「I Love まりちゃん」外伝
困惑の33階
〜誘惑の33階・室長サイド〜
前編
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ノックが響いた。 なんの躊躇いも戸惑いもない、その音。 だがしかし、それは第2秘書である沢木大二郎のものでも、第3秘書である佐保学のものでもない。 けれど、ここ秘書室は、直接訪ねてきて入れる場所ではないのだ。 社内の訪問であっても、必ず事前にアポが要る。第一、秘書室・会長室に至る廊下の入り口には、24時間警備員が居るから。 この部屋…秘書室のTOPである小倉和彦は、背筋をはい上がる不思議な感覚を覚えた。 もしかして…。 果たしてそれは正しかった。 ノックの主は無人であろう室内からの返事など、端から期待していなかったのだ。 ノック同様、なんの躊躇いもなくドアは開いた。 そう、そこに現れたのは、今日からここへの出入りが許された研修中の社員・長岡淳であった。 かなり長身であるにもかかわらず、まだ全体に少年っぽさを残していて、お世辞にもしっくりきているとは言い難いスーツ姿のその中身は、きっと外見以上に華奢ではないかと思わせて…。 手触りの良さそうな髪も、なめらかそうな頬も、形のよい唇も…。 それらすべてを瞬間的に見つめてしまい、和彦は慌てて視線を手元に落とした。 そして……。 「長岡、遅いぞ」 とっさに出たのはそんな言葉だった。 そして、わざとらしくゆっくりと顔を上げる。 今の今まで、その視線は手元の新聞に落ちていたのだということを、ことさら強調するように。 「し…室長…」 案の定、淳はこれ以上ないというくらいに目を見開きこちらを凝視した。 その表情すら…。 「あの…」 和彦が次にかけるべき言葉を探しているうちに、淳の方が口を開いた。 「なんだ」 ホッとしたように、しかしそれとは気づかれないように続きを促す。 すると淳はポツっと言った。 「まだ始業1時間前なんですが…」 「なんだって?」 嘘だろう?まだそんな時間なのか? てっきり始業時間が近いのだと思っていた。 それほど、この時を待ちこがれていたと言うことなのだろうか? はっきり言って、それはかなり……照れくさい。 そして、それは照れ隠しのセリフとなって口からこぼれ落ちた。 「なんだ、まだそんな時間か」 万が一、顔が赤くでもでもなっていてはまずい。 和彦はまた、視線を落とした。 そんな和彦に、淳もまた、ポロッと言葉をこぼしたようだ。 「いったいいつからここに…」 ドキンと一つ、心臓がなった。 淳からこんな風に言葉をかけられたのは、これが初めてだから。 しかし、それは致し方ないだろう。なにしろ新入社員と秘書室長という立場。普通に会話が出来る間柄ではない。 まして自分は必要以上に社交的な方ではないから。 そして、そのガードは社内一、固いから。 「昨日からだ」 言葉の頭でつっかえなかっただろうかと、また心臓が鳴る。 「長岡はどうしてこんなに早く来た」 どう言う答えを期待して尋ねたのか、自分でも今ひとつよくわからないが、心の高揚が、そんな質問を投げたに違いない。 しかし、淳は驚いたように固まってしまった。 狼狽えているのが…わかる。 その瞬間、高鳴っていた心臓はひんやりと凍り付いた。 そう、今はまだ、こういう間柄でしかないのだ。 自分が今なすべきことは、この新入社員を一人前の秘書に育て上げること…だから。 長岡淳は、予想以上に素直で純粋な質のようだと、和彦は感じていた。 自分の叱責にも嫌な顔を見せず、動作も機敏だ。 今日のニュースを頭にたたき込んで置け…と命じれば、真剣にそれを遂行している。 しかし、この短時間にこれらすべてを頭に入れるには時間が足りないはずだ。 和彦は淳の様子をじっと見つめていた。 淳は…どうやら情報の振り分けをやっているようだ。 必要であること、そうでないこと…。 そんな様子を見て、和彦は内心でホッと息をつく。 採用の時点でもちろん自信はあったが、しかし、予想外の感情を抱いてしまった今、酷くあやふやな足下がその自信を脅かそうとする。 きっと、大丈夫…。 何度かそう自分に言い聞かせていると、大二郎と学が連れ立って出勤してきた。 この二人、どちらかが出張でない限りは必ずこうだ。 まあ、一緒に暮らしているも同然だから仕方ないのだが…。 大二郎と学は、和彦を…そして、むさぼるように新聞を読む淳を交互に見て、ニヤッと笑ったかと思うと、口の形だけで朝の挨拶をした。 仕方なく和彦も同じように『おはよう』と返す。 どうやらこの二人にはすっかりお見通しのようで、いつ自分がそんなヘマをやらかしたのかと、納得がいかない。 沢木大二郎は和彦の大学の1年先輩だ。 自身が秘書室長に昇格したときに、商社のエリートだった大二郎を口説いてMAJECに引き抜いたのだ。 佐保学は会長がスカウトしてきた。 コロンビア大学の、まだ学生だったのだが、修士論文が終わるのを待って日本に連れてきたのだ。 二人の入社時期には1年ほどの差があるだけだ。 そして和彦は、この二人が『そう言う仲』になったとき、正直面食らった。 他人の趣味についてとやかく言う気は毛頭ないのだが、よりによって大二郎が、いくら可愛いとはいえ、同じ男である学に惚れ込んでしまうとは思えなかったのだ。 学生時代、ソシアルダンスの名手として名をはせていた大二郎は、パートナーの女性をとても大切にしていたし(確かに浮いた話は聞かなかったような気がするが…)、何よりも腰砕けになりそうな美声と、その優しさのおかげで随分ともてていたはずなのだ。 なのに何故。 そして、その疑問は後に、まるっきり自分に降りかかってくる事になった。 こうなってしまうと、まだ大二郎の方が『まとも』なような気がしてくる。 学は私服であれば女の子に間違われそうな容姿をしている。 が、淳はどうだ。 私服姿はまだ一度も見たことがないが、恐らくどんな格好をしても女には見えないだろう。 身長178cm。 いくら愛くるしい笑顔の持ち主でも、柔らかそうな白い肌でも、淡いピンクの唇でも、10代に見えても、紛れもなく…男性。 まだ『男の子』と形容した方が近いが、それでも『男』…だ。 大二郎と学が隣同士の部屋を借りて事実上の同棲を始めたときに、からかったり茶化したりしなくてよかった…と、和彦は真剣に思っていた。 そうでなければ今頃、自分はどんな目に遭っていただろうかと背筋が寒くなる。 自覚したての自分の『想い』。 心は急くが、慌てずに行くしかない。 いつになく冷静さを失う自分を、ことさら冷静に分析して、和彦は立ち上がった。 間もなく会長が現れるはず。 しかし…。 『冷静に』『慌てずに』と思った端から、事は起こる。 目下の最大の課題。 MAJEC代表取締役会長・前田春之…だ。 淳が入社して以来、いつもにまして下のフロアへ行こうとして…。 「淳じゃないか!そうかそうか、今日から秘書の仲間入りか」 ほら。いきなりだ。 「会長。社内では長岡とお呼び下さい。それに長岡はまだ秘書ではありません。本日から2週間、研修に入っているだけですから、個人的なお声掛けはご遠慮願います」 出来るだけ凍り付いた声色にしてみるのだが、この怪人には全く通用しない。 「和彦〜。何を意地張ってるんだ」 だから〜。 「社内では小倉とお呼び下さい。それに、意地など張っておりません」 百歩譲って、大二郎と学にばれていたとしても、会長にばれているはずなどないのだ。 この感情は。 見ると、大二郎は肩を震わせ、学は口元を押さえている。 「沢木さん、佐保。笑わないように」 出来るだけ固い声で言ったのだが、もしかしてそれがいけなかったのだろうか。 「あーっはっはっはっはっ」 二人は声を上げて笑い出した。 …まったく…。 午後、和彦は淳を連れ出した。 行き先は会長の自宅だ。 淳と会長の関係を考えると、まだ時期尚早かもしれないとは考えたのだが、やはり心の中の自分は随分と急いているようだ。 しかし、気持ちに反して、移動の車中はまるで通夜の席のようだった。 淳はどうやらびくついているようだし、自分も口をきけば何故か必要以上に高圧的になってしまう。 和彦は、半日ほど走っているような錯覚に落ちたが、いつもの通り30分で会長宅へ到着した。 「ここは?」 淳がやっと口をきいてくれたことに、和彦は安堵のため息を心の奥深くでつく。 「会長の自宅だ」 吹き抜けの広い玄関では、住み込みの家政婦が待っていた。 「いらっしゃいませ」 「遅くなりました」 言いながら、和彦は淳の様子をチラッと伺った。 紹介しておくべきか…。 しかし、いずれ会長自身が淳を…社員としてではなく、連れて来るだろう。 そう考えて、紹介は先送りにした。 会長宅で、和彦は淳と智雪を引き合わせた。 「どなた?」 そう言って和彦の後ろをのぞき込んだ智雪に、淳を紹介する。 「こちらは新入社員で長岡と申します」 智雪にとっては、それだけではない存在である淳なのだが、今それを言うわけにはいかない。 会長の耳にすら入れていないことであるし、まず『秘書室長がその事実を知っている』とは、淳は夢にも思っていないだろうから。 だが、淳は今、何を考えているだろう。 期せずして引き合わされた智雪を前にして。 しかし、淳はそんなことをおくびにも出さずに姿勢を正した。 「あの、初めまして。長岡ですっ」 「『あの』は余分だ」 つい、チェックを入れてしまう自分が情けないような、誉めてやりたいような、不思議な気分だ。 「初めまして。僕、前田智雪です」 智雪はその年齢に似合わない堂々とした態度で自己紹介し、握手を求めて右手を差し出した。 むろんそういう風に躾けたのは自分なのだが。 「長岡さんは年より随分お若く見えますね」 いくつかの会話のあと、智雪がそういうと、淳はわずかに目元を染めた。 もしかして、淳は若く見えることにコンプレックスでも持っているのだろうか。 そう思うと、たまらなく可愛くて、和彦は思わず小さな笑い声を漏らしてしまった。 瞬間、淳の肩がピクッと反応する。 …しまった。 やはり自分は浮かれているようだ。 和彦は改めて気を引き締める。 だから、何事もなかったかのように言わなければならない。 「さあ、始めましょうか」 会長の一人息子、智雪は年齢に似合わず、かなり強靱な精神力を元から備えているように、和彦は感じていた。 そうでなければ、きっと、もっと神経質で線の細い子に育っていただろうと思うのだ。 なにしろ、彼の両親はすでに取り繕う術のないほど不仲だから。 そんな中、父親は智雪に見えないところで愛情を注いでいる。 時間的に自分がかかわってやれない分を、和彦や大二郎、学に託して。 だが、母親の精神状態はすでに、我が子に愛情を注げる状態ではない。 そして和彦がいつも感じるのは、何故前田春之ともあろう人物が、ああいう女性を妻にしたか…という疑問だ。 他の事柄に関しては、和彦はこの雇い主を自分の両親の次に尊敬している。 だがやはり、『結婚』に関してだけは、納得がいかないのだ。 彼のことなら、それこそ生い立ちから何から、ほとんどすべてを本人から聞いている。 だが、『結婚』に関しては、その口から語られたことは一度もないのだ。 幼き日のトラウマということもないだろう。 前田春之氏の母親、響子はとてつもない賢母だから。 それは、現在の二人の関係を見ても明らかであるし、まして、淳がその響子に育てられて、難しい年齢であっただろうにもかかわらず、あれほどまっすぐ純粋に育ったことを見てもわかる。 そして、智雪もまた、滅多に会えない彼女を慕って…。 「でも、もう全然平気です。クラスに仲良しができたから」 中学入学前、傍目にわかるほどの元気のない様子を見せていた智雪だったが、ここのところの様子に和彦は安堵の息をつく。 「クラブもその子と同じところにしたんです。クラスでは僕が委員長で、彼が副委員長。とっても可愛い子で、弟が出来たみたいな気分です。何処へ行くのも何をするのも一緒だから、毎日がとっても楽しくて」 これほどまでに生き生きした智雪は久しぶりだ。 よほどその友人と気が合うと言うことなのだろうが、引っかかりもなくはない。 それは、智雪がわずかに頬を染めて、その『とっても可愛い子』の様子を語るから…。 智雪はまだ中学1年だ。 だが、最近の中学生は発育もいいし、さまざまなメディアを通して余計な知識も容易に手に入る。 まして、智雪は外見はともかく質は父親によく似ている。 だから、よもやと思うものの、可能性は捨てきれない。 なにしろ自分だって、まんまとこのざまだから。 会長の素行や大二郎と学の様子を目の当たりにしてきた日々の中でも、自分にだけは『関係ない世界』だと思っていたのに…。 もしかして、MAJECの33階には会長の病原菌でも蔓延しているのではなかろうか。 しかし、そうやって人のせいにしてはみても、自分の熱は今更引きそうもない。 和彦は、『仕方ないな』と諦めて、改めて智雪のその『友人』の身元を調べる手はずを内心で段取りしていた。 |
後編へ続く |