第7章「ここに想いがあるから」




1. 吉兆の星、災いの星


 一日の執務を終えたあと、竜翔がテラスから郷を見おろす。 

 その光景は以前と変わらない。
 しかし、見つめる先の花山寺に、愛しいものの姿はない。

 鈴瑠がこの世を去って、三年の時が流れた。

 二十三歳になった竜翔には、あの頃の溌剌とした面差しが消え、代わりに不思議な落ち着きと穏やかさが漂っていた。

 鈴瑠を失ったときには酷く荒れた竜翔であったが、やがて統治者としての自覚を取り戻していた。

 そんな竜翔の様子を、本宮や郷の者たちは『芙蓉様によって心の傷を癒されたのだ』と信じていた。

 それはある意味、間違いではない。
 しかし、まったく正しいわけでもなかった。






「竜翔様」

 背後から穏やかな声がかかった。
 籠雲である。
 腕には二歳になる若宮、翔凛(しょうりん)が抱かれている。

「眠ったか…」

 竜翔は、我が子を穏やかな眼差しで見守る。

 芙蓉との間に出来た子、将来この郷を統治するであろう子、翔凛。

「芙蓉は…」
「呼吸が安定されておられます…。今夜は苦しまれることはないかと…」

 籠雲の説明に竜翔が安堵の息をつく。

 竜翔に嫁して一年の後、芙蓉は翔凛を産んだ。
 そして、再び病の床に伏してしまったのだ。

 幸せにしてやれなかった鈴瑠の分まで愛を注いでいこうと決めていたのに、芙蓉の病状は悪くなるばかり。

 籠雲も懸命の看護を続けている。

 幸い翔凛が健康に育っているのが、竜翔や籠雲のせめてもの慰めであった。


 籠雲は腕の中ですやすやと眠る翔凛に柔らかい眼差しを向ける。
 こうしていていつも感じるのは、まるで、二歳の頃の鈴瑠を抱いているような錯覚に陥るということだ。    
 翔凛は、鈴瑠によく似ていた。何の血の繋がりもないというのに。

 しかし、籠雲は思う。
 まず、芙蓉の持つ雰囲気が鈴瑠によく似ているのだから…と。

 初めて芙蓉に挨拶をしたときには、驚くのと同時に安堵した。

 話し方、笑い方、仕種…どれをとっても鈴瑠の雰囲気だったのだから。
 竜翔が立ち直ってくれるであろうことは、その時に確信した。 




「翔凛は…鈴瑠に似てくるな…」 

 ぽつっと竜翔が呟いた。
 芙蓉を迎えてから、竜翔は滅多に鈴瑠の名を出さなかった。

「竜翔様…」

 それは、芙蓉に配慮してのこと…というのはよくわかっていた。

 しかし未だ、竜翔は忘れてはいない。
 心の底に住みつくのは鈴瑠、ただ一人。

「芙蓉に似ると、そうなって当然か…」

 微かに苦笑して見せ、竜翔は小さな翔凛を、籠雲の手から受け取った。

 健やかに寝息をたてる翔凛が僅かに身じろぎ、小さくくしゃみをした。

『りん…』

 微かに聞こえたのは…。

「鈴の…」

 竜翔と籠雲は、まさかという顔を見交わす。

「竜翔様…今までに…」
「いや、初めてだ」

 籠雲の問いに、竜翔は被さるように即答する。
 その時…。


「?」


 日が落ち、薄闇に包まれ始めた空に、細い光の蹟が走った。

「星が…流れたのか…?」

 竜翔は腕の中の翔凛を守るように抱きしめる。

 光が去ったあとに、一際輝く星が現れた。

「あれは…吉兆の星…」

 籠雲は星を読むことにも長けている。

「良い兆し…か」
「はい、そのように読みましたが…」

 応える籠雲の声が震えていた。

「籠雲…?」

 いつも冷静なこの『導き手』が声を震わせたのは、鈴瑠の身に降りかかった悲劇を知ったときだけだったが…。

「あ…いえ、何事もございませんが…」

 そう言って膝を折った。
 御前を辞する、という挨拶だ。

「あ…ああ、ご苦労だった…」

 竜翔の声を最後まで聞き、籠雲は早足で去っていった。







 花山寺へ帰る道。
 慣れた道なのに、息が上がる。

 今しがた目撃した光の蹟。
 あれは鈴瑠が去ったときに見たものと同じだった。

 そして、そのあとに現れた星。
 それは確かに吉兆の星だったが…。

 しかし籠雲は気づいていた。
 そのずっと後方に、災いの星もまた、同時に現れていたことに。

(鈴瑠…いつ…いつ戻ってくるのだ…)





 そして翌の明け方のこと。
 籠雲はまたあの夢を見た。

 天空から光が降りて籠雲の前に立つ。
 光の中を見ようとするが、目もくらむまばゆい光に、目を開け続けていることすら難しい。

 光がおごそかに言う。





御子が降り立つ
最期の使命を果たすために
心優しき私の御子が、この地で幸せを分かちあわんことを願う





 光は去った。現れたときと同じように、音もなく。


 寝台から飛び跳ねるように起きた籠雲は、全身に汗を滴らせていた。

 頬を伝うのは、汗ではなく、涙なのか。

(鈴瑠が…帰ってくる…?!)

 あの日から三年が過ぎようとしていた。


 その日一日の快晴を約束するかのように、輝く朝日が昇り始める。






「よっと…」

 まるで少女のような面差しの少年。
 漆黒の髪に黒曜石の瞳。伸びやかな手足は、華奢なままだ。

 彼の上に三年の月日は流れてはいない。


「あっ」

『ボチャン』

「うそっ…」


 目指したのは静泉溜の森。
 最奥の小さな泉のほとり。

 そう、『ほとり』を目指していたはずなのに…。


「どうしてはまるかなぁ…」

 びしょ濡れである。 

「自力で降りてくるのは初めてだからなぁ…。僕、ヘタだな、空飛ぶの…」

 衣を脱いで、絞り、手近な木の枝に掛ける。
 幸い穏やかに風が吹いている。程なく乾くだろう。

 ここは相変わらず人の気配がない。
 しかし、所々に見られるのは動物が草を噛んだ跡。

「秀空だ…」

 竜翔の愛馬・秀空の気配が僅かに残されている。 

 竜翔はこの場所を忘れてはいないのか。
 嬉しさと同時に、胸に痛みが走る。

「竜翔…」






 まだほんの少し湿り気を帯びた衣を纏い、少年は郷へと入っていく。

 森を抜けてすぐのところ、巡礼者のために、寺院への供物を売る店がある。
 一番前に並ぶのは、郷で栽培されている可憐な花々で作られた色とりどりの供花だ。

 籠雲の好きな花があった。
 ジッと見つめていると、店の奥から老人が出てきた。

「いらっしゃい。綺麗な花だろう? どこの寺院へお参り……」

 もちろん顔見知りの老人だ。
 よく可愛がってもらい、いつでもおやつを用意してくれていた、優しい人だ。

「り…」

 見上げた老人が絶句した。

「…変わらないね。元気そうで…よかった」

 そう言って、可愛らしい笑顔を向ける。

「ね、このお花もらっていってもいい? 僕、今何も持ってないんだ。後で持ってくるから」
「い…いや…花山寺へ供えるよ…。も、もってお行き…」

 老人は目を見張ったまま、漸く言葉を繋ぐ。

「ほんと? ありがと! また遊びに来るねっ」

 駈けていく後ろ姿を呆然と見送る。

「りん…りゅ…?」







 花山寺の御堂。

 明け方の夢を引きずったまま、籠雲は祈りを捧げていた。

 心の中で、鈴瑠の『意味』を問う。
 吉兆の星と災いの星、同時に現れた意味を問う。

 ふと空気が揺らいだ。

 背後に感じるのは、鮮烈なまでに浄い『気』。
 このような『気』を発する人間を、籠雲は一人しか知らない…。


「りんりゅ…?」

 小さく声にしてみた。


「ただいま戻りました。籠雲様」


 届いた声は幻ではないのか。



 ゆっくりと振り返る籠雲。
 視界に入ったのは、ここを去ったあの日からまったく変わることのない、愛らしいままの鈴瑠。

「鈴瑠…」

 立ち上がり、ゆっくりと近づく。
 鈴瑠もまた、ゆっくりと近づいていく。

「ご心配を…おかけいたし…」

 言葉の途中で、鈴瑠は籠雲の腕の中に抱き込まれた。

「信じていた…鈴瑠は必ず戻ると…信じていた」

 力強くまわされた腕が、鈴瑠の緊張を解いていく。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

 何度も繰り返し、鈴瑠は自分の育った場所に懐かしい温もりを感じていた。






 鈴瑠が帰ってきたらしいという話は、あっと言う間に郷中に知れ渡った。

 鈴瑠自身が語った事実として、『断崖から転落して川に流されたあと、遥か下流、もうこの国ではないところまで流されたが奇跡的に救い出され、身体の回復に一年、帰郷に二年がかかった』という話が伝えられた。

 その話を意図的に流したのは、籠雲だ。







「鈴瑠、教えてはくれまいか」

 深夜の花山寺、私室で籠雲は鈴瑠にそう切り出した。

 日が落ちるまで、花山寺は一目鈴瑠に会おうと大勢の僧や郷のものが押し掛け、大変な騒ぎだった。
 やっと落ち着いて二人が話せるようになったのは、もう翌日になろうとしている刻限だ。

 今日、本宮は何の動きも見せなかった。
 郷の騒ぎは十分に伝わっているはず。

 恐らく竜翔は、床に伏せる芙蓉に配慮をしているのだろう。



 鈴瑠は穏やかな眼差しで籠雲を見つめる。

「僕が…戻った意味…ですか?」

 籠雲は静かに頷いてみせる。

「籠雲様はご覧になりましたね」

 鈴瑠は視線を夜空へと向ける。
 その先にあるのは…。

「星…のことだな」

 籠雲もまた、星へと視線を移す。

 昨夜に続き今夜も吉兆の星と災いの星が、近くに、遠くに、重なり合うように輝いている。

「僕は、翔凛にすべてを託すために帰ってきました」

 籠雲は双眸を見開いた。

「鈴瑠…お前は翔凛様のことを…」

 鈴瑠がいない三年間に何があったか。

 正直、籠雲は竜翔からの使いが来なかったことに安堵していたのだ。


 すでに、芙蓉という后を迎え、翔凛という世継ぎをもうけている竜翔。

 鈴瑠に事実を知らせることは、あまりに酷なことだと思うのは、育ての親として当然の情であろう。

 だが、表情を暗くした籠雲に、鈴瑠は穏やかに笑って見せた。

「大丈夫。僕は…大丈夫です」

 期せずして別れてしまった三年前、あの時に比べると、鈴瑠はずっと大人びた表情をする。

 しかし、その外見は三年前と何ら変わっていない。

 鈴瑠は今年十八歳になるはずだ。 
 しかし、目の前の鈴瑠は成年式のまま。
 少年がもっとも成長する時期だと言うのに。

 籠雲は一つ嘆息する。
 鈴瑠は時を止めてしまったのだろうかと。

 ふと、明け方の夢が蘇った。


『心優しき私の御子が、この地で幸せを分かちあわんことを願う』


 鈴瑠の幸せとは…。

「鈴瑠、お前はまた、この地で生きていけるのだな…?」

 それは、籠雲らしくない、気弱な物言いだった。

 鈴瑠はそっと頷く。
 しかし、浮かべたその微笑みが、悲しほど優しかったことに、籠雲は言葉をなくしてしまった。


「もう、どこへも行きません」


 そう、鈴瑠はもう、何処へも行かない。
 何処へも行けない。


 終焉の日まで、この地に在り続けなければならないのだから…。






2.立ち尽くす想い


 翌朝、籠雲は芙蓉の様子を見に、本宮へ上がった。
 
 先に執務の間へ寄り、竜翔に挨拶をするべく膝を折る。

「早くからすまない…」

 声色が、微かに震えていた。

 籠雲はそこに、竜翔の想いをはっきりと感じ取る。

 昨日、郷中を駆けめぐった鈴瑠帰郷の話…。

 今すぐにでも確かめたい、今すぐにでも逢いたい。
 しかし、それをしてはいけない立場の自分もまた、同時にここにいる。 

 竜翔から口にすることが出来ないと言うことは、籠雲には痛いほどわかる。

 ならば…。

「竜翔様…昨日、鈴瑠が戻って参りました」

 つとめて穏やかに言う。

「そう、か」

 絞るように出した声の後、苦しいほどの沈黙が流れる…。


「酷い怪我だったようですが、今はすっかり元の鈴瑠に戻っておりました」

 執務の机上、白くなるほど握りしめている竜翔の拳が、震えている。

「落ち着きましたら、いずれご挨拶に上がらせます。鈴瑠は…終世誓約を立てた、本宮の人間でございますから…」

 話し始めより、さらに落ち着いた声を出す籠雲に、堪えきれず、竜翔はついに自身の本当の声を吐いた。

「今さら…鈴瑠にどのような顔をして会えばいい…。私は、『生涯共にあろう』と誓ったのに、鈴瑠を……裏切ったっ…。 酷い怪我をしていたのに、私は見つけてやることも出来ずに……己が楽になることのみを考えた…。 夢枕に立った鈴瑠が、『芙蓉を幸せに』と言ったことを理由にして…」

 竜翔の言葉に、籠雲はスッと眉をひそめた。 

 鈴瑠が竜翔の夢枕に立ったというのは、今初めて聞いたことだ。

 しかし籠雲には確信がある。
 それはきっと夢などではなかったのだ。

 鈴瑠は確かに、竜翔と芙蓉の幸せを願ったのだ。

「竜翔様…鈴瑠は何もかもわかっています」

 籠雲はもとの穏やかな顔に戻り、あやすように静かに声を掛ける。

 竜翔が泣き濡れた瞳をあげた。

「鈴瑠は何もかも知って…それでも、戻ってきたのですよ…」

 そう。昨夜、鈴瑠は言ったのだ。 

『竜翔様と幸せになるために戻ってきたわけではありません…』と。

 天の子、鈴瑠。

 それはわかっていても、籠雲の目の前に立つ鈴瑠は、何もかも超越した存在には見えなかった。

 自分の想いに蓋をして、苦しみ、悲しみ、もがく一人の人間……それが昨日再会した鈴瑠の姿だった。



「どうか竜翔様、笑顔で鈴瑠を迎えてやって下さい。 そうでなければ…鈴瑠も…いつまでも苦しむことになります」

 有無を言わさぬ口調の籠雲に、竜翔は唇を噛みしめる。

『頼むからこれ以上苦しめないでやってくれ』

 そう聞こえたのだ。

 もちろん、籠雲はそのつもりだったのだが。



「芙蓉様のお側へ参ります」

 静かにそう言い置いて、籠雲は辞した。

 そして、残された竜翔は、静かに自分を責め苛み続けた。






「芙蓉様…お目覚めでいらっしゃいましたか」

 芙蓉の寝室に入った籠雲は、美しい瞳をこちらに向けている芙蓉を見て驚いた。

 いつもならば、前夜の薬湯の作用で、まだ目覚めてはいないはずの刻限なのだ。

 籠雲の姿を認め、枕元にいた女官が静かに膝を折って辞していく。

「籠雲…今日はとても気分がいいの…。身体が暖かくて…空気が綺麗で…」

 いつもならば、話すとその声に気管支を通過する呼吸の雑音が混ざるのだが、今朝の芙蓉は、嫁いできた頃の美しい声で言葉を紡いだ。

「それはよろしゅうございました」

 籠雲が芙蓉の手にそっと触れ、脈を取ろうとしたとき、ふいに芙蓉が籠雲の後ろに瞳を向けた。

「鈴瑠…? 鈴瑠ね」

 嬉しそうにそう言い、瞳が姿を探している。

 驚いたのは籠雲だ。
 何故ここに鈴瑠がいる。

 いや、それよりも、何故芙蓉が鈴瑠を知っているのか。


「ああ…。身体が暖かいのも、空気が綺麗なのも、あなたが帰ってきたからなのね。 お願い、早く姿を見せて、鈴瑠」

『芙蓉…』

 鈴瑠の声が、頭上から響いたような気がした。

「芙蓉…ただいま…」

 次の声は、真後ろからはっきりと聞こえた。
 籠雲が振り返ると、そこに、鈴瑠がいた。

「鈴瑠…」

 呆然と見つめる籠雲に、鈴瑠は少し照れたような顔を見せた。

「ごめんなさい、籠雲様」

 そう言って、芙蓉の枕辺へ寄り添った。

「お帰りなさい、鈴瑠…」

 芙蓉は白く透き通った手を、鈴瑠に差し伸べる。

「芙蓉…ごめんなさい。辛い思いをさせて」

 鈴瑠はその手をしっかりと握り、これ以上はないと言うくらいに慈愛に満ちた笑顔を向けた。

「あなたが帰ってきてくれて…嬉しい…」

 芙蓉は、水晶のような涙を、ポロッと一つ…零した。

「早く…竜翔様にお会いになって…」

 芙蓉のその言葉に、籠雲が鈴瑠を凝視する。

 鈴瑠はニコッと微笑んだ。

「ええ、そうしましょう。芙蓉は何も案ずることはありません。さぁ、ゆっくりお休みなさい」

 子守歌のような鈴瑠の声に、芙蓉は安らかに微笑んで、静かに眠りに入っていった。 







 本宮からの帰り道、やはり籠雲は一人だった。

 鈴瑠はそのまま、先に戻ると言って窓から姿を消した。
 竜翔には逢わないでよいのかと訊ねたが、鈴瑠は小さく首を振って答えたのだ。

『まだ、竜翔様の心の整理が出来ていないようですから』…と。

 それは存外に冷たい物言いで、籠雲は改めて鈴瑠の中に重くのしかかるものを強く感じていた。







 だが、鈴瑠と竜翔、二人の再会の日は思いの外早くやって来た。

 鈴瑠が戻ってから10日目のこと、2、3日前から容態が悪化していた芙蓉が、『最後にもう一度鈴瑠に会いたい』と竜翔に訴えたためだ。

 しかし、鈴瑠は戻った日から、毎日、密かに芙蓉に会いに行っていた。
 それにもかかわらず芙蓉がそう言ったのは、『明日にでも…』と言いつつ、いっこうに竜翔に会おうとしない鈴瑠に焦れたためであった。

 芙蓉の魂は、一時的とはいえ鈴瑠の『気』によって癒されている。それだけに、鈴瑠の心も痛いほどわかってしまうのだ。

『このままでは逝けない』

 芙蓉は強くそう思った。

 自分は『幸せな竜翔と翔凛』を鈴瑠に託すために、生き長らえたのだから。






『最後にもう一度鈴瑠に会いたい』

 そう芙蓉に頼まれて、驚いたのは竜翔だった。

 奥の宮殿のさらに最奥にいる芙蓉。
 鈴瑠の話を耳に入れないでおくのは容易なことだった。

 芙蓉が知るはずもない鈴瑠と言う人間。
 なのに『会いたい』と言った。
 しかも『もう一度』と…。

 いったい、鈴瑠と芙蓉はいつ何処で会ったのか。
 沸き上がる疑問はいくら考えたところで何一つ解決を見なかったが、竜翔は決意した。

 芙蓉の命が尽きかかっていることも、もはや避けられない事実となっていたから。





 午後、数刻前の薬湯の効果が出始めて、芙蓉が少しでも楽な頃合いを見計らって鈴瑠が呼ばれた。

「鈴瑠…」

 竜翔たちの待つ部屋の前。
 心配そうな顔で鈴瑠を見おろすのは泊双だ。

 籠雲からだいたいのことは聞いている。
 しかし泊双もまた、この三年、竜翔を間近で見てきたのだ。
 この間、竜翔が芙蓉によって慰められながらも、心の底に刺さる棘の痛みと闘ってきたことは、誰よりもよく知っているつもりだった。

 しかし、そんな泊双の心配をよそに、鈴瑠は優しく微笑んで、頷いた。




 竜翔は芙蓉の寝台の傍らに立ち、眠る翔凛を抱いていた。
 籠雲もいない、親子三人だけがいる、芙蓉の寝室。

 扉を叩き、泊双が『鈴瑠が参りました』と声をかける。

 ほんの僅かの後、竜翔の返答を待って、泊双が扉を開ける。


 一歩入っただけで、鈴瑠が歩みを止めた。
 泊双は静かに扉を閉めて辞した。


 何も言わない、見つめ合うだけ。


 竜翔の前に立つのは、十五歳のままの鈴瑠。
 本宮に仕える人間の証、緋色の衣。

 引き裂かれてしまった日がまるで嘘のように思え、竜翔は思わず駆け寄って抱きしめようとする自分を渾身の思いで押しとどめる。




 痛いほどの沈黙の後、やがて鈴瑠が、作り物のように綺麗な微笑みを浮かべた。

「ご挨拶が遅くなり申し訳ありませんでした。本宮様にはご心配をおかけいたしましたが、戻って参りました」

 穏やかに述べる鈴瑠に、竜翔は全身から血の気が引く思いをしていた。

 見た目は十五歳だが、その微笑みも、物言いも、あの日の鈴瑠ではなかったから。

 やはりあの日の出来事は嘘などではなかったのだ。

 鈴瑠は自分を許してはいない…竜翔ははっきりと思い知った。




「鈴瑠…」

 横たわる芙蓉がか細い声をあげた。

 その言葉を受けて、鈴瑠は静かに芙蓉の元へ歩を進める。
 そして、枕辺で膝を折る。

「芙蓉様、初めまして。鈴瑠です」

 その言葉を聞いて、芙蓉は小さく笑いを漏らした。

 芙蓉の様子に、竜翔は驚いて目を見張ったが、芙蓉も鈴瑠もまったく意に介してはいない様子だ。

「鈴瑠…後を…頼みます」

 苦しげな息の下、それでも芙蓉は微笑んだままでそう言った。
 その優しさに、鈴瑠はありったけの思いを込めて囁く。


「天空様の御心のまま…に…」


 言葉の最後は涙で震えた。
 鈴瑠の頬を伝うものに、芙蓉はそっと指を触れ、何度も何度も頷いた。

 そして、竜翔に視線を移す。

「竜翔様…芙蓉は幸せでございました」

 やがて、荒くなり始める芙蓉の息づかい。

 籠雲が呼ばれ、奥の宮殿は慌ただしくなった。
 しかし、鈴瑠にはわかっていた。

 打つ手はもう、ない。 




 三年前に、すでに終わりの時にさしかかっていた芙蓉の命を、鈴瑠の『気』で無理に引き延ばしていたも同然だったのだから。

 後の世に『天の意志を継ぐもの』を残すために。

 そして、鈴瑠の帰りを待って、その命は今度こそ本当に尽きようとしている。

 いくら芙蓉がその使命を喜んで受け入れたとは言え、芙蓉に辛い思いをさせてしまったことには変わらない。




 万策が尽き、後は見守るだけとなった時、鈴瑠は籠雲の僧服をギュッと掴んだ。

 誰かに気持ちごと寄りかかりたい…。

 自分は天の子。
 しかし、だからといって、自身が神であるわけでも、全能であるわけでもない。

 自分は天の意志を地に伝える媒介でしかないのだ。

 たとえ、肉体の時間は止まっても、心の中は、人として生きていた時そのままの鈴瑠。

 優しさも悲しみも苦しみも、そのままの鈴瑠であるのだから。




『僕は…芙蓉に酷いことをしたのかもしれない…』

 小さくそう呟く鈴瑠を、籠雲は自らの僧服で覆うように抱きしめた。 

「たとえ運命がその一人にとって残酷なものであっても、それが、愛する人の為になるのであれば、芙蓉様はやはり、喜んで受け入れられたであろう」 

 籠雲の言葉が、鈴瑠の心に染みわたる。


 そしてそれから数日後、芙蓉は静かに輪廻へと戻っていった。


『鈴瑠を幸せにしてあげて』と、竜翔に言い残して。






3.翔凛


 芙蓉が輪廻に戻った翌日から、鈴瑠は本宮に入った。

 しかし、竜翔に仕えるためではない。
 翔凛に仕えるためだ。

 芙蓉が逝く前に『鈴瑠を翔凛の教育係に』と切望し、泊双も籠雲もそれに同意したからだった。

 ただ、竜翔だけが、拭いきれない罪悪感に捕らわれ続けている。 





 鈴瑠が二歳の翔凛と共に暮らすのは、奥の宮殿の最奥。

 翔凛が馴染んでいるから、と言う理由で、芙蓉の居室と寝室をそのまま使っている。

 竜翔の居室とは部屋を一つ挟んだだけ。
 けれど、そこに竜翔がやってくることはない。

 翔凛は一日のほとんどを鈴瑠と過ごす。
 夕刻、竜翔の執務が終わる頃に、竜翔の元へと行き、夕べの祈りを共に捧げ、夕食の前に鈴瑠の元へ帰ってくる。

 それは芙蓉がいた頃と何ら変わりはない。

 ただ、翔凛の傍にいるのが、芙蓉から籠雲に、そして鈴瑠に変わったというだけのことだ。

 しかし、鈴瑠は絶対に竜翔の執務室へは行かない。

 翔凛を竜翔の元へ連れていくのは、泊双の役目になった。
 翔凛が、泣いて鈴瑠にしがみついても、鈴瑠は必ず泊双に翔凛を託す。
 
 二人は同じ宮殿にいながら、まったく顔を合わせることなく日々を過ごしていた。








 そして、鈴瑠が本宮へ入って半年ほど経った時のこと。

 その日、竜翔は珍しく昼の時間に執務中の表宮殿から、居室のある奥宮殿へと戻ってきた。
 居室においてある文献を取りに来たのだ。

 そう言うことは、いつもなら泊双がするのだが、たまたま都からの使いが来ていて、席を外していた。

 他の執務官を呼んで取りに行かせてもよかったのだが、気分転換にと、自らやって来たのだった。


 静まり返る奥宮殿の廊下を行くと、光の射す方向…中庭から子供の笑い声が聞こえてきた。

 あまりに楽しそうなその声に、誘われるように竜翔が歩を進める。

 濃い緑、色とりどりの花が植えられた、広くはないが光が溢れるその中庭に、翔凛と鈴瑠がいた。

 転げ回って遊んでいる様子は、よく似ているだけに、まるで兄弟のようだ。

 声を上げて笑う姿に、竜翔は目を奪われた。

 笑っている鈴瑠は、竜翔が愛したあの日のままの鈴瑠だったから。

 やがて遊び疲れたのか、翔凛が鈴瑠に向かい手を伸ばした。

「りゅりゅ…だっこ…ちて」

 最近文章らしい言葉を話すようになった翔凛が、まわらない舌で懸命に鈴瑠を呼ぶ。

 まだ、『りんりゅ』とは呼べないようだ。

 鈴瑠は微笑んで小さな身体を抱き上げる。

「いっぱい汗をかきましたね、着替えに参りましょう」

 愛おしげに頬をあわせてそう言うと、鈴瑠は廊下へと目を転じた。

 そこには、いるはずのない竜翔の姿。

「…りゅう…」

 言葉に詰まった鈴瑠の代わりに、可愛い声が竜翔を呼んだ。

「とーたま」

 その声に、竜翔は精一杯優しい声で返す。

「翔凛…楽しかったか?」

 そう言いながらゆっくりと庭へ降りてくる。

「いつもすまないね…鈴瑠」





『鈴瑠』
 この前、こう呼びかけたのは、いったいいつのことだったろうか。 

『鈴瑠』
 この前、こう呼びかけられたのは、いったいいつのことだったろうか。






「とんでもございません…」

 翔凛を抱いたまま、目線を下げ、膝を折る。

「鈴瑠…」

 呟きと同時に、長い腕が、鈴瑠の身体にまわされた。
 翔凛ごと、抱き込まれる…。

「りんりゅ…」

 震える吐息が、鈴瑠の首筋に降ってくる。

「許してくれ、などとは言わない…。私はお前との誓約を違えた。けれど、これだけは信じて欲しい…。私はお前を…」

 しかし鈴瑠がその言葉を最後まで聞くことはなかった。 

 腕の中の翔凛をそのまま竜翔の胸に預け、抱きしめる竜翔の腕からすり抜ける。

「鈴瑠っ!!」
「りゅりゅ」

 追い縋る翔凛の声すら振り解いて、鈴瑠は走った。 
 翔凛の泣き声が僅かに聞こえたが、止まることなど出来はしない。

 そのまま最奥の祭壇へ向かう。
 そしてさらにその奥のテラス…。

 三年前、自分が命を落とした場所へ…。



「竜翔…っ」

 そのまま断崖へ身を躍らせる。

 しかし…鈴瑠が落ちることはない…。

 フワッと浮いたその身体を、鈴瑠は自分で抱きしめる。

「竜翔…竜翔…」

 口にするまいと決めていた名を何度も呟く。

 抱きしめられたところが熱い。
 触れられたところが疼いている。

「竜翔…愛して…る…」

 零れる涙だけが、吸い込まれるように谷底へ消えていった…。   






「竜翔様…どちらへ」

 執務の間に竜翔がいなかったため、泊双は探し回ったようだった。

「翔凛様…」

 執務中の真っ昼間だというのに、竜翔の腕には泣き疲れて眠る翔凛の姿があった。

「いったい何事ですか」

 説明を求める泊双に、竜翔は暗い表情で答えた。

「泣きやんでくれなくて困ったよ…」
「鈴瑠は…」

 その名を竜翔の前で呼ぶのは、未だに緊張が強いられる。

「…鈴瑠はどうしたのですか」

 そう言いながら、泊双は竜翔の腕から翔凛を受け取る。
 泣きはらし、疲れ切った表情で眠っている。

「鈴瑠、鈴瑠…と泣いてな…」

 泣きそうな顔をしているのは竜翔の方だ。

「鈴瑠はどうしたのですか、とお尋ねしておりますが」

 きつい口調になった泊双の顔を、竜翔はチラッと見て、そしてそのまま視線を伏せた。

「鈴瑠を…怒らせてしまった」

 あれだけ避けあっていた二人に何があったのか。
 泊双は眉をひそめた。

 芙蓉が亡くなって半年。
 竜翔が遠慮をしなければならない理由はもう何処にもない。

 それに、鈴瑠が、この三年間の竜翔を責めているとも思えない。

 三年前と違うのは、翔凛がいる、と言うことだけだ。
 しかし鈴瑠はその翔凛を片時も離さず、愛情を注いでいる。

 なのに、何故二人は避けあうのか。



「鈴瑠に何かなさったのですか?」

 静かに訊ねてみる。
 竜翔は唇を噛んだが、やがて絞り出すように話し始めた。

「私は…また鈴瑠を傷つけてしまった…」
「また…でございますか?」

 泊双が落ち着いた声で、竜翔を宥めるように口を挟む。

「鈴瑠が生きていてくれる………私は、それだけで、良いと思わねばならないのに…。鈴瑠をこの腕に抱きたいという想いを…消すことが出来ない。傷つけてしまった鈴瑠の心は、元に戻らないというのに…」

 竜翔の想いは迷宮に入ってしまったのか……。

 泊双は、正直な気持ちをぶつけてみた。

「鈴瑠は、傷ついているのでしょうか」

 竜翔は驚いた顔をあげた。
 今さら何をいうのか…といった面もちだ。

「鈴瑠は平気だというのか? 三年の間の私を知っても…っ」

 竜翔の言葉に、泊双は内心で苦笑いをしていた。
 統治者として優れていようが、優しい一児の父になっていようが、鈴瑠に恋する竜翔は、以前のままなのだ。
 二十三歳の情熱は、出口を求めて彷徨っている。

 二人が素直になりさえすれば、どうという問題ではない。
 その橋渡しなら、いくらでもして差し上げられる…泊双はそう考えていた。







 泣き疲れて眠る翔凛を抱いて、泊双が奥の宮殿へ入ったとき、ちょうど鈴瑠もまた、翔凛を迎えにやって来た。 

 翔凛を渡しながら、泊双は鈴瑠に問うてみたのだ。

『竜翔様を恨んでいるのか…』と。

 鈴瑠は不思議そうな顔をして見せた。

「私が本宮様をお恨みしていると…? 何故そのようなことを」

 心外だと言いたげな様子を滲ませているが、相変わらず『竜翔様』と名前で呼ばないところがすでに鈴瑠の警戒心を伺わせる。

「竜翔様はそう思われているが…」



 鈴瑠は、返答に困っていた。

『そう思わせている』のだから。

 今も竜翔を想い続ける鈴瑠の本心を知れば、竜翔は必ず行動を起こしてしまう。
 それは絶対に避けなければならない。
 力では必ず負けてしまうのだから、自分の身を守るためには、心に鎧を着たままにしておかなければならないのだ。

 いや…自分の身などどうでもいいのだ。
 これは竜翔を守るためだ…。

 鈴瑠自身、何度も脱ぎ捨てたくなる『心の鎧』を、それでも必死の思いで纏っているのは、すべて竜翔を守るため。

 竜翔を『永遠の闇』に落としてしまわないために、どうしても必要なことだから。



 自分は天の子、地上の命との愛は…。



 鈴瑠はわざと大きくため息をついてみせる。

「私は、本宮様を敬愛しております。郷の統治者としても、翔凛様のお父上としても…。なのに何故そのようにおっしゃられるのか…」

 その言葉に、泊双も負けじとため息をつく。

「まったく…どちらも強情なことよ…」

 その言葉を、鈴瑠は聞こえなかったふりで流した。





 しかし、その日から竜翔にとって事態は少し好転した。

『翔凛のために、食事を三人で』と言ってみたのを、鈴瑠が受け入れたのだ。

 どれだけ心に鎧を纏おうが、鈴瑠は『翔凛のために』と言う言葉には弱かった。

 翔凛にとって大切なこの時期。
 まだ幼いとは言え、実の父親と教育係の間の溝を見せてしまうわけにはいかないのだ。

 翔凛を健やかに育てるために、鈴瑠はさらに心の鎧を厚く着込み、竜翔の前に立つ。


 竜翔は鈴瑠が決して心を開いてくれないことを知りながら、しかし、毎日数時間でも鈴瑠を傍に置ける喜びを、密かに噛みしめていた。

 永遠に失ったと思っていた時に比べると、今の幸せは天空の神に感謝してもしきれないほどの喜びなのだから、と自身に言い聞かせて。

 だから、たとえこの腕に抱けなくとも我慢が出来るはず。

 決して自分には微笑みを向けてはくれないが、翔凛に向ける本物の微笑みを見ることはできるのだから。





「翔凛様、お父様にご挨拶はできますか」

 朝食を終え、鈴瑠に促された翔凛は、可愛らしい顔を竜翔に向ける。

「いってらちゃいましぇ」

 竜翔は優しく微笑んで、翔凛の頬に手を当てる。

「いい子にしているのだぞ」

 そして、視線を鈴瑠に向ける。
 鈴瑠は決して瞳をあわせないが…。

「鈴瑠…翔凛を、よろしく頼む」

 鈴瑠もまた、優しい声で答える。

「かしこまりました」

 そして、竜翔が表の宮殿へ向かうと、漸く鈴瑠は緊張を解く。

 気の緩みから、思わず一粒、涙がこぼれた。

「りゅりゅ?」 

 腕に抱かれた翔凛が、涙に気づき小さな手を当ててきた。

「りゅりゅ…なかない…」
「翔凛……」

 愛する竜翔と、愛する芙蓉の子、翔凛。
 
 抱きしめた小さな温もりに、鈴瑠の涙は止まらなくなった。



 この愛しい小さな命にも、やがて大きな重荷を背負わせることになる…。