第2章「創雲郷」





1.永遠の郷


 数え切れないほど遠い昔。
 気候に恵まれた土地で、人々は豊かに暮らしていた。

 天空におわす創造主がすべてを司り、地には人が王国を成し、天からその統治を委ねられた地上人――『天子(てんし)』――が君臨し、強大な国家が誕生していた。



 国造りが安定期にはいると、人々は創造主を祀る寺院を建立した。

 国の中心―天子の都―から高地に向かって約5日。

 空により近い土地に、天空信仰の中心地、創雲郷がある。

 創雲郷には信仰の中心、『創雲寺』が据えられ、天空にすむ創造主を祀っている。

 その創雲寺には大座主と呼ばれる高僧が鎮座し、人々の尊敬を集め、人々を良き方向へと導く。

 そして、その他、筆頭末寺の花山寺(かざんじ)をはじめ、いくつもの末寺があり、それぞれに座主がある。

 また、創雲郷には本宮(ほんぐう)と呼ばれる宮があり、天子の一族から別れた者が、信仰と政治を結ぶ重要な役目を担って郷の治安を守り、国中の信仰を高めていくべく存在している。


 王国はいくつもの季節を重ね、人々はこの世界の永遠たらんことを信じて疑わなかった。





 果たして何代目の大座主に当たるのか、不世出の高僧とあがめられる老僧は齢七十を数えていた。 

 かたわらに控えるのは、筆頭末寺、花山寺の座主、籠雲(ろううん)。
 若干十八歳ながら、その徳と明晰な頭脳で、すでにこの職にあって二年が経とうとしている。

 肩までの真っ直ぐに伸びた赤褐色の細い髪。
 涼やかな目元には知性が浮かび、静かに語る唇はいつも穏やかに結ばれて、年齢よりはほんの少し落ち着いた印象の青年であった。




 そして、何事もなく連綿と続けられる信仰の郷の生活に異変があったのは、この前年のこと。

 まだ三十代だった本宮が、急な病を経てこの世を去ったのである。

 その後まもなく、わずか四歳の若宮が本宮を継承し、そしてまた、郷は静かな日々を送りはじめていた。






2.予言の夢


 ある日の明け方のこと、花山寺の座主、籠雲は不思議な夢を見た。

 天空から光が降りて籠雲の前に立つ。
 光の中を見ようとするが、目もくらむまばゆい光に、目を開け続けていることすら難しい。

 光がおごそかに言う。



やがてこの地を覆う邪悪の気。
心優しきこの地の者を守るため、私は一人の御子を遣わそう。
御子を守り育てるがよい。
御子はやがて“導く者”に成長する




 光は去った。音もなく。

 籠雲は寝台の上で目を開けた。
 そこに光はない。
 しかし、彼方から騒がしく僧たちの駈ける音が近づいてくる。

 「座主様! 門前に赤子が…!」





 赤子はとろけるような絹地にくるまれていた。

 見習い僧たちは赤子の母を捜すべく、郷から降りた。

 ここ、創雲郷に女性はいない。
 入ることが許されるのは、本宮の后とその女官数名のみ。

 しかし、今、五歳の本宮に后は当然なく、本宮の母宮もすでに他界している。
 后が存在しないのだから、仕える女官もない。
 赤子の母は、郷の外から入ったとしか考えられないのだ。

 しかし、ここ創雲郷の足元に、里は多い。
 実際のところ、赤子の母探しは難しいであろうと、籠雲はため息をついた。
 



 籠雲は腕の中の小さな命を見つめながら、今朝方の夢を思い出していた。

 赤子が平和にあくびをする。
 その時、小さく、鈴の音がしたような気がした。

(まさか、この赤子がそのような大それた運命を背負っているようには見えまいが…。さて、夢のことと言い、大座主様にご報告申し上げるべきか…)

 平和な赤子は、今度は小さなくしゃみをした。
 また、小さく鈴が鳴ったような気がする。

「ああ、これはいけない。風邪をひいては大事だ。誰か、赤子の衣装を揃えてきてはくれまいか?」

 すぐに若い僧が現れ、一礼の後に寺院をあとにした。

「鈴瑠…。」

 籠雲は小さく呼んでみた。
 浄い生き物は、その体内から鈴の音を漏らすと言われている。
 

 また小さく清かな音が漏れた。

(しかし、赤子とは言え、女性にょしょう。郷に置いておくわけにも行くまい。どうしたものか…)
 

 赤子のあまりの可愛らしさに、見間違えた籠雲を誰も責められはしない。

 腕の中の綺麗な赤子は、創雲郷で育つ資格を立派に持っていたのである。
 
 

 



3.鈴瑠(りんりゅ)


『清かな鈴の音』と名付けられた赤子は、創雲郷の祈りと規律の中で、健やかに成長を遂げていた。

 男子とは思えない愛らしい顔立ちは、女性のいない創雲郷では目を引くものだったが、利口で活発な鈴瑠は、いったん動き始めると、途端にやんちゃぶりを発揮し、花山寺の僧たちを振り回しては籠雲にたしなめられ、僧たちの修行の場の末端に座らされる羽目になっていた。 




「鈴瑠、鈴瑠は何処へ行った」

 花山寺の若き座主、籠雲が、瞑想の場を離れ中庭へ出てきた。

 行き交う修行の僧たちに、鈴瑠の所在を訊ねる。

 幾人かの僧から
「存じませんが」
と言う答えを得た後、やっとのことで、鈴瑠がよく懐いている、まだ十代の見習い僧をつかまえた。


「鈴瑠でしたら、数刻前に門を出るのを見かけましたが…」

 あれほど黙って花山寺を離れてはいけないと言い渡してあるというのに、鈴瑠はまた出かけたようだ。
 行き先は、『静泉溜の森』に決まっている。


「今日は大切な話があると言い置いたというのに…」

 籠雲がため息をついたのを、見習い僧は苦笑して見守る。
 いかなる時にも冷静な導き手、籠雲が感情を乱すのは、いつも、鈴瑠のことばかり。

「仕方があるまい…鈴瑠が戻ったら…」

 籠雲が言ったとき、後方で草を踏む音が微かに聞こえた。
 修行を積んだ僧たちの耳は、些細な音も聞き漏らさない。

「…鈴瑠だな」
 背を向けたまま、呼ぶ。

「…ごめんなさい…。籠雲様」 
 問われた当人は、消え入りそうな声で、謝罪の言葉を口にする。

 籠雲はいつも『謝るのなら、初めからしてはいけない』と教えているのだが、この可愛い謝罪には、弱いのだ。
 それは、自分も、花山寺の僧たちも皆同じこと。

 籠雲はゆったりとした所作で振り返り、鈴瑠を見る。
 その様子から、森で転げ回ってきたのは明らかだ。

「今日は大切な話があると言わなかったかな?」

 近寄って抱き上げる。
 やんちゃなくせに、柄は小さい。

「鈴瑠はいくつになった」
 頬についた泥を拭ってやりながら、問う。

「十になります」
「では、明日から、修行を始めるぞ」

 静かに、しかし有無を言わせない、籠雲の物言いに、鈴瑠は僅かに口を尖らせてから、小さく頷いた。

「鈴瑠、返事はどうした」

 ジッと見つめられてそう言われると、鈴瑠は、ほうっとため息をついて小さく答えた。

「…はい」

 その様子に、クスッと笑みを漏らし、籠雲は再び鈴瑠を抱え直す。

「さ、湯をつかわせてやろう」  
 




 この十年間、何事もなかった。
 鈴瑠の母も見つからなかったが。

 愛おしい鈴瑠と送る幸せな日々に、いつしか籠雲は十年前の明け方の夢を、記憶の奥に封印していった。





 さて、奇妙な噂が囁かれ始めたのは、鈴瑠が僧としての修行を初めてから半年ほど経ったころだった。

 創雲郷には、毎年、十歳になると親元を離れ修行にやってくる子たちがいる。

 鈴瑠はそう言う子供たちの中でも、いつも中心になってやんちゃをしているのだが、修行の子供たちから奇妙な証言が出てくるようになったのだ。

 最初は『鈴瑠が森で動物と話しているのを見た』と言う、子供じみたうわさ話だった。

 しかし、次には『足を挫いた子の患部に、鈴瑠が手を当てると、腫れが引いた』と言う内容が出回った。

 初めは他愛もないと取り合わなかった籠雲だったが、あまりに噂が一人歩きするために、仕方なく鈴瑠を呼んで問うた。

 しかし、返ってきた答えは、やはり他愛もないものだった。

「だって、痛そうだったから撫でて上げただけだよ」

 そう言われれば、
「鈴瑠は優しい子だね」
 と言うしかないだろう。


 そうして鈴瑠は、今夜も籠雲の膝の上で、寝てしまった。






3.竜翔(りゅうか)


 少年が、森の道を馬で駆る。

 肩胛骨に僅かに届く、栗色の真っ直ぐの髪。
 少年期を抜けようとしている時期の、危ういバランスが、彼の印象をより鮮烈に見せる。

 少年の名は『竜翔』。

 この国を統べる天子の甥にして、創雲郷の若き統治者、『本宮』である。

 父の急逝により、本宮に立ったのは、彼が四歳の時。 

 そして今、敬愛されるべき統治者に成長した竜翔は、十五歳になっていた。

 従姉に当たる、天子の皇女を后に迎える準備も着々と進み、すべてに順風満帆、公務の合間にこうして馬を駆るのを、息抜きとして楽しんでいる。



 木漏れ日が時々目を掠める。
 この静寂な森を、竜翔は何よりも愛していた。
 いつもの道をいつものように駆ける…。


「こらっ、どうした」

 いつもの道なのに、愛馬「秀空」の様子がおかしい。
 急に立ち止まり、それっきり前へ行こうとしないのだ。

「どうしたんだ、いったい。まさか疲れたわけではあるまい。お前ほどの駿馬が」

 しかし、なだめてもすかしても、愛馬が動く気配はまったくない。

 ぐるるるる…。

 その静寂の中、聞こえてきたのは、低いうなり声。
 創雲郷の森では聞いたことのない声だ。

 この郷にはどう猛な生き物はいないはず。
 それでも、周りの空気の澱みを感じ、竜翔は腰の刀を抜いた。
 この地で刀を抜くことなど、滅多にないことなのだが…。
 主の緊張を察したのか、秀空が鼻息を荒くする。


(囲まれて…いる…?)


 殺気に満ちた気配は、すでに辺りを取り囲んでいるようだ。

 突然、影の一つが動いた。

 瞬時に応戦するが、固い爪が、竜翔の頬にうっすらと血の筋をつける。

(くっ…。数が…多すぎる…)

 次に複数の影が動いたとき、
(うわっ!)
 辺り一面を、視界を引き裂くような光が走り、秀空が嘶きを上げ、竜翔は地面に叩きつけられた。

(やられるっ)

 固く目をつぶって、来るであろう衝撃に息を詰める。

 …が。

 いつまでたっても来るべきはずのものはこない。
 竜翔が固く閉じていた目を再び開いたとき、すでにあたりの気配は色を変えていた。


 そこには、いつもの愛すべき静寂と、柔らかな木漏れ日…。




「大丈夫?」

 うなり声が消えて、かわりに耳元を掠めたのは可愛い声。

 ゆっくりと視線を転じた竜翔の目に入ったのは、創雲郷にいるはずのない、少女。

「怪我は、ない?」 

 少女は再び問うと、竜翔の肩に手のひらを当てた。

 落馬して打ち付けた肩は激しい疼きをうんでいたのだが、少女の手のひらから流れ込んでくる浄い気が、籠もった悪い熱も取り払ってくれるようだ。

「あ…あぁ。すまない。なんだか、痛みが取れたようだ」
「よかった」

 少女は心底嬉しそうに笑うと、手にしていた草の束を見せた。

「これ、あげるね。良く揉んでから肩に当てるといいよ」

 手のひらに草の束を押しつけられたが、竜翔はそんなもの見てはいなかった。

 ジッと見つめるのは、少女の瞳。

 黒曜石の輝きを持つその瞳に、木漏れ日が僅かに入って、ゆらゆらと揺れてみせる。
 髪の色も、瞳によく似て漆黒。
 このあたりでは珍しい色だ。

「どうしたの? まだどこか痛いとこある?」

 小首をかしげて訊ねる少女に、竜翔はやっと言葉を取り戻した。

「いったい…」
「最近、ああいう怖いヤツらが時々いるんだよ。どこから湧いて来るんだろうね」

 少女は、竜翔がまだ怯えているものだとばかり思っていた。  

「お前は…大丈夫だったのか…?」

 自分でも対抗する術をもたなかったのだ。
 まして、こんな小さな少女ならなおのこと、怖い思いをしたに違いないのだが。 

「うん。思い切り『気』をぶつけると、逃げていくよ」

 何とも思っていないらしい。

「そうだ。これもあげる」

 そう言って少女は首に掛けた革ひもから瑠璃の玉を一つ引き抜いた。

「この玉は良い『気』を増やしてくれるから。守り刀の飾りにするといいよ」

 手に握らされた瑠璃を、竜翔は慌てて少女に返す。

「大事なものだろう? もらうわけにはいかない」
「大丈夫。二つもあるから」   

 少女は瑠璃を受け取ることなく立ち上がると、佇む秀空に声をかけた。

「お前も怖かっただろ? もう大丈夫だからね」

 少女が首を優しく撫でると、秀空はまるで返事をするかのように、鼻先を少女に当てた。

「んふ、くすぐったいよ」

 やがて、竜翔はゆっくりと立ち上がり、少女の背後に立った。

 まだ幼い。

 しかし、いったい何故、この郷に女性がいるのか。
 巡らせる思考は、少女の声で中断された。

「いっけない! 早く帰らないとまた怒られちゃう!」
「送っていこう」

 そう言って秀空を引く。
 どこから来た少女なのか、どうしても確かめたかった。

「ううん、いいよ。僕、近道知ってるから!」

 そう言って、少女…否、少年はあっという間に木立の中へ姿を消した。

(ぼ…僕…?)

 それならわかる。
 この郷には、修行中の可愛い僧たちがたくさんいるから。

 しかし、この胸の奥に灯った小さな火はいったい何か?

 竜翔はしばらく、少年が消えていった木立を見つめていた。  


 手の中には静かな輝きを湛える瑠璃の玉。
 竜翔はそれを愛おしげに握りしめ、小さく口づけた。