長が鼻で笑った音だ。絶対そうだ。もう、見なくったってわかる。

 そして何事もなかったかのように言う。

「さあ、始めましょうか」 

 室長の声で僕らは手を離す。

 そして部屋の奥へ…。
 広い机には参考書などが所狭しと並んでいて…。
 何を『始める』わけ?まさか…。


 まさかと思ったけれど、そのまさかは本当だった!
 なんと室長は智雪くんの家庭教師を始めたんだ!!
 秘書ってこんなコトまでしなければいけないのか?!
 うっそだろー!

「今日は長岡さんも教えて下さるんですか?」

 は?はい〜?
 そりゃあ大学時代にはバイトで家庭教師もやったことあるけど…。

「いえ、長岡は現在研修中ですので…。長岡、邪魔にならんようにそのあたりに座ってろ」

 あのですねぇ。邪魔になるなら連れてこなけりゃいいじゃないですかっ!

 そりゃあ、会長の自宅に入れたのは嬉しいし、智雪くんに会えたのも嬉しいけど、こちとら研修中の身、沢木さんや佐保さんに教えて貰わなきゃいけないこと、いっぱいあるんだからっ。 
 どーせあんたは嫌み言うばっかりでな〜んにも教えてくれないだろうしねっ。

 …なんて事が口に出せるはずもなく、僕は渋々言われたとおりにする。
 そしてしばらく二人の様子を見ているはめに…。



「智雪くん、学校は面白いですか?」
「はい、とても面白いです」

 室長、なんて優しい顔するんだろう…。

「それはよかった。入学前は少しお元気がなかったので心配していました」
「僕も、入学する前は…本当のことを言うと…ちょっと残念だったんです」

 お。いきなり青春相談室か?

「残念…と言いますと?」
「僕、お父さんと同じ学校へ行って、寮へ入りたかったんです。だから…」
「ああ、お父さまの母校は聖陵学院でしたね。でもなぜ?」
「寮へ入ったら、少しでもいいことあるかと思って…」

 僕はその瞬間の智雪くんの表情に釘付けになった。
 なんて悲しい顔で笑うんだろうかと。
 それは、彼が年齢に似合わず、なまじしっかりとしている分、余計に痛々しく見えて。

 でも、こんなこと、響子さんには言えないな…。あの人きっと、とても心配するから。 


「でも、もう全然平気です。クラスに仲良しができたから」

 けれど智雪くんは次の言葉で満開の笑顔になった。

 そう、それはまったく無理のない、年齢に似合った屈託のない明るい笑顔で、僕は心底ホッとする。響子さんにはここの部分だけ教えてあげよう。


「クラブもその子と同じところにしたんです。クラスでは僕が委員長で、彼が副委員長。とっても可愛い子で、弟が出来たみたいな気分です。何処へ行くのも何をするのも一緒だから、毎日がとっても楽しくて」

 そうして、智雪くんは学校での事をいろいろと語った。
 僕はその様子を暫く…なんとなく…見ていたんだけれど、ふと違和感に気がついた。

 …勉強が進んでいない。
 机の上の参考書は、まだ1ページもめくられていない。
 智雪くんも、シャーペンを手にしているものの、何かを書いたりしていない。

 ただ、室長との間で会話が交わされているだけで…。

 もちろん、秘書が勉強を教えるってのもどうかと思うけど、それ以上に変じゃないか。
 超多忙な秘書室長が、ただ、話し相手になるために来る…だなんて…。


「それで、智雪さんはどう思われましたか?」
「僕は…」

 何か、変だ…。

「しかし、そう捉えるのは少し時期尚早ではありませんか」
「けれど小倉さん、代表委員の言い分は……」

 この感じ、覚えがある…。
 室長が問題を投げかけて、智雪くんが答える。
 室長が否定を示すと、智雪くんがさらに反論する。

 それに…。

「…それは数字の上でも明らかなんです。前年度もその前も、配分された予算の執行状況には目に見えるほどはっきりと偏りがあるんです。だから、この予算案には賛成出来ません…といったんです」

 主張には必ず根拠が添えられて…。

 これって…ディベートじゃないか…!

 大学時代に僕がやっていたものよりももっと曖昧な形ではあるけれど、これは明らかにディベートだ。

 …なんてことだ。

 僕はそれからずっと二人の様子を注意深く見守った。

 議論を交わしながら、室長は、さりげなく色々なことを智雪くんに教えている。
 何気ない会話の中に、雑学とも取れる蘊蓄の中に、教養と知識を織り込んで…。

 『家庭教師』? とんでもない。これは『帝王学』を教える『教育係』だ。
 それも未来のMAJECの長を育てるというとんでもない役目。

 なんて人なんだ…小倉和彦って人間は。

 僕は、この日初めて、彼に対して畏怖の念を覚えた。
 そして気付いた。
 室長は決して僕に何かを教えてくれることはないだろう…と。
 嫌みや皮肉の中にあるこの人の本当の言葉を、僕自身の力で探し出すことが出来ない限り、僕のMAJECでの未来は、ない…。





 その後、室長は緊急の電話を受け、会長宅を『一人』で後にした。
 そう『長岡、後は任せた』…それだけ言って。

 残念ながら、今の僕は『教育係』になり得る何も持ち合わせてはいない。

 けれど、それは聡い智雪くんには当然お見通しだったようで、僕が一人になった途端に『長岡さん、テニスしませんか』と誘われて、そのままついて行ってしまった。

 一応『勤務時間中なんですが』と言ってはみたんだけど、智雪くんが『大丈夫です。だって、小倉さんがわざわざ長岡さんを置いていってくれたんだもの』…なんて言うので、つい…。

 幸いテニスの腕前は僕の方が数段上だったため、なんとかお相手は務まったようで、その後智雪くんに引き留められるまま、遅くまで会長宅に居座り、帰宅したのは深夜になっていた。

 末っ子の僕には、智雪くんはまるで本当の弟のように可愛くて、僕は何度口を滑らせそうになったことか…。


『僕は、君の……』



3へ続く



響子さんって、誰?