「I Love まりちゃん」外伝

誘惑の33階
〜4〜





「長岡」
「はいっ」
「いつまでその程度の資料の整理にかかっている気だ」

 ……。そんなこと言ったって、この量を一人でだなんて…。

 いや。愚痴ってる場合じゃない。これは『僕の』仕事なんだ。

「すみませんっ、急ぎますっ」

 うー、焦ると余計に頭が回んないや…。

「淳くん、貸して…」

 横から小さい声で佐保さんが言う。

「手伝うから…」
「佐保」

 当然、その声を聞きとがめたのは室長で…。

「はいっ!」
「それは長岡の仕事だ。余計な手出しは無用だ。そんなことより、明日は会長のお供で台湾だろう?早く帰って休め」
「でも…」
「何度も同じ事を言わせるな」
「…はい」

 佐保さんは僕をチラッと見て、口の形だけで『ごめん』と告げると、そそくさと秘書室を出ていった。

 …悪いことしたな。僕のせいで佐保さんまで…。






 それからどれくらいの時間が経ったのか。

 必死で作業に没頭していた僕は、漸く整理を終えたファイルをキャビネットに戻そうと、席を立った。

 すると…。

「室長…」

 室長が自分の席で、腕組みをしたままじっと僕を見ていた。
 もしかして、ずっと…?

「やっと終わったか」
「あ、はい」
「『あ』は余分だと何度言ったらわかる」
「すみませんっ」
「…早く片づけろ」
「はいっ」

 …もしかして、待っていてくれたんだろうか?

 キャビネットを閉めてから、僕は室長に向き直った。

「お待たせしてすみませんでした」 
「ああ、待った。この大切な秘書室に、見習いだけ残して帰れるわけがないだろう」

 あ。そうか…。なるほどね。

「すんだらさっさと帰れ」
「…はい」

 僕って、いつになったら室長と普通の会話ができるようになるんだろう…。

「すみませんでした。お先に失礼します」 

 僕は一礼だけして逃げるように秘書室を後にする。

 ひょっとしたら、僕が室長とまともに会話が出来る日なんて、来ないのかも知れないな…。

 そう思うと、無性に悲しくなった。

 研修が始まる前は『見返してやる』だとか『ぎゃふんといわせてやる』とか、そんなことばっかり考えていたけれど、今は…。

 身近で室長の凄さを目の当たりにして、僕のそんな些細な抵抗はまったく消え失せた。

 そういえば…。春奈さんが言ってた弱点って…。
 春奈さんも、すごい人だよな。
 こんな室長の『弱点』をたった2週間で見つけるなんて。
 僕には、無理だ。


 室長…。もう、室長の笑顔って見られないのかな?
 智雪くんに向けていた、あの優しい笑顔…。
 僕にも、一度だけでいいから向けてくれない…かな…。

 それがダメなら、せめて、普通に話がしてみたい…。



☆ .。.:*・゜



「随分手こずっているようだな、和彦」

 淳が帰ったすぐあとの秘書室を、ノックもなく入ることのできる唯一の人物が訪れた。

「社内では小倉とお呼び下さい。第一、会長ともあろう方が秘書室の話を立ち聞きされるとはどういう了見ですか」
「いや、つい面白くてな」
「何が面白いんですか。まったく…」
「ま、淳は確かに誘惑に関してはガードが固い。固い上に鈍感で…」

 会長は馴れ馴れしく第1秘書の肩に手を回す。

「天然だ」

 その手をチラッと一瞥して、和彦はするっと腕の中から抜ける。

「何のお話をなさっていらっしゃるのかわかりかねますが」

 身長は自分の方が高いはずなのに、積み上げてきたキャリアの所以か、会長の方がずっと大きく見えるのが今は無性に腹立たしい。

 しかも、会長は和彦の言葉など右から左だ。

「というわけで、私の審査は合格だ。あの天然ぶりではどんな懐柔も用をなさん。スパイなどもっとも務まらんタイプの人間だな。あれは」

「まさか…、私の留守中に、長岡にも例のことを?」

 和彦の目が細められる。

「当たり前だろう? 甘言に乗せられようなヤツでは困るからな。なんと言っても、秘書室はMAJECの中枢だ」

「…それで、長岡は…」

「聞きたいか?」

 そう言った会長は、態度こそでかいままだが、指先ではクルクルと嬉しげにキーホルダーなんぞを回している。

 自宅の鍵も車の鍵も、そんなもの自らが管理しなくてもいい立場の人間が唯一持っている鍵。

 …社の最高機密が入っている金庫の鍵だ。

 いくら同じものが銀行の奥深くに保管されているとはいえ、そう言うものをぞんざいに回さないで欲しい…。

 内心で脱力してしまうが、ここでそれをやっては負けだ。

 いつになく強情になっている自分に気付かぬまま、態度だけはいつもと同じように、和彦は答える。


「…別に…」
「じゃあ、教えてやらん」
「会長!」
「なんだ、教えて欲しいのなら素直にそう言え」

 和彦はギリッと唇を噛んだ。

 悔しいが…知りたい。

「お聞かせ…下さい」 

 その一言で、会長はしてやったりの笑顔になる。

 もしかしたらこんな瞬間が楽しくて、会長なんて面倒くさいものをやっているのかも知れないなと、本気で思ってしまうあたりが恐ろしい。

 しかし、第1秘書も一筋縄ではいかない。

「誤解のないように申し上げておきますが、あくまでも人事の責任者としてお伺いするのです」

 ち…。ったく、素直じゃないんだから…と、会長は内心で『べ〜だ』と思いっきり舌を出す。

 こうなったら容赦ナシだ。
 まず手始めに壮絶な流し目を挑戦的に送る。そして…。

「腕の中に引きずり込んで…」
 思い出すようにうっとりと言ってみると、和彦のこめかみがピクッと震えた。

「そのまま抱きしめて…」
 その肢体の感触がまだ腕の中に残っているかのように言うと、和彦の切れ長の目が半眼になる。

「床に押し倒して…」
 今思い出しても興奮すると言わんばかりにニヤッと笑うと、和彦の口元がひくつく。

「組み敷いて…」
 あの時の怯えた顔と言ったら…と続けると、和彦がついに拳を握りしめた。


 そろそろやめておかないと危険か。

 何しろこの第1秘書、普段は冷静極まりない。
 たとえばMAJECの廊下に見知らぬ死体が転がっていたとしても、第1発見者の義務として通報はするが、そのあとは平気で跨いで通るのではないかと思われるくらいだ。

 だが、その反動か、マジ切れしたら手が着けられなくなる。
 ま、そんなことは富士山の噴火と同じくらい珍しいことだが。

 とりあえず、このあたりが潮時か…と、会長は勝ち誇った口調でとどめを刺した。

「私のものになれば、和彦を追い出して第1秘書にしてやる…と言った」

 その瞬間の、第1秘書の顔ときたら…。
 会長は内心でスキップしながらクルクル回っている。

「…なんですって?!今までは、富と名声は思うがままだとか、一生遊んで暮らせるとか、気を失うほど可愛がってやるとか、そんな誘い文句だったじゃないですか!それをどうして長岡に限って…!」

「お前だって知りたいだろう?淳の中で『秘書室長』がどんな存在なのか」

「会長…」

 揺れる瞳もたまらなく面白い。

「あいつ、言い切ったぞ。室長をないがしろにする事だけは許さない…とな」

 静かに告げられて、和彦は言葉をなくした。

「あんなすごい人は二人といない。それを色ぼけの挙げ句に追い出そうとはどういう了見だってな…それはすごい剣幕だったぞ。どうだ、嬉しいか」

 にやっと笑う会長に、和彦はグッと奥歯をかみしめて、込み上がってくるものを握りつぶす。

「それは…上司になるものの立場としては、歓迎すべきことです」
「ったく、可愛くないったら」
「私に可愛さなど求めないで下さい」
「ふんっ、そんなこと言うんだったら、今度はマジで淳を誘ってやる。オフでなら何をしようと勝手だからな」
「会長……」

 咎めるように発した和彦の声は、それこそバナナで釘が打てるほど凍てついていて…。

「冗談だってば」

 会長は、意外にあっさりと、年に似合わないいたずらっ子の表情でホールドアップする。

「…わかって下されば結構です」

 口でこの人に勝てたことは一度もない…と、和彦はげんなりする。
 まあ、積極的に勝ちにいく必要もないのだが…。

 自分がいつもの冷静さを取り戻すまでのほんのわずかな時間、こんな風にちょっぴり愚痴ってから、和彦はまた、第1秘書の顔になった。



「会長。一つ、重要なご報告があります」

 その口調に会長もまた何事かと姿勢を正す。

「なんだ?」
「長岡淳の母親の名は響子と言います」

 まるで社の重大事項を告げるような口調とは裏腹に、告げられた言葉は、新入社員の、あくまでも、プライベート。

「きょうこ?」
「はい、長岡響子。ひびく…こ…と書きます」
「まさか」
「その、まさか…です。彼は、『あの』長岡家の末っ子です」

 まっすぐ見つめられて、会長は言葉を失った。

「申し訳ありません。内定前にはわかっていましたが、私はどうしても長岡が欲しかったんです。彼はMAJECにとって必要な人間になると感じましたから」

 背筋を伸ばしたまま、頭を垂れる。

 ややあって、会長が思いだしたように言った。

「…それでは、淳は最強のコネを持ちながら、それを使わずに自力で入ってきたというわけか」
「そういうことになります。私も内定直前に初めて知りましたから」
「なんて事だ…」

 会長は片手をデスクについたままで、大きく息をついた。
 その、らしくもない様子に、和彦もグッと唇を結ぶ。

「…会長…。本当に申し訳ありませんでした。あらかじめ会長のお耳に入れなかったことについての責任は取ります」

 しかし、それには一言も答えず、しばし沈黙してから、会長はいきなり頭を掻きむしった。

「か、会長?!」
「あー!もうっ!なんて事だっ!淳が響子さんちの子だなんて!これで淳に手が出せなくなったじゃないかっ!」

「会長…………」

 和彦の瞳が剣呑に変わる。

「淳に手出しなんかしたら、響子さんに殺されるぞ!…もう〜…」

 会長、どうやらマジで悔しがっているようである。

「会長!!」
「なんだっ!あ、まさかお前、それを計算して淳を入れたんじゃないだろうなっ!淳だったら私に邪魔されずにすむとか思ったんじゃないだろうなっ!横暴だぞ!第1秘書っ!」

 本気でムキになっているようだ。ほとんど『おもちゃ売場の床をごねながら背中ではいずり回る子供』状態である。

「いい加減にして下さい!誰がそんなことまで計算しますかっ!採用に私情を持ち込んだ覚えも毛頭ありませんっ!第一、私が本気になったのは淳が入社してからですっ!

 …酔っていなくとも、勢いとは怖いものだ。背中ではいずり回る子供につられて、第1秘書は『つい』言い切ってしまった。

 瞬間、会長がニヤリと笑う。

「………あ」

『しまったと、思う時には、もう遅い』
 これは標語として道路際に堂々と掲げられているくらい、世間の常識だ。


「いやあ、和彦くん、若いっていいねぇぇぇぇ」
「かいちょう〜」

 和彦の背後には、青白い火の玉が100個くらい飛んでいる。

 しかし、自身が魑魅魍魎の親玉の様な会長にはそんなものは通用しない。

「悪いがな、私も入社式で初めて淳に会ったとき、おや…っと思ったんだよ。長岡家にはその日のうちに連絡を入れたさ。響子さんと私は今でも仲良しだからね」

 背後の火の玉が200個になった。

「会長っ!ご存じだったんですかっ?卑怯ですっ、人が真剣に悩んでいるのにっ!」
「だーかーらー、私が取り持ってやろうとしてるんじゃないか〜」
「けっっっっっっっこうですっ!自分の始末くらい、自分でつけますっ」

 火の玉が一つになって燃え上がると、ほとんど不動明王のノリだ。眉間の皺もアクセントか。

 しかし、和彦はふと真顔になった。

「…ちょっと待って下さい…」

 今、脳裏をよぎった事実をもう一度整理してみる。すると出てくる答えは一つだ。

「…会長、淳が響子さんの子だとわかっているなら、わざわざ誘惑に引っかかるかどうかなんて、試してみる必要はなかったでしょう?!」

「あ、ばれたか」

「ばれたかじゃありませんっ」

「だって〜、秘書採用の恒例行事じゃないか〜。お前や大二郎なんか誘惑してもぜ〜んぜん面白くなかったしさ〜。春奈くんの担当は私じゃないし〜。まなちゃん以来、久しぶりに誘い甲斐のある優良物件だったんだも〜ん」

「かいちょう〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」


 まさに『懲りないオヤジ』である。





 そしてそれからすぐのこと…。

『辞令 長岡淳 7月1日をもって秘書室勤務を命ずる』

 淳は、まったく同じ文面の辞令を受け取った春奈と、がっちりと固い握手を交わしていた。



END

響子さんの謎は、続編『困惑の33階』にて(*^_^*)

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