「I Love まりちゃん」外伝

困惑の33階
〜誘惑の33階・室長サイド〜
後編





「長岡」
「はいっ」
「いつまでその程度の資料の整理にかかっている気だ」

 確かに一人でやるには酷な量かもしれないと、和彦は内心で思いながらも叱責する。

『その程度』とは言ったが、その実、作業内容は単純なものではい。
 分類も何もされていない、今はまだ『ただの紙切れ』である文書を、『書類』として成立させるための作業だ。

 中身を正確に把握するところから始め、正確に分類づけ、さらにそれぞれを関連づけてひとつのものにまとめ上げていくという『整理』に必要なのは、物事を系統立てて考える能力と、集中力。
 
 だから、本来ならば『集中力』の限界を超える作業量であるべきではないのだ。
 淳にしても、本来なら愚痴の一つも言いたいところだろう。

「すみませんっ、急ぎますっ」

 だが、淳は恐らく言いたかったであろうことを飲み込んで、また視線を落とす。

 しかし、やはり集中力は限界を越えているのだろう。
 焦る手元はますますおぼつかなくなり、疲労による思考能力の低下をそのままに映している。

 そして、その様子に、和彦は思わず手を伸ばしそうに…。

 だが。

「淳くん、貸して…」

 和彦の、一瞬の油断の隙間を突くかのように、横から小さい声で学が言った。

「手伝うから…」

 もちろん、和彦はそれを聞きとがめた。

「佐保」
「はいっ!」

 そう、ここで手を貸すわけにはいかないのだ。

「それは長岡の仕事だ。余計な手出しは無用だ。そんなことより、明日は会長のお供で台湾だろう?早く帰って休め」

 もちろん、学を早く帰してやりたいというのも本心だが…。

「でも…」
「何度も同じ事を言わせるな」
「…はい」

 間違っても、自分がさしのべそうになった手を、誰かに横取りされそうになったことに対してどうこうという意味ではない…と、必死に自分に言い聞かせる。
 そして、これはあくまでの『淳のため』なのだと。



 学が帰ったあと、秘書室は寒いほどの静寂に包まれていた。
 音といえば、淳がめくる紙の音だけ。
 和彦は淳の様子を腕組みしたまま、まるで石像のようにじっと見つめて…。



 第一秘書にして秘書室長、そして実質MAJECの人事権を握る小倉和彦が、初めて長岡淳の存在を知ったのは、採用試験のために提出された履歴書によって、だった。

 MAJECの中でも最も狭き門となる『本社採用』。
 だが、その最初の門戸は意外にも広い。

 職歴を考慮に入れることはしても、学歴はまず関係ない。
 年齢制限もなければ、国籍制限もない。

 だから大勢の人間が採用には押し掛けることになる。

 そんな中で、書類の段階で和彦の目に留まるということは珍しい。

 淳が一流大学の卒業だろうが、添付された写真が年齢よりずっと若く見えようが、そんな人間は他にも大勢いる。

 そして、たとえ書類の段階で目に留まったとしても、その後の試験と面接で和彦が要求するレベルに到達できなかった者は、容赦なく切られていく。

 むろん、人数を満たすだけの採用もしない。
『これ』といった人間がいなければ、採用ゼロと言う場合もあるのだ。

 だが、淳は残った。春奈とともに。
 そして、それを喜んでいる自分が、確かにそこに、いた。





 和彦は、内定を出す段階ですでに『今年の二人は秘書に育てる』と決めていた。

 そんな矢先だった。
 確認のためもう一度目を通した淳の履歴書に記載されている現住所。

 これは、もしかして、記憶の隅に残っているものと同じではないかと和彦は思い至る。

 調べると答は簡単にでた。

 淳の父親は映画監督。
 生母は女優。継母も元女優。

 それは、その場で会長に報告して然るべき内容であった。

 だが、和彦はそれをしなかった。  


 本社採用に関しては『縁故』などと言う言葉の通用しないMAJECにあって、それでも恐らくこれは唯一絶対であろうと思われるコネを持ちながら、それを使わずに、堂々と正面から挑んできた淳を、そのままに迎えてやろうと思ったのだ。

 会長への報告は、いずれ時を見て。

 もしそれで処分されるようなことになっても、かまわない…と。 









 さらさらの髪、白い肌、薄桃色の唇。
 真摯に見つめ返してくる、意志の強そうな、しかし穏やかな光を湛えた大きな瞳。
 幼いほどの笑い顔。 

 いつの間に、この目は彼を…、彼ばかりを追うようになったのだろう。

 そして、いつの間に、目だけでなく、心までもが彼を追うようになったのだろう。 






「室長…」

 漸く自分のなすべき仕事を終えた淳が、驚いたように、しかし小さく声を漏らした。

 そこで初めて、和彦はじっと淳を見つめていたことに気付く。

 そんな和彦を、信じられないといった面もちで見つめ返す淳の瞳は、今はただ、驚きと困惑ばかりで…。

 だが、いつか、もっと違う視線を寄せてくれたなら…。 



「やっと終わったか」
「あ、はい」
「『あ』は余分だと何度言ったらわかる」
「すみませんっ」
「…早く片づけろ」
「はいっ」

 けれど今は、淳を一人前の秘書に育て上げる方が先。
 淳のためにも、MAJECのためにも、そして…。

「お待たせしてすみませんでした」 
「ああ、待った。この大切な秘書室に、見習いだけ残して帰れるわけがないだろう」

 もしも、淳に対して特別な感情を抱いていなければ、きっと、もっと余裕を持って接してやれたのだろうにと、今は自身で十分自覚している。

 だが、淳に早く一人前になって欲しいと要求する自分の身勝手な暴走は、もうすでに止められないし、止める気もない。

「すんだらさっさと帰れ」
「…はい」


『疲れただろう、早く帰ってゆっくり休め』

 本当はそう言って労ってやりたい。

 けれど、一度でも甘やかして、淳の笑顔を見てしまったら…。

 きっと自分は崩れてしまう。

 淳の笑顔見たさに、やるべき事を忘れてしまうかもしれない。


「すみませんでした。お先に失礼します」 

 一礼して逃げるように秘書室を後にする淳の背中を見送り、和彦は一つ、大きな大きなため息をついた。

 そうでもしないと、この切なさに体中が占領されてしまいそうで。





「随分手こずっているようだな、和彦」

 まるで今のため息を合図にしたかのように、淳が帰ったすぐあとの秘書室を、ノックもなく入ることのできる唯一の人物が訪れた。

 誰がいったい何に手こずっていると言うのだ…と、和彦は内心でらしくもない突っ込みを入れる。

 そう。会長は、どうも必要以上に淳をかまう傾向にある。

 だがしかし、旺盛なセクハラの割には、会長は社員には手を出さない。

 それは、24歳の時からずっと会長を誰よりも近くから見ていて実感していること。

 なのに…。

 もしかして、淳の素性を報告しなかったのは、思わぬところでの計算違いになったのだろうかと、和彦は不安になった。





「というわけで、私の審査は合格だ。あの天然ぶりではどんな懐柔も用をなさん。スパイなどもっとも務まらんタイプの人間だな。あれは」

 私の審査…?
 その言葉に、和彦は内心で頭を抱えた。

「まさか…、私の留守中に、長岡にも例のことを?」
「当たり前だろう?甘言に乗せられようなヤツでは困るからな。なんと言っても、秘書室はMAJECの中枢だ」

 なんてことだ。
 まさか留守中にやってしまうとは。
 しかも、大二郎も学も、そんなことは報告してこなかった。

 そもそも、なんだかんだともったいぶった理由をつけてはいるけれど、とどのつまり、『審査』というのは会長の趣味に他ならない。

 そのことは、和彦にはとてもとてもよく、わかってはいる。
 だから、わざわざ口出しをするような真似をする気は毛頭なかった……はずなのだが。

 こうもあっさり、自分が自分を裏切ってしまうとは。

「…それで、長岡は…」
「聞きたいか?」

 聞きたい。
 ものすごく聞きたい。

 だが『聞きたい』と素直に言えるのなら苦労はしない。

 でも聞きたい。

 しかし、普段のテンションがすでに、通常比の5割り増し以上強情になっている和彦の口からは、

「…別に…」
 という言葉しかでてこない。

 挙げ句の果てに、
「誤解のないように申し上げておきますが、あくまでも人事の責任者としてお伺いするのです」…などと言ってしまえば、これはもう会長の思うつぼだろう。

 容赦ナシの壮絶な流し目を挑戦的に送られて、和彦は瞬間『しまった』と思うがもう遅い。



「腕の中に引きずり込んで…」
 
「そのまま抱きしめて…」
 
「床に押し倒して…」
 
「組み敷いて…」

「あの時の怯えた顔と言ったら」
 

 血管がぶち切れそうだ。
 噴火秒読みといったところか。

 そして、とどめの一言。


「私のものになれば、和彦を追い出して第1秘書にしてやる…と言った」

 噴火直前の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。 

「…なんですって?!今までは、富と名声は思うがままだとか、一生遊んで暮らせるとか、気を失うほど可愛がってやるとか、そんな誘い文句だったじゃないですか!それをどうして長岡に限って…!」

 何故、自分が引き合いに出されねばならないのだ。
 よりによって。淳相手に。


「お前だって知りたいだろう?淳の中で『秘書室長』がどんな存在なのか」
「会長…」

 まさか、この人にまで気付かれて…。

 見つめ返す自分の瞳が不安げに揺れていることになど、和彦はまったく気付いていない。

 そして、会長は内心で新鮮な驚きを楽しんでいた。


 万事にそつなく、まさに政治的とも言えるほどの手腕で自分を支えてくれるこの片腕が、意外にも『恋』に関しては不器用者なのだと知って。


「あいつ、言い切ったぞ。室長をないがしろにする事だけは許さない…とな」

 静かに告げる言葉には、彼なりのエールが込められていて。

 今やなくてはならない大切大切な片腕が、よりによって愛する響子さんが手塩にかけて育て上げた淳に恋をしたのだ。

 これを応援してやらずしてなんとする。


 だが…。


「あんなすごい人は二人といない。それを色ぼけの挙げ句に追い出そうとはどういう了見だってな…それはすごい剣幕だったぞ。どうだ、嬉しいか」

 応援してやるからにはそれ相応に楽しませてもらおう。

 瞬間、和彦の表情が変わる。
 まったく、言葉のいちいちに新鮮な反応を返してもらえて嬉しい限りだ。






 そうやって暫くおちょくって遊んでいたのだが、やがて、和彦はまた、第1秘書の顔になった。

「会長。一つ、重要なご報告があります」

 そろそろ真面目に釘をさしておかねば…と和彦は腹をくくる。

「なんだ?」
「長岡淳の母親の名は響子と言います」
「きょうこ?」
「はい、長岡響子。ひびく…こ…と書きます」
「まさか」

 わざわざ目を丸くしてみせる。

「その、まさかです」

 言葉を失う会長を見て、和彦は今更ながらに長岡響子という人物の影響力を思う。

「申し訳ありません。内定前にはわかっていましたが、私はどうしても長岡が欲しかったんです。彼はMAJECにとって必要な人間になると感じましたから」

 和彦は、背筋を伸ばしたまま、精一杯の謝罪を込めて頭を垂れた。


「…それでは、淳は最強のコネを持ちながら、それを使わずに自力で入ってきたというわけか」
「そういうことになります。私も内定直前に初めて知りましたから」
「なんて事だ…」



 長岡響子。
 旧姓、前田響子。
 16歳で春之を産んだ女性である。
 そして、淳は、その響子が後妻として嫁いだ先の末っ子であった。



「まさかお前、それを計算して淳を入れたんじゃないだろうなっ!淳だったら私に邪魔されずにすむとか思ったんじゃないだろうなっ!横暴だぞ!第1秘書っ!」

 だが、会長は和彦の思いとは違う方向に暴れた。

「いい加減にして下さい!誰がそんなことまで計算しますかっ!採用に私情を持ち込んだ覚えも毛頭ありませんっ!第一、私が本気になったのは淳が入社してからですっ!」


 しかし、それもこれもすべて会長の掌上の出来事。

 いつの間にか和彦は想い人を『淳』と呼んでいるし。


『ここは社内だぞ〜♪』なんて浮かれてる会長の心の中など、今の和彦にはわかろうはずもなく…。

「………あ」
「いやあ、和彦くん、若いっていいねぇぇぇぇ」
「かいちょう〜」

 この件ではこれからもまだまだ楽しめそうだ。

「悪いがな、私も入社式で初めて淳に会ったとき、おや…っと思ったんだよ。長岡家にはその日のうちに連絡を入れたさ。響子さんと私は今でも仲良しだからね」

「会長っ!ご存じだったんですかっ?卑怯ですっ、人が真剣に悩んでいるのにっ!」

「だーかーらー、私が取り持ってやろうとしてるんじゃないか〜」

「けっっっっっっっこうですっ!自分の始末くらい、自分でつけますっ」



 和彦のマジ切れ状態なんて、滅多にみられるものじゃない。
 まして、それがこんなに『可愛いこと』で…だなんて。

 会長、幸せの絶頂である。



「…ちょっと待って下さい…」

 急に和彦が面もちを変えた。

「…会長、淳が響子さんの子だとわかっているなら、わざわざ誘惑に引っかかるかどうかなんて、試してみる必要なんてなかったでしょう?!」

 そう、『あの』響子が育てた子ならば、MAJEC=前田春之を、裏切るはずなどないのだから。

「あ、ばれたか」
「ばれたかじゃありませんっ」

 MAJEC会長・前田春之。
 母が元女優ならば、早世した父もまた、舞台俳優だったのだから、これくらいの演技力はなんのことはない。


「だって〜、秘書採用の恒例行事じゃないか〜。お前や大二郎なんか誘惑してもぜ〜んぜん面白くなかったしさ〜。春奈くんの担当は私じゃないし〜。まなちゃん以来、久しぶりに誘い甲斐のある優良物件だったんだも〜ん」

「かいちょう〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」


 ちなみに『富と名声は思うがままだとか、一生遊んで暮らせるとか、気を失うほど可愛がってやるとか』…なんていうのは、和彦を誘惑したときに会長が吐いた言葉である。



 その時和彦はこう思ったものだ。

 給料は、妹たちを養っていける分があればそれでいいし、名声には興味なし。こんなにやり甲斐のある仕事に就けたのだから、一生遊んで暮らす気など、さらさらない。

 気を失うほど可愛がる?
 この自分のどこを見て、そんな腐った事を思いつくのか、一度会長の頭の中を覗いてみたいものだ。
 それとも、「可愛がる」の意味が違うとでもいうのだろうか……と。
 



 小倉和彦、29歳。
 気を失うほど可愛がってやりたい子が現れた春。

 遅い初恋の始まりだった。



END



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