番外・前世編 「遙か東方のバザールにて」

【1】





「お支度、整いましてございます」

 女官がひれ伏して告げる。

 身に纏うのは、群青色に染め上げられた艶やかな絹。

 装飾はけっして華美ではないが、布の質は肌に触れる部分でよくわかる。

 この国の王は、そう幾度も目にしたことはないであろうその装束を、この日の為に、ほぼ忠実に再現してくれた。

 ただ、亡き父が身につけていたのは、このようにとろけるような上質の絹ではなく、もう少し質素なものであったと記憶しているが。




「本当に鈴瑠様に瓜二つでおられる」

 ため息混じりにそう言ったのは、常に傍に付き従う忠実な武官、芳英(ほうえい)。

「芳英は成年式の時の鈴瑠を知っている?」

「もちろんですとも」

 支度に携わった女官たちを下がらせ、芳英はもう一度、じっくりと主人の姿を、目を細めて検分する。

「ただ、衣の色が違うだけで、あの当時の鈴瑠様と本当にそっくりでいらっしゃいます」

 敵に対峙したときは獰猛に変化するその面相も、今はまるで我が子を見つめるかのように、慈愛に満ちた表情を湛えている。

 実際芳英は、九歳で父の元を離れた翔凛にとって、父親代わりの存在であるのだが。

 そして…。

「あの時の鈴瑠様もそれはお可愛らしかったです。緋色の衣がよくお似合いで…。本宮様も、心待ちにされていた鈴瑠様の成年式とあって、それは大変なお喜び様で…」

 そこまでいうと、グッと言葉を詰まらせた。
 そう、この強くて逞しい武官は、見かけによらず、涙もろいのだ。

「もう、芳英ったら、すぐ泣くんだから」
「な、泣いてなどおりませぬ」

 ぶるぶるっと顔を振り、慌てる様子がすでに怪しいのだが。

「芳英…」
「はっ」

 群青の衣を緩やかに揺すり、翔凛は芳英にまっすぐ向き直る。

「今まで本当にありがとう」

 見上げるほど大きな芳英。その姿がキュッと縮んだように見えた。

「翔凛様…」
「僕を守ってくれて、育ててくれて、本当にありがとう」

 また、芳英の顔が歪む。

「これからも、できることなら僕の傍にずっといて欲しい」

 そして、今度こそ大粒の涙を零し始めた。 

「翔凛様っ」

 翔凛の首ほどあろうかという太い腕で、しっかりと、しかし優しく翔凛を抱きしめる。

 東への流浪の中、ある日は身を切る寒さを避けるため、またある日は身を焼く日差しから守るため、幾度ともなく腕の中に抱いてきたその身体。
 
 それはいつの間にか、健やかに、しなやかに成長を遂げている。



「もちろんでございます。私の居場所は、翔凛様のお傍のみ…」
「うん」

 きっとそう言ってくれると思ってはいたものの、改めて言葉にして誓いを聞くと、心底から安堵できる。

「さあ、翔凛様。お式を前に、ご挨拶に参らねば」

 翔凛の両腕を掴んだまま、そっとその身体を放した芳英は、もう晴れやかに笑っている。

「そうだね」

 翔凛もそう言って微笑み返したとき、扉の外から女官が告げた。

「王太子殿下、お渡りにございます」


 しかし、その言葉の終わりを待たず、すでにその人物は扉を開けていた。


「翔凛!」
「悠風!」


 悠風(ゆふ)と呼ばれた青年は、翔凛の姿を見るなり駆け寄り、その姿を間近で隅々まで眺める。

「翔凛、なんて可愛いんだっ。このままの姿でよい。成年式が終わったらそのまま私の元へ嫁いでこい!」

「…また…」

 脱力する翔凛をものともせず、この国の王太子である悠風はその姿をニコニコと眺めている。


 確かに翔凛は鈴瑠にそっくりといわれるだけあって、優しく可愛らしい風貌をしている。

 が――これは芳英も認めていることだが――、体格は鈴瑠ほど華奢ではない。

 しかし。お世辞にも立派とは言い難いが、少なくとも男子としてそれなりの体格はしているはず…と、思っているのは翔凛自身なのだが、それはあくまでも本人の主観であって、悠風にはかなり負けているのが実のところだ。

 だからなのか、悠風は、口を開けば『嫁いで来い』というのだ。


「そんなことより、悠風こそ漣基のお妃にしてもらえば? 僕なんかよりずっと美人なんだから」

 そんな翔凛の軽口にも、やはり悠風は何処吹く風…で、翔凛を見下ろす。

「何をいう。私は王太子だ。 漣基の…いや、相手が誰であれ、妃になれるわけがなかろう?」 

 ひょいと肩を竦める様。それがすでに翔凛の言葉を真剣に聞いていない証拠だ。

 もちろん、翔凛も真面目に言ったつもりは毛頭ないが。

「その王太子様が僕を妃にしてどうするんだよ。世継ぎは?」

「そんなもの、正妃でなくとも誰でも産める」

 売り言葉に買い言葉。

 しかし、悠風は翔凛がもっとも嫌う言葉を吐いてしまった。

「…最低っ!」

 くるっと背を向けた翔凛に、悠風は自分の失言に気づく。

「わっ。すまない、翔凛。今のは冗談っ。そんな気は毛頭ないっ。お前だけだから、な、な、翔凛」


 慌てた様子で後ろから抱きしめられると、悠風の髪が肩越しに触れる。

 国事の折りには結い上げていなければいけないと言うのに、まだ降ろされている真っ直ぐの髪は、肩胛骨に触れる程度の長さだ。

 そしてその漆黒の髪は、今翔凛が身に纏う絹と同じくらい、ひんやりと、そしてとろけるような肌触りで…。




 それを感じるたび、翔凛は鈴瑠の黒髪を思い出す。

 郷でただ一人、漆黒の髪をもっていた鈴瑠。
 天の意を告げるため降りてきた、心優しき御使い。

 そんな鈴瑠を父は愛し、鈴瑠もまた、父を愛した。

 自分を産んでくれたのは、正妃である芙蓉だが、母の記憶を持たない翔凛に、芙蓉のことを語り聞かせてくれる父と鈴瑠は、それは優しい表情だった。

 だから、母もまた、幸せだったのだと確信している。

 そのような環境の中で育った翔凛にとって、悠風が告げた言葉は許せるものではない。

 例え、言われた相手が自分でなくとも…だ。

 人は生涯、ただ一人と添えればいい。

 自分も父のようでありたい。
 父が最後まで、最愛の人と共にあったように…。

 だが…。



「ごめん、悠風…」

 しかし、悠風もまた、万事に真摯な青年であることは翔凛にもわかっている。



 悠風は大陸の東方唯一の強大国の第三王子として生まれ、何不自由なく育っていたが、十三の歳に国は突然宰相が起こした内乱によって荒れ、王と王妃、そして兄である王太子と第二王子は殺害されてしまったのだ。

 それから五年。

 内乱を平定、荒れた国土を立て直し今の平和を得るまでの艱難は、漣基からも何度も聞いていることだ。

 国が失われると言う悲劇は、翔凛にはもちろん、痛い程良くわかる。

 だが、創雲郷と、その上に立つ天子の都が滅びたのは、自然の理。

 しかし、悠風の国は、人為によって荒らされたのだ。

 先王に失政があったとは聞かない。それはバザールに集う民もみな、言うこと。

 宰相は、自らの欲望に従って、内乱を起こしたのだ。
 それは、天意に背くこと。




「いや、私が悪い。すまぬな、翔凛にとって門出の日であるのに、怒らせてしまった」

「それを仰せならば、この国にとっても門出の日」

 横から芳英が柔らかい声色で言う。

「芳英の言うとおりだ。翔凛と、この国にとっての門出の日だ」

 それは、内乱の終わりに前宰相が討たれて以来、不在だった宰相が今日、誕生する…ということ。 

 翔凛は悠風の美しい笑顔を見上げ、口を引き結んで頷く。

「翔凛、国王様にご挨拶に参ろう」
「はい!」

 大きな瞳に理知の光を宿す翔凛。それを心から愛おしそうに見つめてから、悠風は先を促す。

「芳英も参れ」
「はっ」

 その姿を、女官たちはひれ伏して見送った。






 宮殿の広い廊下を行くと、すれ違う者たちはみな、跪き臣下の礼をとる。

 少し前に、悠風のしなやかな背中がある。

 翔凛が初めて悠風に会ったのはたったの一年前。
 悠風は十七歳、翔凛は十四歳だった。

 その時のことを、翔凛は何度も思い出す。






『君はたった九歳の時に国を逃れて来たんだね』

 五年の時を経て、漸く辿り着いた、ここ東方の国。
 
 悠風は、連れてこられた翔凛を王太子宮の広い湯殿に浸からせてくれて、自ら丁寧に背中を流してくれた。

 その優しい仕草と声色に、翔凛は問われるまま、創雲郷を出てからの五年間を語った。


 災禍を逃れ、郷を出て、ひたすらに東を目指した最初の一年。

 やがて、遙か昔にどこかの部族が放棄したと見られる集落の跡に辿り着き、遅れて逃れてきた民と共にその土地を整え、新たな街を作ったこと。

 民の中には、そこへ辿り着くまでに力つきたものも多かったが、それでもかなりの民が新しい生活を始められたこと。

 その営みが軌道に乗る様子を見定めながら、導き手となる僧たちに留守を託し、自らは芳英だけを供に、父の遺言を漣基に伝えるために、また旅に出たこと。

 そして、いくつかの季節を旅の空の下で送った後、この国のバザールにたどりついたこと。





 そんないくつかの事柄を、また頭の中で反芻していた翔凛だが、いきなり前方から響いてきた足音にハッと顔を向けた。


「どうした。そのように慌てて」

 先に問うたのは、悠風。

「悠風様っ」

 問われた者は、膝を折って伏す。

「申し訳ございません、実は、国王様が…」

 その言葉に、悠風と翔凛は嫌な予感を覚える。

 まさか。

 今日くらいは大人しく王宮にいるだろうと踏んでいたのだが…。


「まさかと思うが、お姿が見えないとか言うまいな?」

 冷えた悠風の声色に、膝をついたまま従者は肩を震わせる。

「…あ〜あ」

 そう言ったのは翔凛。

 自身の成年式くらいなら、どうと言うことはないが、宰相の就任式は国事だ。

 王がいなければ始まらない。


「悠風」
「なんだ?」
「ちょっと甘やかし過ぎじゃないの?」
「お前もそう思うか?」
「うん、ものすごく思う」

 二人はさてどうしたものかと、廊下の真ん中で腕を組む。

 時間に若干の余裕はあるが、さりとてのんびりもしてはいられない。

「だいたい、いい年をして、走り回りすぎだ」

「誰がいい年だ」


 いきなり真後ろから聞こえた鮮烈な声に、侍従や女官は慌てて、そして芳英はちょっと肩をすくめてから跪く。 

 もちろん、悠風と翔凛は大いに肩をすくめてから振り返る。

 そこには、いかにも『今の今まで馬を駆って遠乗りをしてきました』と言わんばかりの風情で立つ見事な体躯の男性……この国の若き王の姿。


「今日はどちらまでお出かけで?」

 呆れたように悠風が問うと、王はこともなげに、都の北はずれにあるバザールの名を言う。

 その答えに悠風が本格的に呆れると、王は切れ長の瞳を優しげに細めて翔凛の側に立った。


「似合うな、翔凛」

 その言葉の向こう側に、鈴瑠の姿がある。

「うん、ありがとう。こんなに立派な礼装を用意してもらって」

 嬉しそうに見上げてくる翔凛に、また笑みが零れる。  

「お前、三つの時の聖誕祭を覚えているか?」

「まさか。覚えてないよ」

 翔凛の肩を抱き寄せようとして、その手を悠風に取り上げられた。

「汗まみれの腕で翔凛の礼装に触らないで下さい」

 そんなやりとりを、ひざまずく者たちが肩を震わせて見守っている。
 何のことはない、いつものやりとりに笑いを堪えているのだ。

 しかし、王には馬耳東風。

「あの時の緋色の礼装の鈴瑠も、そりゃあ可愛かったぞ」 





 一年前、翔凛が辿り着いた、ここ、遙か東方のバザール。

 そこは、災禍に滅びた西方の王国の、第二皇子が治める国であった。



*注 『バザール』とは、現在では主に中近東圏の街頭市場のことを言いますが、
このお話の中では単なる『街頭市場』として扱っています。ご了承下さい。