「I Love まりちゃん」外伝
秘書室長のつまんない休日
〜魅惑の33階への前哨戦〜
後編
『春姫の呟き』
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廊下で音がした。 ぼんやりと開けた目で確認した時計は6時すぎ。 きっとお兄ちゃんが新聞を取りに行って帰ってきた物音に違いない。 せっかくのお休みだって言うのに、仕事人間のお兄ちゃんはどうしてもこの時間に目が覚めちゃうみたい。 私も起きて、コーヒーでも淹れてあげようかな…って思ったんだけど…。 だけど、昨夜、ゼミのコンパで夜更かししちゃったから…ダメ…眠い……。 次に私が目を開けたのは7時半を回った頃。 今度は頭も結構すっきりしてるから、気分的にはもうちょっと惰眠をむさぼっていたいところだけど、思い切って起きた。 今度こそ、お兄ちゃんにコーヒーでも…って思ったんだけど、きっと、お兄ちゃんのことだから、私の分まで朝ご飯の用意をして待ってるに違いない。 もう、私の面倒を見る事なんてないのに。 そりゃあ、お兄ちゃんのご飯は美味しいから好きだけどね。 すっかり日差しが入り込んだ明るいリビング。 あ、やっぱり。 お兄ちゃんはキッチンにいた。 冷蔵庫の前でレタスを…。 レタスを…。 レタス……持ったままで何ぼんやり立ってるの? 私のお兄ちゃんは29歳。もうすぐ30歳だけど。 MAJECっていう大きな会社で会長秘書をしていて、いつも世界中を飛び回って仕事をしてる、ちょっと……ううん、かなりかっこいい自慢のお兄ちゃん。 おまけに仕事だけじゃなくて、炊事洗濯掃除――なんでも万能の、我が家のスーパー主夫でもあったのよね。ほんの少し前まで。 でも、一番面倒をかけた末っ子の私ももうすぐ二十歳。 当然自分の事は全部自分でちゃんとやってるから、もうお兄ちゃんの手を煩わせることはない。 お姉ちゃんたちもみんなもう一人暮らしをしていて――お兄ちゃんに面倒をかけているとしたら、私と、まだ医大生の冬那姉ちゃんの学費…くらいだと思う。 でも、MAJECはものすごくお給料がいいから、そんな心配は全然いらないんだって、お兄ちゃんは言うんだけど…。 ほんとのところの私の心配はそんなところじゃなくって…。 私たち兄妹は7年前に両親を亡くしてしまい、当時大学を出たばかりだったお兄ちゃんにすべてを頼る事になってしまった。 その時、一番上の秋葉お姉ちゃんが16歳。私はまだ12歳だった。 だからお兄ちゃんはそれから今までの間、働くことと、私たちの面倒を見ることで手一杯で、彼女を作る暇もなかった。 3人のお姉ちゃんたちは、そんなお兄ちゃんの負担を少しでも減らそうと、大学へ入るときに一人暮らしを始めてこの家を出た。 なのに。 お兄ちゃんってば未だに何にもないの。 彼女の話どころか、ほんのちょっと浮いた話さえないの。ぜんっっぜん。 お姉ちゃんたちも、しょっちゅう連絡してくるけど、必ず最後にお兄ちゃんの事聞くのよね。 『で、彼女…できそう?何とかならないの』って。 みんな、『お兄ちゃんの青春を奪ってしまった』…って自覚、すごくあるから、何とかしたいって気持ちはわかるんだけど。 でもね、そんなこと私にいわれてもねぇ。 けれど、私だって早くお兄ちゃんにいい人できないかなって真剣に思ってる。 だって、秋葉お姉ちゃんにはパイロットのだんな様がいて、冬那お姉ちゃんにはお医者さんの彼氏がいて、夏実お姉ちゃんも会社の先輩と社内恋愛中で、私にだってBFはたっくさんいるんだけれど、このままじゃ大学出てもお嫁にも行けやしない。 だって、私がいなくなっちゃったら、お兄ちゃん、この家に一人っきりになっちゃうんだよ。 そんなの、可哀相…。 どこかに、お兄ちゃんを大切にしてくれる素敵な「お姉さん」、いないかなぁ…。 でも、実際変だよね。 お兄ちゃん、仕事もできるしお給料もいいし、顔だっていいし背だって高い。 絶対もてると思うんだけど。 もしかして、すっごく理想が高くて、ちょっとやそっとの人じゃダメなのかなぁ。 それにしても…。 お兄ちゃんってば、いつまでレタスを握りしめてる気だろう? あ、おまけにまた、ため息なんてついちゃってるし。 お兄ちゃんに限って…とは思うけれど、会社で何かあったのかな。 そう言えば、この春からよね。ため息をつくようになったのって……って、これは…もしかして…。 「お兄ちゃん」 声をかけると、お兄ちゃんの肩が面白いくらいにビクついた。 「…春姫、起きてたのか」 ずっと前からね。 「いつになったらサラダ食べられるかなぁ」 「あ、ああ、すまん。すぐやるよ」 「手伝うよ」 大好きなお兄ちゃんと並んで立つ朝のキッチンも捨てがたいけれど、でも、お兄ちゃんには誰よりも幸せになって欲しいから。 よし!決めた! これは徹底調査よねっ。 ☆ .。.:*・゜ そう決めた週末が明けて、月曜日。 お兄ちゃんは、結局休みの2日間、どこへも出かけないで静かに――ため息の数は増える一方だったけど――過ごし、いつも通り出勤して、今日から3日間は国内出張で帰ってこない。 私は大学へ行く前に、マンションのゴミ置き場にゴミを捨てに行ったんだけど、そこで、みたことのあるお姉さんに声をかけられた。 「ねえ、もしかして小倉さんちの妹さん?」 同じマンションの…えっと1階下に住んでる人だったっけ。 「あ、はい、小倉です」 そう答えると、お姉さんはニコニコしながら側へ寄ってきた。 「急に声かけてごめんね。私、一つ下に住んでるものなんだけど」 あ、やっぱり。 「実は私の親友が、この春にMAJECって会社に入社したんだけど…」 「あ、それ、兄が勤めてる会社です」 「やっぱりそうよね〜? よかった、違ってたらどうしようってちょっとドキドキしてたのよ」 お姉さんはそう言って胸を何度か撫でたあと、またニコニコ顔に戻って言った。 「私の友人は秘書室勤務なんだけれど、小倉さんのお兄さんも秘書さんよね?」 …秘書室勤務!? 「あ、あの、そうですっ、うちの兄、秘書ですけど…、あの、あのっ、入社したお友達って、それって、もしかして、お、女の人ですかっ?」 「え。ええ、そうだけど」 ちょっとちょっとちょっと! お兄ちゃんってば、私そんな話聞いてないよっ! MAJECの秘書室は男の人ばっかりって言ってたじゃん! 女の人、入ったんだっ! 「す、すみませんがっ、その人っ、どんな人ですかっ」 持っていたゴミを放り投げて詰め寄った私に、お姉さんはちょっとたじろいだんだけど、すぐににっこり笑って教えてくれた。 「甘木春奈って言ってね、今年東大の院を卒業して、5カ国語を操る才媛よ。しかも美人でモデル並みのスタイル」 うわお。やったねっ。 お兄ちゃんにぴったりじゃん! 「はるな」さんかぁ。 「おぐらはるな」……うーん、ちょっとゴロ悪いけど、よく考えたら私と一字違いよね。 えへへ。これも何かの縁ってこと? ……あ。もしかして、お兄ちゃんのため息はそれが原因? 上手く口説けないのとか? うーん、お兄ちゃんってそこのとこ奥手そうだしなぁ…。 まあ、それというのも私たちがお兄ちゃんの青春を奪っちゃったせいなんだけど…。 「でね、唐突でほんとに申し訳ないんだけど、その彼女が小倉さんの事を色々と知りたがってるの」 え? じゃあ…向こうも脈アリっ〜?! 「一度妹さんをお食事とかにお誘いしてもいいかなぁ…なんて言って…」 「いきます! 絶対行きます! いつでもいいですっ! どこでも行きます!!」 これを逃す手はないよねっ。 向こうもお兄ちゃんの事が気になってるんなら、私が一肌脱ごうじゃないのぉ〜。 未来のお義姉さんを私がこの目でしっかり見定めてあげるよっ、お兄ちゃん! こうして、私がいつでもOKって言ったおかげで、なんとその週末の夜にも噂の「甘木春奈」さんと会うことになった。 でも、その前に予備調査はかかせないわよね。 決めた。今日、ガッコさぼる。さぼってMAJECまで行ってこよっと。 MAJECの社員章はよ〜く知ってるから、ビルの前で張り込みしちゃおうっと。 私はマンションのお姉さん――川上さんって言うんだけど――に、甘木春奈さんの高校時代の写真を見せてもらった。 大人っぽくてめっちゃ綺麗な人だった。今もあんまり変わってないって言ってたから、絶対わかるはず。 ☆ .。.:*・゜ 午後のオフィス街。 MAJECのあるビルはたくさんの企業が入っているから、時間帯に関わらず、人の出入りはすごく激しい。 私はもちろん、秘書さんたちのスケジュールなんて知らないから、ここでひたすら張り込むしかないんだけど…。 でも…。もしかして、会長のお供…とかだったら絶対車よね? うう…。こんなところで張り込んでても無駄かなぁ…。 随分時間が経って、ちょっと焦り気味になった私は、ほんの数歩、ふらっと前にでた。 その時。 「危ないっ!」 急ブレーキの音とほとんど同時に、私の腕が掴まれて強く引っ張られた。 すぐ近くでちょっと悲鳴が上がったりして。 ………。 気がつくと、目の前にバイクが横倒しになっていた。 そして、私は何だかすごくいい匂いのする暖かい腕に抱えられていて……。 「大丈夫かっ?」 私の真上で聞こえたその声に、バイクの男の子がよろっと立ち上がって言った。 「…あ〜、びっくりした…」 「びっくりしたじゃないっ」 「あ、はいっ、すみませんっ」 「いくら急ぎの便だからって、事故を起こしてちゃ何にもならないだろうっ! だいたい、歩道でエンジンを掛ける事自体間違ってるっ」 「はいっ、すみませんっ」 バイクの男の子はひたすら謝ってて…。 「いい? 同じミスをしないように。それと、彼女に謝って」 「はいっ、あの、すみませんでしたっ!」 …って、私に言ってる? 「あ、ええと」 もしかすると、私はこのバイクに轢かれそうになったとか? 「怪我はない?」 聞こえてくる声の方に顔を上げると…。 …うわ…。なんて綺麗な男の子…。 「あ、はい、なんとも…」 「…よかった」 ホッとした顔で微笑んだのがまたキラキラして。 「あの〜」 バイクの男の子がまた怖ず怖ずと声を掛けてきた。 その声に、めちゃめちゃ綺麗な男の子はちょっと厳しい声で応えた。 「ここはいいから、早く…あ、でも気をつけて行って」 厳しいんだけど、柔らかい声。 「は、はいっ。で、あの…」 「大丈夫。室長には言わないでおくから。その代わり、今度同じ事したら報告だからね」 「はいっ! な、長岡さんっ、ありがとうございます! これから気をつけます!」 そう言ってぺこっと頭を下げると、バイクの男の子は、これでもかって言うくらいしつこく左右確認をしてから、走り去っていった。 「本当にごめんなさい。あれ、うちのバイク便なんです。二度とこんな事のないように十分気をつけますので許して下さい」 …長岡さんって言うの? …え? スーツ? じゃあ、可愛い顔してるけど大学生じゃないんだ。 それに……この社員章は…MAJEC!! 「あの…君、大丈夫?」 返事もせずにポーッとなってる私に、長岡さんって呼ばれた超美少年は心配そうな顔を向けてきた。 「もしどこか痛むようだったら…」 そうか、これが、一目惚れってやつなのね。 「僕はこのビルの中の…」 「MAJECの社員さんですね」 長岡さん…は、ほんの少し色素が薄めの瞳をまあるくした。 「あの、うちの兄もMAJECの社員なんです」 「…えっ?!」 「私、秘書室に勤めている小倉和彦の妹で、小倉春姫といいます」 長岡さんは、キラキラ光る瞳を、さらにまあるくして、ジッと私を見つめてくれた。 これが、私と淳くんとの出会い…だった。 |
END |
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