第6章「この想い、永遠に」




1. 眠りの薬


 鈴瑠と竜翔を引き裂いたあの日から、半年が過ぎようとしていた。

 創雲郷は事件のあと、漸く静けさを取り戻しつつある。

 鈴瑠が賊に襲われ、あろうことか本宮の奥の宮殿で命を落としたことは、創雲郷はもとより、警護の兵を出していた都の天子にも大きな衝撃を与えていた。 

 あれほど警護を固めていたのに、内部の人間の手引きにより、本宮暗殺まで企てられていたのだから。 





 事の発端はつまらないことだった。

 竜翔に恋慕の情を抱いていた新任の執務官が、鈴瑠の誘拐に荷担したと言うだけのことだったのだ。
 本宮暗殺はついでに過ぎなかった。

 しかし、竜翔の怒りは当然納まらない。

 自分が狙われたことより、鈴瑠を狙ったことの方が許せないのだから。



 その後の竜翔の粛正は、冷酷を極めた。

 首謀と見られる呪術を操る一党を有無を言わせず根絶やしにし、手引きをした執務官も、都へ送り返した上に処刑が言い渡された。

 鈴瑠の命を直接奪った、あの侵入者は、何故かあの場ですでに絶命していた。
 何の外傷もなかったことが、人々を不思議がらせたが、竜翔にとってはどうでもいいことであった。

 もし、絶命していなければ、この手でとどめを刺すまでのことなのだから…。



 そしてあの日以降、竜翔は必要以外の口をきくことがなくなった。

 朗らかな性格で、まわりをよく笑わせていた快活な竜翔はどこにもいなくなってしまった。






 もう一つ、あの日を境に不思議なことが起きていた。
 竜翔の他に、あの日以来急激な変化を遂げた人間がもう一人。

 天子の第一皇女、芙蓉姫。

 数年間病に伏せていた姫が、何故か事件の後、急速に回復をはじめ、ほぼ全快していたのである。

 もちろん、当然のように婚儀の日取りが決められた。
 その婚儀まであと僅か。







 夕暮れ時を過ぎようとしている創雲郷。

 今日も竜翔は、鈴瑠を捜して麓を飛び回り、無理矢理泊双が連れ帰らねば、そのまま夜通しでもかまわずに動き続けたであろう。


「竜翔様っ」

 泊双の声が飛んだ。

 執務の間、大きな卓に手をついたかと思うと、そのまま竜翔の身体は、ものも言わずに崩れ落ちた。

 身体の限界はとっくに超えていた。

 それでも、周りの『休んで欲しい』という声を竜翔は無視し続けていたのだ。

 眠ることも、食することも、今の竜翔にとっては不必要な行為。

 この命など、もう何の未練もなかった。

 きっと鈴瑠が迎えに来てくれる。

 竜翔はそう信じていた。

 鈴瑠が自分を置いて逝くはずなどないのだから。

 途切れていく意識の中で、竜翔は鈴瑠の名を呼ぶ。
 何度も、何度も…。







「使いたくはなかったのだが…」
「いたしかたあるまい。こうでもせねば、竜翔様まで命を落とされてしまう」

 半年前の面影などどこにもない、やつれた若者の枕元で、籠雲と泊双が小声で話す。

 倒れた竜翔に使った薬は、花山寺の秘薬。

 どんな獰猛な生き物でも、ほどなく昏睡に陥れてしまう劇薬である。

 量を誤ると命にも関わるため、扱えるのは籠雲と…そして鈴瑠だけであった。 



「せめて、亡骸が見つかっていれば…」

 泊双が呟いたのは鈴瑠のことである。

 あの血溜まりと、断崖の高さから考えれば、鈴瑠が命を落としたであろうことは、避けられない事実だと思われた。

 しかし、その後鈴瑠の亡骸は見つからずじまいだった。

 泊双はその事がいっそう竜翔を追いつめていると考える。
 せめて亡骸があれば、諦めもついたであろうに…と。

「籠雲…、鈴瑠はどこへ行ったのであろう…」

 眠ってもなお、苦しげな表情を浮かべる竜翔から目を離さずに、泊双が問う。

 その言葉には、やはり『鈴瑠は本当に死んでしまったのだろうか』といった思いが伺える。

 籠雲は静かに一つ、息をつくと、泊双の肩に手を置き、目線で『部屋を辞そう』と促した。







 創雲郷に夜が訪れる。

 竜翔が倒れたと知らせを受け、籠雲が駆けつけてから数刻が過ぎていた。

 本宮、奥の宮殿の東、竜翔の居室からほど近いところに、泊双の居室もある。

 勧められた椅子には、手触りのいい布を張った背もたれがあるにもかかわらず、籠雲は僧らしく、背筋を伸ばしたまま腰を下ろしている。



「泊双……鈴瑠は…死んではいないと思うのだ」

 その、静かに発せられた声に、翌日の予定を確認していた泊双の手が止まる。

「…どういうこと…だ」
「鈴瑠は…戻ってくる…」

『戻ってきて欲しい』の間違いではないかと泊双は思った。 

 しかし、そう告げる泊双の思いなど、意に介さず、籠雲は言葉を繋ぐ。 

「鈴瑠の使命はまだ終わっていない」

「鈴瑠の使命…?」

 それは鈴瑠が死の直前に誓約した、『終生、本宮に仕える』ということか。

「確かにあの時、鈴瑠は竜翔様の命を救った。しかし…鈴瑠の本来の使命は『この国を導くこと』のはずなのだ」 

 呟くように話を進める籠雲を、泊双が言葉で止めた。

「ちょっと待て、籠雲。それは、どういうことだ」

 あの小さな鈴瑠が国を導く…。

「籠雲…お前、何を隠している…?」

 低くなった泊双の声に、籠雲がうつむき加減だった顔をあげ、その瞳を凝視した。

「鈴瑠は…人の子ではない」 

 わずかの沈黙の後、泊双はその一言を、聞かなかったことにしてやろう、と言った。

「お前がそう思うのなら…私がこれ以上言うことは何もない」

 籠雲は顔色を変えないまま、音もたてずに立ち上げる。

「失礼する。また明日の朝、竜翔様の様子を見に来る」

 そのまま、機敏な動作で籠雲は扉へ向かった。

「……待て…待ってくれ、籠雲」    

 思わず呼び止めた泊双だったが…。

「何か…?」

 籠雲は冷えた声のまま、振り返りもせずに答える。

 その声を聞いて、泊双の胸に苦い後悔がこみ上げた。

 籠雲が根拠もなく物事を言う人間でないことは、誰よりもよく知っていたはずなのに。

「すまなかった…。私が間違っていた。許してくれ」 

 泊双の謝罪に、籠雲はらしくもないため息をつく。

「私こそ…悪かった。このようなことをいきなり聞かされて、信じろという方が無理なことだ」

「もし、良ければ聴かせてはもらえまいか。その…鈴瑠のことを」

 籠雲は振り返り、僅かに瞳を翳らせたが、やがて元の席へと戻ってきた。

 そして静かに口を開く。

「鈴瑠は…天から預かった子だ…」






2.夢


 その夢は明け方にやってきた。

 薬で眠らされてから、どれほど経ったときか。
 竜翔は自分を呼ぶ声にぼんやりと目を開けた。

『竜翔…』

 枕元に腰掛け、自分の髪を柔らかく撫でるのは…。

「り…んりゅ…」

 その姿は、あの日以来、死にものぐるいで探した愛しい人。

「鈴瑠…鈴瑠…っ」

 竜翔はその手を取り、きつく握りしめる。

 夢なのか。

 いや、竜翔にとっては夢ではない。握りしめた鈴瑠の手は暖かいから。

「迎えに来てくれたのか…」

 竜翔は安堵の息をつき、半年間浮かべたことのなかった微笑みを見せる。

「会いたかった…」

 どうして一人で逝ってしまった…と責めたかった。

 こんなに愛しているのに、どうして私を置いて逝った…、と。

 けれど、今こうして目の前に鈴瑠がいてくれるのなら…。



『竜翔…こんなにやつれて…』

 鈴瑠は心配げに顔を寄せてきた。

 竜翔はその頭を引き寄せ、そっと唇をあわせる。

 触れあった場所から伝わる暖かい感触は、忘れたことのない、愛する鈴瑠のもの、そのものだ。

 堪らずに、身体を引き寄せきつく抱きしめる。

 しかし…。

「鈴瑠っ」

 竜翔の腕は空を掴んだ。


 唇は確かに触れているのに。

 その手は温かいのに。


『ごめんね、竜翔…僕は、元には戻れない…』

「鈴瑠…どうしたというのだ…。迎えに来てくれたのではないのか?」

 鈴瑠は寂しそうに首を振った。

『竜翔にはまだ、やらなくてはいけないことがあるんだ…』 

「これ以上何を…!? 私は鈴瑠と一緒に逝きたい…っ」

『芙蓉様を…幸せにしてあげて…』

 思いもかけない人の名が出たことに、竜翔は目を見開いた。

「鈴瑠…何故? どうしてそんなことを言うっ」

『僕たち、必ずまた逢える。だから…僕の願いを聞いて…竜翔』

 鈴瑠はその両の手のひらで、竜翔のやつれた頬をそっと包んだ。

『竜翔…大好き…』






 薬の効果が切れ、竜翔が目覚めたとき、そこに鈴瑠がいたという痕跡は何一つ残っていなかった。

 唇に触れた暖かさは、確かに鈴瑠のものだったのに…。


 そして、竜翔の頬を、初めて涙が伝った。






3. 還る日


 本宮最奥の祭壇で侵入者に襲われた鈴瑠は、賊の大きな掌で顔を覆われ、ほとんど窒息に近い状態に陥っていた。

 朦朧とする意識の中、鈴瑠は必死で『気』を集めようとしたのだが、息をつけない中では、『気』は抜け落ちて行くばかりだった。

 しかし、賊の刀が竜翔を狙ったとき、竜翔の心が発した波動が鈴瑠に届いた。

 今しがた祭壇で、竜翔を守ると誓ったばかり。

 ないはずの『気』が一瞬にして鈴瑠に満ちた。

 そして…。

 胸を刺し貫いた衝撃の後、すべての暖かい物が、裂けた体から外へ流れ出すのを感じる…。

『気』『血』『力』そして…この『想い』…。  


(ごめんなさい…竜翔…。ずっと傍にいると誓ったのに…)

 鈴瑠の小さな身体は断崖に舞った。



 しかし、確かに、この身に刃を受けたのに、どこにも痛みを感じない。けれど、力も戻らない。

 その代わりに奇妙な浮遊感が全身を包む……落ちて行くはずなのに…身体が…浮いたような気がする。

(りゅ…うか…)
 
(僕は……還らなくては…)




 鈴瑠がその身体から、生きていくためのものすべてを失ったとき、残された道は天空へ還ることのみだった。

『自分は死んでいくのだ』と自覚した瞬間、落下を続けていた身体は浮き上がり、裂けている身体が痛みを訴えることもなくなった。

『竜翔にもう一度会いたい』と願ったが、目を開けても、視界には何も映らず、『竜翔』と呼んでみても、自分の声すら聞こえてこない。

 光とも闇ともつかぬ場所を漂って行く気配だけが、まとわりついている。

 どれほど漂っていただろうか。
 ふと、何かが聞こえた。

 祈りの声だ。


『竜翔様の心の平安と、創雲郷の安寧を…天空様に、この命をお捧げして、お願いいたします…』


 何度も何度も繰り返される真摯な祈りの声。

 その柔らかい声の主は、病に伏しているのか、酷く細く儚げだ。

 祈りの声に導かれ、ぼんやりと目を開けた鈴瑠は、自分が今、大きな街の上を漂っていることに気がついた。

『これ…は…?』

 見たことはないが、もしかしたら『都』ではないだろうか?

 祈りの声は、その街を一望の下に見渡せる、一際豪奢な建物の中から聞こえてきた。

 鈴瑠はただ、漂っているだけなのに、意識が捉えたその声の方向へ、身体は自ずと向かっているようだ。  


『竜翔様の心の平安と、創雲郷の安寧を…天空様に、この命をお捧げして、お願いいたします…』


『ああ…やっぱり…』

 鈴瑠は心の内で呟いた。

 祈る女性は床に伏している。
 何年も陽を浴びていないのか、透けるような肌は痛々しいほどに白い。
 病にやつれてはいるが、その面差しは穏やかで暖かい。

 美しい人だった。

『芙蓉姫…』

 鈴瑠は我知らず、その人の名を、心の内から発した。

 喉を通過していないのに、その声は確かに届いたようだ。

 竜翔の許嫁、天子の姫、芙蓉。



 白い絹地の天蓋に覆われたその床には、病の『気』が満ちている。

 普通の人間ならば、すでにその『気』に冒されて命を落としているであろう。

 しかし、芙蓉が未だ耐えていられるのは、高潔な魂と、祈りの心のなせる業か。

 けれど、その気高い精神も限界に近いように感じられる。


「ど…なた…?」

 鈴瑠はふわりと微笑むと、芙蓉姫の枕辺へ漂って行った。

 そっと、その優しい顔を覗き込む。

「あなたは…?」

 芙蓉姫の瞳は、確かに鈴瑠をとらえている。
 怯えた表情はどこにもない。
 むしろ、穏やかに受け入れようとその心を無意識に開いているようだ。

『僕は、鈴瑠と言います』 

「りん…りゅ…。 あ…あの創雲郷で亡くなった、竜翔様の…」

 芙蓉の濡れ輝く瞳に驚きが走る。

 竜翔が心から信頼し『生涯、傍に』と臨んだ片翼。

 終世誓約を行った直後に、その誓いの通り、身を挺して本宮を守り、散っていった人。

 噂で伝えられたとおりの、愛らしく知的な少年が今、目の前にいる。


「何故…ここに? …あなたは…亡くなってしまったのではなかったのですね…? それならば…ここにこうしている場合ではありません。早く戻り、竜翔様のもとへ…」

 芙蓉はそこまで言うと、荒く息を継いだ。
 肩を震わせ、身体をさいなむ痛みに耐える。

 しかし、その瞳は鈴瑠をとらえたままだ。

 あの日以来、竜翔はまるで人が変わったようだと伝え聞くことが、芙蓉の気持ちを暗く塞いでいたのだ。

 鈴瑠は、芙蓉の言葉と、その奥に流れる悲しみを、寂しげな表情で受け止めた。


『僕は地上で生きていくための肉体を失いました。もう…元の僕には戻れません』

 何が言わせるのか、鈴瑠は淀みなく言葉を紡ぎ出す。

『芙蓉…残された僕の『気』をあなたに与えます…。あなたは生きていく力を取り戻し、竜翔の元へいくのです。そして、この地の意志を継ぐものを残すのです』

 儚げな面差しからは考えもつかないほどの、力強い言葉。

 その声ですら、芙蓉の身体に力を与える。

 実体のない、鈴瑠の手が、芙蓉の頬に触れる。

 僅かに接触した場所が、ほんのりと暖かい。

 そして流れてくる命の息吹。


「鈴瑠…あなたは…天…」

 わずかに上気する芙蓉の頬。 

 発せようとした言葉を、鈴瑠の実体のない指がそっとその唇に触れ、とどめる。

『芙蓉…僕に出会ったことを、誰にも言ってはなりません』 

「あなたは…あなたは何処へ行くのですか? もう、戻っては来ないのですか?」

 芙蓉は今こうしている間にも、確実に精気を取り戻していく。

 鈴瑠は微笑んで頷いた。

『大丈夫。時が満ちれば、僕はあなたの傍へ…あなたと竜翔が残す、この地の『希望』の元へ帰ります。それまで…竜翔を頼みます…』

 鈴瑠の柔らかい掌が、芙蓉の頬をそっと撫でる。

 竜翔への限りない想いも込めて…。

『竜翔を…幸せに…して』

 途切れる言葉に引き出されるように、鈴瑠の頬を透明の光が伝う。

「鈴瑠…」

 芙蓉はそっとその光に唇を近づけた。

 その光からさえも、浄い『気』が芙蓉に流れ込む。
 そして、鈴瑠の精神も…。

『芙蓉…僕たちは…』

 そっと触れあう頬。
 実体はなくとも、芙蓉には感じる。確かに暖かい頬が触れていることを。

「鈴瑠…私たちは、竜翔様を…この地の浄い魂を…守らねばならないのですね」

 かつて、鈴瑠と竜翔の魂が交わったように、今、鈴瑠と芙蓉の魂もまた、浄い想いを交わす。

『力を貸して下さい、芙蓉』

 鈴瑠の腕に包まれて、芙蓉は穏やかに目を閉じる。

「天空様の、御心のままに…」







 鈴瑠は、芙蓉の元を離れて天に向かう。

 あたりは漆黒の闇、まばゆい光、どちらともつかない混沌とした世界。

 しかし、鈴瑠が行く先を違えることはなかった。

 天の子は、天に向かうのみ。

 そして、はっきりと自覚する。

 自分が何故、地に生を受けたのか。いや、地に降ろされたのかを。

 今、天に還るのは本意ではない。
 鈴瑠の使命は始まったばかりだったのだ。

 しかし、「人を愛する」という不確定要素が引き起こした不測の事態は、鈴瑠の地上での生を終わらせた。


 使命半ばに、地を離れた天の子は、これから何をしようとするのか…。






――――しばし安息の時を経て、天の子は再び降り立とう
心浄き人々の、高い精神を引き継ぐために――――






 愛を知った天の子は、悲しいほどに美しくなり、再び光臨する日を待つ。






4. 伝わる想い


 その日はぬけるような青空だった。

 普段は静かなこの郷も、今日ばかりは麓の里人にも開放され、都からも大勢の人間が詰めかけ、朝から賑やかに祝賀の華やぎが溢れている。



「竜翔様…」

 入ってきたのは、純白の衣に身を包む、芙蓉。

「芙蓉…綺麗だね…」 

 本宮の正装に身を包んだ竜翔が微笑んで迎え、芙蓉の手を取る。

 本来質素を旨とする本宮でも、婚儀には華やかな錦の衣が使われるしきたりなのだが、芙蓉はどうしても『白』に身を包みたいと言ってきかなかった。

 清楚で質素な『白』。

 芙蓉には思いがあった。

 あの日、鈴瑠が纏っていたのが光り輝く白の衣。

(私は、鈴瑠と一つ。鈴瑠が戻る日まで、私が竜翔様をお守りしなければならない…)

 いつか還ってくる鈴瑠に、幸せな竜翔を手渡すため。

 その決意を密かに秘めて、芙蓉は竜翔に微笑み返す。

 竜翔はその微笑みに、初めて芙蓉を迎えた日の事を思い出していた。






「ようこそ芙蓉姫。長い道のり、お疲れになったでしょう」

 竜翔は、7日の行程を経て、漸く創雲郷に到着した芙蓉姫を穏やかに迎え入れた。

 婚儀はどうしても嫌だと言い張ったが聞き入れられなかった。

 芙蓉が健康を回復し、鈴瑠がこの世を去ってしまったのだから、泊双も今度ばかりは折れてくれなかった。

 そんな、絶望と身体の限界の中で見たのが、鈴瑠の夢だった。



『芙蓉様を…幸せにしてあげて…』

 そう言って微笑んだ鈴瑠。

『僕たち、必ずまた逢える。だから…僕の願いを聞いて…竜翔』



 竜翔はその夢に、望みをかけた。

 そう、あの時の鈴瑠の唇は夢などではなかったから。

 もう一度、必ずまた逢うために、鈴瑠の願いを聞き入れる。

 残された道は、もうそれしかなかった。






「竜翔様にはご機嫌麗しく…」

 そう言って、芙蓉は顔をあげた。

 竜翔は、瞬間、瞳を張りつめる。

 心に張った氷の膜を溶かすような、暖かい微笑み。
 美しい人ではあったが、それ以上に笑顔が…鈴瑠に似ていた。

 顔の造りが似ているわけでは決してない。
 それなのに、何故かその面差しが鈴瑠を窺わせる。

 驚いたのはそればかりではなかった。

 問いかけに対する答え、驚いたときの反応、笑うときのきっかけ…芙蓉が見せる何もかもが…まるで鈴瑠が傍にいるような気にさせた。


『鈴瑠が願うのなら』


 そう考えていた竜翔の気持ちは、確実に変化していった。

 幸せにしてやれなかった鈴瑠への償いの気持ちを、芙蓉に埋め込んでいく。

 鈴瑠の分まで、芙蓉を幸せにしてやりたい…。

 鈴瑠に伝えきれなかった想いのすべてを、芙蓉に伝えたい…。

 最期の時、迎えに来てくれる鈴瑠に、胸が張れるように。



(鈴瑠…必ず、また逢おう…)



 本宮・竜翔は今、后・芙蓉の手を引いて、最奥の祭壇へと歩を進める。

 そして、婚儀を祝う祈りの声が、創雲郷を包みゆく…。