「I Love まりちゃん」外伝
誘惑の33階
〜3〜
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翌日、なんと朝から秘書室は僕一人。 何か重大なトラブルが発生したらしく、室長は昨夜のうちにマレーシアの工場に飛んでいってしまい、沢木さんは研究所で重要な会議があるとかでいない。 どんな事態になっても絶対会長の側を離れない佐保さんは、急病で入社以来初の病欠。 昨日はあんなに元気だったのに、大丈夫かな…。 …って、人の心配をしている場合じゃない。 今、一番心配なのはここ『秘書室』だ。 佐保さんの耳に、この事態が入ってないといいんだけど…。 だって、ここに僕一人きりだなんて知ったら、佐保さん這ってでも絶対出社すると思う。 よりによって研修2日目――しかも1日目は午前中しかいなかった――のペーペー社員が、MAJECの秘書室で番をしてるだなんて…。 心配なのか…心配なんだろうな…いつもは閉じられている会長室に通じるドアも今日は全開だ。 会長はずっと書類を読んでいる。 …このまま何事も起こりませんように…。 情けなくも、心中必死で祈ってしまう僕に、不意に声がかかった。 「長岡」 「…はい!」 会長がお呼びだ。 それはいつもの優しく気さくな声ではなく、仕事をする男の声。 僕は気を引き締めて立ち上がる。 「お呼びですか」 「ああ、すまんがコーヒーを淹れてくれ。少し濃いめのを」 「はい」 …よかった…、僕にも出来る仕事だった…って、情けないな〜。 僕はマホガニーのキャビネットの中に、それとわからないように納めてある冷蔵庫を開け、『スヌーピー』柄のキャニスターを手に取った。 これ、会長専用のコーヒー豆なんだそうだ。 ちなみにここの住人はみな専用の豆をストックしていて、沢木さんのは『ドナルドダック』で佐保さんのは『デイジーダック』のキャニスターに入ってる。 と、ここまでは百歩譲れても…。 室長のは『ミッキーマウス』だってよ…。ぷぷっ…似合わねーの。 ちなみに僕は春奈さんがおいていってくれた『ドラえもん』を使ってるんだけど…。 …なんて事を考えてるうちに、サーバーからは、香ばしい湯気が漂ってくる。 そうそう、MAJECの各セクションに置いてあるコーヒーサーバーは、メンテナンスもお任せのメーカーのレンタル品なんだけど、ここだけは違う。 秘書室のものはすべて秘書室で管理しているんだ。 だって、会長室は場合によっては来客もあるけれど、ここ秘書室は絶対の『部外者立入禁止』――MAJECの『聖域』――だから、掃除のおばちゃんだって、会長室には入れても、ここ秘書室には入れないらしいんだ。 とういうことは、当然掃除も秘書の仕事……確かに激務かもな…。 僕は会長専用のカップ…これはいくらなんでも『スヌーピー』じゃないけど…を温めて、そして出来立てのコーヒーを注ぐ。 ここまで3分。まあまあかな…。 「お待たせいたしました」 こぼさないように、そっとカップを置いて手を引こうとしたら…。 え? 「ちょっと待った」 急に手を握られた。もちろん、会長に…だ。 「は、はい…」 何かミスっただろうか…? 頭をフル回転させてみたけれど、思い当たることはない…。 会長は左手で僕の手を握ったまま、目は書類にむけたまま…で器用に右手でカップを取った。 そして、一口…。 「うん、上出来だな。まなちゃんといい勝負だ」 …もしかして、誉められたんだろうか? それにしても、まなちゃん…って誰? 「コーヒーの淹れ方はまなちゃんに教えて貰ったのか?」 相変わらず書類から目を離さないまま、会長が言う。 だ、だから、まなちゃんって誰〜? 「あ、あの…」 YesともNoとも答えかねる質問に、僕が戸惑っていると、ついに会長が顔を上げた。 「和彦と大二郎のはいまいち美味くないからな。濃さの加減がわかってない」 え?えっと、和彦は…小倉和彦で、大二郎は…沢木大二郎。 …ってことは、もしかして、まなちゃんって佐保さん?!佐保学?! 「ぶっ」 …し、しまった。あんまりお似合いなんで、吹き出してしまった…。 「ふふっ、可愛いな、淳は」 会長がそう言ったのと同時に、僕は強い力で引っ張られ、呆気なく体勢を崩した。 手にしていたトレーが、分厚い絨毯の上に音もなく転がる。 「か、会長っ?!」 気がついたときには僕はしっかりと会長の腕の中で……。 「おまけに抱き心地もいい。こんなに細いのにな…」 み、耳元で囁かないで下さいっ! 「は、離して下さいっ」 「やだね」 は? 「せっかく二人きりなんだ。こんなチャンスは滅多にないよ、淳…」 だ、だからなんだっていうんですか〜!! 立場が立場だけに、目一杯抵抗するわけにも行かず、さりとてこのままでいいわけもなく、僕が弱々しい抵抗を繰り返していると机の上のカップが『カシャン』と音を立てた。 『割っちゃいけない』…ついうっかりそんなお気楽な事を考えてしまった隙に、僕の視界はぐらっと揺れ、大きく変わった。 な…なんで天井が見えてるわけ…? おまけに背中はふかふかで…。 22年間積み上げてきた既成概念を遙かに越える事態に、呆然となった僕に、会長の身体がのし掛かってきた。 「淳、大人しくしていれば怖いことなどない」 ななな、なんだってぇぇぇぇ!! 「ずっと私の側に置いて可愛がってあげるから…」 言葉の途中でシュッという衣擦れの音がした。 見ると、会長の手には僕の…ネクタイ!! いいい、いつの間にっ。 「か、会長!!」 「騒ぐな、淳。言うことを聞けば何でも思い通りになるんだぞ?」 「…思い通り?」 問い返した僕に、妖しい微笑みを浮かべながら、会長は僕のYシャツのボタンに手を…。 「そう、思い通り…だ。地位も名誉も金も…。何でもお前の望むままにしてやる」 か、会長…いったいなんの話を…。 「なんだったら和彦を追い出して第1秘書にしてやってもいい」 …なんだって〜!! 「会長!何を血迷ってるんですかっ!」 「淳?」 突然の僕の剣幕に、会長は目を丸くした。 「いいですかっ?!会長の趣味についてとやかく言うつもりはありませんが、室長をないがしろにすることだけは許しません!あんなすごい人、二人といません!会長だってそれはご存じのはずでしょう?!それをあろうことか色ボケの挙げ句に追い出すとはどういう了見ですかっ!僕は…っ、僕は…っ、会長を尊敬していたのにっ」 一息で言ってしまった途端に、涙があふれ出た。 悔しくて、悲しくて…。 すると…。 僕はふわっと何かに包まれた。 「すまなかった」 僕を暖かく包んでいるのは…会長の、たくましい腕…。 そしてそれは、ついさっきまでの乱暴なまでの腕ではなくて、壊れ物を抱くような柔らかい抱擁…。 「泣くな、淳。悪かったよ、試すようなまねをして」 …は? またわけのわからない言葉を耳にして、僕は濡れた目を開けた。 すると、フッと視界が暗くなって…。 「泣いたのは君が初めてだな、淳くん」 この甘いバリトンは…沢木さん? 「なんだ、大二郎、やけに早いじゃないか」 会長は振り返りもせずそう言うと、僕を抱きかかえたまま起きあがった。 「ただいま戻りました。佐保も戻っています。…それにしても会長、泣かしちゃだめでしょう」 佐保さん、出てきてる…?具合は…。 「何を言う。泣き顔の淳も可愛かったぞ」 「それは認めますが」 ちょっと…なんなわけ、さっきから…。 沢木さんは、僕と会長が立ち上がるのに手を添えて…。 「それにしても盛大に泣いたもんだね」 今時珍しい、真っ白なハンカチが僕の目にそっと当てられる。 「ごめんな、淳くん。僕らはどうしても慎重にならざるを得ないんだ。ここに足を踏み入れられるのは、心の底からMAJECに忠誠を誓えるものだけなんだ。だから…」 だから…って、まさか…。 「僕を試そうと……」 そんな、あんまりだ…。 僕は、会長の誘惑にホイホイ乗るような人間に見えた…ってこと?。 悔しくて、でもそれが言葉にならなくて、僕がギュッと拳を握りしめたとき…。 「私の秘書たるもの…」 会長が、仕事中の声で言った。 「どのような状況に置かれようとも、負の感情を持ってはいけない」 「…会長」 「常に冷静であり、すべてを目に留め、すべてを記憶し、すべてを糧にする。……淳、お前はついさっき、私に向かって説教したが、その内容をもう一度、寸分違わず言えるか?」 …え…。そんな、勢いに任せて口走ってしまったことなんて…。 「記憶はすでに曖昧だろう?」 僕の答えなど、まるでお見通しと言わんばかりに言い切られる。確かにその通りだけど…。 「的確な状況判断と、それに対する最適の措置を最速で取る。これも秘書の絶対条件だ」 あ……。もしかして会長は、何もかも計算の上で…? 「もちろんお前は社会人として一歩を踏み出したばかりで、まだまだ学ばねばならないことばかりだ」 …その通りだ…。文句言ったり、愚痴ったりしてる暇なんてどこにもないはずなんだ。 でも、僕はここしばらく、文句や愚痴ばかりで自分の心を埋めて…。 「だがな、私は、私の大切な秘書たちに、もう一つ重要なことを要求している」 呆然と立ちすくんでいる僕に、会長は、それは柔らかく微笑んだ。 「常に優しくあれ…とな。淳、お前はその要求に、完璧に応えてくれたよ」 会長……。 その夜、僕は会長に『驚かせた詫びだ』と言う理由で食事に連れ出された。 初めて一対一で話した会長は、やっぱり僕が夢見た理想の人で、僕はとても幸せだったんだけど…これって結局丸め込まれちゃったんだろうか……。 翌日から僕は必死でがんばった。 沢木さんや佐保さんの仕事に障るほどつきまとい、片っ端から質問責めにし、会長の言うとおり、見るもの聞くもの、すべてを吸収しようと躍起になった。 そして、3日目、やっと室長が帰国した。 「お帰りなさいっ!」 入ってきた室長に、元気よくそう言うと、室長は一瞬目を丸くした。 「あ、ああ、ただいま」 『あ』……。 「な、なんだ?私の顔になにかついているか?」 あ、ほらまた。言葉に詰まるなってったの、室長じゃんか。 「いえ…。何でもありません」 思ったことを口にするわけにはいかないから、僕はそうやって言葉を濁し、1時間ほど前からやっている資料の整理に戻った。 「あ、室長、お帰りなさい!」 「ああ、ただいま。遅くなってすまなかった」 …ふぅん、佐保さんには言わないんだ。 『「あ」は余分だっ』…なんてこと。 ま、いいか。室長は室長、僕は僕。 なんてったって、会長同様に雲の上のこの人からは、この研修中にできるだけたくさんのことを盗まなきゃなんない。 そう、この人は絶対、『教えて』くれないと思うから。 |
4へ続く |